穂高から三上山まで

---昔語り・わたしの山と写真・27---
三上山撮影開始

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その1へ・その2


 夕日の水路

 昭和52(1977)年10月9日、撮影開始から約1年がたっていた。この日初めて写真が撮れた。

 私が写真を始めたのは1955年だったから、そのときすでに20年以上が経過していた。当然写真は撮れると思いこんでいた。しかし撮れなかった。本当にとまどった。撮れたのは前項の三上からの日の出だけ。しかしこれも撮ったのではなしに偶然に写っただけ。これにしてもいましげしげと見るとバランスが悪い。

 そんな1年が経過しての1977年10月である。シャッターを押した瞬間に、これは撮れたという感覚があった。左の写真がそれである。 

 場所は近江八幡市水茎町。このあたりは、いま近江八幡市の産業廃棄物最終処理場になっているが、当時はまだ昔ながらの水路が張り巡らされ、収穫された米俵が、和船で運ばれていた。その和船が水路の所々に止められ、一つの絵になっていた。下見をしたとき、これは夕日だと狙いをつけた。

 その日、近畿地方は移動性高気圧に覆われ、雲一つない快晴だった。収穫の終わった田圃にうす紅色の秋の夕日が美しかった。イメージ通りの風景だった。わくわくしながらカメラをセットした。あとは太陽が比良山に落ちる少し前、秋の夕日が十分赤くなったところでシャッターを押せばいいのである。三上山を撮りだして1年、カメラを手にしたときから数えて、22年目にして「写真を撮る」ということが初めて分かった気がした。
 「自分でイメージを作れ」、「待って撮れ」、写真雑誌には、イヤというほど書いてある言葉である。「きょうは天気がいいから写真でもを撮りに行こうか」ではダメだという。これをいままで何度読んだだことか、しかしそれが分からなかったのである。
 思えば長い道のりだった。この単純なことが分かるまでに、22年の歳月が必要だったのだ。

 孤 舟

 昭和52(1977)年10月10日、朝の琵琶湖を撮ろうと、未明に家を出て初めてバイクで琵琶湖大橋を越えた。秋の朝の寒さを知らず、昼間と同じ服装でいったのだから寒かった。「朝早うからどこへ行かはるの、寒いやろ」料金所のおじさんに声をかけられて、いざ琵琶湖大橋へ。まだ橋は1本で対面通行。そこをバイクで走るのは勇気が要った。

 初めてのことでどこに何があるやら分からない。とにかく坂本あたりまでいってみようというのが、当初の予定だった。だんだんあたりが明るくなってきて、木の岡町あたりで日の出。朝の琵琶湖がこんなに美しいものなのかと感激した。沖に一艘ヨットが止まっているのが見えた。いまだと思えば、すぐに止まれるのがバイクの強み。車だとこういう訳にはいかない。道路沿いにバイクを止めて撮影した。これが記念すべき朝の琵琶湖第1作だった。ところがいまとなっては、撮影場所がどこだったか、全く思い出せない。まだそのころ、例の幽霊ビルが建っていた。それを過ぎて、鐘淵化学の工場までの間だったような気がするのだが、いま道路沿いでこのような絵が作れる場所はない。大宮川の改修工事などが行われ、様子が変わってしまったのだろう。

 下見もなしの一発勝負では所詮勝ち目はない。結局このときは、もう少し南の唐崎あたりまで行って引き返した。
 下阪本まで帰ってきたときには、太陽は高く昇って、日の出のときのオレンジ色は消え去り、全体がまばゆく白っぽい風景に変わっていた。その明るい風景の中に三上山がかすみ、きらめく湖面に釣り船が一艘浮かんでいた。行き当たりばったりとしては、願ってもない風景だった。レンズを換え、構図を変えて、ブローニー判1本、10枚はあっという間だった。

 現像が上がってきてがっかりした。露出オーバーである。湖面の反映、空の明るさ、山の明るさ、慎重に測ったつもりなのに、どうしてオーバーになったのか。
 上右の写真がそれである。露出の件は、そのときオーバーだと考えたのだが、いま考えてみると、むしろもっとオーバーに、いまでいうプラス補正をしてもよかったぐらいのものだった。

 最初失敗だと思ったこの作品を、後に第1回目の個展に出品したところ、いちばん評判がよかったのだから、写真とは難しいものである。

 インターネガ

 昭和52(1977)年秋、旧野洲町の第1回美術展が開催された。私は大した作品もないのだからと、別段感心も持っていなかったが、町広報での作品募集記事を見て、死んだ前の女房が、写真は人に見てもらってなんぼのものやから、「出せ、出せ」とうるさくいう。それなら出してみようかと、例の三上から撮った「雪の日の出」を全紙に伸ばして出したら、特選に入った。
 あれはワシが撮ったのじゃない、たまたま写っただけや。釈然としないものがあったが、面倒くさいことをいうこともないか。要するに、私の写真がよかったということではなしに、四つ切りの台紙張りぐらいのところへ、全紙のパネル張りを出したので、まあ、ちょっと目立ったというだけの話である。
 まあ、そんなことはどうでもエエわけで、きょうの話は、その全紙のプリントについての昔話。
 すでに何回か書いたように、「三上山」は、エクタクローム(ポジカラー)で撮っていた。当時、ネガカラーからの紙焼きはできたが、リバーサルカラー(ポジカラー)からのダイレクトプリントは、まだ実用化されていなかった。
 リバーサルのプリントはどうするのか、写真屋に訪ねると、インターネガを起こして、(おかしな言葉だが、写真屋のオヤジは「作る」とはいわずに「起こして」といった。何を起こすのか未だに意味不明だが、まあ、そんなことはヨロシイ)、それを原版にして焼くのだという。なんとまあ面倒なことよ。
 「しかし、そのインターネガでピントは大丈夫なんかなー、甘もーなるのとちがう?」。
 「理屈の上では甘もーなるやろな。けど、あんたは6×7できっちり撮ったはるから全紙ぐらいやったら、大丈夫や」。
 「もっとも、エエも悪いも、それしか方法がないのやから、それでやるしかシャーナイわな」 。
 下の2枚は、左がリバーサルの原版。右がそれを元にして起こしたインターネガ。このネガを原版にして紙焼きにする。野洲町美術展へは、この方法で全紙に焼いて出品した。特選に入ったのだから、オヤジがいうように「大丈夫」だった。

 全紙なんてシロモノはそうたびたび焼くものでもない。インターネガの件はそれきり守備範囲から消えていった。
 ことが起こったのは、翌年、第2回の野洲町美術展の時だった。

 上は、第2回野洲町美術展の出品作品である。前年に準じて、まずインターネガ。それが上がってきて、紙焼き。予定の日に写真屋に寄った。
 「上がってきてまっせ」、おやじがうやうやしく手袋をして封を切る。その昔、小学校の校長が教育勅語を取り出す手つきを思い出す。しかし、そんな昔の夢はそこまで。

 「?、こんなに甘かったかなー」、
 「なんせ、インターネガやからな、こんなもんでっせ」、
 納得がいかないまま、「甘い」とも言い切れないところで、そのまま持って帰った。しかし、どうもこれを展覧会に出品する気になれない。ポジとネガをルーペで見比べて見た。

 私はこの時点で、インターネガ製作の過程について、一つの先入観を持っていた。インターネガは、要するにポジをネガにするのが目的だから、ポジとネガは密着で作られているはずだということである。つまり、原版のポジフィルムと、ネガ用のフィルムを2枚、空気も入らないぐらいに完全に密着させて、光を当てるということである。これだとよほどの作業ミスがない限り、できあがったネガはポジと同じピントのものに仕上がるはずである。この過程を信じたから、全紙の紙焼きが甘いのは、自分のポジが甘いのだろうと考えたのである。

 ところがよくよく見比べてみると、どうも密着ではないらしいということが分かってきた。密着なら、ポジの下にあるKODAK SAFETY FILM の文字がネガにもなければならない。それがない。ネガの上には何か読めないが製品番号らしき字が見えるが、ポジにはそれがない。さらに、ポジの四隅、上辺は上へ、下辺は下へ、画面がはねるように外へ飛び出しているのだが、ポジにはそのはねがなく、完全な長方形になっている。間違いない、これは密着ではなしに、引伸機か何かの機械による、間接的な焼きつけだ。だとすると、その過程でピントが甘くなることはあり得る。

 念のために、別のラボでインターネガを作ってもらった。これはポジが100%ネガになっていた。枠外の文字もそのままだし、四隅のはねもそのままだった。間違いなく密着で作られたと考えられる。

 これに対して上で見てもらったものは、多分、ピントの甘さを指摘して、再度作成したものだと思う。肉眼で見た範囲では密着と大差はない。しかし、明らかにプロセスの違いは分かる。 

 最初のラボが、ピントが甘くなる危険を犯して、間接焼き付けをしていたのはゴミの除去の問題だろう。密着は、2枚のフィルムを密着させるわけで、その間にゴミが入り込むと、ネガにそれが写り込む。フィルムからゴミを完全に取り除くことは、口で言うほど簡単な話ではない。間接ならば、両者は離れているわけで、2枚のフィルムの4面をブローアーで丹念に取り除けば、密着よりは作業は簡単である。
 このあと少しして、リバーサルのダイレクトプリントが一般化され、こんな話は遠い昔話になってしまった。これは、縁の黒いプリントがコンテストなどで幅をきかすようになる以前の話である。


 十二峰林道

 そのころ、甲西町(現湖南市)菩提寺から三雲へ向かう県道27号を走っていると、十二坊山の稜線沿いに白いガードレールが見えた。下から見て景色の良さそうなところである。ガードレールがあるということは道路があるはずなのだが。登り口が分からない。新しい道路だと見えて、地図にも記されていない。どこかに登り口があるはずだ。めぼしいところを探し回った。
 やっと見つけたところは菩提寺から竜王ICへ名神沿いを走る、いわゆる八重谷越え。この道自体が新しい道だった。その途中に林道入口があった。標識を見ると、「十二峰林道」とある。山の名は十二坊だが、林道は「十二峰」。いい名だった。

 いまは頂上付近にいろんなアンテナが数本立っているが、当時はNHKのアンテナが1本立っているだけだった。それへのアクセス道路が南側の岩根からついていたのだが、そのときはまだそこまで分からなかった。私が登った八重谷越えからの林道はまだ工事中で途中までしか通じていなかった。
 稜線へ出て振り向いたときの感動は未だに忘れられない。木々の向こうに三上山が堂々と見える。これはスゴイ場所だ。工事のため、樹木が切られているから、展望がよかった。カーブを曲がるたびに風景が変わる。これは「十二望」だと思った。特に、その道のほとんど終わりに近いところから見る松の木は秀逸だった。以来いままで、三上山と組み合わせてこれ以上の風景に出会ったことはない。

 いろいろと調べているうちに、この十二坊から見たとき、夏至の日の太陽が三上山に沈むことが分かってきた。私が通っていた十二峰林道は、十二坊の頂上とは多少のずれはあるが、あとは現物あわせで行こう。

 1978年6月9日、夏至には少し間があるが多分きょうあたりがねらい目だ。いまならGPSで現地の場所を確認して、カシミールで太陽の動きを見れば、一発で確認できるが、当時はそういう文明の利器は一切なし。頼りは国立天文台から出ている理科年表の入り日の方位だけである。とにかく現場へ行ってみるしか確かめようがなかった。

 手前に松の木があって、その向こうに三上山。そこへ夕日が沈んでいく。松の木と三上山は不動であるから、自分が動くことで、相対的に両者を動かして絵を作る。たとえばこの場合だと、カメラが左へ動けば山は左へ動く。大げさなことをいえば、1mも動けば絵は変わる。
 このときは360mmの望遠に2倍のテレコンバーターを使っていたから、写角はきわめて狭い。そのなかに太陽が入ってくるのは、1年中で数日しかない。

 その日、1978年6月9日、十二峰林道の撮影場所に着いたときには、太陽は三上山の左上にあった。それが徐々に右下に移動してくる。カメラをセットして、待ちかまえて撮る。本来の写真の撮り方がやっと身についてきたという実感があった。あとは露出だけだ。梅雨入り直前のこの日、西の空は重く、その中を太陽の光がかろうじて通過してくる感じで、まぶしさなどどこにもなく、濃い紫色の空も、鈍いオレンジ色の太陽も、ほとんど同じ明るさに見えた。いちばん明るい太陽と、いちばん暗い松の木の明るさの差は多分3絞りもなかっただろう。
 このチャンスを逸したら、今度いつ出会えるかという風景だった。こんなチャンスの時は、安全を見越して段階露出(現在のデジカメのAEブラケティング)が常識だが、金縛りにあった感じで、それすら思いつかなかった。たった一つの露出が合っていることを願って、シャッターを切った。

 三上山と松とに対して太陽の位置は、たった一点しかない。そこに来るまでに太陽が消えてしまうのが怖くて、2、3枚シャッターを切ってはいた。しかし、結局絵になったのは、その一点に来たときの1枚だけだった。太陽が厚い雲の層に消えたのは、それから1分たつかたたないかのことだった。

 あれから30年の年月が過ぎた。林道脇の樹木が伸びて、いまは全く展望がきかない。と同時に、林道は入口で閉鎖され、進入禁止。人の話によると、ゴミの不法投棄があとを絶たないためだとか。何とも情けない話ではある。

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