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野洲川物語

南北両流跡探訪

北流跡・3A 
旧乙窪橋跡から旧吉川橋跡まで・右岸


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初稿UP:2011.11.09
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1.旧乙窪橋付近 GoogleMap


 写真01・旧乙窪橋  建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」所載
 撮影:1985(昭和60)年8月

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 旧乙窪橋、1985年の撮影だという。車1台が精一杯の道幅。
 中ほどに待避場がある。車の交換ではなく、人間が車を避けるためのものだろう。それも手すりを部分的に付け替えたのか、一部色が変わっている。ここで待避するのはいいとして、このフェンスに全体重をかけてもたれかかる勇気のある人はいないだろう。それにしても河川敷の樹木の多さはどうだ。森の中に橋がかかっている。工事に伴う最後の写真かとは思うが、いまから25年前はこんな状態だった。



 写真02・旧乙窪橋畔八王子灯籠  1981(昭和56)年8月6日撮影
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 上の写真より4年前、古い写真だが私の撮影である。おそらく川も橋も上のような状態だったのだろう。三上山を撮りだして5年目、当然この橋は見ているはずだし、渡ったこともあるはずだが、山にしか目が行かなかった。
 これは、乙窪橋の右岸(乙窪側、橋は野洲町乙窪と守山市新庄をつないでいた)の堤防上に立っていた八王子灯籠。灯籠は道を挟んで左右に2基立っており、写真は下流側の傍から、上流側(乙窪から新庄に向かって左側)のものを見たところである。
 灯籠の右下にハイライトが2つ並んでいるが、これが旧乙窪橋の親柱である。レンズが長いからくっついて写っているが、これらの2つの間を道路が通っていた。見て分かるとおり、橋を渡る道路が堤防より一段低い場所を通っていた。橋を架ける時点で、堤防より低い位置に架けるはずはなく、橋を架けてからさらに堤防が積み上げられたと推定される。増水すれば、橋を通行止めにし、道路に土嚢を積んで・・・という算段だったのだろう。



 写真03・上の写真の撮影位置  2011(平成23)年9月撮影
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 この写真は現在のものである。上の写真02とどことなく似ているようでもあるし、違うようでもある。こういうとき、山の形が役に立つ。三上山とその右に続く遠景の山を較べるとよく分かる。両者を拡大して見比べると山の重なりは同じはずだ。
 ということで、写真02と写真03はほぼ同じ場所からの撮影であることが分かる。ただし、何となく違うのも事実。それは何か。写真02は手前に広く緑の田圃が広がっているが、写真03にはそれが見えない。これが大きな違いである。撮影位置の高さの違いである。上の写真02の方が撮影位置が高い。平坦化された現在と、天井川の堤防上からの撮影との差が明らかである。
 30年の歳月を経て、森の様子にも変化があるはずだが、仮に変化がないとしたら、森と三上山との関係は02、03ほぼ同じはずである。02において、撮影位置が高い分、山が高い位置に見えるが、水平方向の位置関係は変わらない。前述したように、三上山とその遠景の山との関係も完全に一致している。主要部分アップ、写真02の右下に見えるビニールハウスと同じ場所に、骨格だけが残っている。30年たって同じものかどうかは疑わしいが。



 写真04・写真02,03の撮影位置・1  2011(平成23)年10月撮影
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 写真03の撮影位置から乙窪集落(森の向こうで集落は直接見えない)の方を見たところである。車の左右に八王子灯籠が小さく見える。旧乙窪橋の親柱(おちくごばしやすがわ)も移設されているが、案内板もなく、木々に囲まれて目立たず不遇を囲っている。
 この写真の撮影場所が、写真02、03の撮影場所(すなわち堤防の位置)だと推定されるから、車の奥の森は多分堤防の外に続く森だったのではないかと考えられる。




 写真05  現在の八王子灯籠(上流側)  2011(平成23)年10月撮影
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 森の中にたたずむ八王子灯籠の現在の姿。乙窪から新庄に向かって左側のもの。対をなして道路の反対側にもう1基立っている。かつて堤防上にあったものが、平坦化に伴い移設されたものである。
 この灯籠は、牛頭天王(須佐之男神・すさのうのみこと)と天照大神が安河原に誓約されたときに生まれた5男3女の八神を、あばれ野洲川の災害からの守り神として祀ったものといい、昭和20年ごろまでは、毎夜お灯明が灯され、野洲川を照らし続けていたという。 

  写真06・写真04の撮影位置・2  2011(平成23)年10月撮影
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 写真04の撮影場所で、180度反対側(新庄側)を見たところである。車が走っているのが北流道路、車の向きがかつての流れの向きである。左奥に、ランドマークのクロガネモチが見える。車の上の山は比叡山。


 
 写真07・現在の旧乙窪橋跡  撮影:2011年10月
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 現在の旧乙窪橋跡、すべて平坦化されて、当時を偲ばすものは何もない。ここは北流左岸堤防であったと推定されるところ。写っている道が旧乙窪橋が架かっていた場所(左岸・新庄側から右岸・乙窪側を見たところ)である。右が上流、左が下流。突き当たりの森の手前が右岸堤防であった。右、小屋の向こうにトラックが走る。北流跡道路である。



 地図01A・国土地理院5万分の1地形図  左・昭和45年11月30日発行(京都東北部)、右・昭和43年3月30日発行(近江八幡)
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 左の地図は放水路着工以前、野洲川がまだ南北2流に分かれていたころのものである。上で述べた乙窪橋は右半分、地名「乙窪」の左上、黒ずんでいる部分(古い地図の折り目)に見える橋である。X印が記されているように見えるが、地図にもともと表記されていたものか、私が書き込んだものか、それがそもそもX印なのかどうかすべて不明。いずれにしても乙窪と新庄を結ぶ唯一のルートであったことが分かる。
 今回のコースは、この乙窪橋から地図上部中程に見える地名「下堤」の下に見える吉川橋まで。右岸が赤矢印、左岸が青矢印である。



 地図01B・国土地理院5万分の1地形図  左・平成11年7月1日発行(京都東北部)、右・平成20年2月1日発行(近江八幡)
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 左は国道477号も表記され、ほぼ現在に近い。たとえば乙窪から新庄へは、旧乙窪橋跡以外に県道が開通し、2ルートになっている。ただし、いわゆる北流跡道路はまだ計画線表記であったり、左半分では無表記であったりし、完全に現在の様子とは言いきれない。(北流道路は国道477号堤からた県道151号野洲川斎苑前まで開通している)。
 さて、上の地図01Aの吉川橋東詰に94.2mの水準点がある。これが地図01Bでは87.9mに下がっている。三角点や水準点はむやみやたらと動かすことはないはずで、両者は多分同じ位置にあるはずだとすると、これは堤防平坦化で標高が下がったものと考えられる。この差6.3mこそが北流堤防平坦化の生きた証である。


   写真08・旧乙窪橋右岸畔  撮影:2011年10月
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 かつて右岸堤防は画面左外にあり、八王子灯籠はここから数mの高さの堤防上に建っていた。ここは北流右岸堤防の外側だったと推定されるところ。右の森を抜けると乙窪の集落である。これから進もうとする道は、軽トラ1台がちょうどの道幅、左端に写っている白マントの怪人のようなものは、積み藁か何かに白いシートが架けてあるところ。



 写真09・乙窪の公園  撮影:2011年10月
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 100mほど進むと公園にぶつかる。西河原のイオンの前を走る県道48号と北流道路との交差点に接している公園である。その中に「落ケ窪の郷を偲ぶ」というばかでかい碑が建っており、裏面には「乙窪という地名に当たって直感することは、その地名の意味する当て字である。《乙窪とはよくぞ当てたり》と思える・・」とある。(碑全文)


 写真10・県道48号に出会う  撮影:2011年10月
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 公園から出て、県道48号を渡るところ。保育園児が保母さんに連れられて歩いてくる。渡ったところで道が2本に分かれている。まっすぐ進むと子供たちが歩いてきた道につながるが、旧堤防跡道路はその左、県道と同じ高さでつながっている道である。
 「止まれ」のこの道は右に広がる団地内の道としてつけられたもので、旧堤防跡は公園造成時に吸収されてしまったのだろう。


 写真11・県道48号  撮影:2011年10月
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 渡る前に県道48号と北流道路との交差点を見たところ。信号待ちしているのが県道、横断中の黄色いトラックが北流道路である。その奥の竹薮は、旧左岸(対岸)の外にあったものだろうか。詳しいことは分からない。



2.右岸堤防跡を下るA GoogleMap


 写真12・旧堤防跡直進  撮影:2011年10月
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 一段下を通っていた道(さきほど子供たちが歩いてきた道)が右へ別れていく。堤防跡道路は直進する。右は町工場、左(北流跡)はビニールハウスという構図が続く。





 写真13・殉職者慰霊碑遠望  撮影:2011年10月
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 ビニールハウスがなくなり見通しがよくなる。左、木立の傍に車が1台止まっている。そこが次に出てくる殉職者顕彰碑が建つところ。
 歩いてみるとよく分かるが、北流跡地には田圃は一切なく、ビニールハウスか畑、さもなければ草地である。


 写真14・殉職者慰霊碑  撮影:2011年10月
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 昭和28年水害による殉職者慰霊碑である。横に「殉職碑沿革」という碑文があり、「昭和28年9月28日、来襲した台風13号による大洪水の際、旧野洲川の当地先において水防作業中、堤防決壊により殉職された辻川佐十郎・岩崎九二夫・野洲英三の三氏の遺徳を称え、追悼の意を表するために決壊地先の堤防に建立されていました。・・」とある。
 最初は北流堤防上に建てられていたものを、廃川、平坦化により当時の殉職地先である当地に公園を作り碑を移したとのことである。碑全文当水害概念図


 写真15・ゆるやかに左へ  撮影:2011年10月
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 殉職者慰霊碑を過ぎて、右が工場、左が畑地という構図が続く。道は大きな半径でゆるく左へ曲がっていく。







 写真16・左岸を見る  撮影:2011年10月
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 手前は大豆畑だろうか。遠くにビニールハウス。その手前、自動車が走っているのが北流道路。この道路までが野洲市、その向こうが守山市。したがってハウスならびにその向こうに屋根だけ見えるのが守山市服部町の集落。左の遠景が比叡山。




3.右岸堤防跡を下るB GoogleMap


写真17・右カーブ  撮影:2011年10月
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 道が右へ曲がり出す。右カーブはこのあたりで唯一。もちろん下流に向いての右カーブである。この場所を逆に上流に向かって歩くと左カーブになる。当たり前である。なんでこんなアホみたいなことを書くかといえば、実は三上山を撮りだして間なしのころ、井口のどこかから右岸堤防へ上がり、その道を乙窪まで走ったことがある。下の左がそのときの写真である。


 写真18・上流へ向いて左カーブ A:1980年ごろ  B・C 2011年10月
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 旧北流堤防上道路、といっても上の写真18Aのような地道だったが。両側を森に挟まれ、視界はゼロ。唯一見えたのがこの左カーブだった。堤防への上り口が旧中主町の井口だったこと、写真を撮ったのが上って間なしのこと、記憶はこれだけだった。それがどこだったのか。気になりながら時間がたって、堤防自体が取り壊されてしまった。今回この探索を始めるまでは、この写真については迷宮入りだと思いこんでいた。
 ひょっとして左カーブが見つかるかも知れない。注意して歩いてみた。あった。地図で調べても井口〜乙窪間で、三上山を正面においた左カーブはここしかない。写真18Bが右岸堤防跡、18Cが近くを走る北流道路、いずれもこの区間唯一の左カーブである。



 写真19・微妙な屈曲  撮影:2011年10月
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 下流に向いての右カーブを過ぎると、微妙な屈曲が現れる。別に何がどうということはないカーブだが、グーグルマップではこの細かいカーブがリアルに表現されている。こんな小さい道なのに、これは凄いなと感心する。
 心なしが比良山が近くなったように感じる。



 写真20・北流跡道路を見る  撮影:2011年10月
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 きれいに手入れされた野菜畑。その向こうが北流道路。これが近づいたり遠ざかったりする。道路とビニールハウスの間にフェンスが続く。実はフェンスの向こうに溝のような川があって、それが野洲と守山の市境になっている。その奥の集落は守山市服部町。



  写真21・井口ふれあい公園  撮影:2011年10月
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 公園が現れる。「当ふれあい公園への関係者以外の立入は固くお断りします」 との表示がある。関係者以外は入れないとしたら、公園じゃなくて「私園」やなと、ボヤキの一つもと思っても人は誰もいない。トイレを無断でお借りしました。申し訳ございません。立ちションよりはマシかと思いまして、ハイ。
 「立ちション」てどこかにマンション建つの?。アホか。



4.右岸堤防跡を下るC GoogleMap


 写真22・北流道路大カーブ  撮影:2011年10月
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 何か面白いものでもないかと、公園を一周する。堤防跡から離れると逆に北流道路が近くなる。サッカー場方面に向かって大きく左へカーブしていくところ。比良山が高くなる。
 この道路の向こうは守山市、じつはちょっとひとっ走りの所に、服部町指定避難広場がある。


 写真23・河川林跡?  撮影:2011年10月
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 右岸堤防跡にもどってさらに進む。左側にビニールハウス。右側に河川林の跡かと思える藪が見える。もちろん堤防はもっと高かったわけで、堤防撤去後に成長したものか、それとももともと堤防の外が林だったのか。



 写真24・ハウスの向こうの北流道路   撮影:2011年10月

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 写真23で突き当たりに見える場所から、ハウスの列を前にして北流道路を見たところ。ハウスが切れたところ、まん中の木の場所に車が見える。

 


 写真25・狩上神社近く   撮影:2011年10月
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 井口から堤の集落にかけて、道がぐんぐん左へ曲がり出す。左前方に狩上神社の森が見えてくる。道端のコスモスがきれいだった。実際の現場に立って集落の境の判断ほど難しいものはない。いまの場合も、井口のような気もするし、堤のような気もする。神社の森とのの関係から、堤かなというところ。


 写真26・三上山を見る  撮影:2011年10月
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 同じ場所から道に対して左後方45度ぐらいの方向に三上山が見えた。地図上でその場所を探してみると、やっぱり堤に入っていたかと考えられる。もっともどっちでもなんのとくにもならんのだけど。
 並んでいる木が北流道路の並木。Google Mapを拡大してみると、大きな工場風の建造物があるように見えるが、それがビニールハウスである。


 
 写真26A・大曲航空写真  建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」所載
 撮影:1980(昭和55)年9月 

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 上の航空写真は、新放水路が完成し旧北流の平坦化工事が始まるという時点での撮影と考えられる。いわば北流最後の姿ともいえる。「堤防下の集落は堤集落」とのコメントがついている。写っているのは井口から狩上神社に至る左大カーブ。画面上端中央に狩上神社の森が見える。しかし、北流のスケールの大きさに較べて現在ほどの存在感はない。
 地図に見るように、井口集落上空から西を向いて撮影されたものと考えられる。
  一方、確たる証拠があるわけではないが、写真の右下に見える堤防外の森は、上の写真23などの当時の姿ではないかと推測する。


5.狩上神社付近 GoogleMap


 写真27・狩上神社正面   撮影:2011年10月
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 狩上神社。左へ曲がってきた道が、一転、右へ急カーブするその曲がり角に位置する。堤集落が北流に向かって突きだした点にある。現在の跡地よりさらに低い位置にある。これが堤集落の地平である。堤防跡地は1m余り高い。これは乙窪からこっちほとんど同じ状況である。何故全体を同じレベルにしなかったのか。しなかったのか、出来なかったのか。してはいけない理由があったのか。素人の私には分からない。  


 写真28・狩上神社   撮影:2011年10月
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 狩上神社拝殿。静かな森の中にある。
 何か野洲川との関わりについて記述がないかと探してみたが、狩上神社御由緒に「狩上神社の御神輿はもと服部にあって、堤に流れ着いた・・云々」とあるだけで、直接水害に関する記述は何もなかった。


 写真29・水衝部の守り仏 本願寺の石仏群  撮影:2011年10月
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 神社裏に石仏がたくさん並んでいる。細かく勘定はしなかったが、おそらく50体はくだらないだろう。いわゆる地蔵さんとともに五輪塔もたくさんある。それに皆前掛けがかけられているのが面白かった。
 『野洲川放水路』によると、・・・「水衝部の守り仏 本願寺の石仏群」として、野洲川北流が堤地先で大きく流れの向きを変える。その水衝部に当たる所を本願寺と称し、堤防の中腹に数々の地蔵尊を刻んだ石仏がある。荒ぶる神、野洲川を鎮めるため、ひたすら神仏の加護を信じ祈ってききたところである。・・・とある。
 ことろで「水衝部」とは、余り聞かない言葉である。「すいしょうぶ」と読むのだそうだ。”川が曲がっている外側で、水の流れが強くあたる場所のこと”だとか。昔このような地蔵さんを祀って水害から逃れることを祈ったのだろう。それは分かるとして、いまこの地蔵さんが並んでいるのは、カーブの内側だ。本来の意味はカーブの外側のはずで、なぜ稲荷神社側へ持っていかなかったのか。腑に落ちないところである。



 写真30・急カーブを曲がりきって  撮影:2011年10月
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 急カーブを曲がりきった道が北へ向かう。すぐ近く一段高いところに広い駐車場がある。多分、サッカー場の予備駐車場かと思うが、普段車は止まっていない。そこから見下ろす堤防跡。道路の左側が旧河川敷、右側が集落である。
 道路が徐々に下っていくように見えるが、狩上神社裏で神社の地面より約2mほどの高さにある。急カーブのすぐ内側に集落があることが不思議だが、水に対する恐怖が外側よりはまだましということだったのか。


 写真31・北流道路が近づく  撮影:2011年10月
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 少し行くと北流道路が近づいてくる。赤い車が走っているのがそれである。乙窪からずっと旧河川敷の中央(野洲・守山市境)を走ってきたものが、ここに来て旧右岸(野洲市寄り)を走るようになるためである。





 写真32・北流道路出合・1  撮影:2011年10月
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 北流道路と出会う。走っている車は堤交差点から乙窪方面へ向かっている。すなわち旧北流を遡っていることになる。こちらは道路に沿ってさらに下る。







 写真33・北流道路出合・2  撮影:2011年10月
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 北流道路の反対側へ回って、狩上神社の森を振り返ったところ。先端だけ見える車は、乙窪方面へ向かっている。写真32の車と同じ向きである。ここから神社までの距離200mあまり。






6.旧吉川橋付近 GoogleMap


 写真34・国道477号堤交差点  撮影:2011年10月
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 国道477号堤交差点が近づいてくる。4つ並んだ右カーブの矢印、その向こう、白い車が走っているのが国道477号、旧北流吉川橋跡である。車はこのあと600mほど走って新放水路幸浜大橋(幸津川〜小浜)へ。





 写真35・旧吉川橋跡  撮影:2011年10月
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 旧吉川橋跡、赤い車が走っているのが旧吉川橋跡である。旧北流でいえば、車は左岸から右岸(守山市側から野洲市側)へ向かっている。
 さてここで、どうしても探し出さねばならないものがある。上述した高さが変わった水準点である。あたりをきょろきょろ見回していると、道端に白く丸い標識が立っているのに気がついた。田圃のふちなどでときどき見るものである。あれだな、深くも考えずに近寄ってみると、「境界を確定する基準となるもので重要なものですから、大切に保存しましょう。滋賀県」 とある。
 なんや違うのか。自分の軽率さを棚に上げて、歯切れの悪い文章に腹が立つ。保存するのは県が勝手にやればいいわけで、われわれガキどもが保存せんならんものでもなかろう。大体こんな長い文章を誰が読むか。それが証拠に、田圃の中などでときどき見たことはあるが、しげしげと読んだのは今回が初めて。書くなら、「境界確定の基準点です。大切にしてください。」やろう。



 写真36・水準点  撮影:2011年10月
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 考えてみれば、上の基準点は橋の上のような場所だった。いってみれば川の中の点で、かつての北流で守山市と野洲市との境を定めた点であろう。こちらが探しているのは水準点。右岸旧堤防上ないしは外側にあるはずだ。こうなれば旧堤防右岸と考えられる所をシラミつぶし。国道477号の交差点から上流に向かって柵の外側を見ながら進む。草が深いから斜めに見ていては見えない。上から真下を覗くように注意深く進む。と以外に簡単にそれらしきものが目にはいる。左の写真は、その周辺の草を取り除いたところである。左が細い溝を挟んでコンビニの駐車場。カメラの後が国道の交差点である。
 上から見た水準点。旧北流右岸堤防跡地から見た国道477号と水準点(フェンスの外、に小さく見える)。


 写真02A・国土地理院5万分の1地形図/昭和45年11月30日発行
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 左の地図は、昭和45年の発行だから、地図上の状況はもう少し以前のものである。少なくとも昭和40年代前半、野洲川北流は現役として存在したであろうし、それに架かる吉川橋も現役だった。その橋のたもとすぐの右岸堤防に水準点があって、その標高が94.2m。


 写真02B・国土地理院5万分の1地形図/平成6年9月1日発行
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 平成6年、放水路が完成し、旧堤防の平坦化されたと考えられる状態での水準点、78.9m。ほぼ現在と同じ状況と考えられる。上の地図02Aよりは6.3m低くなっている。これが旧堤防が存在した生きた証だろう。
 と同時に、新旧2つの水準点の位置が移動していないと仮定すると、旧吉川橋は、いまの国道477号より、10mほど上流にかかっていたと推定できる。


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