0.はじめに
左はGooleMapで見る関係エリアである。当初はこの地図でおわかりのように、バルーンが密集している範囲、すなわち野洲川の甲西大橋から横田橋までの間を予定していたが、話が大きくなり鈴鹿山系にまで広がった。その結果地図で見るように水口周辺の空白部が目立つようになった。ごく僅かだが、この地域からも比良・三上が見える。これは来年冬に補充することとし、とりあえず現段階でUPすることとする。以上、ここまでの文章は2011年7月暫定UP時のものである。上のバナーからジャンプするGoogleMapも、2011年UP時のもの。
今回(2012年1月)、予定通り比良に雪が来るのを待って水口周辺からの様子を取材した。結果、分量が多くなり、横田橋以遠を別項の分離することとした。これにより、本稿専用Mapを設定した。次からどうぞ。
Google Map(横田橋まで)
写真101 南桜から 撮影:2011.02.19
三上山の写真を撮りだしたころ、比良を背にした三上山を撮りたかった。写真としては、比良山の前に三上山を立たせる、それだけである。たとえば入学式の日に、若いお父さんやお母さんが、校門をバックに我が子の写真を撮る。技術的にはそれと同じことである。しかし、それができなかった。
左・写真101は南桜の田園地帯から。写真を拡大してみると雪をかぶった比良山がしっかり見える。しかし三上山に較べて比良山は小さい。
写真101A 菩提寺山から 撮影:2012.02.29
上の写真を見てのとおり、三上山に対して比良山が小さく低く見える。もっと高いところから見ればどうなるか。
左・写真101Aは南桜の背後、菩提寺山からの撮影である。2枚の写真は比良山からの距離はほとんど同じ。101Aの撮影場所の標高が101より200mほど高いことになる。結果、比良山は三上山に対して位置は高くなるが、山の高さが高くなることはない。
写真102 南桜から 撮影:2011..02.19
左・写真102のように比良山だけを撮るとそれなりの大きさに写る。しかし、三上山を入れると比良山が小さくなってしまう。どうしたら、バックの比良山が大きく写るのか。これが分からなかった。
結論は簡単だった。山から離れた位置に立つ。それだけだった。要するに後退すればよかったのである。と、書くと反対ではないかと思われる方がいらっしゃると思う。そう、「山から離れたらより小さくなるじゃないか」と。
実は、私自身も最初はそう考えていた。野洲の市街地よりは、琵琶湖畔のほうがはるかに比良山は大きく見える。その比良山を大きく撮るのに、「琵琶湖と反対の旧甲西町へ行けばいい」ということが分からなかった。20歳で写真を始めて20年余。山へ行って写真は撮っていた。しかしそれは目の前に現れる風景を記録していただけで、意図的に2つの山を組み合わせて、その大小関係を考えることなどは思っても見ないことだった。
1.甲西橋から 写真103 雪の比良 撮影:1978.01.04 写真集『近江富士百景』に収録
とにもかくにも、何とか形がついた最初の写真である。写真101に較べて比良山が三上山に対して大きくなっている。撮影を始めて、実質的に1年ちょっとが過ぎていた。比良を大きく撮るには比良から離れる。それがやっと分かった時期だった。
これは、甲西橋からの撮影。目印は左岸にある甲西高校。ただし、同校の創立が1983年4月というから、撮影時にはまだ存在していなかった。橋は最近架け替えられて新しくなったが、それ以前は、一車線の時間差一方通行だった。橋の両側に信号があって、赤の時はじっと車が待っていた。
この写真を撮ったとき、橋はどういう状態だったか全く記憶がない。ひょっとしたら、時間差規制もなかったころかも知れない。歩道があったのかどうか。とにかく気楽な撮影ではなかったことは確かである。
写真104 甲西橋から 撮影:2011.01.03
左は甲西橋からの現在の様子である。下流に送水管用のアーチ橋が架かり、それと並行してさらにもう一本甲西大橋が架かっている。
この橋は、旧甲西町市街地から橋を渡って十二坊温泉につながる橋で、右岸に甲西北中学がある。
この写真の三上山の部分だけをアップ(写真104Aとする)して写真103の上半分と並べてみる。高圧線鉄塔が左右に2基建っている(写真104で空へ抜けている鉄塔は別のもの)。写真103と変わらないのは、山の姿とこの鉄塔だけである。写真104Aでは、鉄塔が若干低くなっている。言い換えたら比良山が高く写っているわけで、写真103に較べて写真104のカメラ位置が高いことになる。写真103はウエストレベルファインダーで三脚使用。カメラ位置は腰より若干上。写真104は欄干にひじをかけて手持ち撮影。高さは大差ないと考えられる。鉄塔が建て替えられていないとすれば、古い橋に較べて新しい橋自体の高さが高くなったのかもしれないし、ひょっとして鉄塔の立て替えがあったのかも知れない。
2.甲西大橋から 写真105 甲西大橋から 撮影:2011.02.19
写真104に写っている橋。甲西橋から600mあまり下流に架かっている。三上山に対する比良山の大きさは、写真104Aに較べて若干小さくなったかなというぐらいで、目に見えた変化はない。比良山(仮に蓬莱山とする)までの距離29.3Kmに較べて、600mはほとんど影響なしというところだろう。
甲西大橋は、上でも述べたが旧甲西町市街地から橋を渡って十二坊温泉につながる橋で、目印は右岸にある甲西北中学。右の鉄塔と重なっている建物は生田病院・デイケアーこうせい。以前坂口果樹園だったところである。当時の果樹園から見た三上山・(写真105A)。
写真106 甲西大橋から 撮影:2011.02.19
同じ甲西大橋の右岸より。写真105に写っている鉄塔の右へ出たことになり、電線で悩むことはなくなるが、川の流れからは離れてしまう。
右岸では、国道1号バイパスの工事中。上流の横田橋畔・朝国で分岐してここ正福寺を経て、この先、少し下流の菩提寺まで、そこで石部頭首工を渡るルートである。以前の野洲川右岸正福寺田園地帯(写真106A・撮影:1991.01.03)。生田病院・「デイケアーこうせい」などはまだない。
3.石部頭首工から 写真107 石部頭首工から 撮影:2007.10.10
石部頭首工堰堤から見たところ。三上山の形は写真101、南桜から見たのと同じ形をしている。どちらも三上山から見てほぼ南の方位に当たり、山の左に比良山系が見えるところも同じである。
三上山からの距離は写真101が2.5Km、こちら(石部頭首工)が3.0Km。500mほどこちらが遠い。結果、大きさの関係としては、写真101に対して比良山の大きさはほとんど変わらず、三上山が少し小さくなったことになる。
4.野洲川運動公園から 写真108 野洲川運動公園から 撮影:2011.01.03
「野洲川運動公園」という名の公園が上流から、水口、湖南、栗東と3つある。ここは湖南市の野洲川運動公園。野洲市にも同様のものがあるが、こちらは「野洲川河川公園」、ややこしい。
甲西中央橋下流の左岸河川敷に広がる公園である。湖南市総合体育館があり、ゾウの足跡化石が出土したモニュメントも建っている。
公園そのものが河川敷にあるので、橋の上から見る風景とは違って、山の高さはどうしても低くなる。それは仕方ないとして、三上山と比良山が接する高さが、僅かずつでも高くなっているのが分かる。公園が広く、下流の甲西橋あたりまでがエリアであって、撮影場所もどちらかといえば甲西橋に近い位置である。
甲西中央橋という橋は名前だけ聞くと立派な橋に聞こえるが、その橋畔に「歩行者は危険だから、他の橋へ迂回せよ」というとんでもない立て札が立っている。迂回さすのは車の方やろうと思うのだが、みなさん悪代官のいうことを守って、歩く人は誰一人いない。かく申す私めはゾウの足跡化石が発見されたという河原の写真を撮りたい一心で、危険を顧みずまん中あたりまでのこのこ出かけてみたが、渡りきる勇気はなかった。とにかく歩道がないのだから。
5.新生橋付近 写真109 新生橋から 撮影:2011.02.19
新生橋、甲西中央橋の1つ上流の橋である。甲西中央に較べるとこの橋は極楽である。広い歩道が下流側(三上山側)についていて、心配は一切なし。
ここらあたりまで来ると、三上山に対する高さが高くなったことが歴然としてくる。最初、「山から離れたらより小さくなるじゃないか」と考えられた方も、離れるほど比良山が大きくなることが納得いただけただろう。
事実は事実として分かった。しかし、山に限らずすべてのものは遠ざかれば小さくなるのと違うかと、基本に忠実にお考えの方もいらっしゃるはず。たしかに、あなたの考えは正しい。小さくなることは間違いない、問題はその小さくなり方なのです。
たとえば写真101を例に考えてみよう。撮影場所は野洲市南桜の名神下。蓬莱山からの距離24.5Km。三上山からの距離2.5Km。この新生橋の、蓬莱山からの距離31.5Km、三上山からの距離9.1Kmである。南桜を基準として、蓬莱山からの距離は31.5÷24.5=1.3倍。三上山からの距離
9.1÷2.5=3.6倍。比良山が1/1.3=0.77倍(77%)にしか小さくならないのに対して、三上山は1/3.6=0.28倍(28%)になってしまうのである。
写真110 大沙川堤防から 撮影:2011.01.03
大沙川、阿星山山麓から流れ出て湖南市吉永の集落を横切り野洲川に流入する小さな川である。その川がいわゆる天井川で旧東海道(写真110A)、JR草津線(写真110B)が川の下をトンネルで抜けている。どちらも文化財級の風格のあるもので、
旧東海道は明治17年3月竣工、県下最初の道路トンネルだとか。JR草津線隧道は明治22年(1889)竣工、煉瓦造りの堂々たるものである。
上の写真はその天井川の堤防上から撮ったもの。距離的には新生橋からと大差なく、比良山との関係もほぼ同じである。
写真111 三雲から 撮影:2009.01.07
大沙川隧道から水口へ向かって旧東海道を500mほど進むと、国道1号から分かれてきた県道4号と交差する。それだけならいいのだがご丁寧にもそれと同じ場所へJR草津線が割り込んでいる。できた順番でいえば、旧東海道、草津線、県道4号ということになるのだろうが、最初の2本、これは仕方ないとしても、最後の1本を通すとき、もう少し考えられなかったものか。ややこしいことをしたものだ。信楽からの帰りなど、ここを通るときには神経を使う。そんな場所である。
新生橋、・大沙川堤防と距離的には大差ないのだが、ここから見るとき、比良山のいちばん高く雪の多い部分と重なるため、3箇所の中ではいちばん存在感の強いところである。
写真112 三雲城址から 撮影:2011.01.03
「滋賀県のお城」というHPを見ていて、三雲に城があったことを知った。調べてみると旧東海道大沙川隧道(写真110A)のすぐ横が登り口だとか。何度か通っているはずだが、それは知らなんだ。行ってみると方々に「三雲城址」ののぼり。写真110Aの右に写っているのがそれである。
左が城址から見た三上山。手前に菩提寺山が重なって、その後から上半身を見せている。比良山はいちばん左の高いピークが蓬莱山である。菩提寺山の手前、工事中の1号バイパスの高架がが見える。
6.横田橋付近
写真113 横田橋から 撮影:2022.01.17
横田橋からの撮影。三上山からの距離10.4Km。写真111の旧東海道より右後ろへ移動したことになる。一番高く見える蓬莱山などが、右へ寄っていることが分かる。
南に烏ヶ嶽、北にTOTOの工場が建つ丘陵、この二つに挟まれた山峡を野洲川が流れる。下流側は湖南市、上流側は甲賀市である。いまの橋より500mほど上流にかつての横田の渡し跡がある。今も昔も交通の要衝であることには変わりない。
いちばん北を通る国道1号と、南を通るJR草津線との距離が310m、その間すべてが野洲川の河川敷である。私はここを「三雲・朝国狭隘部」と呼んでいる。甲賀市側の平地に立って三上山が見えるのは、この狭隘部が見通せる範囲に限られる。あとに出てくる水口町宇田などは、この狭隘部を通して見通せる位置にある。
写真114 三雲大日不動から 撮影:2011.01.03
写真111を撮った踏切からさらに1Kmほど遠く離れたところである。国道1号から県道4号へ入り、荒川の橋を渡って、カーブしながらなだらかな坂を上る。「三雲東小口」信号を越えた左側、丘の上に三雲大日不動尊の看板が見えてくる。お堂へ通じる石段の中腹からの撮影である。
写真111と較べて、バックした距離はたかだか1Kmでなのに、比良山が一気に背伸びした感じがする。これは撮影位置の高さによる。写真111の標高が146m、大日不動が173mぐらい。30m近くこちらの方が高い。山を高く写すには、少しでも高い位置に立つ。20歳代に山へ行っておぼえたことはこれだけだった。
この場所が見つかったのが1996年の秋。三上山を撮りだして20年たっていた。最初のころ、比良をバックにして・・・と考えたイメージはこれだった(写真113A・撮影:1997.02.06)とうれしかった。
そのころは、石段の上がり口、県道から4,5mほどの高さにある畑からかなり自由なアングルで撮影できた。いまもその畑はあるのだが、住宅がたてこんで電柱が増え、石段の途中から、それもぎりぎりのアングルでしか撮影できなくなった。2枚の写真で、前景が大きく違うのはそのためである。
写真115 三雲トンネル入口から 撮影:1997.03.08
大日不動を過ぎて、さらに貴生川へ向かって県道4号を進む。峠をトンネルで抜けるがその入口からこの風景が見えた。いまは木が伸びてこの風景は見えない。 撮影はいまから10数年前、トンネルが開通して間なしのころで、工事で木が切られていたのだろう。右、スギの木と重なって見えるのがびわ湖バレイスキー場の明かりである。
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