"

野洲川物語

南北両流跡探訪

南流跡・8A 
新川に沿って/左岸堤防跡


右 岸 へ

初稿UP:2012.09.10
写真・特記したもの以外2012年08月撮影
目 次 へ

1.まぼろしの新川橋


 地図01A・国土地理院50000分の1地形図(京都東北部)1951(昭和26)年8月発行
写真拡大

 左は何度も出てきた昭和20年代前半の旧野洲川南流河口の様子である。現在の今浜町美崎のところに「新田」の地名があり、そこで川は東西2流に別れている。右(東)が「新川」、左(西)が「大川」である。分流した後、河口までどちらにも橋はない。但し、大川を半分ばかり下ったところから西側へ何本か枝分かれしている。その代表的な流れが「六番川」で、それに架かる「六番橋」が記載されている。
 そんなことで、「大川橋」はこの地図には記載されていないわけだが、野洲川の洪水とその被害状況(竹林征三著、『湖国の「水の道」』)によると、古いところで・・・1900(明治33)年、今浜新田決壊、橋梁流出・・・とある。
 この「橋梁」が、今のどの橋に当たるのか判然としないが、とにかく、この時点で橋があったということである。たぶん恒久的な橋ではなく、いわゆる「流れ橋」的なものだったのだろう。地図作製のこの時期は何らかの事情で、橋がない状態ないしは記載するに当たらない程度の橋であったのだろう。

 前出の「被害状況」をもう少したどってみると、時代が新しくなるにつれて、「大川橋流出」の記事が目につくようになる。
 1928(昭和03)年、大川橋流出。
 1947(昭和22)年、大川橋流出。
 1956(昭和31)年、大川橋流出。
 1959(昭和34)年、大川橋流出。
 そして、
 1971(昭和46)年、大川橋・新川橋流出。
 1972(昭和47)年、大川橋・新川橋流出。
 と続く。
  また、角川日本地名大辞典(滋賀県)によると
、 「大川橋」=守山市今浜町新田にあり、昭和47年完成のコンクリート橋。従来は、野洲川下流三角州にかかる木橋で出水のたびに流出したり通行不能となり、流域住民の交通の難所であった。
 とある。おい、ちょっと待てよ、というところである。前出の「被害状況」を見る限り、戦後の橋梁流出は大川橋がひと手に引き受けている感じである。コンクリート橋になったのが、昭和47年というから、昭和46年と47年の流出はなにおかいわんやというところである。

 最初から脱線した。問題は昭和46年と47年、2年続けて流出したという「新川橋」である。今浜町美崎に建つ「旧野洲川のすがた」碑にも、大川橋、六番橋は記載されているが、「新川橋」の名は、ない。「大川橋」が大川だから、「新川橋」は新川だろう、と何となくは分かるがはっきりしたことがつかめない。

 地図01B・国土地理院50000分の1地形図(京都東北部)1970(昭和45)年11月発行
写真拡大

 何か手がかりはないかと地図を探していて、この地図に行き着いた。橋が3本表記されている。「六番橋」、「大川橋」は確認済みだから、あと1つ、新川に架かるのが「新川橋」ということになる。ただし、上流の今浜橋などに較べて細い橋だったらしい。
 この地図の発行が1970年だから、発行の翌年と翌々年に新川橋が2年続けて流出していたことになる。私が野洲に住みついたのが1970年、淡い記憶では水害の件を新聞記事で読み、下流の方では大変なことになっているらしい、と驚いた記憶がある。



 地図01C・国土地理院50000分の1地形図(京都東北部)1994(平成6)年9月発行
写真拡大

 上の状態から20数年が経過している。その間、新川橋付近はいろいろ変化していたらしく、表現は必ずしも一定ではないが、最終的には左のように細い道がクランク状に屈曲してつながっていたらしい。おそらく橋は流れたまま、放水路の完成により新たに架け替える必要もなく、その跡が細い道として定着していったのだろう。

 写真00・大川・新川分岐点あたり・撮影:1980(昭和55)年9月・建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」より
写真拡大

 新放水路への通水が昭和54年6月、左はそれから約1年後、大川・新川分岐点あたりを俯瞰したものである。上流から下流を見たもので、左奥へ大川、大川橋が見えている。画面中央で右へ分岐していくのが新川。分岐点の少し下流にクランク状の細い踏み跡が見える。ここがかつての新川橋の場所だったといえそうである。



 地図02・国土地理院25000分の1地形図(堅田)・1981(昭和56)年2月発行
写真拡大

 上の写真の撮影範囲を示したところである。発行年月日は上の写真の翌年だが、表現されているのは上とほとんど同じといえる。道がクランク状に屈曲し、河川敷の部分だけ橋になっている。何故こんな非能率的なクランク状になったのか、疑問は残るが。




 写真00A・大川・新川分岐点あたり・撮影:1980(昭和55)年9月・建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」より
写真拡大

 上の写真に現状を重ねたところである。白の点線が新川橋跡、それ以外の実線は現在の道路である。なお黄色の太い道が県道323号。途中赤丸の交差点から右上へ湖岸道路までが先日(2012年)8月28日に開通した部分である。この部分を地図(03)でどうぞ



2.旧新川橋付近   GoogleMap


 写真01・赤丸交差点写真拡大

 「赤丸交差点」、正式名称ではない。信号もなく名前が分からないので私が勝手につけた名前。上の地図の赤丸印の交差点である。湖岸道路のラフォーレ琵琶湖の東、新しくできた信号から県道323号に入り、1.2Kmほど走った初めての交差点である。写っているクルマは私が名付けた「デルタ中央道路」からやって来て、県道に対して一旦停止をしたところ。左へ行けば県道経由で湖岸道路へ。直進すれば農道(浜街道・立田へ)へ。



 写真02・開通前の赤丸交差点
写真拡大

 この交差点から湖岸道路までが、先日(2012年)8月28日に開通した部分である。写真は未開通のころの状態。画面奥が琵琶湖。左が「デルタ中央道路」、右が農道につながる。





 写真03・旧クランク状道路
写真拡大

 赤丸交差点から「デルタ中央道路」を150mほど進んで振り返ったところ。左へ小径が別れていく。幅2mほど、クルマ1台がやっとの道である。これがかつての新川橋、クランク状道路が河床林を横切るところだったと推定される。細い道を真正面から





 写真04・ラフォーレ琵琶湖望遠
写真拡大

 上の航空写真(00A)地図(03)を見ても分かるように、この細い道の半分ないしは3分の2ぐらいは河川敷を横切っている勘定になる。今は草ぼうぼうで川が流れていたころの面影はないが、その上にラフォーレ琵琶湖が見える。
 この画面の中で旧新川橋を再現するとすれば、4,50mほど下流で画面左から出てきて、正面を横切り、右の河床林にぶつかったところで右折。手前に向かって進み、今のカメラの道にぶつかって左折ということになるのだろう。



 写真05・曰くありげな
写真拡大

 道路の半分ぐらいの所に、曰くありげなコンクリート塊がどーんと横たわっている。旧大川橋跡では、明らかにかつての橋脚の一部と読めたが、これは何とも。突撃するにはこちらが軽装過ぎた。何が出てくるかわからんし。橋の一部としたら小さすぎるようでもあるし。といって、結構小ぶりの橋だったことも考えられるし。今のところ意味不明。

 写真06・通り抜けて振り返る
写真拡大

 まっすぐ通り抜けると新しい県道に出る。ただそれだけの話である。振り返ってみると道の突き当たりに、1本の杉の木が見える。半分枯れかかって哀れな形だが、今のところはまだ目印になる。その下、屋根だけ見えるのが「デルタ中央道路」を走るクルマである。


3.新川左岸を下る   GoogleMap


 写真07・左岸道路入口
写真拡大

 さて、左岸である。といっても実際には1980(昭和55)年の段階ですでにどこまでが河川敷かはっきりしない状態で、ひょっとしたら地図00Bの白線が左岸堤防だったのではないか、そんな気もしてくる。事実、地図02にはそんな表現も見られる。できればそこの所も確かめたかったが、新川橋跡を探ったときにも、その道らしきものが見つからなかった。やむを得ないと判断し、ラフォーレを真正面に見る道路を下ることとする。

 写真08・ラフォーレ琵琶湖遠望
写真拡大

 道はすぐに左へくっと曲がる。ラフォーレ琵琶湖が遠くに見えて来る。








 写真09・河床林跡
写真拡大

 きれいな畑が見える。道路に対して右直角方向を見たところ。奥の樹影は河床林のはずだが、左岸のものか、右岸のものか、確かめようもない。



 写真10・水田
写真拡大

 水田が見えてくる。水田は、大川とデルタ中央道路に挟まれた地域にもあった(地図・赤線で囲まれた範囲)。左の写真は新川左岸とデルタ中央道路に挟まれた地域(地図・青線で囲まれた範囲)である。ということはデルタ中央道路を挟んで両側に水田があるということで、旧河川敷に水田はないという今までの例から考えて、このあたり(デルタの中心部)は以前から水田が拓かれていたということなのだろう。


 写真11・細い道
写真拡大

 田圃の中から細い道がやってくる。中央道路を歩いたとき、たまたま撮っていた写真(前項「大川を下る」・写真51A)がある。細い道を境として左半分が水田である。
 写真(51A)で遠くに屋根が光っている。いまカメラの後にある墓地の建物の屋根である。


 写真12・墓地の前から美崎公園の森を見る
写真拡大

 墓地の横から美崎公園になる。新川跡地を利用して湖岸道路まで続く細長い公園である。








 写真13・美崎公園の外側とラフォーレ琵琶湖
写真拡大

 一直線に続く道路の向こうにラフォーレ琵琶湖が見える。右が美崎公園。







4.美崎公園   GoogleMap


 写真14・美崎公園入口
写真拡大

 美崎公園の入口。写真で左右に横切っているのが、いま歩いてきた新川左岸道路。カメラはデルタ中央道路から来た道に立っている。とにかくひと気がない公園で、いつ行っても来園者も職員も、とにかく人影を見ることはまれである。公園案内図





 写真15・水車小屋
写真拡大

 公園内の水車小屋と民家。ラフォーレ琵琶湖で写真教室をやっていたころ、このあたりまでみんなと撮影に来た。懐かしいところである。





 写真16・民家
写真拡大

 民家の表戸を開けると土間があって、そのまま裏口へ抜ける構造になっている。その両方を互い違いに開けると三上山が見通せる。これも写真教室をやっているときに気がついた。おそらく公園の職員の人も知らないのではないか。冬、葉を落とした時期がベスト。葉が多い今の時期はつらい。



 写真17・残流水路1
写真拡大

 地球の森と同じ発想で、残流水路の上を遊歩道が跨ぐようになっている。奥のフェンスは新しく開通した県道の歩道につけられたもの。公園の敷地も、県道の車道もほぼおなじレベルで、歩道だけが高い。右岸の堤防跡を利用したものかとも思うが考えすぎか。同じ場所から上流側(写真17A)を見たところ。同じく下流側(写真17A)


 写真18・残流水路2
写真拡大

 70mほど下流側に写真17Bで見えるあずま屋付きの橋がある。その上から見た下流側。ここらあたりまで来ると水路の幅も結構広くなる。突き当たりにラフォーレ琵琶湖の一部が見える。





 GoogleMap


 写真19・三上山
写真拡大

 左岸側へ戻った広場。三上山が見える。ここも写真教室で何度か来た。そのとき三上山は見えた記憶がない。多分県道の工事で木が切られたのだろう。






 写真20・トイレ
写真拡大

 公園のトイレ。何とも立派なものである。後にラフォーレの建物を持ってきても遜色なし。さーて、一日何人が使うのか。と思って振り向いたら、カラスの天国






 写真21・長橋
写真拡大

 トイレの横から水路の上に長い橋が続く。普通、橋といえば川や水路を横断するものだが、これは流れに沿って続く。地図で測ってみたら90mほど。
 欄干にべたっと張り紙がある。近寄ってみると、「このあたりで魚を釣らないでください」。魚を釣る釣らないよりも、私としてはこういうところにべたっとビラを貼る神経のほうが気になる。




 写真22・長橋から残流水路を見る
写真拡大

 長橋の途中から上流側を見たところ。橋のあたりには水草が繁茂して見苦しいが、確かに魚はいる。でもこんなところで魚を釣る御仁がいるのだろうか。





 写真23・三上山
写真拡大

 公園も終わりに近いあたり。三上山が見える。これも県道工事の副産物。以前、公園内から三上山が見えたのは、例の観光民家からだけだった。県道の柵がなければ、撮りようによっては使えるのだが。





5.湖岸道路   GoogleMap


 写真24・湖岸道路近く
写真拡大

 ラフォーレ琵琶湖の東側の道路へ出る。突き当たりが湖岸道路である。その向こうがなぎさ公園水泳場。
 右側が美崎公園の駐車場。何回か来ているので、何の疑いもなくクルマを入れようとしたら、「小型車600円」の表示。おっちゃんが窓から顔を出す。「ここ有料ですか?」。失礼にならんようにていねいに聞きました。にっこり笑って「ウン」。「いつから?」。「いつもは無料だけど7月と8月だけは有料・・・」。「はよいえ、それを・・・」とはいわなかったが、「たかだか1時間足らずの撮影で、家計に響きますので・・・」とうやうやしく、敬遠させていただいた。すみません、貧乏根性が身に染みついておりまして。
 クルマを返してよく見たら、歩道のわかりにくいところに、「この駐車場は、7月8月のみ・・・」。もうエエ、勝手にせい。駐車料金の上がりより人件費の方が高かろうに。



 写真25・湖岸道路
写真拡大

 湖岸道路。クルマがたまっているところが新しくできた県道三差路の信号。2012年8月28日、開通約3時間後の撮影である。






  写真26・なぎさ公園
写真拡大

 湖岸道路を越えて湖岸へ出たところ。なぎさ公園の松林。8月も終わりに近く、浜辺は閑散と。







右 岸 へ 目 次 へ