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知らずに越えた大分水嶺

--- 07.渋峠 ---
(長野県・群馬県)
1965年08月

初稿作成:2022.04
初稿UP:2024.03.20


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00.このとき越えた大分水嶺
地図00-07.渋峠

 前項”関越トンネル”を過ぎ、”三国峠”を過ぎて野反湖に至る少し前、地図のN点で日本海側が新潟県から長野県に変わる。その後、野反湖の南を経由する間は群馬県内を通過するが、0点(高沢山)で再び県境に戻る。そして、最初に迎えるのが”渋峠”。長野の方からすれば、国道292号、”浅間・白根・志賀さわやか街道”経由、志賀高原を詰めて群馬県側に出る峠である。
 大分水嶺は、ここから群馬県との県境を南に向かい、太平洋側が埼玉県を過ぎたところで西へ折れる。そして、八ヶ岳の南端あたりから、長野県を横断する形になり乗鞍岳まで、地理的にも私が住まいする関西と近くなり、”知らずにおとづれた場所”も多くなる。日本列島の中での長野県内の枠だけではカバー不可能、別枠での表示とする,


01.最初の渋峠  ーー1965(昭和40)年8月ーー

 東海道新幹線が開通し、東洋で最初といわれた東京オリンピックが開催された年、これが1964(昭和39)年である。これからの話はその翌年、私が勤めていた高校の修学旅行。2022年現在で計算して半世紀以上前、この「大分水嶺」の項に登場するものの中ではいちばん古い一つだろう。修学旅行といえば北海道か九州と相場が決まっていた時代だったが、何がどうなったのか、このときは信州を回るという、ちょっと毛色の変わったコースだった。残っている写真はすべてモノクロームである。

 右の地図がコースの概略である。青ベース・白字の枠が宿泊地である。長野県の東端、群馬県との境を屈曲する大分水嶺。ひと目で見て3回大分水嶺を越えているのが分かる。
 まず第2日の宿泊地・白樺湖。湖の上を大分水嶺が通っている。思いもよらないことだがホンマの話である。詳細はそのときに。そして第3日目の浅間山。大分水嶺は山頂を東西に分けるように通っている。このときは浅間山は眺めるだけだったが、その東側の高原で日本海側から太平洋側へ越えた。南から北へ越えて太平洋側から日本海側へじゃないかと思われそうだが、そうではない。地図をよく読んでいただくと意味が分かる。
 そして第4日目。何とも切ないのが白根火山。大分水嶺は火口壁のすぐ外側をかすめるように通過する。次項はここをメインとする。そして第4日目の『渋峠』。万座温泉から志賀高原へ抜けるには必ず通らなければならない峠だけれど、ここを通ったのがまさに開通直後だったことになる。


写真01.志賀草津高原ルート

 「8月17日に開通したばかりという”志賀草津高原ルート”を経て志賀高原へ入る。」とアルバムのメモにある。写真を見て、”ウソやー、開通前の写真やろう”と思う。京都を出発したのが8月27日だったから、この日は8月30日だったはず。万座温泉の宿で生徒全員に”道路の開通記念です”と記念品が渡された。鉄製でキーの形をした栓抜きだった。ついでにビールが出るぞと期待したが・・・。そのときは初めて訪れたところで、どこの道路の開通だったのかよくわからなかったが、いま考えると万座から志賀高原を抜ける”志賀草津高原ルート”であることが分かる。そしてそれよりも何よりも、この白根山沿いの山田峠から渋峠までの約2.5Kmの新しく開かれたルートこそ、まさに大分水嶺に沿うルートだったことになる。

 記念品までもらった記憶があるのだから、まず間違いはないとは思うが、何らかの形で確認をとりたい。「志賀草津高原ルート開通日」で検索してみた。『・・・冬の間閉ざされていた志賀草津高原ルートが開通します。』などはゴマンとあるが、半世紀以上前の古い話となると簡単な話ではない。やっと探し当てたのが
  −−『1965年(昭和40年)8月18日 - 支線の山田峠・渋峠間延伸』ーー
 の記事。そうだ、渋峠から万座の方へ伸びたわけだ。日付は1日ずれているが。なるほど、これでまず間違いはないだろう。”開通日”ではダメなんだ。こういうことを調べるのは、”沿革”なんだな。勉強になりました。

 ということで、開通して10日になるやならないの道である。いま当時の写真を見直して見て、これを”開通”といっていたのだろうかと思う。現実はまだ舗装もされていない、とにかく自動車が通れないことはないという砂利道の「渋峠」を越えていたのである。おそらくガイド嬢は、「この道は8月17日に開通したばかりの道で、みなさんは大変ラッキー・・・」だとかなんとかPRはしたはずだが、実際は上の写真に見るように、未舗装の砂煙もうもうの道だった。何もこの道を云々するのではない。都会の舗装道路は別にして、ちょっと地方へ行くと日本中の道がこんな状態だった。


補遺:写真02.当時の志賀高原。ホテルニュー志賀

 この日の宿、「ホテル ニュー志賀」。志賀草津高原ルート沿いのどこかであるというだけで、このホテルがどこにあったかということははっきりしない。アルバムには木戸池や高天原からの風景の写真があるが、それがホテルまでの途次に撮ったものか、ホテル着後のものかがはっきりしない。それなりに検索もして見たがはっきりしたものは出てこなかった。いずれにしてもこのルート沿いのどこかであったことは確かだが。
 朝、万座温泉を出て白根火山へ寄って、志賀高原のどこかの”ホテルニュー志賀”まで,どう考えても昼過ぎにはついてしまう。その後何をしていたのか何の記憶も記録もない。涼しいところで、好きなように遊べばいいのじゃないかと考えたのかもしれないが。



02.2度目の渋峠  ーー1990(平成02)年8月ーー

 1990年8月の渋峠である。確たるものではないが、多分これが2回目のはず。1回目から25年が経っている。もちろん砂利道ではない。ホテルも建っている。特にこの「ぐんま←→ながの」県境のホテルが建っていた。いつ建ったのかは判らないが、TVの旅番組でもたびたび紹介され、人気スポットになっていた。今どうなっているのか。ストリートビューで調べてみたら、だいぶ老朽化はしているがとにかくいまも建っていた。(ストリートビュー撮影日は2021年9月とある)。

 しかし、この「ぐんま←→ながの」の標識はインパクトが強い。ホテルの建物が両県にまたがっていて、ここを通る人は誰でも”ああそうか”と納得する。滋賀県と岐阜県との境・中山道沿いに、「寝物語の里」がある。両県の宿に泊まった旅人同士が小川を挟んで寝物語をしたという。これは余談。・・・・本題に戻って、この写真の標識を見ると、ホテル内の廊下を挟んで・・・・。そして、ホテルの玄関をとんとんと2,3段のステップを下ったところから、道路までの間にいかにもそれらしく白線が引かれてその両側に長野県・群馬県と。・・・・私は、人間が疑い深くできているので、こういうのを見るとホンマやろかと思ってしまう。
 地図を見たところ、どうやらホテルの建物自体は長野県側にあるらしい。県境はわずかに軒をかすめるぐらいのところを通っているようだ。ホテルの中は通っていないかもしれないが、ここは県境であることに間違いはないのだし、かてて加えてそれが大分水嶺でもあるという。誰はばかることがあるものか。最初の発案者が『大分水嶺』を知っていたかどうかは判らない。もしこれをリニューアルするようなことがあれば、ぜひこれを含めて大々的にPRすることを期待したい。
 その昔、こんな話を聞いたことがある。「0」を「100」というのはウソや。嘘は言うたらイカン。しかし、「1」を「100」というのはウソじゃない。これは"ホラ"や。ホラは愛嬌。県境の線がホテルの中を通っていないかもしれないが、ここが県境であることは確かだ。大ボラ吹きのこの標識の発案者に拍手・・・・・。

 さて、その渋峠(2172m)。郷土出版社刊(1995)、『定本 信州百峠』によると、・・・渋峠を越える草津道は、近世末期には南部の大笹街道とともに、善光寺平と北上州を結ぶ重要な道筋であった。北は北国街道へとつながり日本海方面へ通じる一方、草津より前橋を経て江戸へも通じていた。(山崎盈)」・・・とある。 注:大笹街道(北国街道・中山道をつなぐ脇往還)
 ここでいう「草津道」は、上でいう「志賀草津高原ルート」(R292)に沿うという。当時は何も考えずにただ走っただけだったが、こうして改めてみてみると、それはそれなりに意味のあることだったことになる。こじつけではあるが。

03.国道最高地点
 渋峠から南へ直線距離で600m余のところに、「国道最高地点」(2170.9m)の碑がある。検索して調べてみると、結構目立つものである。?おかしいな、ここなら通っているはずだが。さらに詳しく読んでみると。・・・渋峠をはさんだ41.1Kmの区間は、1965年(昭和40年)8月18日 志賀草津道路(有料道路)として開通したが、平成3年7月30日に一般国道292号となり、2170.9mが国道最高地点となったものという。それまでの最高地点は、麦草峠(八ヶ岳)の2127mであったという。
 なんか、分かったようなワカランような。半分サギにあったような。大体この平成3年というのは何年やね?。もちろん西暦で。調べてみると1991年だという。このレポートは1990年08月。もう1年後だったら、何にも変わってないのに、元有料道路を大きな顔して無料で走って、国道の最高地点を通ってきたぞと威張れたわけ。まあ、人間の運命なんてこんなものですな。


04.山田峠のこと

 これは上で述べたように記念品をもらったときの地図だが、真ん中辺に「山田峠」とある。上の「国道最高地点」の話が出てくるとこの山田峠はどうなんだということになる。
 例えば堀公俊著『日本の分水嶺』(ヤマケイ文庫)にも次のようにある。
 −−この道路は志賀高原と草津温泉を結ぶ観光スカイラインであり、渋峠とそのすぐ南にある山田峠(2048m)の間は、大分水嶺のほぼ真上を通っている。−−
 ほかのことはいいとして、最後の一文、”大分水嶺のほぼ真上を通っている”を無視していいのか。ただこのように書いてあるだけではない。私としてはこの区間の開通日の直後に実際にここを通過しているのである。恐らくガイドさんは何度もこの峠の名を口にしただろう。しかし実際にそこでバスから降りたわけではない。何の印象も残っていない。正直、書きようがないのである。堀公俊さんの文章にタテをつくようだが、”大分水嶺のほぼ真上”を通ってはいるが、私としてはそこを越えたわけではない。渋峠では間違いなく峠を越えた。山田峠は越えなかった。一項設けるにはどうにも気が向かないのである。



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