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唐戸川と宮野川のこと 地図003A.事前に考えたこと ことの起こりは、唐戸川に 1 本の川が合流していたということである。地図002Fに見るように、国土地理院Web地図では、その川を「宮野川」と表記していた。地図では橋の名称は分からず A 橋、B 橋、C 橋とした。 地図003B.取材後整理したこと 橋の名称が判明した。 A 橋は「唐戸川新橋」 、C 橋は「唐戸川橋」。当然、そこを流れる川は「唐戸川」ということになるのだろう。宮野川ではない。Google Map等では、Web地図でいう宮野川の源流までを唐戸川としている。宮野川という名称がなくなった以上、宮野川流域は消滅し唐戸川流域に吸収された。(川そのものがなくなったわけではない。川そのものは「唐戸川」として存在している)。”地図000.唐戸川流域地図”に示す「宮野川流域」(鈴鹿山系高畑山に届く唐戸川の南東部)は消え、緑の全面が唐戸川流域になる。 地図に見る「宮野川」の文字・もう1枚 この項の冒頭、地図000のところで、国土地理院Web地図に”宮野川”との表記があることを記した。しかし、その字が小さく見にくかったので、その部分だけを改めてアップしてしておく。中央右下の川の名前である。他に、この「宮野川」の表示が入った地図はないかと探したが、このエリアの地図はほとんど見当たらず、たった1枚、昭和45年編集、同57年修正という5万分の1地形図が出てきた。上流部・下流部あわせて、”唐戸川”とあるだけである。地形図の川の名前は斜体が使われているが、これは正体が使われている。これを見て、Web地図の不思議な正対の”唐戸川”の意味が分かってきた。どうやら、5万分の1のこの形が残っていて、それがWeb地図にビテイコツの様に残っていたらしい。 地図006.カシミール地形図に現れた”宮野川の字”あるとき深い意味もなく、カシミールで現場付近の地形図を打ちだしていたとき、出てきた図に、”宮野川”の字が出てきたのである(右の写真)。カシミールの地形打ちだしの操作は指定された5万分の1地形図で行う。その地形図は、上の5万分の1地形図と同じ形で”宮野川”の文字は入っていない。私は、この地形図がそのまま立体地形図として打ちだされるものと思い込んでいたが、打ち出し用のデータは別のものが内蔵されていたらしい。打ちだされた地形図には、Web地図と同じ”宮野川”の文字が出てきたのである。何とまあ、”宮野川”の幽霊を見た思いである。 追記:旧大原道のこと 地図004F.旧大原道推定地図 前項、「山中川」の取材中、新名神高架橋直下の”山中一里塚公園”の説明板で、旧東海道の現在でいう一里塚公園の近くから、山中を越えて、現在の唐戸川沿いに出る道(大原道)があったとの説明を読んだ。 現在だと、国道1号で蟹坂へ出て、そこから県道129号でということになるのだが、なるほど三角形の2辺と1辺との差だ。そのときに、いまに残る山道と消え去った旧道をつないで、その道の在りし日のルートを推定した。それが右の地図のP→Q→Rの赤色の破線であるが、こちらの現場へ回って考えると、赤色破線の途中から、茶色の点線経由で”R2”へ出るルートも考えられる気がしてきた。地図でのお遊びである。 F ゾーン付近 地図002C.旧宮野川沿いの道地図 ここでは”Fゾーン付近”としたが、地図の宮野川沿いの道のレポートである。 前述したように、国土地理院のWeb地図には「宮野川」とあるが、現場ではこれらの川を含めて”唐戸川”としている。しかしここでは合流点から源流までを取り扱うという意味で、「宮野川」を使用した。 写真026.P1点 川が近づいてきた。運転席からは見えない。助手席にいるヨッちゃんが川や!と叫ぶ。クルマから下りるとササの向こうに空を写した川面が見える。帰って写真を確かめて初めて気がついたんだのだが、真ん中の何本か重なっている杉の木から、1本離れて見える細い幹、その幹の左右で風景が全く違う。左は枯れ枝、右は空を映した水面。手品のような変わりようである。 写真027.構造物? 上の写真から、さして離れていない場所だった。川が広がる。画面左手に、コンクリートで固めたような構造物が見えるのだが、木が邪魔をして全容は理解できない。こんなところにあるものだから、ものは限定されるはずである。考えられるとしたら砂防ダム?。下流側から見ればはっきりするのだが、それは不可能だった。 写真028.川が上がる? 川の面が上がってきた(道に近づいてきた)。道が下がったのか、川が上がったのか。地図を見ても、その付近に等高線を何本もクロスしたというようなところもない。道はほぼ水平、川は自然な勾配というところだろうか。この写真の手前の方に、人工的な2本の直線が左右に見える。コンクリート製の構造物、U字溝のようである。帰る途中に気がついたのだが、川の水とは別の水路で、かなりの距離続いていた。近づいた川、もう1枚。 写真029.傾く大木(左) 道は、川を左に見て続いている。その川と反対側、道の右側、段差の縁に立っていた木が、大きく傾いていた。 写真030.見返す(右)傾く大木を撮った場所から上ってきた坂を見返したところ。上の写真028の手前に写っていたU字溝が道の右側に続いている。 写真031.上り坂(左) そこから少しの間、その段差分を稼ぐための上りになる。 写真032.そしてD橋へ(右)そこを登り切るとすぐD橋だった。橋のたもとに泥が溜まり、そこを越えていくことがためらわれた。出発前のプランでも、一応ここまでと考えてはいた。これ以上無理すれば何が起こるかわからんぞ。 写真033.D橋下流側 下流側。太陽が真後ろにあった。後ろの杉の木のてっぺんの影が写っている。橋の周辺は汚れてぐちゃぐちゃだが、川の水は澄んできれいだ。しかし、それが見えるのも数mの範囲。目を上げると稜線の上に小さく青空が見えた。 写真034.D橋上流側 上流側、画面左下に小さな三角形が見える。この斜辺が橋の方向である。川は橋に対して直角方向よりぐっと左前方から流れてくる。ずーっと奥(上流)に右側から小さな滝の様な流れが見える。ちょっと気になる。道から見えるかどうかわからないが、大した距離でもないし行って見ることにする。 写真035.D橋を渡って D橋を渡るとうっそうたる森である。写真にはトンネルのように写る。実際はそこまで暗くはないのだが。 写真036.養殖場? 杉林が切れて、対岸に水が流れ落ちている。先ほど見えていたやつだ。何かわからないが、かなり大がかりな魚の養殖でもやっていたのだろうか。いまは見る影もなく荒れ果てているが。流れ落ちる水を中心にアップしてみる。要するに谷間のきれいな水を使って何かをやっていたのだろう。複雑な構造が見える。残念ながら素人にはその意味が読めない。 写真037.石垣が D橋へ帰りつく。サルはこなかったらしい。ヨッちゃんはクルマの中にはいなかった。 写真038.廃屋 その石垣の高さの分を上り切ったところに廃屋が残っていた。上の地図002Cで、赤い四角に白抜きでFのマークがあるが、その右下を目を凝らして見ると、小さい赤い四角が2つ見える。その右側の建物である。上の何(養殖場?)かのあとといい、U字溝の送水路跡といい、明らかにこの谷で人が生計を立てるぐらいの仕事をしていたようである。 G ゾーン付近 写真039.林道起点 地図005.神唐戸川林道地図 帰り、県道へ出るところで、「神唐戸川林道」という標識に出合った。往路には気がつかなかったものである。幅員はともかく、全長6560mという。ああそうか。ところできょうはD橋まで行って帰ってきたわけだが、距離を測ってみると、0.95Km。地図で見ればざっと全体の3分の1ほど。とすれば、支線を含めての全長ということらしい。いずれにしてきょう見てきたところは大した距離ではなかったということだ。 写真040.何もなかった そばに急な階段があった。踊り場のところに不動明王・・・という石標が建っていた。盛り沢山でどんなところだろうと興味がわいた。手すりがついていたから大丈夫だろうと登ってみることにした。手すりがなければ、足が怪しいから、下りが怖い。 写真041.帰り道 下りで下を見たら、2本の県道が絡んで見えた。手前は唐戸川橋を渡ってきた道。その奥が唐戸川新橋から来た道。両者はすぐそこでT字につながっている。どちらを通っても国道1号蟹坂交差点へつながっている。 ◆行けなかった源流部を思う 神唐戸川林道をD橋まで走って引き返してきた。距離は上述のように0.95Km。そこまでは左岸、いいかえたら遡る場合、川を左に見て走る。D橋で右岸(下流を見て右側の岸)へ渡る。水は高いところから低いところへ流れる。この唐戸川は不思議なことに、三重県との県境と並行に流れている。当然県境(右岸)側から、何本も支流が流れこむ。林道はD橋から上流では、右岸を走る。道は何本もの支流を渡らなければならない。右岸と左岸を比べたら、流れ込む水量は圧倒的に右岸(県境側)の方が多いはず。流れ込む支流の数だけ橋が必要なはず。林道はなぜその右岸沿いにつけられたのか。そこらのところを実際に現場を見てみたかったが、あの場所を越えて源流側を走る勇気はなかった。 ◆旧い地図から(日本図誌大系 近畿Uより) 手持ちの旧い地図にこのエリアのものがないか探したが、結局、下の地図007Dしか見つからなかった。それ以前の3枚は「日本図誌大系 近畿U」からのものである。旧東海道土山宿周辺をカバーしたもので、その端の方に唐戸川がのぞいている状態だった。残念ながら、上流部分はカットされている。これが含まれていたら、”宮野川”の文字が見られたかもしれないが。本稿で関係するのは、下の地図で赤線で囲んだ部分である。 地図007A.明治25年測量、大正9年修正 測量は明治25年とあるが、この地図としては大正9年修正とある。右上の道路は旧東海道らしい。道幅が広く表現されているので、現在の国道のように感じられるが、それはまだない。道が南向きに折れた後、唐戸川沿いの道は、逆に狭く表現されている。実際がどのような道であったのかは残念ながらわからない。その道沿い、下から3分の1ぐらいのところにちょっとした集落(名称不明)があり、学校マークが見える。これは次の007Bにも見えるが、昭和45年編集の007Cでは消えている。 地図007B.昭和26年応急修正 昭和26年応急修正とある。地図A→地図Bの間には、30余年の時間差があるが、その間戦争の時代が挟まれている。地図の上では、右上部に大きな変化が見られる。国道1号が開通し、旧東海道は細い道表記となっている。日本図誌大系の解説によると、------新道(国道1号)は集落内部を避けて建設され、昭和30(1955)年には舗装工事も終わった。-----とある。本稿に関係する部分としては、唐戸川沿いの道(現在の県道129号)が、道幅が広くなったように表現されている。ルートは元のまま、集落内の学校マークも変わっていない。 地図007C.昭和45年編集 画面右上(国道1号の北東方)、国道1号の北東側に並行に走る旧東海道が消えている。これは次の007Dでも消えたまま。007Eで復活している。007Eは現在のWeb地図である。ここを実際に歩いてみると、確かに道はあるが、工場の間を抜けていて、旧街道の情緒は一切ない。旧街道が一度消滅すれば、二度と復活できない例である。 地図007D.昭和57年修正・昭和58年発行 我が家に残っていた5万分の1地形図である。モノクロームが4色刷りに変わっただけのようである。007C同様、右上隅の旧東海道は消えている。そのほかは変化なし。カラーになって、貯水池や河川は抜群に見やすくなった。 地図007E.現在のWeb地図 旧東海道の消えた部分は、復活している。山中川の取材で実際に歩いたが、工場の間を通過していた。大きく変わった点としては、新名神の高架橋があげられるが、これはあまりにも大きすぎて、いま私がやっていることとは相手が違い過ぎる。 |
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