野洲川物語

南北両流跡探訪

北流跡・6B 
旧川尻橋から河口まで・右岸


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初稿UP:2012.01.16

写真撮影はすべて2011年12月
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写真35・旧川尻橋右岸畔

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 さて、右岸である。出発点は旧川尻橋跡といきたいところだが、難儀なことにそれがはっきりしない。「川尻」の表記は地図から消えているし、現地でも「ここは吉川」との表記がある。じゃ吉川かというと、それはもう1つ上流の旧吉川橋周辺ということになる。口でいうとしたら、ドリームファームと吉川緑地の間の道と旧右岸との交差点ということになるのだろう。とにかく地図を見てもらうしか手はない。参考のため当時の航空写真を。
 上の写真は、「4.旧吉川橋から旧川尻橋まで」で使ったものだが、前方、郵便屋さんのバイクがが走っているところが出発点である。その奥の斜面が旧北流右岸堤防への上り口。ここから河口まで現役のころのままとはいいにくいだろうが、とにかく右岸堤防が残っている。
 あと、もう1枚。右岸堤防跡を内側から見たところである。写っている小さな川は旧北流跡をトレースして流れてきた川で、ここでは吉川緑地へ流れ込んでいくところである。地図にもこの川が表記されている。



写真36・右岸堤防跡

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 旧堤防の外側を旧川尻集落側から見たところである。これが旧堤防そのままかどうかは何ともいえない。多分残すに当たってそれなりの手は加えられているだろう。少なくとも斜面の緑は新しく手入れされたものであろう。




写真37・堤防に上がる

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 堤防に上がって下流側を見たところである。左へ下っていく道は吉川緑地への進入路。奥の大きな駐車場まで車で入れる。よほどの好季節以外車はほとんど止まっていない。
 分岐点に見えるまたを広げて逆立ちしたような木は、結構遠くからも見え、上の写真35の郵便屋さんの奥にも見える。一つのランドマークである。

写真38・集落を見る

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 堤防上から民家を見たところである。大体目の高さが2階の窓の半ばあたりと判断できる。ということは身長を差し引いてだいたい民家の2階の床が堤防の高さであることが分かる。参考のため屋根越しの三上山をどうぞ。




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写真39・蛇行する

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 両側を森と藪に挟まれて、蛇行する旧堤防。藪のはずれに白いポールが立っている。何かと近づいてみると「鈴虫整体」という診療所の看板だった。
 森の向こうに雪をかぶった比良連峰が見える。いちばん高いところが蓬莱山。



写真40・鈴虫整体入口

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 鈴虫整体入口に近づく。とはいうけれど例の看板はちょっとも大きくなってはいない。上の写真39は、遠くから望遠で、この40は近くからワイドで撮っている。結果、奥の森は遠ざかり小さく見えるし、その奥の比良山に至っては注意してみないと気づかない。



写真41・吉川緑地駐車場

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 旧堤防跡の樹木が切れて緑地内が見える。見えているのは中央駐車場の奥にあるトイレとあずま屋。駐車場にいてどこかで車が走る音が聞こえたのはここだったのか。・・・と書くと駐車場で車の音が聞こえるのは当たり前じゃないかと思われるかも知れないが、そうじゃない、この駐車場はほとんど車がいないのだから車の音がするはずがない。



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写真42・小さな分岐

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 外側へ小さな分岐がある。以前来たとき、老夫婦が畑仕事をしていて、犬が出てきて坂の下でこちらに向かってほえていた。いまは軽トラが止まっているが夫婦も犬も姿は見えない。
 GoogleMapを見ると、この分岐がちゃんと表記されている。すごい。



写真43・津田山

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 上の写真を注意して見ると奥の方にビニールハウスが見える。そこに近づいて右の方を見たところである。ハウスの屋根越しに湖岸道路沿いの松林や近江八幡の津田山が見える。ハウスの高さは3mぐらいだから、堤防の高さはさして高くはない。琵琶湖に近いからそれで用が足りていたのか、それとも廃川になるとき、多少削り取ったのか。



写真44・分岐

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 写真42を見ると上のビニールハウスのさらに奥(写真では左に見える)にガードレールが小さく見える。それに近づいてみたところである。さらに近づいてみると分岐した道がさらに分岐している。何回分岐しようと勝手だが、GoogleMapではこれがしっかりと表記されている。何度もいうが、やっぱり凄い。



写真45・工事中

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 右側から小径が上がってきて、工事中の看板が立っている。近寄ってみると林が切れて、旧河川敷側が見える。左岸から見えた水路上の舞台を作っているところである。
 この項の終末で述べるが、この小径を右へとると野々宮神社というごくごく小さな社がある。桜のころはおすすめ。ただし大がかりな桜をイメージされる方には不向き。



写真46・工事中の遊歩道

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 中へ入ってみると、左岸沿いに舗装していた遊歩道がターンして上流側へもどっていくところ。新しいアスファルトが銀色に光っていた。琵琶湖側を見ると林の向こうに比良山系の稜線が見える。道路は工事中の遊歩道である。





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写真47・湖岸道路近づく

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 ビニールハウス越しに湖岸道路が近づいてくる。松の木の手前、湖岸道路をトラックが続く。堤防上から見るとビニールハウスの上を走っているように見えるから面白い。







写真48・Y字分岐A

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 道がY字形に分岐する。旧い地図を見ると河道が右へ分かれていく(後述する東支流分岐)あたりである。左へ行く堤防は、かろうじて同じ高さを保っていくが、右へ折れる道はだらだら坂を下ってすぐに平地へ下りる。その下ってからの道の曲がり具合がいい。反対側から見た曲がり具合をどうぞ。画面奥、影になっているところに建物があって、その奥にチラッと堤防が見える。その堤防がいま立っている場所(上の写真48の撮影場所)。実はこの分岐が、後に重要な意味を持ってくるのだが、このときはまだそれには気づいてはいなかった。



写真49・Y字分岐B

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 ものの100mも行かない間に同じようなY字分岐がもう一つ。今度は道としては右へ行くのがメインらしいが、きょうはとりあえず、いちばん内側の道をたどろうと決めていたから、ためらわずに左を取る。
 道はすぐに下りになる、といっても堤防のもともとの高さがたかだか2,3mという感じで、おおきな下りというイメージではない。


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写真50・対岸を見る

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 道はほとんど河川敷を行く感じで、周囲の雑草の方が背が高く、見通しはきかない。ところどころこのように対岸のヤナギの木が見えるところがあるぐらいで、めぼしいものはなし。






写真51・湖岸道路間近か

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 湖岸道路が間近に見えてくる。右のログハウスがマイアミオートキャンプ場の管理棟。木の左に細く見えるのが防災無線(だと思うのだが、こんなところで放送して誰がきくのだろう。と考えると首を傾げたくはなるが)。ついでに湖岸道路直前をもう1枚。無理に見てもらうほどのモノではありません。



写真52・湖岸道路

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 ということで、湖岸道路へ出る。左岸の出合(遠くのトラック最後尾からちょっと離れたあたり)から測って180m。旧北流はここへ来てラッパ状に広がっている。それでこの距離である。その広がる前の場所で測ってみると85m。これでは疎水能力はないわなというのが偽らざるところ。



東支流

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写真53・Y字分岐Bへ戻って

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 写真49のY字分岐Bへもどって、右の堤防上を下流へ向かう。これがどうもかつての堤防跡のようだ。・・・と書いたこのあいまいさが、このあと大きな矛盾につながるのだが、このときはまだそれに気がついていなかった。・・・高さは分岐点とほぼ同じ状態を保っていく。といっても中流のようにはっきりした堤防の様子をみせるわけではなく、平地より少し高いかなーといった程度。右、ビニールハウスの向こうに見える裸の木。湖岸道路からもよく見えるランドマークの1つである。ついでにもう1枚



写真54・本流との間の畑

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 昭和26年発行の5万分の1地形図によると、野洲川北流は河口部において、まず西へ分岐し、さらに少し下流で東へ分岐している。これは東支流の堤防上・・・というように、このときは東支流、西支流を含めて、ラッパ状(アサガオの花のように)に広がる流れをイメージしていて、歩いている堤防はそのいちばん外側だと考えていた・・・・の道路から本流との間を見たところ。いわゆる畑であって水田は見られない。手前に灌木が並び、その奥にあやめ浜の松の木が黒く見える。その間にわずかに見える白い線が湖岸道路のガードレール。奥の山はいうまでもない比良連峰。



写真55・連絡道路

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 最初歩いた道(北流本流右岸跡道路)へつながる道。堤防跡道路を縦糸だとすると、いわゆる横糸。その昔、川が流れていたとすると、流れを横切る形についている。








写真56・ランドマークが近づく

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 ランドマークの大木が近づいてくる。この木は湖岸道路からよく見える。また、この木のそばから西に広がる空き地は、野洲市所有のものとかで、2007年、ふるさと富士サミットのときに花を植えたことがある。そこの草ひきにいったときにもこの木に気がついていたが、これが旧北流の堤防沿いに立っていたとは思っても見ないことだった。もう1枚どうぞ



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写真57・湖岸道路直前

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 湖岸道路が近づいてくる。道路沿いに建つ水門が真正面に見える。この水門は、私が持ついちばん旧い地図で見ると、東支流のためのものと思われるが、どう見ても堤防(いま歩いている道)の外側にある。新しい地図で見ても堤防跡の外側に位置している。これはどう考えたらいいのか。西支流、本流、東支流を合わせたすべての流れの東端を歩いてきたのに、その外側に東支流のための水門がある。キツネにつままれた思いであった。
 ということだが、実はこの写真を撮ったときにはこの矛盾に気がついてはいなかった。これが東支流の水門だと信じ込んでいたのだから。



写真58・湖岸道路出合

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 湖岸道路に出る。一旦停止の標識があって、何の変化もないただの三差路である。この写真からは何も読みとれないが、本流の水門からは500m余り右(水の流れに向いて)へ寄った位置である。そこから見ると、下の写真のように別の水門がすぐそこに見える。



写真59・水門がすぐそこに

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 写真57で見えていた水門である。そのときは道の真正面に見えていたが、道が左へ「く」の字形に折れて、少しはずれた位置に出たことになる。
 しかし、そんな細かいことは帰ってから地図を見直して気がついたことで、そのときは北流東支流がここへ流れ出ていたものと何の疑いも持たなかった。



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写真60・跳ね橋

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 湖岸道路を渡ってオートキャンプ場の方へ出る。何や、この橋か。例のゴッホの絵によく出てくる跳ね橋、そのイミテーションである。この橋は前からそこにあることを知っていたし、琵琶湖一周カメラウオークでみんなと渡ったこともある。ここがかつての野洲川北流の北の端だったのか。





写真61・跳ね橋から水門を振り返る

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 跳ね橋から水門を見たところ。間違いなく水路は続いている。いまは水はほとんど動いていないが、かつてここに川があったということだろう。そしてその川は北流から分岐したもの(東支流)であろう。そのときは100%そう信じたし、地図を見て、それには若干矛盾があることに気がついたいまも、やっぱり廃川後何らかの事情で水の流れが付け替えられたのだろうと考えたほうが納得がいく、そんな思いである。



写真62・跳ね橋から琵琶湖側を見る

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 琵琶湖側、といってもたかだか数mだけれども、そのときは水はとぎれていた。上流から水が流れてきて水位が上がったときだけ琵琶湖へ流れ出るのだろう。跳ね橋の影が写っている。






写真63・比良連峰

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 湖岸の松林を抜けると、雪をかぶった比良連峰が美しかった。

 実はこの原稿を書き出すまでは、南北両流跡探訪・北流編はこれで終了する予定だった。北流東支流水門の位置の矛盾に全く気がついていなかったのである。しかし、気がついてしまうとどうも後味が悪い。それともう一つ地図を見ると東支流のさらに少し東に野々宮神社というのがある。川の近くということで何かありはしないかと気になっていた。そこらを確認のためもう一度視点を絞って出直すことにした。



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写真64・野々宮神社

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 野々宮神社は小さな神社だった。初めての道だったが、付近の全体像が分かっていたからすぐに見つけだすことが出来た。鳥居をくぐるのに頭を下げてくぐりたくようなかわいさだった。社の回りの桜の木は力強く、春には立派な花が咲きそうな気配だった。
 その後湖岸道路へ出て、例の東支流跡水門に寄ってみた。



写真65・東支流

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 東支流跡水門から例のランドマークの大木と東支流跡?を見たところである。下流から上流を見ているわけで、堤防の外側を流れていることになる。矛盾を再確認した思いだった。どこか堤防の下が暗渠になっていないか、未練たらしくそのあたりを歩き回ったが、結果は同じだった。



写真66・吉川緑地地図

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 結局何の収穫もなく、帰りに吉川緑地へ寄ってみた。何気なく表示されている地図を眺めた。前項「吉川緑地」でその右の公園部分だけを紹介した地図である。そのときはその部分しか関心がなかったからである。いまは湖岸までの全体が対象である。「?」、湖岸までの途中に、右側への分岐が明示されている。



写真67・東支流右岸道路

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 しっかり地図を見直すと、Y字分岐が2つある。最初のY字分岐Aのところで、さらに右に折れる道がある。いま野々宮神社からの帰りにそのあたりを歩いてきたところである。そういえばそういう道があった。それが左の写真である。この写真で、建物の奥の堤防へ上る手前で左へ道が続いている。堤防から下ってきたとしたら右へ分かれる形になる。地図の通りだ。ここが東支流右岸跡だったわけだ。分岐A分岐Bの間が東支流の流路だったわけだ。両者の間は廃川後つながれたのだろう。これがが連続した堤防でつながれていたのでだまされていたわけだ。  



写真68・東支流整理

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 今回歩いたのは、分岐Bから湖岸道路までである。すなわち東支流の左岸を歩いたわけだが、それを漫然とした河口付近のいちばん外側を歩いていると考えていたためにその外側に東支流がある矛盾が生じたことになる。実際には分岐Aで右に分かれる道が東支流の右岸としてあったわけだ。分岐Aと分岐Bとの間の堤防がなく、さらに東支流右岸が湖岸道路までつながっておれば何の矛盾も生じなかったのだが、それが見抜けなかった。最後の最後で面白い体験だった。
 なお、地図で見るように、現在は本流と東支流とは完全に分離されており、例の水門には湖岸道路沿いの田畑からの水路がつながっている。



西支流

 東支流がこうしてけりがついた。本流にも東支流にもそれに相当する水門があった。とすれば西支流はどうなのか。西支流は吉川緑地のなかばあたり、本流左岸道路が枡形に屈曲しているところ(地図の赤い矢印のところ)から西へ分岐していた流れである。しかし分岐後琵琶湖岸に達するまでのルートは幾何学的に整備された道路・水路によって完全に消えてしまっている。そんな状態だから、これはかつての地図で見るしか仕方がないものと思いこんでいた。
 しかし、その途中はともかくとして、琵琶湖へ流出するところでは、何らかの痕跡が残っているのではないか。ほとんど姿をとどめなかった東支流も湖岸にはそれに対応する水門が設けられていたことから、西支流にも何か形になるもので残っているのではないか、そんな気がしてきた。
 現在そのあたりは吉川浄水場が大きな面積を占めている。地図で見るとかつての西支流は浄水場の少し南で琵琶湖へ注いでいた。とにかくそのあたりへ行くことにした。



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写真69・堤脚水路

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 左の柵内が吉川浄水場。右が湖岸道路である。決して初めてではない。車では嫌というほど走っているし、実際に歩いたこともある。しかしこれは初めて見る風景だった。浄水場と湖岸道路の間に水路がある。あとで分かるが、この水路のことを「堤脚水路」といって、堤防の陸地側にそって造られる水路を意味するそうだ。それはそうだろう。いままで各河川で自由に琵琶湖へ注いでいたのが、万里の長城によって遮断されたのである。当然その処理はなされなければならない。道路から見た堤脚水路と浄水場



写真70・ビオトープ

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 少し行くと水路の幅が広がり、自然の岸辺をもつたまり場が広がる。左の写真は吉川浄水場の入口の前から、本流の方を向いて撮ったものである。ここに説明板があって、「吉川堤脚水路ビオトープ」とあり、・・・・堤脚水路の一部を自然化を目的に改築、ビオトープとし継続的な調査・研究を行っています・・・とある。
 これが即、北流西支流のものだとはいえないが、要するにそれを含めた近くの水路の処理をここで行っているのだろう。もう1枚どうぞ




写真71・吉川第4樋門

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 ビオトープから湖岸道路を挟んで建つ吉川第4樋門。われわれ素人には水門の方が言葉としては使いやすいが、現地の銘板には「樋門」とある。第4樋門をもう1枚。画面右へ曲がると浄水場入口である。




写真72・第3樋門

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 第4樋門から道路沿い200m弱のところに第3樋門がある。かつての西支流の河口にこだわれば、こちらの方が近いが、これだけ大きく変化してしまえば、元の位置にこだわることは無理な話。まあ要するにこのあたりに西支流の残留水路があるはずだというぐらいが関の山だろう。その気になって見なければ見えないものが見えた。それだけで結構楽しいことだった。





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