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SZ05 唐戸川流域

SZ05B. 唐戸川を遡るB

取材:2020.12/ 2021 .03
初稿UP:2022.02.22

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唐戸川と宮野川のこと
地図003A.事前に考えたこと
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  ことの起こりは、唐戸川に 1 本の川が合流していたということである。地図002Fに見るように、国土地理院Web地図では、その川を「宮野川」と表記していた。地図では橋の名称は分からず A 橋、B 橋、C 橋とした。
  どこからが宮野川か。普通、川は分岐(川の流れでいえば合流)することで名称が変わる。この場合でいえば、 A 橋のすぐ下流、そこが合流点のはず。そこから上流が「宮野川」であろう。
  どんな川でも、それが独立した1本の川だと考える以上、その川固有の流域が存在するはず。地図000.唐戸川流域地図に示した破線で囲まれたエリアが「宮野川流域」である。
  合流点を越えて、上流側に唐戸川は続くはず、当然、B 橋は唐戸川に架かる橋である。源流から合流点までを宮野川とする以上、A 橋、C 橋は宮野川に架かる橋である。




地図003B.取材後整理したこと
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  橋の名称が判明した。 A 橋は「唐戸川新橋」 、C 橋は「唐戸川橋」。当然、そこを流れる川は「唐戸川」ということになるのだろう。宮野川ではない。Google Map等では、Web地図でいう宮野川の源流までを唐戸川としている。宮野川という名称がなくなった以上、宮野川流域は消滅し唐戸川流域に吸収された。(川そのものがなくなったわけではない。川そのものは「唐戸川」として存在している)。”地図000.唐戸川流域地図”に示す「宮野川流域」(鈴鹿山系高畑山に届く唐戸川の南東部)は消え、緑の全面が唐戸川流域になる。
  現場で見た限り、旧宮野川と唐戸川との合流点より上流(南方)の唐戸川は存在しないように見てとれる。やがて「廃川」ということになるのだろう。したがって合流点そのものの意味がなくなる。

  最後に、意味不明だった「唐戸川→」の標識。いまもきっちりしたことは分からないが、多分、”ここから上流の旧宮野川は唐戸川に変わりました。”ということを意味しているのだろう。はっきり言うのは嫌だし、そうかといって黙っていて後でつつかれるのもけったくそ悪いし、・・・・そんなXX根性が見えてくる。それならそうと、川の岸に誰が見ても意味が分かるようなものを立てればいいのに。




地図に見る「宮野川」の文字・もう1枚

  この項の冒頭、地図000のところで、国土地理院Web地図に”宮野川”との表記があることを記した。しかし、その字が小さく見にくかったので、その部分だけを改めてアップしてしておく。中央右下の川の名前である。他に、この「宮野川」の表示が入った地図はないかと探したが、このエリアの地図はほとんど見当たらず、たった1枚、昭和45年編集、同57年修正という5万分の1地形図が出てきた。上流部・下流部あわせて、”唐戸川”とあるだけである。地形図の川の名前は斜体が使われているが、これは正体が使われている。これを見て、Web地図の不思議な正対の”唐戸川”の意味が分かってきた。どうやら、5万分の1のこの形が残っていて、それがWeb地図にビテイコツの様に残っていたらしい。
  正体の”唐戸川”はなんとか意味が分かってきたが、肝心の”宮野川”は、Web地図以外にはどこにも姿を見せない。これはこれで仕方がないかとあきらめだしたとき、ひょんなところからこの”宮野川”が現れたのである。

地図006.カシミール地形図に現れた”宮野川の字”

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  あるとき深い意味もなく、カシミールで現場付近の地形図を打ちだしていたとき、出てきた図に、”宮野川”の字が出てきたのである(右の写真)。カシミールの地形打ちだしの操作は指定された5万分の1地形図で行う。その地形図は、上の5万分の1地形図と同じ形で”宮野川”の文字は入っていない。私は、この地形図がそのまま立体地形図として打ちだされるものと思い込んでいたが、打ち出し用のデータは別のものが内蔵されていたらしい。打ちだされた地形図には、Web地図と同じ”宮野川”の文字が出てきたのである。何とまあ、”宮野川”の幽霊を見た思いである。




追記:旧大原道のこと                                           地図004F.旧大原道推定地図 写真拡大

  前項、「山中川」の取材中、新名神高架橋直下の”山中一里塚公園”の説明板で、旧東海道の現在でいう一里塚公園の近くから、山中を越えて、現在の唐戸川沿いに出る道(大原道)があったとの説明を読んだ。 現在だと、国道1号で蟹坂へ出て、そこから県道129号でということになるのだが、なるほど三角形の2辺と1辺との差だ。そのときに、いまに残る山道と消え去った旧道をつないで、その道の在りし日のルートを推定した。それが右の地図のP→Q→Rの赤色の破線であるが、こちらの現場へ回って考えると、赤色破線の途中から、茶色の点線経由で”R2”へ出るルートも考えられる気がしてきた。地図でのお遊びである。




F ゾーン付近                                              地図002C.旧宮野川沿いの道地図 写真拡大

  ここでは”Fゾーン付近”としたが、地図の宮野川沿いの道のレポートである。
  右の地図002Cは上の地図002に”P1,P2,D橋、宮野川道入り口”を追加したものである。

写真025.旧宮野川沿いの道
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  前述したように、国土地理院のWeb地図には「宮野川」とあるが、現場ではこれらの川を含めて”唐戸川”としている。しかしここでは合流点から源流までを取り扱うという意味で、「宮野川」を使用した。
  左はその宮野川沿いの道であるが、入り口から入って間なしのところで、道路と川とはまだ接近していない。撮影は3月26日、いままでで一番早いといわれた桜が開花していたが、ここではまだ杉の枯れ枝が道路に散乱していた。



写真026.P1点
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  川が近づいてきた。運転席からは見えない。助手席にいるヨッちゃんが川や!と叫ぶ。クルマから下りるとササの向こうに空を写した川面が見える。帰って写真を確かめて初めて気がついたんだのだが、真ん中の何本か重なっている杉の木から、1本離れて見える細い幹、その幹の左右で風景が全く違う。左は枯れ枝、右は空を映した水面。手品のような変わりようである。





写真027.構造物?
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  上の写真から、さして離れていない場所だった。川が広がる。画面左手に、コンクリートで固めたような構造物が見えるのだが、木が邪魔をして全容は理解できない。こんなところにあるものだから、ものは限定されるはずである。考えられるとしたら砂防ダム?。下流側から見ればはっきりするのだが、それは不可能だった。







  写真028.川が上がる?
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  川の面が上がってきた(道に近づいてきた)。道が下がったのか、川が上がったのか。地図を見ても、その付近に等高線を何本もクロスしたというようなところもない。道はほぼ水平、川は自然な勾配というところだろうか。この写真の手前の方に、人工的な2本の直線が左右に見える。コンクリート製の構造物、U字溝のようである。帰る途中に気がついたのだが、川の水とは別の水路で、かなりの距離続いていた。近づいた川、もう1枚





写真拡大 写真拡大   写真029.傾く大木(左)

  道は、川を左に見て続いている。その川と反対側、道の右側、段差の縁に立っていた木が、大きく傾いていた。

  写真030.見返す(右)

  傾く大木を撮った場所から上ってきた坂を見返したところ。上の写真028の手前に写っていたU字溝が道の右側に続いている。



写真拡大 写真拡大 写真031.上り坂(左)

  そこから少しの間、その段差分を稼ぐための上りになる。

写真032.そしてD橋へ(右)

 そこを登り切るとすぐD橋だった。橋のたもとに泥が溜まり、そこを越えていくことがためらわれた。出発前のプランでも、一応ここまでと考えてはいた。これ以上無理すれば何が起こるかわからんぞ。



  写真033.D橋下流側
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 下流側。太陽が真後ろにあった。後ろの杉の木のてっぺんの影が写っている。橋の周辺は汚れてぐちゃぐちゃだが、川の水は澄んできれいだ。しかし、それが見えるのも数mの範囲。目を上げると稜線の上に小さく青空が見えた。


  写真034.D橋上流側
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 上流側、画面左下に小さな三角形が見える。この斜辺が橋の方向である。川は橋に対して直角方向よりぐっと左前方から流れてくる。ずーっと奥(上流)に右側から小さな滝の様な流れが見える。ちょっと気になる。道から見えるかどうかわからないが、大した距離でもないし行って見ることにする。
 ヨッちゃんは「ここで待ってるわ」という。「・・・でもサルが来たらいややな。まあ、エエか。来たらそのときのことや、クルマの中へ隠れるワ」。クルマのドア開けたら、サルの方が先に乗り込みよるやろうと思ったけど知らん顔して出かけることにした。




  写真035.D橋を渡って
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  D橋を渡るとうっそうたる森である。写真にはトンネルのように写る。実際はそこまで暗くはないのだが。


  写真036.養殖場?
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  杉林が切れて、対岸に水が流れ落ちている。先ほど見えていたやつだ。何かわからないが、かなり大がかりな魚の養殖でもやっていたのだろうか。いまは見る影もなく荒れ果てているが。流れ落ちる水を中心にアップしてみる。要するに谷間のきれいな水を使って何かをやっていたのだろう。複雑な構造が見える。残念ながら素人にはその意味が読めない。



写真037.石垣が
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  D橋へ帰りつく。サルはこなかったらしい。ヨッちゃんはクルマの中にはいなかった。
  橋の手前右側にちょっとした広場があり、石垣が張り出していた。その下にツバキの花がポツンと1つ。近くにはツバキの木などない。しかし、橋の近くにはたくさん咲いていた。そこから飛んできたのだろうか。そんな風吹いたかな。
  石垣の写真を撮っていたら、ヨッちゃんが、「この上に家が残っている。水路もあるし、誰かが何かやったはった跡が残っている」と。




写真038.廃屋
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  その石垣の高さの分を上り切ったところに廃屋が残っていた。上の地図002Cで、赤い四角に白抜きでFのマークがあるが、その右下を目を凝らして見ると、小さい赤い四角が2つ見える。その右側の建物である。上の何(養殖場?)かのあとといい、U字溝の送水路跡といい、明らかにこの谷で人が生計を立てるぐらいの仕事をしていたようである。





G ゾーン付近
写真039.林道起点                                            地図005.神唐戸川林道地図 写真拡大 写真拡大

  帰り、県道へ出るところで、「神唐戸川林道」という標識に出合った。往路には気がつかなかったものである。幅員はともかく、全長6560mという。ああそうか。ところできょうはD橋まで行って帰ってきたわけだが、距離を測ってみると、0.95Km。地図で見ればざっと全体の3分の1ほど。とすれば、支線を含めての全長ということらしい。いずれにしてきょう見てきたところは大した距離ではなかったということだ。




写真040.何もなかった
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  そばに急な階段があった。踊り場のところに不動明王・・・という石標が建っていた。盛り沢山でどんなところだろうと興味がわいた。手すりがついていたから大丈夫だろうと登ってみることにした。手すりがなければ、足が怪しいから、下りが怖い。
  踊り場から上の方がはるかに長かったが、上りはさして難しくもない。上りついて辺りを見渡しても何もない。まただらだら上りの道が続いていた。何があるのかわからないが、これ以上行ってみても仕方なかろう。帰って地図を調べたら、やっぱり鳥居マークがついていた。何があったんやろう。いまだに正体不明である。



写真041.帰り道
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  下りで下を見たら、2本の県道が絡んで見えた。手前は唐戸川橋を渡ってきた道。その奥が唐戸川新橋から来た道。両者はすぐそこでT字につながっている。どちらを通っても国道1号蟹坂交差点へつながっている。






  ◆行けなかった源流部を思う

  神唐戸川林道をD橋まで走って引き返してきた。距離は上述のように0.95Km。そこまでは左岸、いいかえたら遡る場合、川を左に見て走る。D橋で右岸(下流を見て右側の岸)へ渡る。水は高いところから低いところへ流れる。この唐戸川は不思議なことに、三重県との県境と並行に流れている。当然県境(右岸)側から、何本も支流が流れこむ。林道はD橋から上流では、右岸を走る。道は何本もの支流を渡らなければならない。右岸と左岸を比べたら、流れ込む水量は圧倒的に右岸(県境側)の方が多いはず。流れ込む支流の数だけ橋が必要なはず。林道はなぜその右岸沿いにつけられたのか。そこらのところを実際に現場を見てみたかったが、あの場所を越えて源流側を走る勇気はなかった。
  そうして最後は分水嶺にぶつかる。常識では三重県の県境のはず。しかし、不思議なことにこの唐戸川に関しては、その流域が三重県に面しているのは、高畑山から南西へ770m峰までの900m弱のみ、あとは西側では大原川流域と峰を分けているのである(トップの地図000.唐戸川流域地図)参照。そして、この唐戸川は田村川流域、大原川は杣川流域である。それぞれは、野洲川の支流ではあるが、野洲川と合わせて全流域を3つに分ける大きな支流である。そしてここが、その支流同士の分水嶺なのである。上の地図005の「田村川流域・杣川流域」はそういう意味である。
  林道は分水嶺を切り通しで越える。そして行きつく先は思いもかけない那須ヶ原山登山道だった。20数年前、6X7判の1眼レフと望遠レンズ、でかい三脚などを担いで登った道である。地図を見ただけで、ただただ懐かしかった。




◆旧い地図から(日本図誌大系 近畿Uより)

  手持ちの旧い地図にこのエリアのものがないか探したが、結局、下の地図007Dしか見つからなかった。それ以前の3枚は「日本図誌大系 近畿U」からのものである。旧東海道土山宿周辺をカバーしたもので、その端の方に唐戸川がのぞいている状態だった。残念ながら、上流部分はカットされている。これが含まれていたら、”宮野川”の文字が見られたかもしれないが。本稿で関係するのは、下の地図で赤線で囲んだ部分である。


地図007A.明治25年測量、大正9年修正

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  測量は明治25年とあるが、この地図としては大正9年修正とある。右上の道路は旧東海道らしい。道幅が広く表現されているので、現在の国道のように感じられるが、それはまだない。道が南向きに折れた後、唐戸川沿いの道は、逆に狭く表現されている。実際がどのような道であったのかは残念ながらわからない。その道沿い、下から3分の1ぐらいのところにちょっとした集落(名称不明)があり、学校マークが見える。これは次の007Bにも見えるが、昭和45年編集の007Cでは消えている。
  蟹坂から来た道が東へ折れた川を渡って、南東方から張り出してくるツノのような尾根を越えている。尾根はもちろん現在もあるので、それと思しき当たりの標高を測るとほぼ310mと出る。平地の三角点の標高が285mとあるから、標高差は25mほど、この勾配の処理はどうしていたのか。尾根を越えた後、いまの大原ダムへ向かう道は、谷筋を出入りしながら、一定の高度を保って蛇行していく。
  最後にもう一度、「唐戸川」に戻る。南下してきた唐戸川は、小学校の横を過ぎたあたりで、直進(南へ、ブルーの色を加筆)と左折(東へ折れる)に分岐する。南下する川は、尾根を越えてきた道をくぐってさらに南下して消える(ブルーに加筆した部分。この谷筋が水源らしい)。この流れをどう解釈するか。これを 唐戸川だとすれば、左へ分岐する流れは宮野川である率が高い。私は、最初この部分の地図を見て宮野川の名称を見たときは、この考え方をしていた。上の地図000の流域図はこの考え方を示している。しかし、もしこの川(ライトブルー加筆)が 唐戸川支流だとすれば、右へ折れた流れは唐戸川本流で、源流へつながることになる。実際に現場をレポートして、現在はこの解釈になっていることを納得した。



地図007B.昭和26年応急修正

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  昭和26年応急修正とある。地図A→地図Bの間には、30余年の時間差があるが、その間戦争の時代が挟まれている。地図の上では、右上部に大きな変化が見られる。国道1号が開通し、旧東海道は細い道表記となっている。日本図誌大系の解説によると、------新道(国道1号)は集落内部を避けて建設され、昭和30(1955)年には舗装工事も終わった。-----とある。本稿に関係する部分としては、唐戸川沿いの道(現在の県道129号)が、道幅が広くなったように表現されている。ルートは元のまま、集落内の学校マークも変わっていない。
  南東側から張り出す尾根を越えていること、そのあと南西への蛇行する道なども、道幅の表現が変わっただけで、道筋そのものは変わっていない。川の流れも変化なし。



地図007C.昭和45年編集

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  画面右上(国道1号の北東方)、国道1号の北東側に並行に走る旧東海道が消えている。これは次の007Dでも消えたまま。007Eで復活している。007Eは現在のWeb地図である。ここを実際に歩いてみると、確かに道はあるが、工場の間を抜けていて、旧街道の情緒は一切ない。旧街道が一度消滅すれば、二度と復活できない例である。
  上の地図007Bまで1本の実線で示されていた唐戸川は、実線の両側に峡谷を示す立体的表現に変化している。これは別に、現在の県道129号に当たる道が大きく変化している。まず、地図007A,007Bで表示されていた学校マークが消えている。その跡地を利用したと思わるが、そのあたりで県道(当時県道であったかどうかは不明)が、わずかに唐戸川の方へ寄っている。そして上の007Bでは、南下する場合、川の手前ででさらに首を左へ振って橋に架かっていたのが、ここでは逆に右へ首を振って、やや下流の方で新しい橋を渡っている。そしてそこで90度右へ折れて、尾根の手前の谷筋を進んで、尾根の裾をまくようにして、大原ダムの方へ向かい、いままでの尾根の中腹を蛇行していた道は消えている。
  また、この地図から大原ダムが表記されている。日本図誌大系の解説には次のようにある。-----大原ダムは昭和18(1943)年着工。33年に完成した。治水と潅漑を兼ね、下流1,260haを潅漑する。この地域の河川は、一般に護岸工事や砂防堤の整備が顕著である。古琵琶湖層の浸食されやすい砂礫や粘土質の丘陵地帯であるため、その効果は大きい。---- それにしても昭和18年とは、とんでもない時期に着工したものだ。最初の数年は仕事にならなかっただろう。



地図007D.昭和57年修正・昭和58年発行

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  我が家に残っていた5万分の1地形図である。モノクロームが4色刷りに変わっただけのようである。007C同様、右上隅の旧東海道は消えている。そのほかは変化なし。カラーになって、貯水池や河川は抜群に見やすくなった。





地図007E.現在のWeb地図

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  旧東海道の消えた部分は、復活している。山中川の取材で実際に歩いたが、工場の間を通過していた。大きく変わった点としては、新名神の高架橋があげられるが、これはあまりにも大きすぎて、いま私がやっていることとは相手が違い過ぎる。
  今回驚いたのは、国道1号・蟹坂交差点から大原ダムへの県道129号を走ってのことである。集落の名称が分からないので書きにくいが、かつて小学校があった集落付近である。そこを含めたこのルートは、私がよく走ったのは1980年代半ば、野洲川渓谷を撮っていたころだった。その帰りによく大原ダムへ寄った。そのころの県道は蟹坂から大原ダムまで一本道、道が分岐することなどあり得なかった。何の心配もなく走ることができた。この春、唐戸川の取材でこの1本道を走っていて、思いもかけない分岐点に出合った。その部分を地図で見ると、何と3本に分かれている。中央の道がかつての県道、唐戸川寄りの道が新しい道らしい。




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