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知らずに越えた大分水嶺

--- 15.野辺山高原「国鉄/JR鉄道最高地点」 ---
 (長野県) 
1961(昭和36)年夏他

初稿作成:2022.09
初稿UP:2024.03.20


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00.このとき越えた大分水嶺
地図00-15.JR鉄道最高地点(長野県)

 ご存じ八ヶ岳山麓、野辺山高原の「JR鉄道最高地点」である。鉄道の最高地点として何度か訪れてはいたがただそれだけのこと。そこを「大分水嶺」が通っていることなど思ってもいないことだった。
 小海線で小型蒸機・C56(後姿をもう1枚)が”高原のポニー”の愛称で親しまれていたころ、前項、”碓氷峠のアプト式電機”を訪ねた帰り、ひょっとしてとこの野辺山で降りた。何の計画もなく、行き当たりばったりで”ポニー”に出合えるほど世の中は甘くはなかったが、降りたホームに白樺の幹で作った「国鉄最高駅野辺山」と標識が立っていた。
 さて前項「八風山トンネル」で大分水嶺をくぐってから、長野県の南東の角にあたる”甲武信岳”まで大分水嶺は長い。私自身、長野県へはよく通ったが、ここまで足を伸ばすことはできなかった。そして西へ折れてさらに南へ、信州峠を越えて大分水嶺は県境から分かれてJR鉄道最高点へ。そのあと八ケ岳の赤岳までは長野県・山梨県の県境を行くが、そこを過ぎると乗鞍岳までは長野県を南北に分ける形になる。
 *上の蒸機C56前後2態は大糸線”神代”で撮影。



01.分水嶺の流れ
 a. 八風山トンネル〜内山トンネル

 「八風山トンネル」は前項で述べた上信越自動車道のトンネルである。それを過ぎた大分水嶺はほぼ南へ進路をとる。そして出会うのが内山峠と内山トンネルのコンビ。このまま地図ではでは理解せよというほうが無理である。その部分を拡大してみると、何とか意味が分かるようにはなる。

 b. 内山峠
 ――内山峠は中世には軍事上重要であったが、近世に入ると馬の背による物流の道となった。信州からは西上州へ米と酒が多く、上州からは藍や乾物などの生活物資が運ばれた。明治5年、富岡に官営製糸工場が開設されると、佐久や諏訪から富岡へ繭が送られた。1978(昭和53)年、国道245号内山トンネルが開通し、車時代に対応して道幅を広げカーブを大きく改修された。上信越自動車道が開通しても、内山トンネルを越えて関東へ走る大型トラックは多い。――
 以上、郷土出版社版、『信州百峠』・内山峠より一部要約(文・小林 収氏)。

 内山峠は荒船山の代表的な登山口となっているとか。峠から大分水嶺沿いに蛇行しながら艫岩へ向かう。
 内山トンネルは、1978(昭和53)年の開通だという。



 c. 荒船山・田口峠・余地峠

 堀公俊著、”日本の分水嶺”では、次のようにある。
 ――内山峠では、大分水嶺である荒船山(1423m)の高さ170mの大岩壁に視界が圧倒される。岸壁の上には、山の名の由来となった幅400m、長さ約1Kmに及ぶ浸食残丘が開け、しばしば航空母艦に例えられる。――
 私は、このエリアに立ち寄った経験皆無。風景に関しては、カシミールの手を借りる。たとえば、前地図の内山峠からの荒船山。左手前の巨大は山塊が艫岩である。「艫」、難しい字だが、”とも岩”と読むそうな。船の船尾を指すのだとか。荒船山を航空母艦に例え、船尾を見上げている絵である。そして、――天気のいい日には、足元がスパッと切れ落ちた艫岩の上に立つと、浅間山八ヶ岳の大展望が楽しめる――とある。

 d. 県境と別れる
 荒船山を過ぎてすぐ、県境が大分水嶺から離れる。右の地図のPQ間である。地図の北東隅から県境に沿ってきた大分水嶺が、P点を過ぎてなお県境に沿って進むと考えると、”川に沿って進む”ことになり、川の合流点で川を渡ることになる。大分水嶺は川をまたがない大前提に反することになる。ということで、PQ間の赤線が大分水嶺ということになる。

 e. 田口峠
 さてその途中の”田口峠”である。
 ――トンネルを抜けると眼前が開け、峩々たる岩山が見え、杉林が目立つ。このあたりは石ころまじりの堆積岩の地層の上に、元荒船山が噴出した玄武岩がかぶさっており、臼田町田口付近と地層の成因は似ているが、峠の東側は多雨のため侵食され佐久側とは全く違った景観となった。峠の東側も臼田町の行政区域(下の挿話参照)で、昔は田口峠越えでなくては入れなかった。峠(大分水嶺)はほぼトンネルの上にある。――
 以上、郷土出版社版、『信州百峠』・田口峠より一部要約(文・沖中悦夫氏)。

 ”峠の東側も臼田町の行政区域である”ということについて、前出の”日本の分水嶺”に面白い話が載っている。
 ――その昔、信州側の田野口藩と幕府が国境を決めるに当たり、夜明けとともに両方から走って、出会ったところを境界線にしたそうだ。その際、田野口藩は、暗いうちに鶏に鬨の声を上げさせて一足早く出発したために、峠を越えた関東側に境界を拡大できたらしい。なんというアバウトな――
 何で片側が幕府なのか、両者それぞれどこから走りだしたのか、・・・気にしだしたらわからないことばかりだけれど。
 もう一つ、余地(よち)峠。大分水嶺が田口峠を過ぎて、さらに南東へ進む。再び県境と合して、南へ下ったところにある峠である。群馬県道・長野県道108号が通っている。上野国箕輪城攻めの際などに武田信玄が軍用道路として使った・・・云々の記事もあるが、現在の実情は、山崩れ等で、全く道の様をなさない状態が各種HPで報告されている。
 つぎの「十石峠越え」で見るように、江戸時代に、佐久側から上州へ米が輸送されたことはよく知られているが、余地峠も十石峠をしのぐほどであったという。


 f. 十石峠・ぶどう峠

 この範囲では「十石峠」と「ぶどう峠」があげられる。
 ――三国峠は群馬県多野郡上野村白井と長野県南佐久郡佐久町大日向とを結ぶ古い街道の峠である。白井には江戸時代に関所が設けられており、ここから佐久側の大日向村までおよそ五里の道のりであったため、五里峠ともいわれたが、上州側では大日向峠と呼ぶことがあり、大日向側からは白井峠とも呼ばれた。相互に行く先の地名をつけて峠の名とすることはめずらしくなかったことを示す例といってよいだろう。――
 以上、郷土出版社版、『信州百峠』・十石峠より一部要約(文・井出孫六氏)。

 「ぶどう峠」。参ったなー。何でこんなところにぶどうなのかと不思議に思っていたら、何と「武道峠」だという。北にある”ぶどう岳”(1622m)は、本峠の名称由来となった山だという。で、ぶどう岳を調べたが、山行きのことばかりで、名前の語源に触れたものなし。


 g. 三国山・三国峠

 群馬県・埼玉県・長野県に跨る標高1834mの山である。名前の由来は旧制の国名で、上野国・武蔵国・信濃国の3つの国の境目にあったため。日本中、よくあるパターンである。また、山頂から1Km南にこの山名から派生して埼玉県と長野県の境界(大分水嶺)の三国峠がある。利根川水系の神流川、荒川水系の中津川、千曲川の最上流部に位置する。
 三国峠(みくにとうげ)は、埼玉県秩父市中津川と長野県南佐久郡川上村大字梓山を結ぶ峠。上で、”この山名から派生して”と断りが入っているが、いくら”派生”しても、派生のさせ方が基本的に無茶だ。本来、”峠”とは、尾根の鞍部を越えるところだから、3つの国にまたがる峠はないだろう。いくら三国山の近くだからといっても‥‥。標高1740m。長野県と埼玉県を直接結ぶ唯一の車道である。



 h. 甲武信ヶ岳・国師ヶ岳・金峰山・小川山
 ァ. 甲武信ヶ岳

 さて、甲武信ヶ岳である。Web地図では、「ヶ」が入っているが、深田久弥の『日本百名山』にはそれがない。その”甲武信岳”の最初の文である。
 ――私のおぼえている最初の山の遭難は甲武信岳のそれであった。あの騒ぎは大きかった。何しろ田舎の少年にも大事件として伝わったのだから、当時の世間に与えたショックの大きさが察しられる。
 (略) あれは確か大正5年(1916年)であったからまだ一般には登山が冒険とみなされていた。しかも5名の遭難者の4人が帝大(現東大)へ入ったばかりの前途有望な青年であったことが、一層騒ぎを大きくしたのだろう。一人だけが生き帰った。
 おそらく甲武信岳という山の存在を世間に広く教えたのは、この遭難事件だろう。昔から名山とたたえられた山ではない。頂上に祠もなければ、三角点もない。奥秩父でも、甲武信より高い峰に、国師や朝日があり、山容からいってもすぐ北の三宝山の方が堂々としている。甲武信は決して目立った山ではない。(略)
 にも拘わらず、奥秩父の山では、金峰の次に甲武信をあげたくなるのはどういうわけだろうか。おそらくそれはコブシという名前のよさ――歯切れのよい、何か颯爽とした山を思わせるような名前のせいかもしれない。拳という字の宛てられているのを見たこともあるが、今は甲武信が流布している。甲州、武州、信州の三国の継ぎ目に位しているからで、この至極当たり前の名前のつけ方にも魅力がある。
  (略) 甲州、武州、信州から、その川の源を深く探っていくと、どちらからもこの山の頂上に出るというのも、面白いではないか。頂上に降った一滴は、千曲川に落ちて信濃川となり日本海に入る。他の一滴は荒川に落ちて大東京を貫流して東京湾に注ぐ。更に次の一滴は笛吹川に落ちて富士川となり太平洋のものとなる。――


 イ. 国師ヶ岳

 「山梨市観光協会公式サイト」に次のようにある。
 鎌倉時代から室町時代にかけての高僧・夢窓国師の修行伝説からその名がつけられたといわれる奥秩父最大の山体を誇る高峰です。
  以前は奥秩父でも最も奥深い山の一つでしたが、川上牧丘林道の整備が進み大弛峠まで容易に車で入れるようになったことや、大弛峠から国師ケ岳の間の登山道を県が木道や階段などにより整備したことから、山頂まで約1時間の初心者向けの山となりました。


 ウ. 金峰山

 「山梨市観光協会公式サイト」に概略次のようにある。
 金峰山は、甲府市・北杜市・長野県川上村にまたがってそびえ立つ、奥秩父の盟主にふさわしい山容を誇る。金峰山信仰は、修験道の開祖”役小角”(えんのおづぬ)によって奈良県吉野の金峰山から蔵王権現を勧請(かんじん)したことに始まる。山頂にそびえたつ五丈岩(高さ約15m)を本宮とし、各登山口には、金櫻神社や金峰神社がまつられている。
 登山コースは東西南北にいくつかありるが、山梨市牧丘町と長野県川上村の境にある大弛峠から入る片道2時間30分のコースが最も登りやすく、登山初心者や中高年に人気のコースとなっている。

 私が住まいする関西地方からは、登山の対象としての奥秩父の山々は遠い。しかしその山々の名前などは、なんとなく親しみがある。20歳代のころから愛読していた尾崎喜八の詩や文によるところが多い。



 i. 信州峠
 ア. 信州峠

 さて「信州峠」である。日本大百科全書(ニッポニカ)に、次のようにある。
 ――長野・山梨の県境にある峠。標高1464m。千曲川最上流の長野県川上村と山梨県北杜市須玉町小尾(おび)を結ぶ。江戸時代には佐久地方の木材などを甲斐側へ送る峠であったが、昭和初期に国鉄(現JR)小海線が全通して衰退した。近年車道に改良された。1936(昭和10)年1月、詩人尾崎喜八が川上村から峠を越え、短編『御所平と信州峠』に綴っている。[小林寛義]――とある。


  イ. 県境が別れる

 信州峠の4Kmほど西方で、県境が大分水嶺から分かれる。ここも県境が一部川に沿うためである。県境は分離点でほぼ90度折れて南へ向かうが、大分水嶺は北西へ向かう。途中、飯盛山のすぐ近くを経由する。前出の”日本の分水嶺”に次のようにある。
 ――美しい円錐形をした飯盛山は、山頂近くまで放牧地が広がりハイキング気分で誰でも簡単に登れる山として人気がある。八が岳連峰の格好の展望台として知られ、八ヶ岳から奥秩父へとつながる大分水嶺が一望のもとに見渡せる。
 そして、そのあと大分水嶺は野辺山高原へ下る。――


  ウ. 小海南線 

 尾崎喜八 『御所平と信州峠』冒頭の部分。
 ――午前6時15分といえば、1月3日では日の出までまだ半時間余も間のある中央線小淵沢の停車場で、東京からの夜行列車を捨てた私たち二人は、小海南線の小さな列車が待っている南側のプラットフォームへ、かつかつと鋲靴を鳴らしながら凍てついた雪の線路を横断した。
 ―(略)―まず小淵沢から初めての経験として小海南線に乗って終点清里まで、それから念場、野辺山の高原をはるかに越えて信州南佐久の御所平に一泊、翌日は道を再び甲州路にとって信州峠を乗越し・・・ ――、

 小海南線。なるほどそいう時代があったのかと思う。XX南線、XX北線。よくある例だ。例えば、1956(昭和31)年、私が初めて白馬岳へ登ったとき、大町と糸魚川を結ぶ大糸線は、大糸南線の時代。信濃森上が終点だった。そして、いまの長良川鉄道はかつては越美南線だった。
 ネットで検索してみると、小海線は、当初、1919(大正8)年に私鉄の佐久鉄道として小諸駅ー小海駅間が開通。その後、旧国鉄によって建設がすすめられ、1933(昭和8)年7月に小淵沢ー清里間が、1935(昭和10)7年11月に清里―信濃川上間が開通していまの小海線になったという。
 尾崎喜八の『御所平と信州峠』は小淵沢―清里間の開通直後ということになる。その中で――陸地測量部の地図には、未だ鉄道の記入がないが、現在の清里駅は、八ヶ岳赤岳が南西へ(八田注:南東へ?)その長いすそを垂れた念場ガ原の下手、ほぼ1220mの等高線付近に当たっている。――とある。




02.鉄道最高地点
 a. 1985(昭和60)年8月XX日・旧国鉄
 b. 1989(平成 元 )年6月18日・JR

 鉄道が大分水嶺の下をトンネルで抜ける例はいくつかある。この「大分水嶺シリーズ」の最初の三つ(仙岩トンネル・面白山トンネル・板谷峠)がそうだった。ひょっとして板谷峠は”峠越え”ではないかと思ったが、結果的には小さなトンネルを抜けていた。それ以外にも磐越西線の”沼上トンネル”、中央東線の”善知鳥トンネル”などもその例だ。
 そんな中で、ここ八ヶ岳山麓野辺山高原で小海線が中央分水嶺を越えている。『鉄道最高地点』のモニュメントが建っている(下の写真左2枚が旧国鉄・右1枚がJR)。標高は1375m。いま、さらにネットで見ると馬鹿でかい石造の記念碑や、SLの車輪を模した記念碑まで見える。左から3枚目には赤い鳥居まで写っているが、これは無関係だろ。

大分水嶺を越える<
鉄道最高地点・旧国鉄鉄道最高地点・JR駅最高地点・野辺山駅

 さて上の写真左3枚に勾配標が写っている。2枚目、3枚目が分かりやすい。たとえばこの写真は2枚目の下半分を拡大したところ。アームが下がって”22”とある。この”22”という数値は1000m進めば22m下がる(22パーミルの下り)ことを示している。それがいまの場合は支柱の両側についている。反対側の数値は読めないが、いずれにしても支柱が立っているこの場所は、どちらから来ても支柱までは上り勾配で、それを越えると下りになるということである。ということはこの支柱が立っているこの場所が、この鉄道線路に関してはここがいちばん高い場所(峠)だということである。

 c. 野辺山峠?
 ふと考えた。ここは峠である。しかし「鉄道最高地点」としては名高いが、この場所を「XX峠」と呼んだ話は聞かない。ひょっとして「野辺山峠?」の名称があるのではないかと確かめてみたがはっきりしない。そんなとき、郷土出版社版、『信州百峠』を読んでいて、”野辺山峠”とあるのに気がついた。
 次はその書き出しの部分である。

 ――野辺山峠という呼称に古い歴史はない。長野・山梨の両県境を峠と呼ぶには、あまりにも平坦な道である。今でこそ国道141号が通っているが、国道がJR最高地点(1375m)付近で小海線と交差するあたりが、地形的な分水嶺であり野辺山峠であるといえよう。かつては3里も続いた無人の荒野で、湿地帯が多く、ところどころ浮島で見かけるような軟弱地帯があり、うっかり踏み込むと足も抜けず、馬を引いて通るときは細心の注意を要した。冬期は零下20度を下ることも珍しくはない。降雨や雪解けの際は泥濘の道は歩行も困難で、八ヶ岳おろしの風が横殴りに吹き付けると、進む方向さえ見失い、凍傷にかかり倒れるものもあった。―― 郷土出版社版、『信州百峠』 ”野辺山峠” より 文・沖浦悦夫

 と、このように――国道がJR最高地点付近で小海線と交差するあたりが、地形的な分水嶺であり野辺山峠であるといえよう。――とあり、それを中心とした叙述がまさに”野辺山峠”そのものである。一読してこれはまさに‥と納得したのであるが、そのページに添付された地図では”県境の大川橋”のところに”野辺山峠”の表示があった。なんとなく納得できない思いである。
 なお、この『信州百峠』は1995年の出版で、「国道がJR最高地点付近で小海線と交差するあたり・・・」とある。現在の国道141号は小海線と交差はしていない。多分、踏切で交差している道が、当時の141号だったのだろう。


 
02.小海線の旅・1961(昭和36)年8月7日(月)
写真拡大

 前々項、「12.碓氷峠に”アプト式電機・ED42”を訪ねて」の帰りである。小海線経由で中央東線へトラバースした。15時25分、小諸発小淵沢行き。キハの3連は空いていて、のんびりとした高原の旅。東小諸・乙女までは信越線と並走するが、そこから右に分かれて佐久盆地へとかけ下る。窓を開けていると寒いぐらい。
 上の写真、いちばん奥の黒い連山が八ヶ岳であろうことまでははわかるが、個々のピークの名称となると手も足も出ない。自分の足で歩いていない悲しさである。いわゆるハエタタキが真正面からの光を受けて白く輝いていた。
 皆さんこのハエタタキ(隠語でない真のハエタタキ)なるシロモノをご存じだろうか。このハエタタキが我々の生活から消えたのはいつごろだっただろう。まあ早い話、昭和20年代の我々庶民の生活の範囲、台所や食卓の周り、食物の臭いのするところには必ずハエがいた。それをやっつけるのがハエタタキである。長さ50cmぐらいの柄にハガキ大の網をつけたやつである。テーブルといわず畳といわず、止まっているのを見つけるとバシッとやる。大概はやる前に逃げ出すが、中にはドンな奴がいてアウトになる。打率1割もあれば結構なところではなかったか。お役御免になったやつは、柱かどこかに釘でぶら下げられていたのだが、それを逆さに立てると、上の写真に3本並んで輝いている電柱に似た形になる。発案者がだれか知らないが、昭和20〜30年代の鉄道ファンの隠語である。



写真.野辺山高原・1

 左2枚。17時31分、野辺山着。標高1345m。国鉄の駅としていちばん高い場所だという。
 右2枚。駅前に荷物を預けて高原を散策する。広々とした台地の所々に落葉松が点在していて、その向こうに八ヶ岳がそびえている。まっすぐな道が、佐久甲州街道を越えて西へ続いている。右の2人は登山者のようだが浴衣がけの人もいる。何をしているのだろう。不思議な光景である。
 ――以上4行、当時のアルバムより。――「まっすぐな道が、佐久甲州街道を越えて西へ続いている」との表現があいまいである。”佐久甲州街道”が現場でしっかり確認できたのかどうか。

写真.野辺山高原・2

 雲の間から見る八が岳は雄大な眺めだったが、それもつかの間、たれ込めるガスに隠れて見えなくなってしまった。西へ延びた広い道が、左へ曲がってその曲がり口に「八ヶ岳登山口」との標識がある。女学生が2人元気で下ってくる。「12人で登ったのだが、あとの人はもっと遅れている」と。
 ――以上3行、当時のアルバムより。――”西へ延びた広い道”といっても上のいちばん右の浴衣を着たおっちゃんがいた道路である。それが左へ曲がるところ。いまの地図と照らし合わせてみると、どうやら国道141号に当たる。それがゆるく左へ曲がるあたりらしい。このとき歩いた距離もだいたいそれぐらい(駅から真っすぐ1Km弱)だった。そこに「県立公園八ヶ岳」のゲートがあったのだろう。ストリートビューでそのあたりをあさってみたが、国道と別れて「八ヶ岳まきばらいん」という細い道につながっており、ゲートは見つからなかった。右2枚の写真はそのあたりに牧場があったのだろう。
 このときは結局、野辺山駅から八ヶ岳の方へ1Km往復しただけで終わった。このあと帰りは小淵沢へ出た。当然、「鉄道最高地点」を通っているはずだが、そのとき、記念のモニュメントが立っていたかどうか何の記憶もない。もちろんそこが「大分水嶺越え」だったとは考えても見ないことだった。

 19時08分、野辺山発。これが小淵沢行きの最終列車である。小淵沢、20時ちょうど。木曽福島をさらに小型にしたような町で、駅前には細い白樺の木などがあって、山のムードが漂ってくる。
 21時18分、新宿発松本行き。それに併結された半両の名古屋行き。・・・客車1両の半分が荷物車で、客席は半分。空いていてほっとする。しかし、それもつかの間、富士見、茅野あたりから、霧ヶ峰帰りがどっと乗ってきて、通路もいっぱいになる。
 塩尻で1時間の待ち合わせ。4時38分、名古屋着。



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