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野洲川物語

南北両流跡探訪

北流跡・3B 
旧乙窪橋跡から旧吉川橋跡まで・左岸


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初稿UP:2011.11.09
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1.旧乙窪橋付近 GoogleMap


 写真37・旧乙窪橋跡西詰  撮影:2011(平成23)年10月
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 旧乙窪橋跡西詰(新庄側)である。写っている車がこれから橋跡にさしかかろうとするところである。
 以前は向こうに見える竹薮の上あたりの高さに堤防が続き、そこに橋がかかっていた。今はその堤防も撤去され、そこに橋があった形跡は一切残ってない。私の淡い記憶によれば、堤防が撤去されてしまったあとに橋だけが残り、それが意外に高く見えた。これは記録しておかねばと写真を撮ったような気がして、アルバムを見直したが何も残っていなかった。 



 写真38・県道48号を横断  2011(平成23)年10月
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 続いて県道48号を横断する。西河原スーパーイオンの前を通って、服部町交差点を経て新庄大橋に向かう道である。乙窪橋がかかっていたころはなかった道路である。走っているワゴンは服部町交差点から西河原へ向かっている。
 左の竹薮は、よく似たものが上の写真37にも見える。かつての堤防の外側にあったもののようである。



 写真39・特殊な鉄塔  2011(平成23)年9月撮影
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 私が勝手に「エリマキトカゲ」と呼んでいる特殊な鉄塔。旧右岸堤防跡と県道48号との交差点の傍に建つ。どういう事情でこういう形になっているのかは分からないが、乙窪のランドマークとして十分な働きをしている。
 したがってこの写真は旧堤防跡地の左岸から右岸を見たところで、遠景の建物はイオン周辺のものである。



2.北流左岸跡を下るA GoogleMap


 写真40・ゆるく左へ  2011(平成23)年10月撮影
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 しばらく行くと道はゆるく左へ曲がり出す。旧北流堤防跡を歩くと跡地と跡地の外とは以外にはっきりと区別がつくのだが、このあたりはそれほどの差はなく、跡地の外も旧堤防内の畑とよく似た雰囲気が続く。ひょっとしていま歩いている道が旧堤防跡という判断そのものが間違っているのかとも思う。GoogleMapを見ると外側にもう1本それらしき道があるにはある。しかしそれをたどると服部の集落内へ入っていく。判断に迷うところである。地域の古老に野洲川の話を聞くと二重堤防という言葉がよく出てくる。それの跡かとも思ったりもする。



 写真41・跡地の畑  2011(平成23)年10月撮影
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 道路と直角方向を向いて畑を見たところ。右上の黒い自動車が走っているのが北流道路。レンズが長いので肉眼よりは近く見える。道路の向こうに同じぐらいの距離があって右岸堤防跡。その向こうが工場である。




3.服部町集落付近 GoogleMap


  写真42・服部町集落近く・1  2011(平成23)年10月撮影
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 服部町の集落を左に見て、左へ右へなんとも気持ちのよいカーブである。このあたりも道路の左右同じような雰囲気である。しかし上で述べた二重堤防の跡かと思える道は、左の集落の中へと入っていく。




 写真43・服部町集落近く・2  撮影:2011年10月
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 上の写真37・38に出てきたような竹薮。堤防の外側にあった名残かと思えるような雰囲気である。竹薮の手前に、左へ分かれる道が2本。手前の1本はすぐ目の前に少しだけ見えるが、あと1本は人が歩いているところである。手前の道を集落へ入るとお寺や神社が集まっている。




 写真44・北産土神社  撮影:2011年10月
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 北産土神社、如何にも地域の氏神さんというイメージのこぢんまりとした神社である。堤防跡から集落内へはいってすぐのところで、水害に対する安全祈願のような案内があるかと探したが、取り立ててそのような記述は見つからなかった。北産土神社をもう1枚
 地図で見ると服部集落は大きく北と南に分かれている。現在の放水路近くの南集落には南産土神社がある。



 写真45・極楽寺  撮影:2011年10月
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 北産土神社のすぐ北にあるお寺。お寺というよりはお堂というイメージだが、前に立て札があって、守山市指定文化財、「木造聖観音立像・木造阿弥陀如来立像」とある。内部は見られなかったが、これらが安置されているのだろう。




 写真46・正光寺  撮影:2011年10月
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 北産土神社から道を挟んで反対側にあるお寺。地図で見るとこれ以外にもあと2つほどお寺がある。このような狭い地域に何故という気がする。水害の恐怖が生んだ思いからだろうか。





4.北流左岸跡を下るB GoogleMap


 写真47・三上山を振り返る  撮影:2011年10月
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 写真43に写っている竹薮の横から振り返って三上山を見たところ。グランド様の広場が見える。立て札があって「避難場所/服部自治会」と、なんとも素っ気ない表示がある。
左端にビニールハウスが見える。Google Mapではこれらは工場の建物のように表示されていて、そのイメージで現場へ立つとちょっと戸惑いを感じるところである。



 写真48・ソバ畑  撮影:2011年9月
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 北流跡地のソバ畑。9月にいったときには、方々でソバの花が見事だった。車が走っているのが北流道路。道路の向こうは例によってビニールハウスである。このあたりから、道は左へ左へ(下流に向いて)と曲がり出す。




 写真49・カーブする北流道路  撮影:2011年10月
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 ビニールハウスをバックに左へカーブする北流道路。曲がり始めから終わりまで、おそらく90度は曲がっているはず。








 写真50・北流道路近づく  撮影:2011年10月
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 同時に堤防跡も左へ曲がり続ける。点々と続く並木が北流道路。これが大きく曲がりながら近づいてくる。そしてついには細い川を挟んで10mぐらいまでに近づく。





 写真51・川を挟んで  撮影:2011年10月
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 細い川を挟んで北流道路と左岸堤防跡とが接する。左、木の影に軽トラが走っているところが北流道路、画面には写っていないが、すぐ外には左岸堤防跡の道路が続いている。その間の距離10mほどである。
 不思議なもので新放水路が出来たことで旧北流は完全にその任務10終えたはず。にもかかわらず北流道路沿いには川幅2,3mの細い川が続いている。もと川があった場所にはやはり水が流れる条件が残るのだろうか。



 写真52・稲荷神社の森遠望  撮影:2011年10月
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 左への大カーブも終わりに近い。同じ場所から稲荷神社の森を遠望する。かつての北流左岸堤防が残ったものだという。手前夜間照明のライトが見えるのがサッカー場。




4.野洲川歴史公園 GoogleMap


写真53・稲荷神社の森   撮影:2011年10月
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 サッカー場の駐車場へ着く。すぐ目の前が稲荷神社の森である。見てご覧の通り、森といえるかどうか。木と木の間隔があいた疎林である。おそらく北流堤防として現役のころは密林を思わす姿だっただろう。いまはその斜面がサッカー場のスタンドの一部にもなっている。


 写真54・サッカー場  撮影:2011年10月
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 サッカー場から見た稲荷神社の森。黄色のユニフォームの選手の上に社が見える。そこから右へ続くスタンド(横断幕が並んでいるところ)が旧堤防の斜面を利用したもの。
 付近一帯は、下の地図03Bに見るように、旧野洲川北流が大きくUターンしていた場所で、北流最大の難所というべきところであった。現在はその跡地が「野洲川歴史公園」として整備され、サッカー場ビッグレイクと田園空間センターの2つの設備がある。


地図03A 野洲川歴史公園掲示板 地図03B 国土地理院25000分の1地形図
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 写真55・改修記念碑  撮影:2011年10月
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 公園内に建つ改修改修記念碑。上の地図03Aに見るように跡地のカーブに沿って3面のグランドが広がり、それらに囲まれた広場、田園空間センターの建物と対して建つ。裏面には改修工事沿革がある。



  写真56・決壊場所図  撮影:2011年10月
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 公園内の小山のテッペンが展望台になっており、明治以降の決壊場所が示されている。これによるとどう考えても真っ先に切れると思われるUターン地点が決壊していない。上の地図に示されるようにその部分が大きくプールのように川幅が広がっている。これが水流の強さを弱めたのだろうか。解説文


 写真57・グランドと三上山  撮影:2011年10月
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 公園内小山展望台から見たグランドと三上山。公園内にグランドは3面あるが、そのうちの天然芝のグランド。きれいに整備されている。その向こうに三上山が見える。グランドの向こうは服部集落。




写真58・狩上神社の森   撮影:2011年10月
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 同じ公園内小山展望台から見た狩上神社の森。この神社は右岸のすぐ外にある。地図によれば北流はこの撮影場所の後をUターンするように流れ、いま写真に写っている場所は、田圃のマークが付されている。普段は田圃、増水時には水をプールするための空間。いわば簡易ダムの働きをしていたのであろう。



 写真59・幸津川桑の木樋門  撮影:2011年10月
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 公園内にある幸津川桑の木樋門。説明板によると「野洲川北流の平地化工事が行われていた平成5年、守山市服部町地先で幸津川町の農業用水を供給していた桑の木川の樋門が発見されました。・・・」とある。現場では寝かせた状態でおかれているが、実際には建てて使われていたものらしい。説明図案内板(図や文章が混じり、大がかりなものなので適当に動かしてお読み下さい)
 洪水を防ぐため堤防は高くしなければならない。しかし普段の流れは堤防の底深くを流れている。その水を田圃へ引き出すため装置だったらしい。「先人の苦労の歴史を物語る貴重な遺産」だという。


5.野洲川歴史公園周辺 GoogleMap


 写真60・跡地境界から見る三上山   撮影:2011年10月
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 北流跡地から離れて周辺を探索する。サッカー場の駐車場から道路を挟んだ畑から見た三上山。この畑自体が北流跡地なのかどうか、素人の私には判断がつかない。はじめから堤防の外側だったようでもあるし、そうでないようでもある。いずれにしてもこの畑から外側は、いわゆる稲作を主体とした田園地帯であることは間違いない。



 写真61・埋蔵文化財センターと稲荷神社の森  撮影:2011年10月
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 畑の外は典型的な稲作地帯である。左の建物が埋蔵文化財センター。右の森が稲荷神社の森。車が止まっている畑が写真60の撮影場所、サッカー場は画面右外である。






 写真62・服部地区農地から三上山を見る   撮影:2011年10月
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 写真61の撮影場所から反対側を向いたところ。広い農地の向こうに三上山が見える。刈り取られた藁が長方形に束ねられ、等間隔で並べられていた。






 写真63・雛鶴稲荷神社   撮影:2011年10月
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 雛鶴稲荷神社。旧堤防の上に建つ。上り口はサッカー場との関係もあり幾つもあるが、正式に鳥居のあるルートはサッカー場の反対側、旧堤防でいえば、外側からということになる。
 雛鶴稲荷神社と野洲川歴史公園の案内板と地図がある。




 写真64・雛鶴稲荷神社本殿  撮影:2011年10月
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 石段の途中から見た雛鶴稲荷神社拝殿と本殿。そばまで登れば、向こう側はサッカー場である。
 『野洲川放水路』によると、「切れ所の守り神 幸津川の稲荷神社」として、・・・幸津川の稲荷神社の所は、「く」の字形に蛇行し、水衝部となっていることから、昔、再三堤防が切れた。故に白井大多左衛門なる人が、守り神として関東より稲荷明神を迎えて、この地に安置したといわれてており、いまも堤防上に、お稲荷さんを祀って水害防除を祈り続けている。・・・とある。




 写真65・稲荷大橋から見た稲荷神社の森  撮影:2011年10月
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 野洲川放水路稲荷大橋から稲荷神社の森を振り返ってみたところ。右端に拝殿と覆屋・本殿、左に続く柵の向こうがサッカー場のスタンドである。







 写真66・稲荷大橋と稲荷神社の森  撮影:2008年9月
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 稲荷大橋と稲荷神社の森を、1つ下流の幸浜大橋から見たところ。両橋間の距離約680m、稲荷神社の森はこうしてしっかり存在を主張する。りっぱなランドマークである。






 写真67・平坦化工事中  撮影:1997年1月
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 稲荷大橋と幸浜大橋のほぼ中間点あたり、放水路右岸外側に小さな墓地がある。入口に石標があって「無極山西勝寺墓地」とある。左は1997年1月26日の撮影、当時は三上山を撮るのが目的だったが、たまたま平坦化工事中の旧北流堤防の姿が写っていた。工事中の写真もう1枚



 写真68・同じ場所から現在の姿  撮影:2011年10月
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 同じく西勝寺墓地から見た現在の姿である。周囲の竹薮がなくなり、木の本数も少なくなっている。何となく面影が残ってはいるが一つ一つを同定することは不可能である。それはともかくとして、三上山と重なって見える照明灯、ネットフェンス。風景が一変してしまっている。



6.旧吉川橋まで左岸跡を下る GoogleMap


 写真69・サッカー場・旧堤防跡を下る  撮影:2011年10月
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 サッカー場の外壁に沿って旧堤防跡を平地へ下る。道は旧堤防のカーブをトレースするように、右へ右へと曲がっていく。築山の向こうにもう一つグランドが見えている。






 写真70・サッカー場を離れる  撮影:2011年10月
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 サッカー場を離れる。車が走っている道はサッカー場の駐車場を結ぶ歴史公園外周道路。この道のお役目はここまで、このあとすぐに細くなる。写真で見ると一見北流跡道路に見えるが、それはもう1本向こうを走っている。




 写真71・果樹園  撮影:2011年10月
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 旧堤防跡と北流跡道路との間に小さな果樹園がある。果物の種類を見分ける能力はないが、何本かの木が列をなし、その下で年配の男性が手入れをしていた。






 写真72・振り返れば三上山  撮影:2011年10月
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 果樹園が過ぎるとまたビニールハウス。振り返るとその向こうに三上山。左の森は一見稲荷神社の森に見えるが、これは反対側の狩上神社の森。こうしてみると神社の森もみな同じイメージだなと思う。


 写真73・ゆっくり左へ 撮影:2011年10月
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 道はゆっくり左へカーブしていく。ここらあたりまで来ると左右が広い。
 守山市川田町の野洲川斎苑前T字路から、このサッカー場あたりまでは、北流跡道路が跡地のほぼ中央を走ってきたが、ここからR477堤交差点までは右岸堤防跡沿いに走る。そのため左岸からは遠く、ほとんどその存在も感じられない。



 写真74・稲荷神社の森  撮影:2011年10月
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 野焼きの煙。その向こうに稲荷神社の森が見える。サッカー場の照明灯でそれと分かるが、独特の森の姿もそれに負けないぐらいランドマークである。野焼きが行われているのは跡地の外側、旧来の農地である。




7.旧吉川橋跡 GoogleMap


 写真75・旧吉川橋跡  撮影:2011年10月
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 いま旧吉川橋跡は国道477号となり、堤交差点でなだらかにカーブし、かつての橋の存在も意識しないまま通り過ぎてしまう。上の地図03A,03Bを比較しても分かるように、橋跡と、現在の国道とは微妙なずれがある。それを説明するのが、交差点のたもとに見えるモニュメントかと思っていたが、実はそうではなかった。


 写真76・モニュメント  撮影:2011年10月
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 旧吉川橋跡左岸下流に大きな球形のモニュメントがある。図体がでかいから車で通ってもよく目立つ。しかし何を意味するのか何も読みとれない。
 近寄ってみると球形部に「地の利は人の和」とある。もしそれだけで意味が読みとれたら天才。下のプレートの字がまた読みにくい。何とか読みとったのが「野洲川廃川敷地北流南流骨材採取平地化事業完成記念碑」。なんとまあ気が遠くなりそう。さらにもう1枚のプレートに、平地化面積172ヘクタール、骨材採取量4480千立方メートルとある。
 平坦化事業によって散らばった墓の骨などを採取したということらしいが、大変な事業だったことは分かるがもうちょっと理解しやすい表現がありそうなものよ。


 写真77・旧吉川橋親柱  撮影:2011年10月
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 モニュメントの横がちょっとした公園になっていて、そこに旧吉川橋の親柱が置かれている。それがまた何とも不親切。説明板も何もない。せめて橋の銘板でもと探してみたが、それもはずれたのかはずしたのか。はたまた盗難にあったのか。もぬけの殻。地図を見比べると、いま、橋跡と考えられる位置は、水準点などから推理すると、若干ずれているはず。せめてそういったことを集約する説明板がほしい。


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