野洲川物語■南北両流跡探訪北流跡・1 近江富士大橋から竹生まで初稿UP:2011.08.30 |
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1.近江大橋付近 GoogleMap地図01・国土地理院1/50000地形図(平成6年9月1日発行) 左は中山道野洲川橋(上流)から川田大橋(下流)までの現在の様子である。南北両流に分かれていたのを1本の放水路に付け替える。今回の改修工事でいちばん大きな変化があった場所である。 上述したように、この橋は放水路工事が終わってからかけられており、工事そのものとは直接関係はない。県道2号となっており、守山・草津に向かう西行きは、橋を越えた八代交差点の混雑で渋滞することが多い。 上の地図01で近江富士大橋から下流(川の流れは地図で下から上向き)で堤防上の道路が二重になっているところである。通行止めのゲートがあるのが放水路堤防上の道路。拡大してみると右端にもう1本道路が見える。上流側から県道2号をくぐってきた堤防保守用の道路だが、このあたりがかつての北流堤防の位置だったろうと推測される。もちろんかつての北流の堤防が現在の堤防より低いことはあり得ないわけで、ここが北流堤防があったあたりというだけで、この道がすなわち北流の堤防であったということではない。 放水路堤防上から、旧北流堤防跡あたり(黒く見える森)を見たところ。多少の距離があり、堤防保守の作業場になったり、枯れ草置き場になったりしている。森そのものが北流の堤防ではなく、工事終了後に再び復活したものだろうと考えられる。あくまで素人の推定ではあるが。 放水路堤防から少し距離を置いた北流堤防跡が再び放水路に近づいてくる。遠くてわかりにくいが、堤防跡地らしき森が近づく様子が見える。下の写真05は野洲市市三宅上空から見た放水路工事現場であるが、画面左下からでてきた森が、いったんとぎれているところがある。森と道路が近づくのはそのあたりだろうと推測される。 2.市三宅付近 GoogleMap(左)写真05・野洲市市三宅上空から見た南北両流分岐点付近。撮影:昭和54年4月・建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」より(右)同エリアの地形図・国土地理院1/25000地形図「野洲」昭和53年2月28日発行他
左の航空写真は琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」に収録されているもので、市三宅上空付近から新放水路を見たところ、昭和54年4月撮影とある。新放水路がほぼ形をなすと同時に、野洲市市三宅から守山市川田町にかけて南北両流の旧堤防の姿が残っているという興味深いタイミングでる。 (左)工事開始前(昭和43年3月30日発行)/(中)工事終了後(平成9年11月1日発行)/ (右)両者を重ね合わせたもの
左・上の遠近法で変形したものとほぼ同じ範囲を正常表示したものである。工事前の状況にほぼ一致していると考えられる。 市三宅集落を抜けて旧北流堤防跡に上りついたところ。旧堤防へは出入り自由だが、放水路の堤防へは通行止めのゲートがあって自動車は入れない。左、電柱の向こうに見えるのが放水路。見えている道路は旧堤防から放水路堤防につながる道で、カメラは放水路と直角方向を向いている。 旧北流堤防上の道路である。上の写真06の位置から右を向いたところ。一応舗装はしてあったというところ。穴ぼこの道路である。両側に樹木が生い茂り陰鬱な感じがする。かつての北流堤防はこれより道幅も狭く、舗装もされておらず気楽に歩けるような雰囲気ではなかった。 旧北流堤防上から旧北流河川敷を見たところ。太陽の光は届かない。まさに昼まだ暗きというところ。ここで趣味で蝸牛を調査しているという男性にあった。いま(2011年現在)竹生で開発作業が進められ、やがてはこの森の一部も伐採されるという。その男性にいわすとこの河川敷は蝸牛の宝庫で、伐採による絶滅を避けるため、ここへ入り込んで蝸牛を採取し、安全なところへ移しているのだという。私にはまねは出来ない。 写真09・市三宅旧北流堤防跡・4 2011(平成23)年8月撮影 途中に工場があってその進入路になっているため、道はしっかりした舗装になる。堤防はそのまま左へ曲がり竹生集落に近づいていくが、道はいったん下りになって竹生口交差点に向かう。 写真10・市三宅・竹生口間の旧北流堤防 2011(平成23)年8月撮影 県道155号を北野小学校から竹生口へ向かう途中から旧北流右岸堤防を見たところである。車が走っている道路の突き当たりが竹生口交差点。堤防画面左外が市三宅集落。写真06〜09は画面外から右端までを歩いたところである。 市三宅集落の北東側に屯倉神社がある。境内に左に見るような「堤防水止め石」なるものが置かれている。2段目の「岩本家裏より名島に至る里道」の文は、地元に人でなければ意味は通じないが、要するにいざというときにはこの石を落として、里道を遮断し、水の進入を防ぐために設けられたものであろう。 3.竹生口付近 GoogleMap写真11・竹生口交差点 2011(平成23)年8月撮影 竹生口交差点。画面左下から右上へ向かう道路、これが先ほどの県道155号。このあと旧中主町中心部へ向かう。正面、車が進入してくるのが、竹生の堤防跡道路から下りてきたところ。いちばん左の車はそれらと反対に堤防上へ向かう。左端、信号柱のさらに左から堤防に取り付く柵が見える。これが歩道である。竹生集落から北野小学校へ通う子供たちはここを通る。一見すると、なんだこんな高さかと思われるふしなきにしもあらずだが、実はこれ、堤防の中段までというところである。 先ほどの歩道を少し行くと、右側を走る車道の高さまで下って、もう一度上り直す場所へでる。旧河川敷に開発が進められている住宅地への進入路にもなっており、このあと変化必至のところである。 写真12の階段を上りきったところ。旧堤防上の道である。左端にちらっと見えているのが人間様の道、幅1mあまりの道である。赤い車が走っているのが、竹生口交差点から堤防上へ上ってきたところ。このあたりの車道はセパレートになっていて、黒い車が竹生口交差点への下り。右端を見ると、道路と同じ高さの2階建て家屋が見える。 旧堤防上の道である。セパレートになっていた道路が対向道路になるあたり。旧堤防の最高点を走る。電柱の写りかたを見れば、カメラは水平方向を向いている(お辞儀もしていないし、仰向きにもなっていない)ことがわかる。だいたい普通の2階建て家屋の屋根ぐらいの高さである。2本組み電柱の下に、茶色の家が見えるが、これは他の家とは構造が違って若干高く作られている。それ以外の家の屋根はほぼこの道路と同じ高さである。天井川の意味がよく分かる。逆に下の住宅地からこの場所を見たものをどうぞ。2階建ての家屋と走っている車を比較するとよく分かる。 左は現在の放水路と、旧南流との高さの関係を示したものである。右に北流も明示されているが、高さに関しては略同一だから割愛した。何も説明はいらない。如何に天井川が高所を流れていたか、一目見れば分かる。 4.旧竹生橋付近 GoogleMap写真15・旧竹生橋跡・1 2011(平成23)年8月撮影旧堤防上の道を少し進むと、90度左へ分かれる┫字路に出会う。旧竹生橋があった場所で、現在は竹生集落への進入路になっている。この道は目で見る限り水平である。ということは竹生集落全体が旧堤防と同じ高さだということである。それはそうだろう、南北両流に挟まれた場所である。天井より高い堤防に挟まれた谷底で生活しようという人はいないだろう。 写真16・旧竹生橋跡・2 2011(平成23)年8月撮影 ほぼ同じ場所から見たところ。ここから集落までの間を北流が流れていた。この全面を流れていたわけではなく、上の航空写真で見る限りでは、集落沿いを流れていたようである。いずれにしてもここから集落までの間を北流が左から右へ流れていた。左のガードレールは上の進入路のものである。 写真17・旧北流 1980(昭和55)年1月撮影、『近江富士百景』所載 かつての北流の姿である。撮影が1980年1月というから、上の航空写真と半年ほどしか違わない。工事の進捗状況から見ればほぼ同じ時期といえるだろう。上の写真05では狭い川幅いっぱいに水をたたえる北流の様子がよく分かる。左の写真17も満々と水をたたえている。 写真18・旧北流跡・1 2011(平成23)年8月撮影 レンズの長さが違うの、写真のイメージがずいぶん違うが、上の写真17とほぼ同じ場所からの撮影である。北流に水が流れなくなって、河床が整備され農地になった。いまはビニールハウスが建ち並び、遠望がきかない。わずかに集落に近い方から、道路の奥に三上山が見えるだけである。同所から2002年撮影版。 写真19・旧北流跡・2 2011(平成23)年8月撮影 同じ場所から下流方向を見たところ。上流側同様農地になっているが、ビニールハウスはないので展望はきく。遠くの山は比良山系。 その下に堤防上の県道が左へ曲がって川田大橋に向かう様子が見える。もちろん道そのものは見えないが、フウの並木が見える。黄葉のころは目立つはずである。 写真20・旧竹生橋親柱 2011(平成23)年8月撮影 集落の入口にちょっとした広場があり、旧竹生橋の親柱が記念碑として残されている。柱の上に灯籠の火袋のようなものが載っていてなかなか風格がある。近くに案内板があって、「・・旧野洲川北流に架けられた竹生橋は、昭和7(1932)年9月に私達の先輩たちが、・・・・それまでの木橋にかえて鉄筋コンクリートの近代的な橋に掛け替えられ・・・とある。説明文全文。 写真21・旧竹生橋遺構・1 2002(平成4)年8月撮影 いまから10年ほど前、橋本体が撤去された跡にそのたもとだけが残された状態。上の説明板によると”2001(平成13)年6月、橋としての役目を終わり、2003(平成15)年、生活道路として生まれ変わる”とある。写真左端の空間が北流跡である。 写真22・旧竹生橋遺構・2 2002(平成4)年8月撮影 私としてはどうしても三上山を入れたい、ということで無理に作った構図である。遺構を真横から見たもので味のない写真ではある。実はこの一連の遺構は、10年ほど前に作った『近江富士百景CD』のために撮影したもので、そのCDには、”かつての橋の数m下流に道路がつけられている。これはその道路上からの撮影”とのコメントがつけられている。 写真23・旧竹生橋遺構・3 2002(平成4)年8月撮影 以下、例によって私のこだわりである。お前の趣味なんかに付き合っておれるかとおっしゃる方は、どうか読み飛ばしていただきたい。もっともこのページ全部が私の趣味だけれども。 最後に、よくぞ残っていてくれたという1枚。デジタルで撮ったことは間違いないと思うが、プロパティも失われていて、撮影年月日も不明である。とはいえ上の3枚の直前の姿であることは間違いない。北流そのものは埋め立てられ橋の下だけが往時の姿を残しているところである。これも三上山を入れるだけの構図だったのだろう。橋を撮るのが目的ならこういう撮り方はしない。
◆追記:2015年1月。思いがけない写真が出てきた。竹生橋の全景である。上流側左岸(竹生側)から対岸を見たところ。同じく下流側から。上の写真24を含めて竹生橋の写真が2000年4月撮影として、アルバムに収められていた。ということはフィルムの撮影だったということ。2000年というのは、我が家にパソコンが入った年で、写真もフィルムからデジタルへの過渡期にあたっている。アルバムに貼ったまま見返すこともなく10数年放置されていたわけ。 |
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