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知らずに越えた大分水嶺

--- 03.旧国鉄奥羽本線・板谷峠 ---
(山形県・福島県)
1966年10月

初稿作成:2020.09
初稿UP:2024.03.20
 


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00.このとき越えた大分水嶺
地図00-03.奥羽本線・板谷トンネル

  今回の目的地は奥羽本線・板谷峠。面白山トンネルの南南西約66Km、山形・福島両県にまたがる峠である。私はここを2度通った。一度目は、今回のこの旅、1966(昭和41)年10月、この峠越え(奥羽本線のスイッチバック取材)を第一目的とした旅だった。楽しかったが、残念ながら強い雨で十分な動きは不可能だった。二度目は1968(昭和43)年8月、田沢湖からの帰り、秋田を深夜に発って、翌日の夜明けにここを越えた。うとうとと眠っていたところを強烈な光で起された。谷間から差し込む朝日だった。
  なお、この板谷峠あたりでは、大分水嶺が山形・福島両県の県境に対してわずかに西へずれている。詳細は本文に述べる。



01.大分水嶺の流れ
地図01.仙山線。面白山トンネル(大分水嶺通過)

  仙山線・面白山トンネルを越えた大分水嶺はさらに南下する。直線距離12Km余りで山形自動車道とクロスする。自動車道はトンネルで抜けてしまうので、あっというまだろうが、国道286号が笹谷峠を越えている。現場へは行ったことがないので地図で見るだけだが、この峠道はすごい。なお念ために、この地図は昔の地図ではない。2020年現在の国土地理院Web地図である。
  峠のすぐ南に「有耶無耶の関跡」なるものがある。面白い名前である。宮城県川崎町観光ポータルサイトに次のようにある。
  ・・・・関跡は、宮城県と山形県の県境の標高906mの笹谷峠にある。笹谷街道は、平安の時代から太平洋側の奥州と日本海側の羽州とを結ぶ重要な街道で、下のような伝説が伝えられている。
  この峠には山鬼が住んでいて人を取って食らっていた。しかしいつのころからか、仙台側の「無耶の観音」と山形側の「有耶の観音」の霊鳥が峠に住み着き、鬼がいる時は「有耶」、いない時は「無耶」と鳴いて旅人に知らせたという。・・・・

  上の地図01のいちばん下と左の地図02のいちばん上に”蔵王山”と見られる。本来地図の面で上、下はタブーなのだが、ここでは”蔵王山”という字を連結子として2枚の地図の上下をつないで見てもらおう意味である。もともと”蔵王山”そのものは存在せず蔵王国定公園は、熊野岳(1841m)を主峰とする火山群を言うのそうだ。それを蔵王山として表すとちょうどこのあたりになるという意味である。参考までに熊野岳を中心とする蔵王山周辺の地図を倍率をアップして見てもらおう。残念ながら私は、蔵王山地に足を踏み入れたことはない。”馬の背”とある中央分水嶺を歩いたら、両側に熊野岳や五色岳の火口湖が見えて気持ちがよかっただろうなと想像するだけである。


地図02.奥羽本線・板谷隧道(大分水嶺通過)

  さてここからが本論である。左の地図02で、大きな四角で囲んだ”奥羽本線・板谷峠”である。現在は山形新幹線が走っているが私が訪ねた1966年当時は在来線のみ。大分水嶺を越えるこの線は、33‰(パーミル⇒水平距離1000mに対して33m上る)の勾配が連続し、北から大沢、峠、板谷、赤岩の4つの駅ではスイッチバック方式が採られていた。このスイッチバックを見るのがこの旅の目的だったが、今回大分水嶺を合わせて見てみると、これまた面白いことに気がついた。最初の田沢湖線・仙岩トンネルからここまで、大分水嶺は県境とと一致していたのであるが、ここへきて、両者は別々のルートをとるようになる。まずそのことに対処しなければならないのである。
  県境は人間が定めたものであるから尾根筋を進もうと、川に沿って進もうと自由である。ところが分水嶺は自然が作った線である。その”水を分ける線”を人間の言葉で解釈すれば、”川をまたがない1本の線”になる。必然的に脊梁山脈の尾根筋を進むことになる。谷筋へ下りて川をまたぐことはできないのである。


地図03.奥羽本線・板谷隧道(大分水嶺通過)

 大分水嶺は”蔵王山”を越えてさらに南下を続け、上の地図02で、奥羽本線・板谷峠の四角の枠に入ってきたところである。
  Wikipediaによれば、”板谷峠は中央分水界にあり、東は松川を経由する阿武隈川水系であり、西は羽黒川を経由する最上川水系である。”とある。ここでいう”分水界”とは、地図上では”線”で表される分水嶺に対して、もうすこし幅をひろげた見方をする場合に使われる言葉である。
 さて、左の地図03で、大分水嶺と県境は共に同一線上を進みながら、東北自動車道・栗子トンネルを越えたとろのA点に至る。ここで県境は谷筋へ下っていく。明らかに分水嶺とは別ルートになる。A点から大分水嶺が板谷トンネルの上を越えたあと萱峠を越えるまでの様子を細かく見てみよう。
大分水嶺細見。←黄文字をクリック


02.雨の赤湯温泉
1966(昭和41)年10月2日(日) 山形県、赤湯温泉

  朝、床の中で水音をきく。部屋の横に泉水はあったが、よくきくと、ぽつり、ぽつりと雨だれの音も混じっている。カーテンを開けてみると案の定雨。7時55分の天気予報では、本州南岸にある前線が予想外に発達して、その上を九州にある低気圧が東進する。一方、日本海にも気圧の谷があるという。まさに低気圧のオンパレード。

  8時10分のバスで赤湯駅へ出る。赤湯市街。古い町並みが残り、落ち着いたたたずまいが続いていた。

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  8時27分、赤湯発福島行き、普通列車。蒸気機関車かと思っていたが、ディーゼル機関車(右側から入線してくるノペーとしたやつ。左の蒸気機関車C57は青森行き)が牽いていた。日曜日の普通列車は空いていた。雨で視界がきかず、近くの松林などが後ろへ去れば、茫漠たる荒野を行くがごとし。




03.いにしえの機関車たち

 板谷峠。前述したように33‰(水平に1Km走って33m上る)勾配を持つ難所である。信越本線・碓氷峠(66.7/1000)がアプト式運転であったころは、この板谷峠が粘着運転の最急勾配区間であったという。開通は1893(明治26)年、日清戦争(1894〜1895)の直前である。そのころこの難所に立ち向かった最初の機関車はどんなだったか。残念ながら昭和生まれの私には全く手が出ない。
 戦後創刊された鉄道雑誌に、・・・”E10”という5軸の動輪を持つ後ろ向きタンク機関車が板谷峠に登場した。大正生まれのテンホイラー4100,4110の老朽化により、その後継車として活躍が期待される・・・という記事が載っていた。====左の細密画・機芸出版社刊「陸蒸機からひかりまで」(1965)。画:片野正巳===
 E10はあと回しにしてまずこのテンホイラーの話。ご覧のように5軸の動輪を持っている。1 軸につき左右2輪のホイールを持つ。それが5軸あるから、2X5で10ホイールs(モチロン複数)。これがテンホイラーの語源だとか。さて、この2種の蒸機、4100はドイツ生まれ、4110はそれをまねて国産化したものという。板谷峠のほか、九州の人吉―吉松間でも活躍。4100は4輌、4110は39輌を数えたという。

 左の写真:4110形式、No.4129 1914(大正3)年 川崎造船兵庫工場
株式会社「交友社」1969年版 記録写真『蒸気機関車』 撮影:西尾克三郎;1936.8.10、








04.後ろ向き機関車E10のこと

 左は”E10”である。テンホイラー4100・4110のあとをついで1948(昭和23)年に板谷峠に登場した。実はこのE10,「後ろ向きタンク」の異名を持っていた。普通の蒸気機関車は煙突がある方が前である。ところがこの機関車は逆になり、左の写真でいえば右向きに走るのが前進というけったいな機関車だった。
 撮影は1959年8月。実はこのとき北アルプス常念岳で台風に巻き込まれた。雨の中をほうほうの体で逃げ帰って、米原まで帰ってきたところでこの先は不通だという。電車が走らない構内でヒマを持て余した。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。そのときに目につたのがこのE10だった。
 この機関車、上で触れたようにデビューは華々しかったが不運な機関車だった。この機関車を見るたびに、太平洋戦争の末期、南海に沈んだ大和・武蔵の巨艦を思う。機関車も戦艦もデビューする時期が悪かった。この2隻の巨艦が現れたときには、タンカーや荷物船は別にして、もう船で戦争する時代でなくなっていた。飛行機の時代である。タイミングが悪かった。E10も同じ。この世に出てきたときには、もう石炭を焚いて走る時代ではなくなっていた。
 それでもけなげに後ろ向きタンク・E10は板谷峠へやってきた。戦後間なしの1948(昭和23)のことだった。翌1949(昭和24)年に直流電化される前の年である。やっとの思いでドラフト会議にかかり、喜び勇んでキャンプに入ったが、”キミすまないね。せっかく来てくれたけどキミの仕事は来年までだよ”。何とまあ、ひどい職場である。仕事をしたらしたで、大きすぎて小回りが利かない…。そんなことは来る前からわかっとるやろ・・・・。ワシは大型だけど、れっきとしたタンク機関車やぞ。
 そうそう、そのタンク機関車とは→普通、蒸気機関車は、機関車そのものの後ろに、石炭と水とを積む炭水車を牽いている。が、この板谷峠など短距離用の機関車にとっては、むしろそれが邪魔になる。ということで炭水車をつけずに、機関車本体に石炭・水を積むスペースをもうけていた。これがタンク機関車である。
 後日談。”大男総身に知恵が回りかね・・・”、今なら人権問題になりそうな川柳である。図体がでかすぎて小回りが利かないと、板谷峠から戦力外通告をうけたE10は、北陸線の倶利伽羅峠へ落ちのびる。しかし、そこでもぱっとした働きができずに、1957(昭和32)年からは、北陸線、米原ー田村間の交直切替区間で最後の代打専門として使われていた。それも1962(昭和37)年まで。実働14年のはかない人生だったという。私が山の帰り、米原駅で上の写真を撮ったのが1959年。貴重な出会いだった。
 その板谷峠、1949(昭和24)年4月に直流電化され、私が行ったときにはEF64がモーターの音をうならせていた。いまはさらに交流電化され、赤い電機・EF71・EF78が活躍中と聞く。




05.いざ、板谷峠へ
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 米沢で10分停車。ホームへ降りてみると、前4両が切り離されているところ。うっかりしていたが、後ろ4両だけが福島行きであったわけ。初めから最後尾の車両に乗っていたから別に問題はなかったが。

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  ここで、ディーゼル機関車が切り離され、EF64がやってくる。さあ、いよいよ板谷峠。




  関根を越えたあたりから、列車はいよいよ山間部にはいる。碓氷峠までとは行かないまでも、さすがに名にしおう急勾配区間である。雨はいよいよ激しく、屋根にしぶきを上げる。



06.大沢駅
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  登り始めて最初の駅が大沢、もうここからスイッチバックである。列車は上り勾配から左へそれて、水平な側線に入る。その後、バック運転で本線を横切って反対側のホームへ入る。
  右の図は当日の記憶を元に、帰宅してからスケッチしたもの。大きな間違いはないとは思うが。

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  ポイントのところは、覆い屋根がついていて、さすがに豪雪地帯を思わせる。そのころ、京都駅あたりでは雪が降ってくると、係員が火のついたバーナーをポイントの可動部の下へ差し込んで温めていた。
  写真左は、側線からバックでホームへ向かっているところ。ポイント区間の覆屋の出口である。列車の後方を見ているところらしい。このあと覆屋を出て水平な側線へ入り、バックしてホームへ入る。


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 大沢駅ホーム。
  止まっている列車の窓から撮っている。雨が降っているのにわざわざ窓を開けて。右に入ってきた列車は地図の左上から下ってきて、最初のポイントで左へそれ、そのまま直進してホームへ入ってきたもの。
  もう少しカメラを外へ出したかったが、列車間の間隔が異様に狭い。それに雨が激しくこれでぎりぎりのところだった。

  上の大沢駅ホームの写真はまず間違いはないと考えられる。しかし、その上の覆屋内の写真はどこなのか、自分で納得できないのである。で、当時のアルバムを引っ張り出して見直してみた。と、どうやらアルバムを編集した時点で、すでに記憶が怪しくなっていたらしく、スイッチバックの4つの駅を一つの峠越えとみなし、全体をムードでまとめようとしたらしい跡が見られる。いまと違って、撮ってすぐ画像が見られるわけではない。フイルム現像は帰ってから次の休日にやるとしても、焼き付けとなると何時になるかわからないのが常だった。アルバムにまとめるとなると1か月や2か月あとは当たり前、場合によっては半年ぐらい遅れてしまうことも珍しくなかった。1枚1枚細かくチェックしてということもできず、全体としてひとまとめにして、”こんなところでした”で収めようとしたのだろう。・・・と、逃げ口上を書いておいて次は峠駅。


07.峠駅
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  山はいよいよ深くなって次は「峠」。まさにそのものズバリ、たった一文字の駅名に詩情を感じる。ホームの標識に海抜624mとある。
  アルバムには”・・・”詩情を感じる”などと格好のいいことを書いているが、実際にこの駅名を見たときには、何で”峠”なんや、”板谷峠”でないのかと戸惑った。”板谷峠”へ来たのであって、単なる峠へ来たのではない、と強く感じた。要するに、「板谷峠」を単に「峠」と表現しているのか、それとも別に「板谷峠」という駅があるのか、それが分からなかったのである。旅に出る前の予習不足である。
  いま、改めてこの写真をしっかり見直してみると、ベンチの背もたれに”滑川温泉”とある。ここから南へ、萱峠を越えさらに進んだ突き当りの場所にある。峠駅からの直線距離3.5Km。


08.場所不明の3枚

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  この3枚の撮影場所が分からない。フイルムを探せば前後関係ぐらいはわかるが、半世紀前の撮影である。捨ててはいないので、探せばどこかに残っているはずだが、簡単にはいかない。3枚とも列車の最後尾のデッキで撮っている。若いころ”4等展望車”と呼んでいた手である。
  写真A、側線が左に見える。これが水平だとすると、本線は"下り勾配"らしい。そして真ん中の写真B、よく見ると左にごく小さく側線が見える。写真Aのところからさらに下って来た場所と考えるとつじつまがあう。A,B2枚、写真の色調もよく似ている。連続したタイミングで撮ったものと考えられる。
写真拡大   写真C、これも最後尾のデッキから撮っている。右の図は列車(赤い矢印)が峠を越える場合を模式的に表したものである。この矢印の最後尾に立ってホームが見えるのは上り側の駅で、側線へ入ってホームに向かってバックする(3→4)ときだけである。条件によっては出発のとき(5あたり)で見えることもあるかもしれない。この状態が起こり得るのは本線が上り勾配のときだけである。本線が下りの板谷駅などでは、ホームへは頭から突っ込む(11→12)ので、最後尾のデッキにいてはこれは撮れない。ということで今のように米沢から福島へ向かう場合で、この状態になりうるのは本線が上りの駅、大沢駅か峠駅のどちらかである。そして写真を子細に見ると、ホームが3面(線)になっていること、さらにその奥に覆屋が見える。ホームの写真から見て峠駅にはこの広さはない。となると大沢駅ということになるのだが、これを裏付ける当時の情報が見つからない。



09.板谷トンネル・大分水嶺をくぐる
地図03・上で示した地図03を再度使用

  私は1966(昭和41)年10月、この板谷トンネルを抜けた。そのときは何も意識をしていなかったが、大分水嶺の下をくぐっていたのである。地図は国土地理院Web地図、もちろん現在のものである。山形新幹線との兼ね合いで、トンネルは2本になっているが、当時はまだ 1 本。どちらが当時のものか分からないが、多分トンネルの中でカーブしたりしている方であろうと勝手に判断した。







10.板谷駅・特急”やまばと”通過
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  板谷、トンネルで大分水嶺をくぐり、ここはもう太平洋側・阿武隈川水系の源流である。本線の勾配は逆(下り勾配)になり、駅の構造もいままでの2つとは逆になる。つまり、勾配を下って来た列車は逆行せず、機関車を先頭にしてホームへ突っ込んでいくのである。上の模式図の11→12。 写真拡大



 ここで25分ほど停車。まず貨物列車が上ってきて側線へ入り、バック運転でホームへ入ってくる。右に見えているのが貨物列車の電機である。
 その後、EF64に牽かれたディーゼル特急”やまばと”がノンストップで勾配を下っていく。この写真は、客車の最後尾のデッキから撮っている。このとき特急が下ってくることが事前にわかっていないと撮れるはずがない。時刻表で後ろを特急が走っていることが分かっても、どの駅で追い抜かれるかを知るのは結構難しい。25分という停車時間からそれと察知したのか。
 せめてホームの端まで行って撮りたかったが、雨でぶらぶらするのは無理だった。



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  左の写真、”やまばと”のアップ。いまならズームでアップというところだが、当時はそんな器用なものはなかった。上の写真をトリミングしたもの。
  一般乗客は、「こんな山の中で、なんで25分も止まるの?」。ところが私には、この25分が楽しくてしかたがない。自分でも難儀な人種やな、と思う。






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 25分の停車の後、乗っている列車がバック運転で、いったん本線を横切って側線へ出る。そこでいったん止まったあと、前進運転で本線へ出ていくところ。左の写真は客車の窓から撮ったもの。上の特急通過の写真は、ここを通過している特急列車を、覆屋の向こうから撮ったことになる。
 板谷を出ると、すぐに福島県に入り赤岩、ここで最後のスイッチバック。



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 11時04分、福島着。リュックを担いだ女性が3人、その前を行く学生服に角帽、リュックを背中に。多分大学生だと思うが、まだいたんだなー、このころは・・・、いまの大学生に見せたら、大笑いだろうが。




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