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S15.大原川流域

S1501D. 大原川を遡る・D

取材:2020.11
初稿UP:2022.01.30


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地図005.大原川流域地図4  (国土地理院Web地図に加筆)
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  大原川上流部である。前項・信号のある交差点を過ぎると、川は県道129号から遠く離れ、見た目にはほとんど変化はない。地図に”深山口”とあるあたりへくると、川は近くへ戻ってくるが、これも地図の上だけで、肉眼でそれを確かめることはできない。
  県道131号を右に分けたあと、同129号はY字型分岐で左へ別れ国道1号”蟹ガ坂”へと向かう。分岐点には”右山、左伊X”との道標が立っている。X印のところは”伊勢”ではないかとたしかめてみたが、はっきりしなかった。道は県道をとっても山道をとっても大原貯水池の畔へ出る。




9.J 点付近
写真084.県道129号分岐点道標
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  Y字型分岐点、県道は左へ分かれていき、写っているのは二股部の道標と”那須ヶ原山登山道”の道標、それに橋に続く里道である。後はごちゃごちゃしたものがあるが意味不明。
  道標の読める字は、”左 伊、右 山”の4文字だけである。伊”の下に”勢゜、”山”の下に”道”があるのじゃないかと目を凝らしたが、土に埋まったのか字らしいものは見えなかった。難しい道標である。



写真085.深山橋
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  平地を直進する里道の橋である。地図によるとこの辺りの地名が”深山口”らしい。多分これで”深山橋”で正解だと思うが、”深”の字体が今のと少し違っていたり、”やま”が草書体で横に長く崩されていたり、難しいところがあるが地名と照らし合わせても間違いはないだろう。







写真086.深山橋上流
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  Y字分岐から山に向かって左方から流れてくるところである。数10m上流方に落差工がある。小と大、そして少し手前にもう1つ。光の加減で黒く見えるが、中ぐらいのもの、大中小3つの落差工が連なっている。







写真087.深山橋下流側
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  下流側である。すぐそこに県道131号の橋が見える。遠くの空は白っぽいのに、上空は青空だったらしい。水面が異様に青い。


  写真088.深山橋
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  橋を渡り切って振り返ってみたところである。奥に県道129号が右斜めに通り過ぎていく。そして道標が立っている二股部(こちらからは白い立札の裏側が見える)。
  親柱のプレートがなくなっている。古い話だけど、戦争中金属供出で手当たり次第にはぎ取られたとことがある。まさか70数年そのまま放置されていたとは思えないが。いつごろ出来た橋だろうと探してみたが、上の”深山橋”のプレートが残っているだけで、あとの3枚はすべてはぎとられていた。1枚だけがよく残っていてくれた。これも取られていたら、”不明橋”の仲間入りだった。




写真089.下流側
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  三差路へ出て県道131号を、先ほど深山橋から見た橋のほうへ歩いてみた。すぐ橋に出る。下流側。いままで見てきた川ではいちばん浅い。当り前のことだが、水は清らか。


  写真090.上流側 写真拡大

  上流側である。橋を境にして上流側を見ているのだが、先ほどの下流側に比べて深く見える。この深さがこのあたりの川のスタンダードである。
  真ん中から少し右よりにしゃきっとしたピークが見える。那須ヶ原山かと思うが、ちょっと違うようにも思える。とにかく基本的な方位が身についていない。とりあえずカシミールで作図してみた。高畑山らしい。この山の名前は地図では何度も見ていたが、実際の山を意識して見たことはなかった。決して大きくはないが、見え方がシャープである。いままでこの山はもう一つよくわからなかったが、やっとシッカリ見た思いである。もう少し左からしっかりとっておくべきだった。




写真091.みやまばし
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  山を見て楽しみながら、ふと橋のプレートを見ると、・・”みやまばし”とある。?深山橋といえば、向こうに見えている先ほどの橋やないか。向こうが漢字でこちらがひら仮名。まさかそんなアホなことはないだろう。そんなアホなことをしたら、どっちがどっちかを覚えるだけで苦労する。アホなことといえばまさに間抜けた話だけど、漢字のプレートを撮ってこなかった。おんなじ川やし、ほとんど同じところに架かっているのやから、同じ名前でええやないか。地元のおっちゃんのそんな声が聞こえてくる。




写真092.Y字三叉路
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  橋を渡って131号をそのまま進むと「Y」字を上下逆にしたようなY字路に出る。その二股部に小さな祠が建っていて、その前に碑が見える。
  県道とのY字三叉路。右の道は山道の深山橋の山側に出る。県道は画面の左外を通過していおり写真には写っていない。





写真093.南無阿弥陀仏碑
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  碑の下部をセメントで補強したあとが見えたが、それがなんらかの力を受けて壊された跡と見えた。それも事が起こってから日にちが経っていないと見えて放置されたまま。ホウキでもあればもう少しまとまった形まで収めたかったが、素手ではどうにもならず。また赤の他人が手をつけていいものかどうかも分からない。
 真ん中に「南無阿弥陀仏」、とあって、”右山道”、”左いセ道”とある。県道129号の二股道にあったのと同じパターンである。かわっているのはまんなかの「南無阿弥陀仏」。問題はその下の冠を模したような模様といえばいいのか、印といえばいいのか。光の加減と石の色とで、もう一つはっきりしないが、御代参街道で見た、”徳本さん”(トクホンさん、またはトクゴウさん/トクモトさんと読んではイケマセンぞ!)のマークによく似ている。



  余談 徳本上人 南無阿弥陀仏碑 写真拡大

  右は、東近江市鋳物師町”鋳物師”交差点に立つ徳本上人”南無阿弥陀仏碑”である。御代参街道を歩いたときに出会った。
 徳本上人とは。
  たとえば”わかやま観光情報”には、
 徳本上人(とくほんしょうにん)として  ------徳本上人は厳しい修行を行いながら南無阿弥陀仏を唱えて日本全国を行脚し、庶民の苦難を救った江戸時代の念仏行者で、上人の書かれた「徳本文字」、想像を絶する「荒修行」が特に有名です。信者は近畿、東海、北陸、信州、関東地方にも及び現在でも「徳本講」は引き継がれ、清貧の生き方は今なお人々に影響を与えています。----とある。
 驚きだった。恥ずかしい話だが、私はこの年になるまで徳本上人のことを何も知らなかった。ところが驚きはそれでは終わらなかった。びくりしたのはその読み方。私は当然「とくもと」だと思っていた。それが「とくほん」だという、さらに驚いたことに別のサイトでは”「とくごう」と読まれることもある”という。ナニ!、トクゴウ?。早よう言え、それを・・・・。
 信州島々から上高地へ越える峠を徳本(とくごう)峠という。深田久弥も『日本百名山』でこの峠からの穂高の眺めを絶賛している。山へ行きだしたころ、この読み方が不思議だった。それから60年、いまの今まで事情が分からないまま、皆がそう読むから「とくごう峠」なのだと思ってきた。これは「徳本上人」にちなむのではないのか。山岳修験者が山の地名に名を残す。よくある話である。
 「徳本峠」で検索してみた。消えた峠だと思っていたのだが、思いもかけず「徳本峠小屋(峠の宿)公式ホームページ」がヒットした。バスで入るのが常識の世の中で、峠は生きていた。その中で、峠の歴史については諸説ありとしながらも、その中の一つとして”徳本上人がこの峠を越え、峠路の開発にあたった”という説をのべていた。

  私は結局、この「野洲川分水嶺峠道探訪」で、4基の”徳本上人名号碑”に出会った。そしていま5基目に出会ったとするかどうかで迷っている。


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場所:日野町三十坪
徳本・ハンコ
クラウンマーク;ナシ

場所:鋳物師交差点
徳本・ハンコ
クラウンマーク;アリ

場所:日野町平子
徳本・ハンコ
クラウンマーク;ナシ?

場所:日野町蔵王
徳本・ハンコ
クラウンマーク;アリ


  まずこの4 基について一覧表に整理してみた。4 基ともに共通なのが”南無阿弥陀仏”の独特の字体。とにかくの字体は一度見たら忘れられない。それと”徳本”のサイン。トクの字は旧字体。ワープロでは出てこない。ハンコは枠の中に”出”の字のY軸、X軸のそれぞれの線を長くしたもの。
  最後のクラウン(王冠)マークであるが、炎を図案化したような、中央にあるのが桃太郎のマークのような、独特のマークである。しかし現代のトレードマークのように、きっちり決まっているのではなさそうで、なんとなくそのようなマークというところ。最後のクラウンマークはあったりなかったりするが、あとの3つの条件は間違いなく揃っている。
 以上の様な条件を頭に入れて、さて、Y 字三差路に立つ”写真093.南無阿弥陀仏碑”(下のクラウンマークを見るために濃く仕上げてある)は、徳本上人名号碑なのか、そうでないのか。

  結論を出す前に、徳本上人名号碑の復習をしていたときに、もう1つ写真000.南無阿弥陀仏碑を撮っているのに気がついた。普通の字体でクラウンマークがついている。ということで”徳本上人名号碑”としても、クラウンマークはあったりなかったり、特に必須条件でもないらしい。写真093写真000は同じ条件(普通の字体でクラウンマーク)である。以上の6基の碑を比較して考えたのだが、徳本上人名号碑の絶対条件は一度見たら忘れられない、あの独特の字体にあると考えられる。後者2基は普通の道標だったらしい。




10.K点付近
地図006.J 部拡大地図  (国土地理院Web地図に加筆)
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  写真094.大原貯水池畔(K点)
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  深山口のY字型三叉路(J点)から県道129号を860mほど進んだところ。地図でK点と示したところである。この2点は不思議なことに両方ともに三角点が設置されている。現場での確認はしてこなかったが、国土地理院のWeb地図によると、J点は271m、K点は309mとある。この間の標高差約40m。深山口の田んぼの一般的な高さに対して40mの高みにある。
  湖畔は紅葉の盛り、撮影は2020年11月17日だった。



写真095.大原貯水池畔(K点)
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  同じ場所から奥に見える山をアップした。何度も書くが、ここまで来ると山名がおぼつかない。例によってカシミールでの作図。山頂右の”大くだり”と左手前に見えるほぼ同じ高さのピークが特徴。右のピークが那須ヶ原山である。それはそれでいいのだが、左のピークはいったい何者か。那須ヶ原山に匹敵するほどのピークがあるとは考えられないが。
  那須ヶ原山付近の地図を見ると、K点から見て左手前にあるピークで考えられるのが、544mとあるピークである。それぞれの tan をとってみると、那須ヶ原山が0.238、544峰が0.247となり、後者がホンの少し高く見えるという結果が出る。地図の上での数値をひねくり回しただけの話だから、若干の誤差は致し方ないとして、左手前のピークは544峰で間違いはなさそうだ。




11.L点付近
写真096.大原貯水池畔(L点)
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  地図006の J 点、写真084に見える”右 山道”のところに「那須ケ原山道」の木の標識がある。1999年4月に、何度かこのあたりへ来た淡い記憶がある。そのあと2000年1月に発刊する『近江富士遊々』の追い込みにかかっていたころで、那須ヶ原山山頂からの三上山を狙っていた。
  考えてみれば今から20年以上も昔の話である。古い記憶ではこの分岐のすぐ目の前に貯水池があり、そのふちを通って山へ入ったことになっていた。今回久しぶりにその道を走ることになった。すぐ近くのはずの貯水池が現れないまま、道は山に入った。?・・・おかしいな貯水池はどこへ行ったのか。半信半疑で山の中を走った。困ったな、これはクルマを返すところもないぞ、と、思いだしたところでダムのふちへ出た。そこが地図006でいう L 点であった。画面右端のピークが高畑山らしい。




地図007.大原川源流部
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  三上山が見える場所は自分で探したが、一番つらいのは、多分見えるであろうと思って登った場所から三上山が見えないことだった。重い撮影道具を担いで元の道を下るときは疲れが倍になった。滋賀県近辺の目ぼしい登山の案内書を買ってきて、山頂からの展望の欄に、三上山が見えると書かれた山を探した。どのガイドブックか忘れたが、那須ヶ原山から「三上山が見える」とあった。ダムのふちから大原川渓谷沿いに上り、”Y”字分岐で右へとれば勝手に頂上へ達したはず。




写真097.那須ヶ原山山頂
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  1999年4月8日撮影の那須ヶ原山山頂からの三上山である。このとき、ここからの眺めで関心があったのは三上山だけであった。しかし、いまこうして大原川の流れをたどった後でこの写真を見るとき、画面の手前を横切る山間平野の集落がよくわかる。影の中で、集落の手前(南側・カメラは西北西を向いている)を走るのが県道129号である。
  もう一つ余談だが、このとき読んだガイドブックに、那須ヶ原山山頂から、”富士山が見える”だったか、”…見えるとの説がある”だったか詳細は忘れたが、とにかく富士山が見えるということだった。
  現場からの確認となるとちょっとやそっとの話ではない。ホンマに見えるのか。カシミールで作図させてみた。”なるほど見えないことはない”というところ。どこに見えるかお分かりだろうか。誰が確かめたのか知らないが、累々と続く山並の中から、山頂の一部を見せるだけの富士山を探しだす。まさに神業である。
  いまの絵で富士山の位置がもう少し左へ移動すれば、広く見えそうな場所がある。そこはどこか、暇に任せて探してみた。同じ鈴鹿山系の”仙ヶ岳(961m)”と出た。もう誰かが撮っているかな。



坂下越え
地図008.坂下越え
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  大原ダムから大原川沿いの道を遡る。標高400mぐらい、これから那須ヶ原山への本格的な登りが始まるというところで、道が左へ分岐する。大原川源流に沿い、那須ヶ原山と高畑山を尾根を結ぶ稜線の鞍部(627m)を越える道で、峠を越えてからは鈴鹿川源流に沿い、鈴鹿峠から下ってくる旧東海道に合し坂下宿へ向かう。
  鞍部の名称を「坂下越え」としたのは、私が勝手つけた名称である。例えば、笹路川源流の峠は「安楽越え」と名付けられている。これは峠を越えた向こうの”安樂村・安楽川”、滋賀県側から峠を越えた先の地名を使っている。例えば京都市内に、丹波口、鞍馬口などの地名がある。これはかつて、お土居(京のみやこの周りを取り囲んでいた土手)に囲まれた旧市街地からそれぞれ丹波、鞍馬へ向かう街道が出ていく、お土居の切れ口だったという。大阪の京阪電車の駅”京橋”も同じ意味だろう。
  鈴鹿峠の標高は357mだという。こちらの坂下越えは627m。仮に出発点を深山口(271m)とすれば、標高差は、坂下越え356m,鈴鹿峠86m。桁違いとはこのことを言うのだろう。歩く距離も鈴鹿周りがべらぼうに遠いとも思われない。此のくねくねと蛇行する道を考えると、誰が考えても鈴鹿峠回りだろう。このしんどい坂下越えはどんな人が歩いたのだろうか。


◆行けなかった源流部を思う 参考地図→
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 1999年4月、那須ヶ原山へ登るために、大原川沿いの道をさかのぼった。上の地図008に見るように、大原ダムから頂上までの間に分岐点が2か所ある。1つ目は、”林道出会”、2つ目は”坂下別れ”である。後者の”坂下別れ”については上で述べた。ここで触れたいのは前者”林道出会”である。ここでいう出会いの相手は、唐戸川沿いの林道。地図によると、その唐戸川源流と大原川との距離は200mでしかない。この200mが大きな意味を持っている。実は、この唐戸川は田村川に注ぎ、大原川は杣川に注いでいる。言い換えたら、この200mで、田村川流域と杣川流域に分かれているのである。
 那須ヶ原山へ登ったときはそんなことは夢にも考えていなかった。しかし、いまこうして歩いてみると、この200mは実際に自分の足で歩いてみたかった。唐戸川沿いの道を歩いたのだが、その状態からからして、最後まで詰める勇気はなかった。「行けなかった源流部を思う」はそのときの思いである。鈴鹿県境稜線→唐戸川流域。「行なかった源流部」ではなかったかとの思いも深い。是非ご一読ください。



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