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知らずに越えた大分水嶺

--- 05.旧国鉄磐越西線・沼上トンネル ---
(福島県)
1968年08月

初稿作成:2020.10
初稿UP:2024.03.20


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00.このとき越えた大分水嶺
地図00-05.磐越西線・沼上トンネル

 地図で見ると、郡山方面から来た場合、磐梯熱海駅あたりからすでに勾配区間に入っているようである。そして中山宿駅、ここがスイッチバックだった。何となく淡い記憶でしかないが、その後も勾配区間を登る。そうして大分水嶺を越えるのが沼上隧道。Wikipediaによると、1967年(昭和42年)に、磐越西線の電化により同トンネルは新トンネルに付け替えられたが、旧トンネル(1899年(明治32年)開通。延長は約900m。)も隣に現存している。・・・とある。
 この旅が1968年8月だから、新トンネル開通の1年後ということになる。中山宿駅のスイッチバックそのものも忘れてしまっていて、アルバムを整理していて、こんなことがあったのだ・・・という思い。トンネルが新しかったことも一切記憶にない。



01.大分水嶺の流れ
地図01.母成峠付近

  磐梯吾妻スカイラインと分かれた大分水嶺は、半円を描くように南下する。西側、半円の内側、すなわち日本海側は猪苗代町である。東側、太平洋側は、福島市・二本松市・郡山市と変わっていく。太平洋側が福島市から二本松市に変わるあたりで、稜線の先を読んでいくと、”安達太良山”(1700m)の名が見える。高村光太郎の詩で有名な山だ。”あれが安達太良山、あの光るのが阿武隈川・・・・”。と、調子にのって稜線を進むと、高速道路や鉄道とクロスするようになり最後はホンモノの阿武隈川へぶつかってしまう。どこかで間違っいたことになる。やりなおし。安達太良山の少し北で、西へ分かれる郡山市と猪苗代町との市町境がある。それが正解だった。改めてその稜線をたどる。
  すぐに母成峠へ出る。戊辰戦争の古戦場だとか。慶応4年8月21日(旧暦、現在の暦でいうと1868年10月6日)、母成峠を守る旧幕府軍800が新政府軍2200と戦うが、兵力及び兵器の差で勝てず敗走し、新政府軍は若松城下に殺到することとなったと。なお、現在は母成峠を越える道路は”母成グリンロード”である。


地図02.磐越西線・沼上トンネル付近

  母成峠をこえて、大分水嶺は南西へ進み猪苗代湖に近づいていく。湖岸から北東へ3.1Kmぐらいのところに水無山(999m)という山がある。その辺りで大分水嶺は向きを南東に変える。湖岸から約3Km前後のところを併走しながら、磐越自動車道・国道49号・JR磐越西線を越える。スイッチバックがあった中山宿は、峠を越える沼上トンネルへの郡山側登り口である。









地図02A 大分水嶺をくぐる(磐越西線・沼上トンネル)

  上の地図02で長方形で囲まれた部分である。上から磐越自動車道・国道49号・JR磐越西線の3本である。すべてトンネルで抜けている。私が通ったのは、1968年08月・磐越西線である。
  江戸時代、陸奥国の会津若松と二本松を結んでいた二本松街道が楊枝峠(標高691m)を経由している。この地図の大分水嶺のいちばん北ぎりぎりのところである。それともう1本、これは道ではなく水路である。猪苗代湖(日本海側・阿賀野川水系)から取水して大分水嶺をくぐり、太平洋側・磐梯熱海駅付近(309m)まで通じている。前述した琵琶湖の水を京都まで通した琵琶湖疏水と同じ発想である。1882(明治15年)年の完成という。


02.中山宿まで

  1968年夏、”田沢湖高原で行われた全国高校ユネスコ大会”なるものに参加した。そのとき通った”仙岩トンネル”が、私が越えた本州の大分水嶺でいちばん北に位置するものだった。
 大会終了後、秋田へ寄って男鹿半島に遊んだ。その夜、竿灯まつりを見た後、奥羽本線の夜行で暁の板谷峠を越えて福島へ。そのまま素直に帰ればいいものを、磐越西線で新津へ出ようというのである。これが思わぬ収穫に出遭うことになる。
 7時15分発の、磐越西線・新津行き。東北本線から分かれて西に折れると、遙か彼方に一目でそれと分かる磐梯山が現れる。喜久田、安子ケ島、磐梯熱海と過ぎて、山間部に入ったところが中山宿。ここがスイッチバック駅だった。当時、板谷峠などは雑誌で喧伝されその存在をよく知っていたが、ここにこんなスイッチバックがあったとは不覚にも知らなかった。
  いまはどうなっているのかとWikipediaで調べてみた。「1997年(平成9年)3月22日 - 【改キロ】磐梯熱海 - 中山宿 - 上戸(ー0.7Km)(中山宿駅スイッチバック廃止に伴う)」との記事がある。前世紀末までと書くととんでもない昔に聞こえるが、2020年の現在からすれば20数年前である。それまでスイッチバックが使われていたことになる。現在、磐越自動車道がこれと並行して走っている。私も、ウチのヨッちゃんの里(岩手県)へ行くのに2,3度走ったことがあるが、そういえば確かに勾配区間である。
  しかし一方、地図であたりを見回してみれば、そこは猪苗代湖の近くである。そんな場所でなぜ?との疑問もわいてくる。猪苗代湖の標高は514mという。それを高いと見るか低いと見るか。また中山宿駅そのものの標高は425mである。猪苗代湖の水面より90mも低い。そんなところでなぜスイッチバックなのか。もっともスイッチバックは標高ではなくて勾配だけど・・・。
  そんなことを考えながら、その昔、小学校で聞いた話を思いだした。あれは何年生のときだったか。琵琶湖の水面標高と、京都市の標高を示した後で、窓から見える電柱を指さして、先生は厳かにのたまわった。「琵琶湖の水面はあの電柱のてっぺんより高いのだぞ。その水がこぼれてこないのはなぜか。・・・その間に比叡山があるからだ」と。
  もう一度地図を見直した。中山宿の少し諏訪湖寄りに”沼上トンネル”があって、その上を大分水嶺が通ていたのである。



03.中山宿のスイッチバック

  中山宿は二本松街道の宿場町で、近くに難所の楊枝峠(中山峠:標高691m)を控えていたため、問屋や旅館、茶屋が建ち並び賑わっていたとされる。
  中山宿駅のスイッチバックは1997年に廃止されたというが、私が行ったのは1968年。急行電車が通過していった。年表によると通過不可能型(通過するには必ず一旦ホームへ入らなければならない)から通過可能型に改良されたのが1963(昭和38年)年というから、改良されて5年目だったという計算になる。
  郡山から来た列車は、左の地図の右端下から勾配を上ってくる。そのまま左の側線へ入り、中山宿駅へ止まる。

 地図Cの地点。地図の右下から登ってきて、水平な山側の側線を見ているところ(カメラは列車の前から後ろを見ている)。こういう水平な線と並ぶと、勾配がわかりやすい。ほう、こんな坂を上ってきたのか。(列車の窓から首を出して後ろ向きに撮っている。電柱が逆光になっている)。


 地図Aの地点。登ってきた列車が、本線から分かれて水平なホームへ入ろうとするところである。画面に見えているのが本線。(列車の前方を向いて撮っている。上の写真から180度向きを変えた。電柱が白く飛んでいる)。勾配がわかりにくいが本線が登り。側線が水平である。



 ←地図Bの地点。ホームに止まった列車内から、本線を通過していく急行(勾配を登りながらこちらに近づいてくる。黒い小屋の左向こう。)を見ているところ。

 →地図Dの地点。上の急行の最後尾を撮ろうとしてカメラを左へ振った。・・・。なんや!この木は。



04.会津若松

  大分水嶺・沼上トンネルを抜けて、会津若松で途中下車。ここはもう日本海側・阿賀野川流域である。
  鶴ヶ城跡を駆け足で見学。会津若松12時01分発、新潟行きに乗る。このアホな旅も終わりに近い。写真左、お世話になるC57。なんや、蒸気機関車か。落胆の声。蒸機を見るたびにやいのやいので写真を撮っておきながら、おのれが乗る列車がSL牽引だとわかると、「なんや、これ」。勝手なものである。見るのはいいが、牽いてくれるのはちょっと・・、というところ。阿賀野川沿いの線路は、短いトンネルが多い。そのたびに窓の開け閉めに大わらわ。やっぱり旅行は電車がエエな・・・


05.新津着
 とぼやきながら新津着。ふと窓の外を見るとD51がすぐ目の前に。それもよく見ると初めて見るナメクジ。判りますかねこの”ナメクジ”の意味が。例えば会津若松にいた左のSLは煙突と後ろのコブは別々になっている。ところがこのD51は煙突とコブがつながっていて、そのつながった部分がナメクジに似ているのでこの愛称がついた。台数が少なくめったに見られないので人気があった。私は、D51は東海道線を走るヤツをイヤというほど見てきたが、ナメクジを見るのはこれが最初だった。もちろん大分水嶺とは何の関係もありません。ハイ。



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