知らずに越えた大分水嶺--- 03.旧国鉄奥羽本線・板谷峠 --- 初稿UP:2024.03.20 |
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00.このとき越えた大分水嶺 地図00-03.奥羽本線・板谷トンネル 今回の目的地は奥羽本線・板谷峠。面白山トンネルの南南西約66Km、山形・福島両県にまたがる峠である。私はここを2度通った。一度目は、今回のこの旅、1966(昭和41)年10月、この峠越え(奥羽本線のスイッチバック取材)を第一目的とした旅だった。楽しかったが、残念ながら強い雨で十分な動きは不可能だった。二度目は1968(昭和43)年8月、田沢湖からの帰り、秋田を深夜に発って、翌日の夜明けにここを越えた。うとうとと眠っていたところを強烈な光で起された。谷間から差し込む朝日だった。 01.大分水嶺の流れ 地図01.仙山線。面白山トンネル(大分水嶺通過) 仙山線・面白山トンネルを越えた大分水嶺はさらに南下する。直線距離12Km余りで山形自動車道とクロスする。自動車道はトンネルで抜けてしまうので、あっというまだろうが、国道286号が笹谷峠を越えている。現場へは行ったことがないので地図で見るだけだが、この峠道はすごい。なお念ために、この地図は昔の地図ではない。2020年現在の国土地理院Web地図である。 上の地図01のいちばん下と左の地図02のいちばん上に”蔵王山”と見られる。本来地図の面で上、下はタブーなのだが、ここでは”蔵王山”という字を連結子として2枚の地図の上下をつないで見てもらおう意味である。もともと”蔵王山”そのものは存在せず蔵王国定公園は、熊野岳(1841m)を主峰とする火山群を言うのそうだ。それを蔵王山として表すとちょうどこのあたりになるという意味である。参考までに熊野岳を中心とする蔵王山周辺の地図を倍率をアップして見てもらおう。残念ながら私は、蔵王山地に足を踏み入れたことはない。”馬の背”とある中央分水嶺を歩いたら、両側に熊野岳や五色岳の火口湖が見えて気持ちがよかっただろうなと想像するだけである。 地図02.奥羽本線・板谷隧道(大分水嶺通過) さてここからが本論である。左の地図02で、大きな四角で囲んだ”奥羽本線・板谷峠”である。現在は山形新幹線が走っているが私が訪ねた1966年当時は在来線のみ。大分水嶺を越えるこの線は、33‰(パーミル⇒水平距離1000mに対して33m上る)の勾配が連続し、北から大沢、峠、板谷、赤岩の4つの駅ではスイッチバック方式が採られていた。このスイッチバックを見るのがこの旅の目的だったが、今回大分水嶺を合わせて見てみると、これまた面白いことに気がついた。最初の田沢湖線・仙岩トンネルからここまで、大分水嶺は県境とと一致していたのであるが、ここへきて、両者は別々のルートをとるようになる。まずそのことに対処しなければならないのである。 地図03.奥羽本線・板谷隧道(大分水嶺通過) 大分水嶺は”蔵王山”を越えてさらに南下を続け、上の地図02で、奥羽本線・板谷峠の四角の枠に入ってきたところである。 02.雨の赤湯温泉 1966(昭和41)年10月2日(日) 山形県、赤湯温泉 朝、床の中で水音をきく。部屋の横に泉水はあったが、よくきくと、ぽつり、ぽつりと雨だれの音も混じっている。カーテンを開けてみると案の定雨。7時55分の天気予報では、本州南岸にある前線が予想外に発達して、その上を九州にある低気圧が東進する。一方、日本海にも気圧の谷があるという。まさに低気圧のオンパレード。 8時10分のバスで赤湯駅へ出る。赤湯市街。古い町並みが残り、落ち着いたたたずまいが続いていた。 8時27分、赤湯発福島行き、普通列車。蒸気機関車かと思っていたが、ディーゼル機関車(右側から入線してくるノペーとしたやつ。左の蒸気機関車C57は青森行き)が牽いていた。日曜日の普通列車は空いていた。雨で視界がきかず、近くの松林などが後ろへ去れば、茫漠たる荒野を行くがごとし。 03.いにしえの機関車たち 板谷峠。前述したように33‰(水平に1Km走って33m上る)勾配を持つ難所である。信越本線・碓氷峠(66.7/1000)がアプト式運転であったころは、この板谷峠が粘着運転の最急勾配区間であったという。開通は1893(明治26)年、日清戦争(1894〜1895)の直前である。そのころこの難所に立ち向かった最初の機関車はどんなだったか。残念ながら昭和生まれの私には全く手が出ない。 左の写真:4110形式、No.4129 1914(大正3)年 川崎造船兵庫工場 04.後ろ向き機関車E10のこと 左は”E10”である。テンホイラー4100・4110のあとをついで1948(昭和23)年に板谷峠に登場した。実はこのE10,「後ろ向きタンク」の異名を持っていた。普通の蒸気機関車は煙突がある方が前である。ところがこの機関車は逆になり、左の写真でいえば右向きに走るのが前進というけったいな機関車だった。 05.いざ、板谷峠へ 米沢で10分停車。ホームへ降りてみると、前4両が切り離されているところ。うっかりしていたが、後ろ4両だけが福島行きであったわけ。初めから最後尾の車両に乗っていたから別に問題はなかったが。 ここで、ディーゼル機関車が切り離され、EF64がやってくる。さあ、いよいよ板谷峠。 関根を越えたあたりから、列車はいよいよ山間部にはいる。碓氷峠までとは行かないまでも、さすがに名にしおう急勾配区間である。雨はいよいよ激しく、屋根にしぶきを上げる。 06.大沢駅 登り始めて最初の駅が大沢、もうここからスイッチバックである。列車は上り勾配から左へそれて、水平な側線に入る。その後、バック運転で本線を横切って反対側のホームへ入る。 ポイントのところは、覆い屋根がついていて、さすがに豪雪地帯を思わせる。そのころ、京都駅あたりでは雪が降ってくると、係員が火のついたバーナーをポイントの可動部の下へ差し込んで温めていた。 大沢駅ホーム。 上の大沢駅ホームの写真はまず間違いはないと考えられる。しかし、その上の覆屋内の写真はどこなのか、自分で納得できないのである。で、当時のアルバムを引っ張り出して見直してみた。と、どうやらアルバムを編集した時点で、すでに記憶が怪しくなっていたらしく、スイッチバックの4つの駅を一つの峠越えとみなし、全体をムードでまとめようとしたらしい跡が見られる。いまと違って、撮ってすぐ画像が見られるわけではない。フイルム現像は帰ってから次の休日にやるとしても、焼き付けとなると何時になるかわからないのが常だった。アルバムにまとめるとなると1か月や2か月あとは当たり前、場合によっては半年ぐらい遅れてしまうことも珍しくなかった。1枚1枚細かくチェックしてということもできず、全体としてひとまとめにして、”こんなところでした”で収めようとしたのだろう。・・・と、逃げ口上を書いておいて次は峠駅。 07.峠駅 山はいよいよ深くなって次は「峠」。まさにそのものズバリ、たった一文字の駅名に詩情を感じる。ホームの標識に海抜624mとある。 08.場所不明の3枚
この3枚の撮影場所が分からない。フイルムを探せば前後関係ぐらいはわかるが、半世紀前の撮影である。捨ててはいないので、探せばどこかに残っているはずだが、簡単にはいかない。3枚とも列車の最後尾のデッキで撮っている。若いころ”4等展望車”と呼んでいた手である。 09.板谷トンネル・大分水嶺をくぐる 地図03・上で示した地図03を再度使用 私は1966(昭和41)年10月、この板谷トンネルを抜けた。そのときは何も意識をしていなかったが、大分水嶺の下をくぐっていたのである。地図は国土地理院Web地図、もちろん現在のものである。山形新幹線との兼ね合いで、トンネルは2本になっているが、当時はまだ 1 本。どちらが当時のものか分からないが、多分トンネルの中でカーブしたりしている方であろうと勝手に判断した。 10.板谷駅・特急”やまばと”通過 板谷、トンネルで大分水嶺をくぐり、ここはもう太平洋側・阿武隈川水系の源流である。本線の勾配は逆(下り勾配)になり、駅の構造もいままでの2つとは逆になる。つまり、勾配を下って来た列車は逆行せず、機関車を先頭にしてホームへ突っ込んでいくのである。上の模式図の11→12。 ここで25分ほど停車。まず貨物列車が上ってきて側線へ入り、バック運転でホームへ入ってくる。右に見えているのが貨物列車の電機である。 左の写真、”やまばと”のアップ。いまならズームでアップというところだが、当時はそんな器用なものはなかった。上の写真をトリミングしたもの。 25分の停車の後、乗っている列車がバック運転で、いったん本線を横切って側線へ出る。そこでいったん止まったあと、前進運転で本線へ出ていくところ。左の写真は客車の窓から撮ったもの。上の特急通過の写真は、ここを通過している特急列車を、覆屋の向こうから撮ったことになる。 11時04分、福島着。リュックを担いだ女性が3人、その前を行く学生服に角帽、リュックを背中に。多分大学生だと思うが、まだいたんだなー、このころは・・・、いまの大学生に見せたら、大笑いだろうが。 |