知らずに越えた大分水嶺--- 02.旧国鉄仙山線・面白山トンネル --- 初稿UP:2024.03.20 |
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00.このとき越えた大分水嶺 地図00-02.仙山線・面白山トンネル 戦後のある時期、国鉄仙山線が注目されたことがあった。仙山線のうち仙台ー作並間が我国で最初に交流電化されたことによる--1957(昭和32年〉年9月--。ということで、仙台から仙山線で山形へ、そこから「板谷峠」へ回ろうというプランで旅に出た。 01.大分水嶺の流れ 地図01 前項で”田沢湖線・仙岩トンネル”で大分水嶺の下を抜けた。そこはまた奥羽山脈の稜線であり、岩手県(太平洋側)と秋田県(日本海側)の県境でもあった。その組み合わせのまま大分水嶺は南下する。そして、P点で定規を当てたようにクッと西へ折れる。一見、栗駒山で曲がるように見えるが、そうではない。栗駒山はP点から東へ折れたところ、岩手県と宮城県(どちらも太平洋側)の県境に位置している。 地図02 P点で西へ折れた大分水嶺は少しの間、南西へ伸びる。このときP点で太平洋側が宮城県に変わる。日本海側の秋田県は変わらずQ点に至る。Q点で日本海側が山形県となり、太平洋側・宮城県、日本海側・山形県の組み合わせで南下していく。 *平泉、山寺等、行程の詳細は、「山旅・穂高から三上山まで」から”平泉・仙山線・板谷峠・裏磐梯”をどうぞ。 02.芭蕉が越えた大分水嶺・中山越え 堀公俊著「日本の分水嶺」に、芭蕉は『奥の細道』の旅で、大分水嶺を越えている。江戸を発って平泉に至り、最上川沿いを下って日本海側に出ている。この間必然的に大分水嶺を越えている。それが”中山越え”だ。との大意の文章が載っている。ところが土地勘のないつらさ。地図の上でその”中山越え”が見つからない。それを求めていくつかのサイトを検索していて、紀行写真の中に、”堺田駅”と同じ画面に分水嶺という立札が立っている写真が見つかった。もちろん土地勘がないのだから、”堺田駅”が何を意味するのか分からなかったが、ワラをもつかむ思いでGoogle Mapを検索してみたら、出てきたのである。陸羽東線”堺田駅”が。
講談社刊・古典の旅11・田辺聖子著『おくのほそ道』に次のようにある。 03.いざ、面白山トンネルへ 1966(昭和41)年10月1日 金曜日の夜、上野から急行”きたかみ”で平泉へ。中尊寺を参拝、10時02分、一関発。特急”やまびこ”で仙台へ戻る。11時20分、定刻より5分遅れて、仙台着。 a.仙山線・仙台駅 仙山線11時53分発の山形行き普通に乗る。我が国交流電化発祥の地である。 機関車はED91、もともとはED45として作られたもので、交流を車内で直流に変えてモーターを駆動する、いまの新幹線と同じ方式であるという。写真では色が分からないが、ボディーは赤、下に見える白い線は黄色、模型をそのまま実物にしたような機関車だった。 b.作並駅・機関車交換 普通列車は空いていた。少し走っては、5分、10分ととまる。情緒満点の列車だった。 作並。近くの作並温泉が有名だとか。しかし、鉄道マニアとしては、ここで行われる機関車の付け替え(交流用⇔直流用)と、このあと通過する面白山トンネルとが、ちょっとした話題になっていた。 ”機関車付け替えのため20分止まります”とのアナウンス。ホームへ下りてみると仙台から来たED91が切り離されて、直流用のED17に替えられたところだった。 c.ED17のこと 作並駅でのED17。この面構えがなんともいえない。これぞ電気機関車というところ。上で見てもらった仙台から牽いてきた交流機関車。のペーとして何の面白味もない。いまの若いやつと同じ顔だ。そこへ行くとこいつは筋金入りだ。 ED17型電気機関車。元の車両は1923年(大正12年)から1925年(大正14年)にかけてイギリスから輸入されたもので、1930年(昭和5年)から1950年(昭和25年)にかけて、改造してED17となったものという。この面構えもなるほどなと納得できる。要するに年季が入った時代もんやというところ。こういうヤツに出会うと、フィルムがなくなることを忘れてシャッターを切ってしまう。我ながら難儀な性分やと思う。 さて、この大正生まれのご老体。もちろん直流用である。京都のちんちん電車の時代から、電車は直流と相場が決まっていた。ところが仙台から来たED91とかいう若いヤツは交流だという。直流であろうと、交流であろうと電気が目で見えるわけでもなし、ちゃんと走ってくれたらそれでいいのだが、ここでそれを切り替えた。いまのいままで交流電気機関車ED91が入っていた線に、どうして直流のED17が入れるのだろうか。どこかで、架線の電流を切り替えていたのだろうが、ちょっとした手品だった。 d.このとき越えた大分水嶺・面白山トンネル 作並で20分とまって電気機関車を付け替えた。何でそんな面倒くさいことをしたか。実は次の山寺までの間に「面白山トンネル」(写真左)というのがある。正式名称は「仙山トンネル」というのだそうだが、近隣の人でも、面白山が正式名称だと思っているというからやこしい。こいつの長さが5361m、私がそこを通った時点(1966年)で、北陸・清水・丹那について我が国第4位だった。開通は昭和11年。開通当時では、北陸トンネルはなかったから、第3位だったはず。この長大トンネルに蒸気機関車は無理。開通当時からこのトンネル区間だけ直流電化されていた。そこへ、仙台・作並間が交流電化された。木に竹を接いだような話である。作並での機関車付け替えはこのためである。そんなめんどくさいコトをするなら、面白山も交流に変えてしまえばいいものを・・・と、思っていたら、そのあと1668年に交流に変えられたという。私が行った2年あとである。 地図03・04 面白山隧道地図 さてこの面白山トンネル、地図で読んでみると、大分水嶺(いまの場合は宮城。山形両県の県境)の下を通っていた。右の手書き地図4は、旅行後に作ったアルバムに挿入しておいた雑な地図である。”大分水嶺”なんて感覚はこれぽっちもなく、”奥羽山脈”と記入している。なお、現在の地図(左・地図3)を見ると、トンネルを山形側へ抜けたところに、”面白山高原駅”という駅が見える。私の手描きの地図にはない。調べてみると1937(昭和11)年。面白山仮乗降場として開業していたが、常設駅(面白山高原駅)になったのは、1988(昭和63年3月13日)からだという。私が行ったときはまだ仮停車場だったことになる。 e.山寺・立石寺 面白山トンネルを抜けて、山形盆地へ下り始めたところが山寺である。時に13時54分。ホームから立石寺のお堂が見える。ここはもう山形県、最上川の流域である。
立石寺の中腹から山寺駅を見下ろしたところ。画面を拡大してみると、左端、駅のはずれにターンテーブル(転車台)が見える。・・・「てんしゃだい」と入力しても「転写台」としか出ない。いつの間にか”転車台”も死語ななっていた。
山寺発15時29分の準急”仙山2号”に乗る。15時46分、山形着。 |