00.このとき越えた大分水嶺
地図00-11.国道144号・鳥居峠
この大分水嶺探訪、前項は「四阿山」だったが、この山は実際に登ったわけではない。たまたま訪れた菅平からの附録として見上げただけである。そういう意味で、白根火山の次に実際に訪れたところが鳥居峠である。白根火山を基準にすると南西へ直線距離で21Km余。四阿山からは6Km余のところである。
古くからの峠であるが、現在は国道144号(上田―鳥居峠長野原)が通っている。大分水嶺はほぼ南北に通じ、それに対してほぼ直角方向に国道144号が越えている。東側が群馬県吾妻郡嬬恋村、西側が長野県上田市真田町である。なお長野県内に「鳥居峠」がもう一つある。そこは木曽路の”旧中山道”が通っている。
01.大分水嶺の流れ
地図01.白根山・四阿山・鳥居峠
前項の四阿山から、南へ尾根伝いに6.5Kmほどのところである。日本武尊が越えたという伝説の峠であるが、現在は、国道144号が、群馬県吾妻郡長野原町と長野県上田市とを結んでいる。標高1362m。私が住まいする関西地方に例をとれば、伊吹山の標高(1377m)に匹敵するが、車で通過する人には、そこが大分水嶺越えであることを意識している人はおそらく皆無であろう。
後述するが、峠の群馬県側一帯は、吾妻川の源流域に当たる。この川は東流して、渋川(前橋市の北方の街)付近で、利根川に合流する。浅間山の天明の大噴火の時には、この川をせき止めた火砕流がダムを造り、それが決壊したことにより、人馬家屋大木等、諸々のものが太平洋まで達したという。
02、鳥居峠・大分水嶺/標高1362m
1993年当時の鳥居峠である。写真は前後2枚しか残っていない。もう1枚は、国道144号を長野側から峠へさしかかって砂利道とクロスするところである。この砂利道が大分水嶺という勘定になる。制限50Km/h標識の奥にこの標識がみえる。もちろんいまはどうなっているかは分からない。
1990年の時点で、背後に『鳥居峠四阿山登山歩道案内図』なる地図が立っていた(無理に伸ばしているので、ピントが怪しいがあしからず)。的岩山をまくところだけがちょっと面倒なだけで、後は尾根歩きだ。
ここでは、峠の現場から四阿山を遠望したカシミールによる作画でお許しを。中央奥が四阿山(2354m)、その手前、四阿山とほぼ相似をなしている山が的岩山(1746m)である。ここから(鳥居峠)から見たこの姿は南から見たことになり、万座温泉から遠望したは北側ということになる。互いに裏側から見ていることになり、山のイメージはよく似ている。
地図によると、的岩山の北側(的岩山の奥に)に「四阿山の的岩」との表示がある。これは数十万年前に、地下のマグマが上昇中に地中に脈のように入り込み固まったものだという。そこだけが周囲よりも堅いために、後の侵食に耐えて突出したという。巨岩の真ん中辺に穴か孔かどちらか知らないが、とにかくアナが開いていて源頼朝が矢で射た痕という。笑い話やけどね。
定本”信州百峠”(井出孫六・市川健夫/郷土出版社刊)に次のようにある。
――日本武尊が越えた碓日坂で「吾嬬(あづま)はや」と嘆いた伝説から、この峠の東に広がる地域に、吾妻郡―吾妻川―吾妻山(四阿山・あづまやさん)、嬬恋村などの名前が付けられたといわれている。
江戸時代になると鳥居峠を越えて北信と上州を結ぶ大笹街道が北国街道の脇往還として注目され始めた。大笹街道は北国街道の福島宿(現須坂市)から分かれ、仁礼宿―四阿山麓(菅平)―鳥居峠―吾妻郡大笹を結ぶ街道であった。(文・佐々木清司)――
03.浅間山
『山の煙』
作詞:大倉芳郎
作曲:八洲秀章
山の煙のほのぼのと
たゆとう森よ あの道よ
幾年(いくとせ)消えて流れゆく
想い出の ああ 夢のひとすじ
遠くしずかにゆれている
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さて、浅間山である。
『山の煙』。昭和26(1951)年のラジオ歌謡。伊藤久男が歌って大ヒットした。
じつはこの ”山の煙 ” は、浅間山の煙をイメージしたものという。小諸大橋記念公園に歌碑がある。
私は、はじめこの歌を炭焼きの煙か、夕餉の準備で上がる煙だろうと考えていた。ところが何で読んだのかは忘れてしまったが、浅間の煙をイメージしたものだという。そういえば、”幾年消えて流れゆく”といわれれば分からないこともない。人間の歴史を越えた悠久の時を越えて、この山は煙を吐き続けているのである。
04.浅間山(写真)
遠望する場合はともかく、小諸辺りまで行くと自然に目に入ってくる。山頂から”山の煙”が立ち昇っている。”ああ、浅間山だ”と思う。そこでしっかり山の形を見極めればいいのだが、見れば分かるものだから、ついついい加減にすましてしまう。左の写真は、多分、鬼押押し出し付近から見たものだと思われるが、左上に見える黒い塊が、山なのか、雲なのか。これが見極められない。自分の足で歩いた山は、きっちり記憶にとどまるが、下から見上げただけでは見極められない。難しいものである。
05.浅間連山(地図)
Wikipediaによると、――浅間山(あさまやま)は、長野県と群馬県との境にある安山岩質の成層火山。標高2568m。山体は円錐形でカルデラも形成されており、活発な活火山として知られる。
数十万年前から周辺では火山活動が活発であり、浅間山は烏帽子岳(八田注・浅間山主峰の西方、大分水嶺がL字型に曲がる湯の丸山のすぐ西に位置する)などの3つの火山体とあわせ、浅間連峰もしくは浅間烏帽子火山群と総称される。これまでに噴火と山体崩壊を繰り返し現在の姿となった。大規模な山体崩壊と崩壊土砂が流出した痕跡は、遠く離れた群馬県前橋市の台地上などに厚い堆積物として残っている。現在噴火活動をしているのは前掛火山である。山頂火口からは噴煙が上がり、その周りには複合のカルデラがあり、内側の外輪山の西側に前掛山がある。北側のカルデラは山頂部から「鬼押出岩」へと流れ出た溶岩流により崩壊している。外側の外輪山には、黒斑山、牙山、剣ヶ峰などがある。――
06.鎌原観音堂 地図(Google Map)
鎌原村(現在の群馬県嬬恋村鎌原)は浅間山の北東に広がる静かな村である。その片隅、浅間白根火山ルート沿いの小高い丘の上、石段を10数段登ったところにその観音堂があり、石段の横に「天めいの生死を分わけた十五だん」と刻んだ句碑が立っている。一見何の変哲もないたたずまいで、予備知識をもって行かないと、『天めいの・・・』の句碑の意味も分からない。
実はこの句碑、村人の言い伝えによると、天明3(1783)年の浅間山の大噴火で、いまの15段を残して下の大半が熱泥流に埋まってしまい、埋没した部分は130段とも150段ともいわれていた。
天明3年の噴火は、いま、観光地になっている”鬼押し出し”を作った噴火である。関東一円に火山灰を降らせ、その地鳴りは、京・大坂にまで達したといい、天に舞い上がった煙は日照を遮り天明の大飢饉をもたらした。わが国火山史上稀に見る大噴火であった。
その年の4月から始まった噴火はいつになく激しく、7月5日からはこの世終わりかと思われる大鳴動が続き、運命の7月8日、熱泥流が鎌原村を一挙に流しつくした。このとき、鎌原村は村人597名のうち実に8割に当たる466名を失い、我が国火山史上最大の被害を受けたといわれる。また、その熱泥流は村の北を流れる吾妻川をせき止め、たまった水が堰を突き破り、鉄砲水となって下流の村々を襲い、そのときの流出物は利根川を流れ下って太平洋に至ったという。
天明の大噴火から200年を数えるにあたって、1979(昭和54年)から4次にわたる発掘調査が行われ、観音堂の石段もその対象になった。現存する石段は1段の高さが16cm、言い伝え通りに150段あったとすれば、20mを超す泥流が村を埋めたことになる。調査の関心はこの泥流の厚さに注がれた。発掘の結果、石段は50段、泥流の厚さにして約5mで終わり、その先は噴火以前の地層に続いていたという。全部で50段、埋まった部分が30段というのが、いつの間にか130段、150段となったのだろう。
しかし、人々を驚かせたのは、その途中で、老若2人の女性の白骨死体が掘り出されたことである。それらは下から数段のところで、若い女性が下になって折重なるようにしてうつ伏せに倒れていた。老女を背負って逃げてきた若い女性が、石段にとりついたところで力尽きて倒れる。泥流に飲まれていく2人、すでに観音堂まで上がって、それを声もなく見守る人たち。なおも迫りくる泥流。それは目の前15段まで迫って・・・止まった。まさに生死を分ける15段だったのである。
じつは、この”浅間白根火山ルート”、通るは初めてではない。前々項、『白根火山』の項で、ここを通過した。石段の発掘が始まる前である。火山ルートはまだ舗装されておらず、前車のもうもうたるホコリに窓も開けることもできず、冷房のない車内で、ただただ暑さに耐えていたのを思いだす。ガイドさんが観音堂の説明をしたかどうかの記憶もない。その後、もう一度、『渋峠』の項でここを通ったが、鎌原の大災害の予備知識もなく、ただ漫然と通過しただけだった。しかし、いまそれを知って、観音堂の石段を見上げる地平に立つとき、周囲の風景が全く違って見えてくる。自分が歴史の中に立っていることを実感するのである。
単なる伝承は歴史ではない。50段が150段になるのである。しかし段数こそ違え、観音堂の石段が地下に埋まっていたことは事実であった。伝承は科学的に実証され、初めて歴史になる。
以上は、1993(平成5)年08月、私が訪れた時点での話である。その後どうなっているか気になった。調べてみたら、『旧鎌原村の発掘調査30年ぶりに再開』との朝日新聞の記事が目についた。
それによると、旧鎌原村の発掘調査が11月(2021年)に行われることになった。これまでに見つかった事例のほかに「災害遺跡」がないかどうかを確認し、史跡指定に向けた動きを加速化させるのが目的だ。調査としては1991年以来、30年ぶりとなる。・・・・と。
そういえば来年2023年は、私が鎌原村を訪ねて30年になる。偶然とは言え不思議な縁を感じる。
*上のイラストは、浅間山麓埋没村落総合調査会、東京新聞編集局特別報道部共編『嬬恋・日本のポンペイ』所載のものを頼りに、当時、私が書き写したもの。文字は手書きだったが、今回、Web化に当たりPCで書きなおした。
07.吾妻川
上の写真の左2枚は、走ったルートから考えて、いまの万座鹿沢口駅から鳥居峠までの間のどこか、吾妻川を挟んだ対岸の30年前の様子である。切り立った壁といえばいいのか岩といえばいいのか。右の1枚は、吾妻川越しに見た浅間の遠望である。いずれも撮影位置の同定は不可能である。
吾妻川は、鳥居峠(大分水嶺越え)の東側を源流域として、国道144号沿いに(国道が吾妻川沿いに走るのが本来の順序だが)東流し、途中八ッ場ダム(民主党政権時に話題になった八ン場ダム)を経て、渋川当たり(西に榛名山・に東に赤城山)で利根川に合流する。
以下、角川選書 大石慎二郎著『天明三年浅間大噴火』による。
その日、鎌原村を襲った火砕流は、そのまま北へ突っ走り、吾妻線の万座鹿沢駅上の崖から吾妻川へ流れ落ちる。そのとき、一時川を堰き止めて大きなダムを作る。それがやがて決壊して吾妻川両岸の地域。さらには利根川の合流地域周辺にまで被害を及ぼす。渋川と前橋の間、利根川右岸の町・総社町の名主の手記によると、次のようにある。
――利根川の水中から煙が立ちあがり、家屋や大木その他雑多なものが流れてきて、その間には、人馬が泥水に浮沈するのが見えた。中には、家の屋根や大木の類にとりつき、岸の人に手を合わせて助けてくれと泣き叫ぶものもあったが、火石焼砂が燃え立ってそれらの人に突き当り目の前でたちまちのうちに溺死するありさまは、実に仏教でいう地獄というものでもこれほどひどくはないだろうと思われる。――
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