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知らずに越えた大分水嶺

--- 02.旧国鉄仙山線・面白山トンネル ---
(山形県・宮城県)
1966年10月

初稿作成:2020.09
初稿UP:2024.03.20
 


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00.このとき越えた大分水嶺
地図00-02.仙山線・面白山トンネル

 戦後のある時期、国鉄仙山線が注目されたことがあった。仙山線のうち仙台ー作並間が我国で最初に交流電化されたことによる--1957(昭和32年〉年9月--。ということで、仙台から仙山線で山形へ、そこから「板谷峠」へ回ろうというプランで旅に出た。
  そして半世紀以上たって改めて地図を見ると、「面白山トンネル」が大分水嶺(奥羽山脈・岩手―山形県境)をくぐっていた。そして、「板谷峠」では大分水嶺を越えていたと思っていたのだが、実際に行って見るとここでも短いトンネルが大分水嶺の下をくぐっていた。




01.大分水嶺の流れ
地図01

  前項で”田沢湖線・仙岩トンネル”で大分水嶺の下を抜けた。そこはまた奥羽山脈の稜線であり、岩手県(太平洋側)と秋田県(日本海側)の県境でもあった。その組み合わせのまま大分水嶺は南下する。そして、P点で定規を当てたようにクッと西へ折れる。一見、栗駒山で曲がるように見えるが、そうではない。栗駒山はP点から東へ折れたところ、岩手県と宮城県(どちらも太平洋側)の県境に位置している。




地図02

  P点で西へ折れた大分水嶺は少しの間、南西へ伸びる。このときP点で太平洋側が宮城県に変わる。日本海側の秋田県は変わらずQ点に至る。Q点で日本海側が山形県となり、太平洋側・宮城県、日本海側・山形県の組み合わせで南下していく。

  *平泉、山寺等、行程の詳細は、「山旅・穂高から三上山まで」から”平泉・仙山線・板谷峠・裏磐梯”をどうぞ。




02.芭蕉が越えた大分水嶺・中山越え

 堀公俊著「日本の分水嶺」に、芭蕉は『奥の細道』の旅で、大分水嶺を越えている。江戸を発って平泉に至り、最上川沿いを下って日本海側に出ている。この間必然的に大分水嶺を越えている。それが”中山越え”だ。との大意の文章が載っている。ところが土地勘のないつらさ。地図の上でその”中山越え”が見つからない。それを求めていくつかのサイトを検索していて、紀行写真の中に、”堺田駅”と同じ画面に分水嶺という立札が立っている写真が見つかった。もちろん土地勘がないのだから、”堺田駅”が何を意味するのか分からなかったが、ワラをもつかむ思いでGoogle Mapを検索してみたら、出てきたのである。陸羽東線”堺田駅”が。
 Web地図に戻って、陸羽東線沿いの大分水嶺は1か所しかないわけで、拡大していくと、やっとこさで『∴出羽仙台街道中山越え』の文字が見つかった。出羽仙台街道中山越えなる旧道がどれなのかよくわからないが、近くを国道49号が通っていて、堺田駅からまっすぐ伸びる道が国道と交わる近くが、例の封封人の家だという。



 南部道はるかに見やりて、
 岩手の里に泊まる。
 小黒崎・みづの小島を過ぎて、
 鳴子の湯より尿前の関にかかりて、
 出羽の国に越えんとす。
 この道旅人まれなる所なれば、
 関守にあやしめられて
 やうやうとして関を越す。
 大山を登りて日すでに暮れければ
 封人の家を見かけて舎を求む。
 三日風雨あれて、
 よしなき山中に逗留す。

  蚤虱馬の尿(バリ)する枕元

    ・・松尾芭蕉「奥の細道」・・
 
 
 



 講談社刊・古典の旅11・田辺聖子著『おくのほそ道』に次のようにある。
 ----尿前の関は、現在何もなくて、<尿前の関跡>の説明板があるのみ、(陸羽東線・鳴子駅から西北2Kmである)山道に昼なお暗い杉林があってその前に「蚤虱‥」の句碑がある。川の向こうは鳴子温泉のビル街である。
 芭蕉らはこの関から出羽街道中山越えをして、出羽の国、新庄領の堺田にたどりつく。日が暮れたので封人(ほうじん・国境の番人)の家を見つけて一夜の宿を所望する。ところが三日間風雨荒れて、つまらない山中に逗留したという。
 この封人の家がいまに復原されて堺田にある。代々庄屋を世襲してきた有路家のことだという。三百年経た面影をそのまま残し、重文に指定されている。----略----
 一つ屋根の下で馬と寝ていたのでば、たとえ座敷は土間から遠く離れていたとしても、激しい馬の尿の音は寝耳を驚かしただろう。----



03.いざ、面白山トンネルへ
  1966(昭和41)年10月1日

  金曜日の夜、上野から急行”きたかみ”で平泉へ。中尊寺を参拝、10時02分、一関発。特急”やまびこ”で仙台へ戻る。11時20分、定刻より5分遅れて、仙台着。

a.仙山線・仙台駅

  仙山線11時53分発の山形行き普通に乗る。我が国交流電化発祥の地である。
 仙台 - 作並間、20Kv・50Hzの交流電化営業運転開始が、1957年(昭和32年)9月5日というから、この時点ですでに約10年の歳月を経過していた。その間、近いところでは北陸線の交流電化があったりしたが、これも仙山線での経験を生かしたものだという。





 機関車はED91、もともとはED45として作られたもので、交流を車内で直流に変えてモーターを駆動する、いまの新幹線と同じ方式であるという。写真では色が分からないが、ボディーは赤、下に見える白い線は黄色、模型をそのまま実物にしたような機関車だった。
  右のスハ32という客車。リベットがずらりと並んですごいやつだった。全体像と車内の様子を記録しておくべきだった。


b.作並駅・機関車交換

 普通列車は空いていた。少し走っては、5分、10分ととまる。情緒満点の列車だった。

  作並。近くの作並温泉が有名だとか。しかし、鉄道マニアとしては、ここで行われる機関車の付け替え(交流用⇔直流用)と、このあと通過する面白山トンネルとが、ちょっとした話題になっていた。




  ”機関車付け替えのため20分止まります”とのアナウンス。ホームへ下りてみると仙台から来たED91が切り離されて、直流用のED17に替えられたところだった。




c.ED17のこと

  作並駅でのED17。この面構えがなんともいえない。これぞ電気機関車というところ。上で見てもらった仙台から牽いてきた交流機関車。のペーとして何の面白味もない。いまの若いやつと同じ顔だ。そこへ行くとこいつは筋金入りだ。

  ED17型電気機関車。元の車両は1923年(大正12年)から1925年(大正14年)にかけてイギリスから輸入されたもので、1930年(昭和5年)から1950年(昭和25年)にかけて、改造してED17となったものという。この面構えもなるほどなと納得できる。要するに年季が入った時代もんやというところ。こういうヤツに出会うと、フィルムがなくなることを忘れてシャッターを切ってしまう。我ながら難儀な性分やと思う。

 ===ED17細密画は機芸出版社「陸蒸機からひかりまで」(1965)、画:片野正巳===

  さて、この大正生まれのご老体。もちろん直流用である。京都のちんちん電車の時代から、電車は直流と相場が決まっていた。ところが仙台から来たED91とかいう若いヤツは交流だという。直流であろうと、交流であろうと電気が目で見えるわけでもなし、ちゃんと走ってくれたらそれでいいのだが、ここでそれを切り替えた。いまのいままで交流電気機関車ED91が入っていた線に、どうして直流のED17が入れるのだろうか。どこかで、架線の電流を切り替えていたのだろうが、ちょっとした手品だった。
  しかし、それはええのやけれども、この駅員さん、足短いね。持っている旗が大きいからそう見えるのかな。



d.このとき越えた大分水嶺・面白山トンネル

 作並で20分とまって電気機関車を付け替えた。何でそんな面倒くさいことをしたか。実は次の山寺までの間に「面白山トンネル」(写真左)というのがある。正式名称は「仙山トンネル」というのだそうだが、近隣の人でも、面白山が正式名称だと思っているというからやこしい。こいつの長さが5361m、私がそこを通った時点(1966年)で、北陸・清水・丹那について我が国第4位だった。開通は昭和11年。開通当時では、北陸トンネルはなかったから、第3位だったはず。この長大トンネルに蒸気機関車は無理。開通当時からこのトンネル区間だけ直流電化されていた。そこへ、仙台・作並間が交流電化された。木に竹を接いだような話である。作並での機関車付け替えはこのためである。そんなめんどくさいコトをするなら、面白山も交流に変えてしまえばいいものを・・・と、思っていたら、そのあと1668年に交流に変えられたという。私が行った2年あとである。
 それはそうやろう。誰が考えても当たり前の話や。しかしよう考えてみると馬鹿な話し。はじめからそれをやっておけば、10年そこそこで必要性がなくなる作並での交直切替装置に金をかける必要もなかったはず。もっとも、それを承知の上での交直切替の実地テストだったのかも知れないが。



地図03・04 面白山隧道地図

  さてこの面白山トンネル、地図で読んでみると、大分水嶺(いまの場合は宮城。山形両県の県境)の下を通っていた。右の手書き地図4は、旅行後に作ったアルバムに挿入しておいた雑な地図である。”大分水嶺”なんて感覚はこれぽっちもなく、”奥羽山脈”と記入している。なお、現在の地図(左・地図3)を見ると、トンネルを山形側へ抜けたところに、”面白山高原駅”という駅が見える。私の手描きの地図にはない。調べてみると1937(昭和11)年。面白山仮乗降場として開業していたが、常設駅(面白山高原駅)になったのは、1988(昭和63年3月13日)からだという。私が行ったときはまだ仮停車場だったことになる。



e.山寺・立石寺

  面白山トンネルを抜けて、山形盆地へ下り始めたところが山寺である。時に13時54分。ホームから立石寺のお堂が見える。ここはもう山形県、最上川の流域である。


山形領に、立石寺と云山寺有。
慈覚太師の開基にして、殊清閑の地也。
一見すべきよし、人々のすすむるによりて、
尾花沢よりとって返し、其間七里計なり。
日、いまだ暮れず。
麓の坊に宿かり置きて、山上の堂に登。
岩に巌を重て山とし、松柏年ふり、
土石老いて、苔なめらかに、
岩上の院々扉を閉じて、物の音きこえず。
岸をめぐり、岩を這いて、
仏閣を拝し、佳景、寂莫として、
こころすみ行くのみ覚ゆ。

  閑かさや岩にしみ入蝉の声


     ・・松尾芭蕉「奥の細道」・・




  立石寺の中腹から山寺駅を見下ろしたところ。画面を拡大してみると、左端、駅のはずれにターンテーブル(転車台)が見える。・・・「てんしゃだい」と入力しても「転台」としか出ない。いつの間にか”転車台”も死語ななっていた。
  転車台とは、蒸気機関車の向きを180度転換させる装置。電車なら止まったその場で運転手さえ移動すれば、すぐに反対向きに走り出せるが、蒸気機関車は基本的には前向きにしか走れない。というわけで機関車をこの台の上にのせて、ぐるっと半回転させ前後を逆にしていたわけ。
  その転車台が、なぜこんな山奥の小駅にあるのか。面白山トンネルが開通したころは、電化されていたのは、このトンネル区間、作並・山寺間だけで、山寺から山形に向かっては非電化で蒸気機関車が牽いていた。山形からやってきた蒸気機関車はここで、列車を電気機関車に渡してお役ご免。ターンして山形へ。その遺物として転車台が残っていたというわけ。このときはすでに無用の長物だったはず。
  当然、仙台からやって来た蒸気機関車は、作並で同じことをやっていたはず。転車台が残っていたかどうかまでは気が回らなかった。仙台・作並間交流電化と同時に撤去されたであろう。

f.赤湯温泉へ

  山寺発15時29分の準急”仙山2号”に乗る。15時46分、山形着。
  山形発16時07分、米沢行きで赤湯まで。赤湯で降りる。駅前からバスが出ており赤湯温泉までは10分ほど。”丹波館”なる旅館にはいる。何でこんなところで”丹波館”なのか不思議だった。女中さんにそのいわれを聞こうと思っていたのだが、持っていった三脚を見た彼女に、「写真ですか・・・いいご身分ですね」と機先を制せられ、そのいわれはとうとう聞けずじまいだった。



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