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kitaHG:野洲川源流右岸分水嶺

北周りHG・綿向山/雨乞山

初稿UP:2022.02.25

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このページは、附録:『分水嶺総集編:北周りH・綿向山/雨乞山』と略同一です。


地図N08.野洲川流域分水嶺地図
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  さて、綿向山である。標高・1110m、知名度などから、うっかりすると滋賀・三重県境上の山と勘違いをするが、ここはまだ滋賀県内である。このあと稜線は雨乞山を経て、御在所岳のわずか手前で三重県境稜線に出る。こう書くと何でもないことのように見えるが、実はオヤ?と思うことが起こっていたのである。話をいったん綿向山に戻す。
  綿向山頂付近での野洲川流域の相手は日野川であることは先ほど述べた。ところがそこから300mほど進むと、そこは愛知川の源流域なっているのである。日野川と愛知川の分水嶺は、綿向山から雨乞山のほうへ300m余り点で野洲川分水嶺と出合うのである。


写真拡大 ∴綿向山麓の接触変質地帯

  これは分水嶺とは何の関係もない話である。国土地理院の地形図を見ると必ず記載されている項目である。以前からこれを見るたびに気にはなっていた。何となく曰くのありそうななさそうな。しかし気になりながらそこまでだった。場所を確かめるところまではしなかった。漫然と何か地質関係の曰くのありそうなところで流してしまっていた。
  京都新聞に”近江文化財かるた”という連載記事があった。その”わ”の項に、「わたむきの ふもとにねむる 変質岩」として、この接触変質地帯のことが紹介されていた。

  以下、記事からの抜き書き。
  ・・・・皆さんは、滋賀県の歴史というと何を思い浮かべるでしょうか。・・・・という書き出しで、いくつかの城や遺跡を挙げたうえで、・・・・びわ湖の誕生は約400万年前。そして句に読まれている綿向山の麓に眠る変質岩の歴史は、実に2億年を越えるともいわれています。・・・・とある。そして・・・・その綿向山は、玄武岩や石灰岩、チャートなどによって形成されています。大陸からの堆積物と海からの付加物がぶつかり合い、岩盤が形成された日本列島の地質の特徴をよく表していす。・・・・
  ・・・・ところがそのあと、約1億4500万年前〜6600万年前の白亜紀と呼ばれる時代、そうした岩盤に花崗岩の元になるマグマが地中深くから上がってきました。中には硬い岩盤に阻まれ地中にとどまったマグマもあり岩石が溶けるほどの温度と圧力が加わった結果、周囲の岩盤に変化が生じました。綿向山では、石灰岩が大理石や珪灰岩に変化しベスブ石やザクロ石が生み出されました。また、粘板岩もホルンフェルスという岩石に変わりました。
  さらに、200万年前ごろから始まる造山活動の結果、これらの岩盤は標高1110mの綿向山となり、その山腹、標高430m付近において、多様な岩石・接触変性帯が露頭し、身近に観察できるようになりました。
  現在ここは、天然記念物に指定されており、岩石の採集は禁止されていますが、比較的近づきやすい場所です。緑の木々の中に浮かび上がる2億年の歴史、これも滋賀の大切な文化財です。是非、現地を訪れて体感してください。
・・・・とある。

  いまから30〜40年前、何の会合だったか忘れたが、次のような話を聞いた。

  いまから8000万年ぐらい前、中生代末期のこと。古生代に形つくられた日本列島の骨格となる陸地に激しい火山活動が起こり、花崗岩がその上にある古生代の堆積岩を押し上げたり、マグマがその隙間に貫入したりする。そのときの火山活動によって、いまの地名でいうと、彦根・沖島・近江八幡・野洲・永源寺などを結んだカルデラがあったという。
  三上山のもととなる岩塊は、このカルデラの外側にあって、静かに熱変成を受けていたのだろう。その熱変性によって、固く緻密になった岩体は、大カルデラ本体や周辺の古生層の岩石が浸食し尽くされた後に残されていく。実際に登ってみれば分かるが、登山道の所々に露出している岩は非常に硬く、近隣の山々、例えば田上山や岩根山などの花崗岩質の岩肌との違いは一目で分かる。このため、この山は他の山に比べて風化や浸食をうけにくく、いつのまにか他に抜きんでる存在となったという。
  熱変性、ホルンフェルス、接触変成岩、岩石がヤケドをするわけで、硬い岩石に変わる・・・・。素人にもわかるような話だった。綿向山という名称は出なかったようだが、なんとなく両方の話はつながるような気がする。
  そしてその場所。いま本気になってその場所を読んでみると、何と、何度も写真を撮りに行った西明寺(現場からの写真)の近く、いつも撮っていた場所から直線距離で1.1Kmである。ちょっと帰りに立ち寄ったとして、何の苦にもならないところだった。

  以上、長ながと脱線した。分水嶺に戻る。

 渋川越え

  私が勝手につけた名前である。地図には名称なし。綿向山を過ぎて300m余りで、対象は愛知川流域に変わる。そのあと約1.7Km,綿向山から直接計って、約2Kmのところにある峠である。野洲川ダムの上流から源流を遡る白倉谷川沿いの道が、峠を越えて愛知川源流の渋川沿いに下る。渋川は永源寺ダム下流の愛知川に合流する。白倉谷川・渋川ともに、源流の谷川に名称がWeb地図に明記されているのは、峠を越すことに意味があるのだろうか。





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