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野洲川物語

南北両流跡探訪

北流跡・4A 
旧吉川橋跡から旧川尻橋跡まで・左岸


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初稿UP:2011.11.24
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1.旧吉川橋・川尻橋のこと


 野洲川南北分岐点から旧北流に架かっていた橋をベースに、竹生橋、乙窪橋、吉川橋とたどってきた。私自身、前二者については一応の記憶もある。橋そのものの記録はなくても、周辺の風物の記録も残っている。しかし、本稿の吉川橋となるともちろん記録もないし、記憶も怪しいものになってきている。ましてや川尻橋ともなれば、その橋の存在すら知らなかった。そんな状況である。

 地図01・地理調査所5万分の1地形図 発行:1951(昭和26)年8月
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 左の地図はいまでいう国土地理院の地形図だが、発行が「地理調査所」とある。私が高校生から大学生のころにかけて山歩きをするのに使っていた京都東北部の地図がたまたま残っていた。
 切り出したのはご覧のように旧野洲川北流の末端部。吉川橋がクランク状に示されている。旧中主町六条の方から堤防に取り付いて、下流に向かって堤防を上り、そこで90度左へ折れて橋を渡る。そのカーブが窮屈だったことを何となくおぼえている。渡りきってからは地図によると小さく屈曲しながら堤防を下っていたようである。私の記憶に残っているのは、前半の橋にかかるまでで、渡りきってからの記憶は何一つ残っていない。
 この吉川橋の位置同定については、前項で述べた国道477号堤交差点にある水準点(旧くは94.2m、現在は87.9m)で確認することが出来る。

 さて、問題は川尻橋である。上述したように、この南北両流探索シリーズを始めるまで、記憶云々より先に、この橋が存在したことすら知らなかった。この橋は現在のどこに当たるのか。
 もちろんおよその見当はつく。現在このあたり野洲市吉川・北流跡地に、「ちゅーずドリームファーム」があり、道一つ隔てた下流側に吉川緑地がある。およそそのあたりといえ話はつくのだが、それでは面白くもおかしくもない。もう少し地図を見てみることにする。


 地図02・国土地理院5万分の1地形図 発行:1970(昭和45)年11月
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 左が1970年発行の地図。私が持っている5万分の1地形図の中で川尻橋が橋として表記されている最後のものである。(言い換えれば上の1951年発行と、この1970年発行の2点だけである。次の1994年発行では道路に変わっている)。
 地図としては精度が格段に上がっているのがわかる。橋の様子は20年前と大差ないといえば大差ないし、あるといえばある。特に右岸、道の様子がはっきりしなかったところが、変則的な四差路に表現されている。左岸から南の吉川集落まで細い道が延びているのは変わっていいない。
 橋以外では、たとえば小浜町の西にある内湖(真珠養殖場と表記されている)なども20年前と変わっていない。湖岸道路はまだない。




 地図03・国土地理院5万分の1地形図 発行:1994(平成6)年9月
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 1994年の発行。野洲川放水路が完成し、北流跡平坦化工事が進行中の時期である。地図01と02の間では、地図の精度は上がったが、周辺の様子はほとんど変わっていない。しかし、地図02と03との間の20年余の変化は大きい。特に湖岸道路の開通が大きい。
 地図02では水路しか記入されていなかった農地に直線道路が走り、北流の平坦化工事に伴って川尻橋も道路に変わっている。赤い矢印の道路がそれであろうと推定した。

 というのは、以前、ドリームファームの下流側にある吉川緑地を訪ねたとき、ドリームファームとの間の直線道路が気になった。流れと直角方向に車がギリギリ交換できるぐらいの幅で、一直線につながっているのである。旧左岸とはT字路で交わり、旧右岸は十字路で外には集落がある。この道は橋があった跡ではないか。直感的にそう考えた。しかし、そのときはそれで終わってしまった。今回このシリーズを始めるにあたり、このことを思い出した。
 この話はまだ続くのだが、とりあえず歩いてみることにしよう。



2.旧吉川橋付近・左岸  GoogleMap


 写真01・旧吉川橋跡左岸  2011(平成23)年10月撮影
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 旧中主町六条から国道477号を守山市に向かって走り、堤交差点を越えたところで、道はゆるく左へ曲がる。旧吉川橋跡。北流跡地を渡るところである。カーブを曲がりきる前に右へ分岐する道が北流左岸旧堤防跡の道である。
 右に見える黒い車がR477を守山市側から野洲市六条へ向かうところ。正面まっすぐ伸びる道が左岸堤防跡。道路右側が北流河川敷跡。



 写真02・吉川バス停  2011(平成23)年10月撮影
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 上の写真で、右側に見えているバス停。道路の向こうは河川敷跡、セイタカアワダチソウの天下である。奥に見える小山のようなものは実は対岸堤交差点近くにある右岸堤防の残丘で、竹薮になっているところ。



 写真03・対岸の竹薮  2011(平成23)年10月撮影
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 集落内の道路から軽トラックが堤防跡道路へ出て右折していくところ。トラックから見ると対岸の竹薮が正面に見える滅多に車も来ないから、こうして路上からのんびり写真が撮れる。(こんなこと書いたら交通安全協会からしかられるかも知れないが)



 写真04・矢放神社の森  2011(平成23)年10月撮影
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 写真03のカーブミラーあたりから矢放神社の森を見たところ。Google Map に見るようにわずかな屈曲だけれど、望遠で撮ると結構曲がっているように見える。
 旧河川敷跡の空き地には、やはりセイタカアワダチソウが多い。



 写真05  矢放神社前から見る三上山  2011(平成23)年10月撮影
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 矢放神社前の十字路から三上山を見返す。R477,堤交差点にあるファミリーマートの看板が三上山と重なって見える。ここからコンビニまで約500m弱、旧河川敷を通してみているわけだが障害物は何もない。




3.矢放神社付近  GoogleMap


   写真06・矢放神社  撮影:2011年10月
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 写真06の信号赤点滅の「止まれ」。道路を挟んで神社を見たところ。どうして真正面のこんなところに消火ホースのボックスを置くのかな。もうちょっと考えようあろうものに。






 写真07・矢放神社本殿  撮影:2011年10月
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 境内に水害記録が残っていないか確かめたがそれはなく、「大般若波羅密多経」という、首を傾げる立て札が立っていた。それによると、・・・本経は石山寺一切経の再編勧進を行った念西の経巻き残欠に、承久の変の翌年、貞応元年から三年にかけて、覚西という人が願主となって補写・補経したもので、524巻が残存している。・・・とある。
 単純な私などは、何で神社にお経が残っているのか、そちらの不思議が先に立つ。(立て札全文)



 写真08・矢放神社境内から三上山  撮影:2011年10月
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 矢放神社境内にちょっとした池があり、そこから三上山が見える。ネットの向こうに、次に述べる記念碑が建ち、その向こうに道路が走る。国道477号旧吉川橋から旧川尻橋まで、旧堤防左岸跡の道路、右旧吉川橋、左が旧川尻橋である。




 写真09・郷づくり事業碑   撮影:2011年10月
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 矢放神社池畔、ネットの外道路沿いに建つ「創意と工夫 郷づくり記念碑」。私のような気の小さいものにはビックリするようなでかいものである。
 そばに碑文があって、・・・・明治23年7月よりの野洲川堤防の護岸石積の一部と、江戸末期に愛宕・伊勢・縁の行者講中が村人の夜道を照らすために建てた常夜灯を移築し・・・とある。(碑文全文)



 写真10・常夜灯  撮影:2011年10月
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 常夜灯、道路から見て記念碑の左に建つ。「村人の夜道を照らすため・・・云々」という常夜灯だろう。せっかくのモニュメントだろうに、周囲に木が多く、その影になって不遇を囲っている。






 写真11・矢放神社前交差点  2011(平成23)年10月撮影
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 写真05の撮影場所で、矢放神社前交差点から「吉川ふるさと公園」を見たところ。黄色点滅が旧堤防跡道路。見えている横断歩道は、堤防跡道路を横断するものである。
 矢放神社が画面左外側にある。


 

 写真12・吉川ふるさと公園  撮影:2011年10月
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 吉川ふるさと公園、矢放神社から道路を挟んで反対側に位置する。ここにも碑文があって、野洲川堤防石積について・・・・当時の石積は地上1間、地下1間。矢放神社前から愛宕神社までの2丁余・・・と述べている。(碑文全文)
 この護岸工事について、資料『野洲川放水路』では、北流左岸堤防補強のため、矢放神社から下流へ約200mの間、石垣を地上2m、地下2mに築いた大護岸工事で明治26年に着工され28年に完成した。翌29年の大洪水においても村を安全に守った」とある。
 またこの碑文に・・・石積は矢放神社の前の旧堤防をイメージして作られています。・・・とあるから、この公園の外周の石積(写真11参照)がそのイメージなのかも知れない。上の記念碑にも、「護岸石積の一部」を残したような表現があり、どこかに残っていないかと探し歩いたが当時の石積はどこにも見つからなかった。



 写真13・公園内の樋門  撮影:2011年10月
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 同じく公園内の樋門。上の碑文では、この樋門について・・・・当時のオヅルの樋門を移設したものです・・・とある。オヅルの樋門なるものが何を意味するのか私には分からないが、とにかくこの近くの水路で、これが使われていたということだろう。




4.矢放神付近からドリームファームへ・左岸  GoogleMap


   写真14・北流跡地  撮影:2011年10月
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 少し行くと跡地に対して道路が一段と低くなっているところがある。いままでの例からして、道路が低くなることは珍しくはないのだが、この区間に限ってはそれがほとんど見られず、ここだけそれが目立つ。矢放神社前から愛宕神社までの2丁余という護岸石積がちょうどこのあたりではなかったか、そんな気がしてくる。それと不思議なのは、碑文にある「愛宕神社」が見つからないこと。いくら探しても分からない。



 写真15・ビニールハウス  撮影:2011年10月
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 上の写真には大規模な温室が写っているが、これはいわゆるビニールハウス。竹生からここまで随分見てきたが、この区間でもポツリポツリと見えてくる。向こうの工場風の建物は旧北流を越えた堤地区のものである。




 写真16・三上山  撮影:2011年10月
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 コスモスを前景とした三上山。国道477号堤交差点あたりを見返していることになる。現在の所、このような小さな畑の他は空き地になっており、セイタカアワダチソウの天下である。





写真17・比良山を望む  撮影:2011年10月
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 旧川尻橋近く、吉川集落がとぎれ、西側(琵琶湖側)の視界が広がる。比良山が屏風のように見える。左端が権現山。右のいちばん高いのが蓬莱山。






5.旧川尻橋跡のこと  GoogleMap


 写真18・ドリームファーム前  撮影:2011年10月
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 さてドリームファーム前の交差点へ出る。左へ行けば湖岸道路の「鮎家の郷」交差点に出る。カメラを構えているとトラクターがやってきた。ちょっと町中では見られない風景である。トラクターは鮎屋の郷の方からやって来て、北流左岸跡道路(私が歩いてきた道)へ曲がって来たことになる。交差点の向こう、車が止まっているのがドリームファーム。



 写真19・ドリームファームを越えて  撮影:2011年10月
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 私は、上で述べたように、この時点で旧川尻橋はドリームファームの下流側(交差点から見ればドリームファームの向こう側)の道路がそれに当たると考えていた。左の写真は交差点から見た左岸堤防跡道路である。ドリームファーム(右側・車が止まっているところ)の前を通過して100mほど下るとT字路に出る。左、比良山と重なって立っている電柱、2本目の所に小さく見えるカーブミラーがその場所である。



 写真20・川尻橋跡道路?  撮影:2011年10月
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 ドリームファーム(右・上流側)と吉川緑地(左・下流側)の間の道路。最初、川尻橋跡だと考えた道路(写真は左岸から右岸側を見ている)である。上で小さく見えていたカーブミラーの影が写っている。道幅は車の交差がやっと、一直線、どう見ても橋跡に見える。いままでの例で行くと、どこかに親柱が保存されているはず。しかし探したが見つからなかった。



  写真21・農場越し三上山  撮影:2011年10月
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 左岸跡道路から右に折れて、写真20の道路を進む。旧北流を横断する形(橋を渡るイメージ)である。ドリームファームの裏手へ回る。いままでの北流跡地にはなかったちょっとしっかりした農場が現れる。道に対して直角右方向(旧北流上流方向)に三上山が見える。



 写真22・右岸堤防跡へ出る  撮影:2011年10月
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 右岸堤防跡へ出る。北流は河川としての働きを終えたはずだが、跡地にはこうして水路が残る。これは竹生からずーっと続いてきたものである。放水路級の大規模河川に及ばないが、これはこれでしっかりした水路ではある。これは上流を向いてみたもので、この水路の左側が右岸堤防跡である。



 写真23・旧川尻集落  撮影:2011年10月
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 上の写真で川の上から旧川尻集落を見たところである。いま歩いてきた道がそのまま集落内につながっていく。この道を突き抜けると吉川橋付近に見えるのと同じ「ここは吉川」いう標識が立っている。国土地理院の地形図を見ると旧い版には「川尻」の地名があり、新しくなるとこれが消える。吉川に吸収されたのだろう。
 さてこの広場、旧右岸堤防跡地である。これだけの場所だから川尻橋の親柱があるはず。周辺を見回したがそれらしきものはどこにもない。下流側は吉川緑地である。緑地内にあるかも知れない。めぼしい場所を物色したがやはり見あたらない。最後は万策尽きて、写真に写っている右端の家の角に立っているそれらしきものまで気になり出す。怪しまれないようにそーっと近寄ってみたが、どうも違うようだ。人は誰もいないのだが、誰が家の中からそーっと見ているとも限らない。別に悪いことをしているわけではないのだが、何となく気が引けてそのまま引き返す。



 写真24・ん?、何やあれは   撮影:2011年10月

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 とうとう親柱も見つからなかったし、いったん帰って作戦の練り直しやな・・・。もう一度ドリームファーム前へもどって、交差点で老人ホーム「あやめの里」の前を見ると、道端の草むらに妙なコンクリートのかたまりがある。高さも幅も意味不明。しかし正体だけは明かしてやろうと近寄ってよく見ると、草の奥に「昭和三十一年・・・」。これや。
 ・・・しかし、現実には竣工年月日があるだけで、他の3面はただのコンクリート面が見えるだけ、野洲川の「や」も、川尻橋の「か」もない。ほんまにこれが親柱やろか。



 写真25・もう片方も   撮影:2011年10月
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 ということで、これが親柱だとしたら、当然もう片方もあるはず。反対側を見ると、何や、こんなとこにあったんか。工事現場らしいトタンの波板で囲われた横に、かろうじてその姿をとどめていた。もう間違いはないはずだが、確認だけはしておこう。近寄ってみると3面はただのコンクリート。波板にふさがれている面に何か表示があったはず。しかし、それを確かめることは出来ない。なんと殺生な。しかしこれが旧川尻橋の親柱であることは100%間違いはないだろう。だとすると何でこんなところにあるのか。先ほど歩いてきたドリームファームと吉川緑地の間の道は何だったのか。謎は深まるばかり。

 ドリームファームと吉川緑地の間の直線道路、確かに周囲を見渡すと不思議なことは幾つもあった。しかし最初の出合いのときにこれは橋の跡ではないかと思ったことが大きかった。なかばそう信じ込んでいた。あやめの里前にあった親柱はその信じ込みを否定するものだった。これはいったん白紙に戻して考えるしかない。



 写真26・旧川尻橋  建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」所載
 撮影:1980(昭和55)年9月

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 左は『野洲川放水路』所載の航空写真、解説文には「手前が水道橋、奥が川尻橋」だという。何や、こんな写真があったのか。そのページは今までに何度も見ていたはずだが見逃していた。その気になってみると見えてくるのだから不思議である。とはいえ無理からぬことでもある。私は川尻橋なる橋は実際に見たことはない。周辺の地形も分からない。それでいてこの写真を見抜けというのは無理だ。
 ところで、5万分の1地形図で見る限り、「橋」という形で表現されている最後の地図は上で見た地図02だ。写真と見比べるとかなりの相違点が見つかる。写真には、橋の左端からまっすぐ画面外へ延びる道が地図では細く手前に曲がってきている。それよりもなによりもまず地図では水道橋がない。もちろん、いまこの区間を歩いてみても水道橋は見あたらない。これだけ大がかりなものが、ある期間だけ存在したというのも不思議な話だが、現実はそう考えるしかない。両者を見比べる

 ?、そう考えながら、確か水道橋が表記されている地図があったことを思い出した。もう一度地形図を引っ張り出してみた。・・・ない。おかしいな。確かに見た記憶があるのに。・・・そうか、思い直して2,5000分の1の地形図を引っ張り出した。縮尺が一定の方が理解しやすいからと2,5000は除いていた。そこにあったのだ。



 地図04・国土地理院2万5千分の1地形図 発行:1981(昭和56)年2月
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 何や、一緒やんか。旧川尻集落内を野洲川に向かって走り、堤防の手前で左折。斜めに堤防に取り付いて橋の手前へ出る。右折して橋を渡り、軽く右へ振って堤防を下る。そして、手前には水道橋。
 写真撮影は1980年9月、地図発行が1981年2月、現地調査が1979年7月だという。両者はほぼ一致する。両者並べてどうぞ



 地図05・国土地理院2万5千分の1地形図 発行:2004(平成16)年2月
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 2004年発行の2万5千分の1地形図。旧川尻橋が撤去され、それに変わるものとして、旧川尻集落からストレートに旧北流を横断して左岸に至る道路が出来た。私が最初、直感的に橋の跡ではないかと考えた道路である。
 写真04と05を両者並べて見比べると、04の川尻橋西端に見える94mの水準点、これが05の老人ホーム前(ドリームファーム前)の交差点に見える。そして、そこから西に延びる道路が湖岸道路の鮎家の郷に至る。ということは、写真26で川尻橋の左端から画面左外へ消える道路は、この道路(鮎家に至る)であることが分かる。写真26と地図05を見比べる。
 そして、旧川尻橋はこの94mの水準点を起点として、真東から約30度北へ振った向き(私が最初旧川尻橋だろうと考えた道路とほぼ並行に)に架かっていたことが分かる。そしてさらに現在は、その交差点から南西側に新しい道路が出来ている。


 写真27・ドリームファーム前交差点  撮影:2011年10月
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 現在のドリームファーム前、94mの水準点がある交差点、カメラは真東を向いている。右外に老人ホーム「あやめの里」、左奥がドリームファーム。その手前、。左折して行く道が北流左岸堤防跡道路。かつて、旧川尻橋はここから左へ約30度振った向きに架かっていた。いまは新しい道路が右に(南東側へ)カーブしていく。右端に旧川尻橋の親柱がチラッと見える。左側はフェンスの向こうにあり見えない。




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