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知らずに越えた大分水嶺

--- 01.旧国鉄田沢湖線・仙岩トンネル ---
(秋田県・岩手県)
1968年8月

初稿作成:2019.11
初稿UP:2024.03.20
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はじめに 次 項 目 次 へ



00.このとき越えた大分水嶺
地図00-01.田沢湖線・仙岩隧道

  左の地図で、赤色の実線が本州の大分水嶺である。岩手県と秋田県の場合は、北の十和田湖付近で少しずれているだけで、ほとんどが両県境が分水嶺と一致している。
  黒丸印の「田沢湖線、仙岩隧道」とあるのが、このときトンネルで通過した場所である。このトンネル、現在は”田沢湖線と秋田新幹線”が通過している。北海道は別にして、本州内で私が大分水嶺を通過したいちばん北に当たる。このときは盛岡から田沢湖線の急行でスーッと抜けてしまった。そのときはそのトンネルの中で大分水嶺を越えた(くぐった)などとは夢にも思っていなかった。


01.1968年夏

 古い話である。1968(昭和43)年夏。高校生の全国ユネスコ大会が行われるという。京都からはユネスコ協会がそういう活動をしている高校生を集めて参加する。往路と開会中はすべて協会で責任をもって指導する。ただし現地解散になるので、現地から京都まで帰路だけは各高校で引率をしてほしい。場所は秋田県田沢湖高原・秋田駒ヶ岳の麓だという。生徒3人やけどすまんけど行ってくれへんかと教頭からの話。”えらい遠いところですね”と牽制球を投げては見たが、秋田駒ケ岳に魅かれた。”行きます行きます”。


02.このとき越えた大分水嶺 田沢湖線・仙岩トンネル

 当時、東北新幹線はまだなかった。もちろん秋田新幹線があるはずはない。上野から夜行の急行で盛岡へ。市内を散策して盛岡駅10時23分発の急行”第1南八幡平”に乗る。

  盛岡を出た田沢湖線は、岩手山の裾のを横切るかたちになり、小岩井まではのぼりが続く。広々としたスロープに牧場が点在し、ちょっとした高原風景。

 信州八ヶ岳山麓を走る小海線とよく似た風景である。




田沢湖線・仙岩トンネル

 それを上り切ると雫石へ向かって一気に駆け下る。それから再び上りになり、岩手県と秋田県との境の仙岩峠(上の地図では”仙峠”と誤記している)をトンネルで抜けて、生保内川(写真右)沿いに田沢湖駅へと下る。途中、屋根に覆われた列車交換所(写真左)があるが、夏のいまは明るい感じである。このとき通った”仙岩トンネル”が、大分水嶺の下をくぐっていたのである。



  上の地図で、”仙岩峠”を”仙石峠”と書き間違い、しかもそれを”仙石峠トンネル”と、間違った場所で使っている。後で改めるが、仙岩峠と仙岩トンネルとは全く別の位置にある。右の写真も、生保内川沿いを走る列車からの撮影であるが、線路沿いの構造物を、”列車交換所”と勝手に決め込んでいる。関係の構造物に違いはないが、列車交換所であるかどうかはわからない。当時、これらの構造物が新しいものであることに気がついてはいたが、深く追求することなく、”夏のいまは明るい感じである”で逃げている。アルバム作成時の甘さである。

  とはいえ1968(昭和43)年の話である。新しさに気がついていたとしても、当時としては、その意味まで確かめるのは、そう簡単な話ではなかった。そのまま半世紀が過ぎた。このシリーズを始めるきっかけとなった『日本の分水嶺』・堀公俊著、ヤマケイ文庫を、読んでいて、----1966年、国鉄田沢湖線の仙岩トンネルが開通して、現在のJR田沢湖線が全通した。云々----とあるのに気がついた。驚いた。1966年といえば、私が、そのトンネルを通った2年前である。すべての構造物が新しいのは当たり前だった。

  Wikipediaによると、この区間(盛岡-大曲間)はもともと軽便鉄道として計画され、岩手県側の盛岡―橋場間が1922(大正11)年に、続いて秋田県側の大曲―生保内間が1年遅れで翌1923(大正12)年に開業した。生保内というのは現在の田沢湖駅、一方の”橋場”は、現在の”赤渕駅”から北東へ入った国道46号沿いに位置し、雫石から直結していた。一言でいえば、当該区間の両側から開通して中ほどに位置する奥羽山脈の部分だけを残した。これが”橋場駅”の悲劇につながる。旧橋場駅の位置(Google mapで表示)。
  工事はさらに進められたが、戦争の激化で中止、逆に1944(昭和19)年には、雫石ー橋場間が不要不急線として休止され、レールは撤去されてしまったという。戦後、現在の田沢湖線へ向けて、工事は再開されるわけだが、その間の事情は複雑で、私如き素人には理解できない。はっきりわかることは、1966年10月20日、赤渕・田沢湖間(奥羽山脈・大分水嶺をくぐる仙岩トンネルとその両側の区間)が開通し、田沢湖線として全通したということだけである。

03.国見峠
地図02.国見峠・仙岩峠

  古来人々は、岩手・秋田の県境の山脈(奥羽山脈・大分水嶺)を越えるのに苦しんだ。特に秋田県側、冬には積雪が5mにもなるという。その間の事情を、ちょっと古い地図で覗いてみよう。

  国土地理院5万分の1地形図・「雫石」、昭和43年1月30日発行の地形図が我が家に残っていた。ちょっとした旅行をするときには、目的地の地形図を持って行くのが習慣になっていた。このときも”田沢湖”とこの”雫石”の2枚を準備して行ったものらしい。戦後20年以上も経っているのに、文字はまだ右書きだった。
  画面の赤の実線が大分水嶺・奥羽山脈であり、岩手県と秋田県の県境でもある。これら2県をつなぐ道路として、「国道46号」と「秋田街道」の2本が表記されている。


 1982(昭和57)年5月、井出孫六編として出版された『日本百名峠』(桐原書店)に、「国見峠」(文・真壁仁)という項がある。この峠がこの地図にある「国見峠」である。その最初の一部を拝借する。
 ----盛岡から、雫石、橋場を通って、国見峠を越え、生保内へ出る秋田街道は奥羽山脈の東と西をつなぐもっとも古い、そして軍事的にも経済的にも重要な峠道であった。・・・・その国見峠を越える機会がこれまでに私にはなかった。それだけに大きな期待をかけて6月のある日、峠への道を車で走った。・・・・間もなく峠につく。ついたところは仙岩峠(八田注・東から来る秋田街道と南から北上する大分水嶺が出合うところ)だった。この峠は国見峠があまりにも険しいので、旧峠の南東側を切り開き、貝吹岳の北肩にあるヒヤ潟(標高835mにある高層湿原)のところで秋田側と結んだ道で、明治8年10月に開通している。----

  このとき真壁仁氏がクルマで走ったという道は、上の地図02で茶色の破線で示した秋田街道のようである。


04.そもそも国見峠とは

  Wikipediaでは、国見峠(岩手県・秋田県)として次のようにある。
 ----江戸時代、国見峠経由で盛岡と秋田を結ぶ道は、秋田街道・秋田往来・南部街道・国見越えなどと呼ばれていた。南部藩側(岩手県側)からは、橋場(雫石町)から坂本川沿いに進み、坂本からつづら折りに貝吹岳北側の的方(まとかた:後の仙岩峠)に上り、そこから北へ尾根を進むと国見峠に至った。久保田藩(秋田藩)側からは、生保内(仙北市)から六枚沢を渡って尾根伝いに通り、笹森山南斜面に出て間もなく国見峠に出る(注:上の地図02で茶色の破線で示す)。「奥々風土記」に「積雪のため往来絶えることしはしは」と記されており、難所であった。----

  昭和43年発行の国土地理院地形図に「国見峠」の名称が記載されていた。しかし実際に峠としてのは働きは冬期の積雪のため、1年の半分は機能しないのが実情であったという。そういうことで明治8年に国見峠を避けて少し南のヒヤ潟を経由するように改良工事を行ったという。それが上の地図02の国道46号ということのようである。



地図03.国土地理院5万分の1地形図・「田沢湖」、(昭和37年6月30日発行)

  上の「雫石」の左につながる部分である。本来ならばぴしゃっとつながるはずであるが、何がどうなったのか誤差が大きい。まあ要するに発行年度も異なるし、基本的なデータにずれがあったのだろう。
  国道46号・田沢湖線・田沢湖駅の3か所、赤いスカシが入ったところを注意してほしい。地図02では「田沢湖線」となっているところが「生保内線」となっている。「秋田街道」が「角館街道」、「たざわこ」(駅名)が「おぼない」となっている。




地図04.国道46号仙岩トンネル・田沢湖線仙岩トンネル 国土地理院Web地図に加筆

  現在の状況である。国道46号の仙岩トンネル(全長2544m)が仙岩峠の真下を通過している。1975年完成。田沢湖仙岩トンネルについては、秋田新幹線(1997年開業)と併用されされている。狭軌(1067mm)の田沢湖線と標準軌(1435mm)の秋田新幹線が3線併用で運用されている。京都市電が昔、狭軌の北野線が四条通り(広軌)を三線併用で走っていたのを思い出す。





05.最後に.駒ケ岳のこと
地図05.駒ケ岳・国土地理院Web地図に加筆

 上の地図04をさらに北へたどると駒ケ岳に近づく。標高1637m、このレベルの山なら県境になるに十分な価値がありそうなものであるが、いまの場合、中央分水嶺はそのピークの南東730mほどのところにある横岳1522mを通過する。700mぐらいなら、駒ケ岳主峰(地図には男女岳とある)を越えそうなものだが、これが地形の妙である。
 秋田駒ケ岳という山は、いくつかのピークの総称である。主峰がいま述べた1637mの男女岳。いつごろからこう呼ばれていたのかわからないが、主峰を”雄山”と呼ばないのが今日的でよろしい。そして、反時計回りに雄岳、雌岳、そして小岳と、あたかも野球場のベースを見るように並んでいる。総称”駒ケ岳”の横文字の並べ方を見ると、横岳もその中に入っているのかもしれない。そしてさらに、それらを総括するような楕円形のカルデラ(素人の判断)。男岳と横岳が火口壁上に、女岳と小岳が火口原上に。地図を見ただけで非常の分かりやすい。一目見ただけで登ってみたくなる山だった。



06.写真:駒ケ岳?

 そのときのアルバムに左の写真が残っていた。付け加えて、「駒ケ岳」とある。たぶん宿舎周辺から撮影したものだろう。しかし気をつけなければならないのは、この駒ヶ岳が自分にとって、遠隔地の、いままで名前も知らなかった初めて見る山であるということ。誰か地元の然るべき人に、「あれが駒ヶ岳ですね」と確認したかどうか。それが今となっては全く記憶がない。しっかりした山だったから間違いはないとは思いながら、これはカシミールだ。
 カシミールを使うためには、撮影ポイントが必要になる。このときの会場が”駒草荘”とあるだけで、しっかりした名称が不明である。アルバムに残していた手描きの地図にある場所を頼りに”駒草荘”を探してみたが、なんせ、半世紀以上も昔の話である。同じ名称のものがあったにしても、かえってその方が怖い。結局、”そのあたり”を撮影地点として作画させたのが、右の図である。中央の大きなピークが男岳、本来の主峰・男女岳は遠くにあるため、小さく(低く)見える。完全に撮影位置が一致しているわけではないから、写真と図が100%一致しているわけではないが、よく似たイメージといえよう。
 それよりも上空から見たカルデラ部の方が面白そうだ。上の地図05で表現されている山頂のカルデラ部を真南の上空4700mに置いたカメラで表現した。 両者比較。しかし、この山頂部は魅力がある。標高1600mはいまとなってはどう考えても無理だが、もっと早くに登っておきたかった。



◆.つけたし:盛岡・開運橋のことなど

 2022年10月2日の、京都新聞のページである。このページを開けたときに、なんとなくその写真の周辺を歩いたような雰囲気を感じた。もちろん写真はドローンによる上空からのものだったし、実際にそんなアングルで現場を見たわけではなかったが。読めば、盛岡駅から200mほどのところで、北上川に架かる開運橋だという。盛岡へはたった1回しか行っていないが、そのときたしか渡ったはずだ。念のためにそのときのアルバムの地図を確かめた。新聞に付された地図と同じ橋である
 この記事は各地方を代表する新聞社12社が連携して制作されているもので、月1回のペースで各地を代表する橋をとり上げている。今回は岩手日報社の担当だったというわけ。ちなみに、初回は木曽川にかかる「桃介橋」だった。この橋のように何度も見たり渡ったりしている橋もあればそうでない橋もある。今回の開運橋のようにたった1回だけの出会いだった橋もある。このとき通った田沢湖線の仙岩トンネルが大分水嶺の下をくぐっていたという縁で、この開運橋につながった。



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