"

野洲川物語

南北両流跡探訪

北流跡・4B 
旧吉川橋跡から旧川尻橋跡まで・右岸


左 岸 へ
初稿UP:2011.11.24
目 次 へ



6.旧吉川橋跡付近・右岸   GoogleMap


 写真28・旧吉川橋跡   撮影:2011年10月
写真拡大

 国道477号・堤交差点。左へゆるくカーブしていくのが、旧吉川橋跡。もちろん旧橋は細く直線、細かくいうと、あと10mほど下流に架かっていたようである。左の車が旧中主町六条交差点からやって来て、旧吉川橋跡にさにしかかろうとするところ。
 右に分かれるのが、旧北流右岸堤防跡道路、これから歩こうとする道路である。


 写真29・堤交差点から右岸堤防跡道路を見る  撮影:2011年10月
写真拡大

 何故か分からないが、ここに北流堤防跡と思われる地形が残っている。画面奥、竹薮が残っている所である。交差点から道はすぐ登りになり堤防跡に向かう。完全に登り切る前、白い車が走っているあたりで右へカーブして、下りになる。近似写真をもう1枚



 写真30・三上山を望む  撮影:2011年10月
写真拡大

 上の写真で少し見えている道路右の空き地(車が止まっているところ)。そこから三上山が見える。堤防跡に上った分、当然ながら視点が高くなる。三上山までの直線距離8.5Km。遠景、右に見える一番高い山が石部の阿星山。




 GoogleMap


 写真31・右岸堤防跡へ  撮影:2011年10月
写真拡大

 道はすぐに下りになり堤防跡から離れる。まばらな民家の間をぬけて少し進む。T字路があってそこを左折。北流跡を横断して矢放神社に向かう道である。写真を拡大すると神社前交差点(写真11)の点滅信号が見える。レンズが長いので近く見えるが、その間の距離300mほどある。



 写真32・右岸堤防跡  撮影:2011年10月
写真拡大

 北流右岸堤防跡。写真は上流側(477号堤交差点側)を向いたところ。影になってわかりにくいが、右に桜並木があり生け垣が続き歩道の縁石もある。どうみてもこのまま堤交差点までつなぐところを、ここまでやって、「やーめた」という感じである。先ほどの堤防跡の妙な残り方と原因を一にするようである。



 写真33・右岸堤防跡  撮影:2011年10月
写真拡大

 上と同じ場所から、反対側(下流側・旧川尻橋側)を向いたところ。同じような桜並木、生け垣が続き、道路も舗装されている。しかし、交通網的には意味がないのか、車が走っているのは見たことがない。不思議な道路である。
 道路の左側、桜並木の外側が旧北流跡地。ビニールハウスが見える。右側も家庭菜園などがあり、一見跡地に見えるがそうではないようである。



 GoogleMap


 写真34・道路右側の風景  撮影:2011年10月
写真拡大

 道路右側(旧堤防の外側)の風景である。家庭菜園風の畑がある以外はのんびりとした空き地。左岸から見えていた工場風建物が目立つ。一見、こちら側も北流跡地に見えるがところどころに建設省という旧い標柱が立っており、やはり一線を画していることが分かる。



 写真35・北流跡地  撮影:2011年10月
写真拡大

 生け垣の向こうの北流跡地を見たところ。綺麗な野菜が植えられている。一見農地のように見えるが、これはごく一部。ほとんどがセイタカアワダチソウが主役で放置されているという感じである。
 車が走っているのが左岸堤防跡道路。向こうのの集落は吉川。



 写真36・木立  撮影:2011年10月
写真拡大

 堤防跡道路の外側。暖かい日だまりの中で、木立に囲まれた家屋。懐かしい風景だった。里道が堤防道路と十字につながっており、それを入ると下堤集落。






 写真37・ビニールハウス  撮影:2011年10月
写真拡大

 乙窪橋から吉川橋まではビニールハウスが多く見られたが、吉川橋を過ぎるとそれも見られなくなっていた。それがここへきて復活したような風景だった。
  バックは比良山系北部。左のいちばん高い山が蓬莱山。




7.再び旧川尻橋跡のこと  GoogleMap


 写真38・北流右岸やーめた道路の終点  撮影:2011年10月
写真拡大

 「北流右岸やーめた道路」、私が勝手につけた名前である。正式名称は知らない。写真32でも触れたが、いま歩いてきたこの道路、最初はかなり高規格の道路として着手されたと思われる。歩道などは15mおきぐらいにあやめの陶板が埋め込まれていたり、歩道の片側に生け垣が続いたり、ハンパなものじゃない。それがまさに中途半端に放置されている。その「やーめた道路」もここで終わり。洒落ではない。ドリームファーム前からやって来た道路(黒い車が走っているところ)を渡った向こうは細い地道である。



 写真39・何でこんなところに  撮影:2011年10月
写真拡大

 その十字路までいって、「?、またあったぞ」、しかし、何でこんなところに。例の親柱である。いつもこいつには驚かされる。予期しないところに現れるのだから。湖岸道路・鮎家の郷から直進してきて、ドリームファーム前交差点で、旧川尻橋は左へ30度ほど振って北流を渡っていた。ところがいまいるところはその交差点から斜め右へ振ってきたところである。何でこんなところに・・・。これほんまに川尻橋のものか?。



 写真40・川尻橋親柱  撮影:2011年10月
写真拡大

 ドリームファーム前交差点でそれに出会って、100%川尻橋の親柱だと確信しているだけで、実際に確かめたわけではない。これほんまに川尻橋のものか?。柵の外へ回って名標を確かめた。たしかに「川尻橋」の名がある。それにしても、昭和31年の日本はこんなレベルだったのか。親柱がこんな妙なところにあることを後回しにして、この貧しさに驚いた。コンクリートの打ちっ放しに小さな銅製の名標がはまっているだけ。たとえば、昭和7年竣工という竹生橋の親柱などは、これに較べると何とも品格がある。



 写真41・あーァ、寝っ転がって  撮影:2011年10月
写真拡大

 反射的に反対側を見た。「?」、こんどはバカに幅が広いぞ。よーく見ると寝っ転がっている。幸いなことに名標部が上になっていた。「昭和三十一年竣工」の文字が見える。それにしても道端に転がしておくとは、もうちょっと管理のしようもあるだろうに。
  ということで、最初の驚きが消えるとだんだん腹が立ってきた。こういういい加減なところへ建てておくことについてである。
 ドリームファーム前の交差点はある意味で一理ある。少なくとも旧川尻橋の一端だったのだから。しかし、ここは全く違う。こういう紛らわしい場所へこの親柱を置いて、何の説明も付加しなかったら、知らない人が見たらここが川尻橋の跡だと思いこんでしまう。川尻橋は鮎家の郷からきてドリームファーム前で右へ振った向きに架かっていたのだと。くどいけれども写真26Aを>
 竹生橋は別にして、乙窪橋も吉川橋も親柱は多少なりとも移動して置かれている。ある意味仕方のないことであろう。本当はそれにもしっかりした説明文がほしいところだが、この川尻橋右岸に関しては、仕方ないという問題ではなしに、明らかに誤解を招く置き方である。何とかならないものか。



 写真42・旧川尻集落まで  撮影:2011年10月
写真拡大

 この十字路が旧川尻橋跡とすれば、この区間は終わったことになるのだが、何となく釈然としない。当初の予定通り旧川尻集落まで歩くことにした。といってもたかだか300mほどの距離である。道は地道になって、ゆるく左へ曲がっていく。





 写真43・旧川尻集落  撮影:2011年10月
写真拡大

 旧川尻集落が近づく。拡大してみると分かるが、斜面の手前を郵便屋さん(といったらしかられるか。日本郵便会社の職員さんが)のバイクが走っているところが、私が最初旧川尻橋跡と早合点した道路である。その奥の登りは吉川緑地・旧右岸堤防へ道である。



 写真44・つけたし1  撮影:2011年10月
写真拡大

 しからば、旧川尻橋の右岸側はどのあたりだったのか。例のドリームファーム前交差点から、最初勘違いした川尻橋跡道路までの距離は約100m。川尻橋がこの道路と平行に架かっていたと仮定すると、上の写真の郵便屋さんの位置から100mほど手前ということになる。何かそのあたりに痕跡は残っていないか、と鼻を利かせた。
 まず第1の場所。ビニールハウスがあって、その横に堤防跡に対して直角方向に小径があった。山勘もいいとこだがひょっとして。帰ってから Google Mapで確かめたら、基本的に無理だった。




 写真45・つけたし2-1  撮影:2011年10月
写真拡大

 旧川尻集落を抜けて東側(集落から見て北流と反対側)の県道へ出た。橋から続く何かがないかとうろうろしていたら、これはこれはというところに曰くありげな細い道が1本。その奥は竹薮へ。とにかくつっこんでみる。





 写真46・つけたし2-2  撮影:2011年10月
写真拡大

 と、竹薮に細い踏み跡道があって堤防側へ抜けている。何の苦もなくすぽんと堤防へ出た。出たところにはこれまた曰くありげな標柱がある
 以下私のたわごとである。
 地図04に見るように、川尻橋に取り付く道路は旧川尻集落をほぼ東西に通っていた。その道路から堤防にぶつかって、南に向かって斜めに堤防を上り、橋を渡っていった。しかしよく考えてみると東西の道路から北側の人はそれでいい。でもその道路より南の人は家から一端北へ向かわなければならない。極端な場合、橋に至るまで、長方形の3辺をたどらなければならない。年寄りならいざ知らず、若いもんは、そんな悠長なことしとれるかいと、竹薮を抜けて堤防を駆け上がって橋に出る。そんな道だったのではないか。もちろん自動車社会になる以前の話ではある。



 写真47・つけたし2-3  撮影:2011年10月
写真拡大

 たわごとの続きである。
 もちろん橋がなくなり、堤防が平坦化され、集落からそのまままっすぐな左岸への道路(私が最初川尻橋跡と早合点した道路)も出来た。もう近道は何の意味もなくなった。しかし人間の習性とは妙なもので、ふとしたときに竹薮抜けの道を使うのではないか。抜けた場所から郵便屋さんの道まで、まさに100mほどだった。
 おまえ、そりゃ松本清張の読み過ぎやで。はいごもっとも。



 写真48・つけたしのつけたし  撮影:2011年10月
写真拡大

 旧川尻集落、かつては旧川尻橋へのメインルートだった道路である。集落内から、何となく左へ振って、堤防にぶつかったところで本気で左へ曲がる。堤防をトラバースするように上っていく。かつてはそんなルートだった。いまは旧堤防跡にぶつかったところで、ハンドルを取り直しまっすぐに左岸へ。




目 次 へ 左 岸 へ