---昔語り『音楽夜話』・10---



A9091

091.交響曲第2番

目 次 へ

-------ブラームス--------

 年代ははっきりしない。多分昭和40年前後だったと思う。そのころ輸入盤が手に入りやすくなった。ドイツグラムホンなどの盤が日本製よりいくらか高い程度の値段で入手できるようになった。

 ウィルヘルム・ケンプのベートーベンピアノソナタの全曲や、カラヤンのブラームス交響曲全集などを買ってありがたかっていた。植木等が「あーりがあたや、ありがたや・・・」と歌う、例の「ありがたや節」もそのころではなかったか。日本製と輸入盤とどう違うのか。今になって思うと「大差なし」、これが正直なところである。しかし、戦後この方、日本製はダメだという劣等感が身に付いてしまっていたから、輸入盤の方が音がいいと錯覚させらていた。

 そんなころである。NHKでブラームスの交響曲第2番が放送された。カラヤン・ベルリンフィル、ドイツグラムホン盤だという。よしよし、それならワシも持ってるぞ。自分が持っている盤をわざわざ放送で聴かなくてもいいようなものだけれども、人間というやつは放送で聴いた方が値打ちがあるように錯覚する。いまでも時々テレビに出ると、「八田さん、テレビに出たはりましたな」とよくいわれる。テレビに映っている顔を見んでも実物が目の前にいるのだから、それを見とけばいいものを・・・といつも思うのだが、そういうわけでもないらしい。

 かく申す私も、そんな野次馬根性で、その放送を聴いた。第2番はブラームスの田園交響曲といわれる牧歌的な曲である。カラヤンは初め押さえておいて終わりに向かって盛り上げる。これが常套手段、要するに競馬と一緒である。ムチが入るとガンガン鳴る。終楽章のコーダのところで、ブラスがびゅうびゅう。そして・・・・終わった。

 しかし、よう鳴ったな。こんなに鳴ったかな?。・・・ワシのレコードはこんなに鳴らなかったぞ・・・・。気になりだした。あとの放送はそっちのけにして、ドイツグラ謀反盤をかけてみた。ワープロというやつは、時々こういう気が利くことをやる。まさに謀反盤だった。ブラスの鳴りが全然違うのである。お前はワシに謀反を働いたな。

 放送の音は、たとえていえば、ブラスが舞台の最前面に出てきてびゅうびゅう吹いている。うちの謀反盤は、舞台の奥で後ろに向いて吹いている。そんな感じである。同じドイツグラムホン盤である。アンプもスピーカーも同じ。違うのは、アンプへの入力がラジオ・チューナーからか、プレーヤーからかの違いだけである。となると、結論は出たようなもの。カートリッジの違いである。

 そのころ私は、いわゆるMM(ムービング・マグネット)式のカートリッジを使っていた。コイルの中で磁石が動く方式である。ところが、放送局はMC(ムービング・コイル、磁界の中でコイルが動く)式を使っているという。MMとMCはこんなに違うのか。何のために高い金を出して輸入盤を買ったのか、このままでは収まりがつかない。

 そのころマニア仲間では、サテン音響というメーカーの人気が高かった。京都の北大路烏丸を西の方へ入った、大谷大学の裏手に本社があった。人の噂では、家内手工業的にやっているのだということだった。真偽のほどは分からない。思いきってサテンのカートリッジに換えてみた。音が変わった。ブラスが舞台の前へ出てきた。気持ちがよかった。

 後日談がある。

 ある年の暮れ、北山の雲ヶ畑へ写真を撮りにいった。その帰り、調整を依頼しておいたのを思い出しサテンへ寄った。出てきた女性が「針は交換されますか」という。減っているなら交換しなければならないが、そのときは現金を持っていなかった。そのころ、ダイヤ針がいくらだったか。少なくとも、ちょっとポケットからという金額ではなかった。

 「お金は、またついでの時に持ってきてくださったら結構です。針を交換されるなら、調整料はサービスさせていただきます。その方がお得でしょう」。じゃ、そうしようかな。「しかし、針があったかな」と独り言をいいながら奥へ引っ込む。ややあって出てきた彼女。「製品からはずして、付け替えてきました。代金は来年でよろしいですよ」といって、別に住所を聞こうともしない。そのまま知らぬ顔をして帰るわけにもいかず、滅多に使わない名刺をおいて帰る。

 そんなことで、何度かサテンへ通ったが、何ための調整だったのかまったく覚えていない。その女性に会いに行ったわけでもないのだが。




A9092

092.あと5人

目 次 へ

-------カラヤン・ベルリンフィル-------- 

 「あと5人」というと、8回一死から藤川が出てくる話だと勘違いされるかも知れない。9回試合終了まであと5人である。ヤクルトに喰われたから、とうとう岡田もおかしなったか。・・・ちがうチガウ、そんなしょうもない話やナイ。 

 昭和41(1966)年春、カラヤン・ベルリンフィルが来るという。この前のウイン・フィルの時もそうだったが、NHKが絡んでいる。いつどこで発売するのか、よく分からない。当時、京都で音楽会の切符を取り扱っているところといえば、十字屋か、デパートのプレーガイドぐらい、全部訪ね歩いても2,3時間あれば回れる距離だったが、それでも取り扱うのか否か、それがよく分からない。

 それでも発売近くになるとなんとなく情報が流れてきて、阪急交通社でも「売るらしい」という。これは穴場やな。しかし、阪急交通社てどこにあるのや?。電話帳で調べてみると、四条大宮上がるだという。それはいよいよ穴場やぞ。・・・そこへ電話してみると、「知りませんよ」。さらによくよく調べてみると、四条河原町の地下にあるという。なんやそんなとこか。しかし、そこで念を押さなかったのが、けちのつき初めだった。

 発売日は3月1日(火)。運悪く勤めていた高校の卒業式の日だった。もう時効だから書くけれども、その年は卒業学年の担任でもなかったのをいいことに、そっと抜け出した。四条河原町の地下へ一目散。ベルリン・フィルの魔力はそれほど強い。目指す阪急交通社は確かにあった。しかし、周囲はしーんと静まりかえって何の気配もない。これはいくら何でもおかしい。続きに大丸へ行ってみた。張り紙がしてあって、「十字屋かNHKへ行ってくれ」とある。それならそうと、初めからはっきりしておけ・・・!。ワシは勤めをサボって来たんやぞ。

 四条から三条へ。息せき切って十字屋へ。70人ほどが並んでいた。これはアカン。こうなればNHKや。丸太町智恵光院。市電で行ったのか、タクシーで行ったのか憶えていないが、そんなことはどうでもエエ。・・・烏丸丸太町というバス停がある。それを見た修学旅行生が、「カラスまるまる太る町」、おかしな町名ネといったとかいわなかったとか。NHKはそこをずーと西へ行ったところである。

 着いた。当然、列ができている。前のやつから順番用紙なるものが回ってきて、「番号と名前を書くそうですよ」。見れば220番目。発売枚数は、と訊くと200枚だという。これはアカン。すぐに帰る気にもなれず最後尾にくっついていた。後ろにまだまだ列が伸びていく。ちょっと余裕が出てきて頭が回り出す。周りを見回してみる。NHKの職員がいるわけでもない。さっきの順番用紙は、ただの紙切れに、番号と名前を勝手に書いただけだった。NHKの正式のものだったのだろうか。誰かが私的に回したものらしい。発売枚数の200枚も、並んでいたやつがそういっただけで、正式なものではなさそうだ。・・・・ヨシ、待とうと腹を決めた。無念無想。あれこれ考え出すと雑念が入る。とにかく待つ。

 10時、発売開始。しかし、何列の何番と指定席の販売である。列は遅々として動かない。午後1時。やっと目の前に発売口が見えてきた。・・・と、悲鳴が上がった。「今まで待ってたのに・・・」、あと5人だった。「どこかに隠してない?・・・」。この仇は必ずどこかで・・・おぼえとれ!。しかし、よく考えてみれば、穴場ねらいをやって失敗し、あとは後手ごてに回ってしまった。典型的な失敗パターン。その後、写真でも同じ失敗を何度やったか。何事も追っかけてはダメ。

 とは思うものの、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。テレビでカラヤンの顔を見るたびに、お前、あのとき切符隠しとったやろ・・・。




A9093

093.春の祭典

目 次 へ

-------京響・100回定期-------- 

 昭和42(1967)年12月9日、京都市交響楽団第100回定期演奏会。指揮・外山雄三。曲目、ストラビンスキー、”ペトルーシュカ”、”火の鳥”、”春の祭典”。ハイドン、モーツアルトの創生期を思うと、よくぞここまでの感がある。

 京響の誕生が昭和30年。京都新聞社編「京都楽壇史点景」によると、「発足当時、総勢38名の団員のうち、プロのオーケストラで働いた経験のあるものは数名。まさにチェリウスのオーケストラ学校だった」という。それが100回目の定期演奏会でストラビンスキーである。

 そのときの常任指揮者・外山雄三は、チェリウス、カウフマン、森正につぐ4代目、この年の4月に就任していた。「100回という節目。チェリウスの薫陶で築かれた”モーツアルトの京響”という殻を破り、京響ここにありという意気込みを広くアピールしたかった。そう考えて敢えて三部作に挑戦した」と。

 楽員はやはり「春の祭典」に面食らったようだ。「七拍子、三拍子、四拍子、七拍子。六拍子・・・と小節ごとに変化する。自分が今どこを弾いているのか分らなくなることも再三だった」とある。

 ・・・・「外山らしいバイタリティーの爆発は、”春の祭典”という原始教を主テーマにしたバレエ音楽で、もっとも効果を上げた。ちょっと中だるみはしたが、、ストラビンスキーの色彩感もでたし、激しいリズム感も楽しめた」(京都新聞・柴田仁)

 ・・・・「外山雄三の持ち味にぴったり適合した現代作品だけに、音色の多彩さ、明るさなど、十分に楽しめるものだった。特にぐっと引き締まった表情の”春の祭典”がよい。あふれる野性味が特色のこの作品だが、生命力が爆発する瞬前での見事な棒さばきは、外山の音楽の新しい一面を示したものといえよう」(読売新聞・松本勝男)

 さて、その演奏会、私には、忘れられない記憶がある。当日のメモ。

 ・・・春の祭典の第一部、最後の全管弦合奏が強奏で終わるところで、余韻が吸い込まれるようにホールにこだまして消えていった。レコードでは聞けない素晴らしいものだった。単なるエコーやホールトーンでなくて、身の引き締まるような音楽空間だった。今までの音楽会では体験したことのない神秘的な時間であった。本当にそういう音が存在したのか、それともフォルテシモのあとの無音状態に感じられる耳のゴーストイメージだったのか。自分でもよくわからない。

 何かの演奏会で、身の引き締まるような音がホールに消えていったことは、はっきり記憶に残っていた。しかし、それは岩城宏之指揮の「三角帽子」だとばかり思いこんでいた。確かこのころだったぞと調べてみた。それが、京響100回定期だった。そーか、あの不思議な音は、そんな記念すべき音楽会だったのか。

 耳が鳴ったのか、ホールが鳴ったのか。俗に「耳がキーンと鳴る」という表現があるが、それがいちばん近い。そのときの席は確か、前から10番目ぐらいの中央付近だった。音をいちばん強く感じる席だった。耳キーンか、ホールの共鳴か、今となってはそれを確かめるすべはない。




A9094

094.荘厳ミサ曲

目 次 へ

-------ベートーベン-------- 

 昭和43(1968)年月6日、大阪フェスティバルホール。ベルリン聖ヘドウィッヒ大聖堂合唱団(一回で、詰まらずに読めたら、あなたはよほど舌がよく回る)、ボン・ベートーベンホール交響楽団の演奏会を聴く。ベートーベン「荘厳ミサ曲」初めて聴く大曲である。フェスティバルホールは7分の入り。

 写真、黄色く色あせているが、当時の新聞広告である。6日が「荘厳ミサ曲」、7日が第8番と第9番。10年前なら間違いなく7日を選んだだろう。

 指揮者は、コーラスの方がアントン・リッペ。オーケストラがヴァンゲンハイムであったが、6日はアントン・リッペが振る。やはり合唱団がイニシアティブをとっているのか。

 確かに、オーケストラは京響程度か。しかし、コーラスは実に素晴らしい。特に弱音に至っては天下一品。バリトンのソロに大橋国一。それがまた堂々と響く。まったくいうことなし。1時間半の大曲を連続ステージで歌いぬく。久しぶりで、真の音楽を聴いたとの感が深い。はなはだできの悪い、誤植の多いプログラムを除いては、まことに味わいのある音楽会であった。

 黄ばんだ広告のコピーを持ってきたのは、大橋国一の名を見ていただきたかったからである。大橋国一、いろいろ調べてみたが、生まれ年は分からない。しかし、後の新聞記事から逆算して当時30歳代半ばだったはずである。初めて聴いたのがいつだったか、はっきりした記憶もないが、京響の第9などでその歌声のすばらしさは聞き知っていた。一度大橋国一を聞けば、あとの歌手の歌は聴けなかった。ヨーロッパでも通用する歌手として、ザルツブルグ音楽祭などでも活躍をしているとの話も聞いていた。この演奏会は、そのころのことであろう。

 それから6年、昭和49(1974)年3月、新聞記事で彼の死を知った。直腸ガン肝転移だったという。享年42歳。あまりにも若すぎる死だった。・・・日本を代表するバス・バリトンの第一人者。・・日本では二期会、ヨーロッパではケルン歌劇場の専属歌手として活躍。世界の一線で歌う日本人歌手の先駆者。モーツアルト「ドン・ジョバンニ」、「フィガロの結婚」の主役、ワーグナー「ラインの黄金」のウォータン役など、堂々たる声と演技を見せた。今年(1974年)1月のNHK番組「ニューイヤーコンサート」が最後のステージとなった。・・・とある。




A9095

095.六甲おろし

目 次 へ

-------立川澄人-------- 

 もう一人、若くして亡くなったバリトンを・・・。立川澄人。

 昭和30年代、京響がオペラに取り組んだ時代があった。ひょっとしたら、労音での公演だったかもしれないが、モーツアルトの「魔笛」をやった。立川澄人が現れると舞台が変わった。どこが変わったかといわれると返事に困るのだが、とにかく舞台がピシッと絞まるのである。緊張で絞まるとかそういうことではない。舞台はむしろ明るく、楽しくなるのだが、ピシッと絞まる。パパゲーノが笛を吹くところなど、その一つ一つの仕草が絵になった。魔笛に限ったことではない。フィガロの結婚でもそうだった。すごいなといつも感心していた。

 その立川澄人が、「阪神タイガースの歌」を歌っている。「阪神タイガースの歌」といってもぴんとこないが、要するに、かの有名な「六甲おろし」である。21年ぶりの優勝ということで大騒ぎした昭和60(1985)年、まだ元気だった前の妻が、「おとうちゃん、これいるやろう」と、彼が歌うテープを買って来た。

 「六甲おろし」が何種類ぐらいリリースされているのか知らないが、私はこの立川バージョンが最高だと思っている。その理由、声の質、声量これが抜群、しかし、そんなことは当たり前である。オペラ歌手の第一人者なのだから。それ以上にもっと大事な理由がある。

 私がこだわるのは、歌詞の4行目、「・・・輝く我が名ぞ 阪神タイガース・・・」というくだりである。たとえば、古関裕而の死後発売された「古関裕而全集」に収録されているコロムビア合唱団版、その全集のための最新録音だという。これでは下のAのように歌われている。これだけに限らず立川版を除くすべてのものが、多分Aのように歌っているはずである。なぜなら、古関裕而がAのように書いているのだから。(付点音符などの表現が難しいので、間延びした表現になっているが、「かー」を1拍と計算してください。)

 A. かーーがやーくわ|がーーなぞーはん|しーーーんーたい|がーーーーーすー

 B. かーーがやーくわ|がーなーぞーはん|しーーーんーたい|がーーーーーすー

 ところが立川澄人はBのように歌っている。A.「わがーーなぞ」とB.「わがーなーぞー」の違いである。作曲者がこのあたりをどのように考えて書いたか、これは分らないが、私は「わがーーなぞ」と歌われると、非常にだらしなく感じてしまう。きっちり「わが、な、ぞ、」と等分してスタッカート風に歌う方が気持ちがいい。ビシッとした野球をやるぞという気迫が伝わってくる。作曲者の意図に反するという大きな問題はあるけれども、それでも私はあえて立川バージョンを支持する。

 両者に見解をきいてみたいところだが、残念ながら二人ともこの世の人ではない。立川澄人、Wikipediaによると、・・・1985年12月、鳥取県米子市内のホテルの年末ディナーショー中、最後の「メモリー」熱唱中に倒れ入院。一時的な回復を見せたが、大晦日に都内の病院にて脳溢血により死去した。56歳の若さだった。・・・という。ちなみに「六甲おろし」の発売は1980年だったとか。彼の死の5年前のことである。前の女房が、なぜ立川版を買ってきたのか。今となってはそれを聞くすべもない。




A9096

096.ミサ曲ロ短調

目 次 へ

------J.S.バッハ------- 

 昭和44(1969)年5月1日。大阪フェスティバルホール。ミュンヘン・バッハ管弦楽団、合唱団。バッハ作曲「ミサ曲ロ短調」。指揮:カール・リヒター。補助席を出すほどの満員。その最前列で聴く。

 当日のメモ。

 冒頭のキリエ、合唱の何と美しいこと。このコーラスは、リヒターが集めて作ったものというが、全員がアマチュアだとか。服装も黒に統一されてはいるが、デザインはまちまち。それにしても美しい。ドイツから持ってきたという小型のオルガン、そのまるく豊かな音色はレコードでは聞けないもの。

 見上げなければ舞台は見えないが、リヒターの的確な指揮を見ることができる。ヘフリガーの朗々たるテナー、ソットボーチェの唇のふるえまで見える。

 場内のざわめきが静まらないうちにタクトを振り下ろすぐらい大まかな指揮ぶりだが、それでいて、実にクリアーで豊か。レコードの限界を知る。

 東京公演を聴いた畑中良輔氏の新聞評。

 ・・・「感動があった。その形容すら拒否する純粋な感動が私にはあった。今まで数多くの優れた演奏家、演奏団体が日本を訪れた。そしてそれぞれが私に素晴らしい音楽を体験させてくれた。しかし、これらの感動と、この夜リヒターはじめ、ミュンヘンの人たちが与えてくれた感動とは、お互いの間に次元の違いがありすぎることに私は気付いた。

 『ロ短調ミサ』の冒頭”キリエ”が始まってしばらくたたぬうち、私は思いもかけぬ困惑をもてあましていた。そこにはレコードで聴かれる、あの魂をも引き裂くような痛切な叫びはなかった。バッハをひしとにらみ据えたリヒターの恐ろしいまでの目もなかった。その代わりに溢れるようなみずみずしいバッハがこの夜、東京に姿を現していた。」・・・

 それから四半世紀、「ヘフリガー日本の歌曲を歌う」というシリーズのCDが出た。1993年ごろである。日本の歌曲、たとえば「夏の思い出」、「浜千鳥」、「月の砂漠」などをドイツ語で歌うのである。ヘフリガーは「日本歌曲の魅力を、純粋に私自身の目で、耳で、そして心でとらえて歌った」という。ドイツ語がさっぱりの私が、何の抵抗もなく聞けるのだから不思議だった。

 ダーク・ダックスのバリトン喜早哲はいう。「先日、テレビでヘフリガーの”早春賦”を聞いたら、ドイツ語があまりにピタリなので驚いたよ。元々この曲はメロディーがモーツアルト的なところがあるが、総じて、瀧廉太郎、岡野貞一、山田耕筰、弘田龍太郎、成田為三など、ドイツ的クラシックの影響を受けた人が作曲したものは、ドイツ語訳がよく似合うネ」と。

 そういえば、先輩のAさんにフィッシャー・ディースカウを吹き込まれていたとき、ちょっとへそを曲げて買った「美しき水車小屋の娘」がこのヘフリガーだったような気がするが、そのレコードも今はなく確かめるすべもない。




A9097

097.交響曲第2番

目 次 へ

-------ブラームス-------- 

 昭和45(1970)年、大阪千里丘陵で日本万国博覧会が開かれた。いわゆる"EXPO70"である。「1970年のこんにちわ・・・」という歌が流行った。万国博のテーマは「人類の進歩と調和」、とにかくものすごい人で、どこもかしこも人の列。月の石を見るのに、何時間待ちだとか。人よんで、「人類の辛抱と長蛇」という。

 私は、博覧会だとか祭りだとかは、どうも体質に合わない。このときも職務の都合上、1回だけ嫌々行ったが、それ以後今に至るまで、博覧会と称するものに足を運んだことがない。

 それよりも「EXPOクラシックス」のぽうが大事だった。カラヤン、ベルリンフィルである。4年前、その切符を買うのにNHKで長時間並ばされ、あと5人で涙をのんだ。あのコンビが再びやって来る。今度こそあのときの仇を討ってやる。目の色変えて待ちかまえていた。

 ところが、今度は何の苦労もなく手に入った。そのからくりは忘れてしまったが、「4年前は何やったんや、エエかげんにせいよ!」と思った記憶がある。別に裏へ手を回すとか、後ろめたいことをやるとか、そんなことは一切なし。多分、フェスティバル協会が電話か何かで予約を受け付けてくれたのだろう。

 カラヤンは、ウインの時に1回聴いているわけで、それよりも世界に冠たるベルリンフィルが目的だった。さてその演奏会。昭和45(1970)年5月14日。大阪フェスティバルホール。

 当日のメモ

 モーツアルト・セレナーデト長調、K525。強いてベルリンフィルで聞きたいものでもない。ベートーベンの9曲連続演奏のあと、これを選んだのも分らなくはないが、やはりこれは木陰で聞くものだ。それも緑の木陰で・・・。円山公園で聞いた京響のほうが印象に残る。この小さなセレナーデに、3回も舞台へ現れたカラヤンも大げさすぎるし、呼び出した方もどうかと思う。

 ヘルベルト・フォン・カラヤン。11年前に見たものと少しも変わっていない。両膝を揃えて恥ずかしそうに頭を下げるのも同じ。客席に顔を向けながら足早に舞台を去るのも同じ。ここまでショーマン振りを発揮せねばならないのかと思う。

 第2曲、W・フォルトナー(1907〜 )の「マルギナーリエン」(注:1987年没。当然このときは健在だった。この題名、自分のメモでありながら、字がきっちり読めない。ひょっとしたら間違っているかも知れない。しかし、それが正しいかどうか、確かめる方法がない)。今年初演されたバリバリの現代音楽。もちろん本邦初演、無調音楽である。

 ペッペッペッ・・・ミュートをつけたブラス。ヒューとバイオリン。マリンバのグリッサンド。ほとんど120人ぐらいいて、フォルテシモは1回もなし。オーボエがプップッ、客席でガタンと何かを落とした音、それも結構音楽にとけ込む。ブロッケンシュピール。フルートがひゅー。バイオリンが背中をひっかくよう。ファゴットがぶんぶん。マリンバが消え入るよう。13分の小曲。結局は映画の伴奏音楽か。絶対音楽はロマン派で終わったのか。今の音楽は映像とともにあって初めてその意味をなす。

 メインイベントはブラームスの2番。無造作に始まる。淡々と続くブラームスの田園交響曲。第2楽章のホルン、オーボエ、フルートの掛け合いが見事。最後になって、オーケストラがフルに鳴る。今夜初めての満足感。

 ブラームスの2番、NHKFMを聞いて、同じドイツグラムホン盤でありながら、FMと我が家のプレーヤーとの差に愕然とした、曰く付きの曲である。その曲を生で聴いた。最後の最後にきて、やっと満足。そんな音楽会だった。




A9098

098.交響曲第5番

目 次 へ

-------ショスタコービッチ-------- 

 昭和45(1970)年7月1日。大阪フェスティバルホール。レニングラード・フィル演奏会。指揮:A.ヤンソンス。これもEXPO70クラシックスの一環。ムラビンスキーが来る予定だったが、病気だとかで、ヤンソンスに変わる。

 当日のメモ
 フルメンバーと思われる100名を越えるオーケストラを前に振り下ろされる第1拍。しかし、それはあのショスタコービッチの5番のものではない。振り間違え?、一瞬のそんな疑問の後に流れる「君が代」のメロディ。客席は全員起立してそれに応える。続いてソ連国歌。

 そしてショスタコービッチの第5番。しかし、それもレコードで聞くNYフィルの振り始めではない。ぐっと押さえた高音。地の底からわき出てくるような低音。これが本場レニングラードのショスタコービッチか。

 チェレスタの上昇音で終わる第1楽章。第3楽章のフルートのソロ、それを支えるハープ。秋の信州。ハープとチェレスタで静かに消える。そして、第4楽章の堂々たるブラスの行進曲が続いて出なければならないのに、一息入れた。惜しくて仕方がない。もちろん楽譜には続ける指定はないのだろうから、休んで当たり前なのだろうが、ここは続けてほしかった。

 しかし、それはいっても仕方がないこと。とにかくブラスが素晴らしかった。開演前の、控え室で吹いていたトランペットを聞いて、きょうは本当のブラスが聞けそうだと期待していたのが実現したわけ。特に6本のホルンと4本のトランペット、透明な美しい音。

 コーダ、シンバルの破壊力。王者の行進のごときティンパニ。特に最後、ソロになる4発の豪快な音。これだけでも聞きに来た甲斐があった。

 チャイコフスキー第5番。2楽章のホルンにつきる。素晴らしいソロ。ヨーロッパのそれのように、あの角笛の牧歌ではない。秋から初冬への、黄葉した白樺の葉が舞い落ち、その上に暗い空から初雪が舞いくるような音である。それにオーボエが絡む。これがチャイコフスキーのホルンである。アメリカのオーケストラではこの音は出まい。

 アンコールは白鳥の湖・情景とグリンカのリュスランとリュドミーラ序曲。どちらもお国もの。一曲ぐらいはドイツものを聞きたかったといえば贅沢か。

 新聞評
 ・・・感情におぼれず、情緒に傾かず、高度の知性と、洗練された感覚の見事な融合を持って演奏されたショスタコビッチとチャイコフスキーの卓越した解釈は、ロシア音楽に対する私の既成概念を、わずか2時間半で粉砕してしまった。
 12のチェロと9つのコントラバスで低音部を著しく補強した弦楽器群は強力無比。にび色に輝き、限りない底力を秘めて鳴り響く金管とティンパニはロシア音楽に欠かせないものだろうし、一瞬二台のハープとチェレスタが完全に一体となってひいてのけた旋律での、あの合奏の妙味は。想像を絶する厳しい訓練が、その背後にかくされていることを示していた。・・・(諸井誠)




A9099

099.交響曲第6番

目 次 へ

-------ショスタコビッチ--------- 

 昭和48(1973)年5月21日。京都会館。ムラビンスキー指揮、レニングラードフィルハーモニー交響楽団(現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団 )演奏会。

 万博のときに来るはずだったムラビンスキー、そのときには病気とかでヤンソンスが代役だった。そのときの印象で、かつて聞いた世界のオーケストラのうち、ベスト3に入ると感じたレニングラード。(ちなみにベスト3とは、ウイーンフィル、パリ音楽院管弦楽団とレニングラードフィル)。そのレニングラードが今度は間違いなくムラビンスキーで聞ける。期待は大きかった。

 当日のメモ
 長身の古武士を想わすムラビンスキー。もう20年も前に映画「レニングラード交響曲」で見た指揮ぶりと同じ。派手さはないがそこから出てくる音は、紛れもないショスタコビッチであり、チャイコフスキーである。

 ショスタコビッチ、交響曲6番。ピッコロ、ファゴット、イングリッシュホルンそしてブラス群。あまり聞き慣れない交響曲第6番。どんな曲かと期待したが、5番ほど大向こうをうならすことのない渋い曲。聞き慣れて、いささか通俗的な5番よりはいい曲だと思う。

 舞台の楽器の配置は、一見、鏡に映ったオーケストラを見ているのではないかとびっくりする。およそ常識はずれの配置。ヤンソンスのときはノーマルな配置だったから、ムラビンスキー独特のものか。おかげで2階左のC席からは、トロンボーン、トランペットが真正面。チャイコフスキーでは素晴らしいブラスの音を堪能する。

 Sym5の2楽章で見せたホルンの素晴らしかったこと。久しぶりに感銘深い演奏会であった。ロビーでショスタコビッチの6番と森の歌のレコードをかって帰る。




A9100

100.交響曲第6番「田園」

目 次 へ

-------ベートーベン--------- 

 「クラシックカフェ、きょうの後半はベートーベン作曲・交響曲第6番”田園”をお送りします」とのアナウンス。2010年3月7日。早春の午後、旧中主町の田園地帯を走っていたとこのことである。有名な曲だけれども、いつもいつもかかる曲ではない。瞬間、久しぶりにワルターで聞きたいな、そんな思いが脳裏をよぎった。 と、それを読んでいたかのように、「演奏は、ブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団で・・・」
 私がレコード道楽を始めたころ、指揮者といえばフルトベングラー・トスカニーニ・ワルターと相場が決まっていた。その中フルトベングラー・トスカニーニの2人はモノーラル時代にこの世を去り、ひとりワルターだけがステレオ時代まで命を長らえた。晩年、演奏会活動を引退後もコロンビア交響楽団を指揮して貴重な録音を残した。その中でも”田園”は定評があった。

 いつかも書いたように、最初に買ったレコードが、ドボルザークの”新世界より”だった。2枚目は何にするか。あれこれ考えたが、別段珍しい智恵が浮かぶはずもない。円山音楽堂の土曜コンサートで聞いたモーツアルトの”アイネクライネナハトムジーク” が忘れられずに、これにしようとS屋レコード店にいった。そのときそのレコードが店にあったのかなかったのか、気がつけば同じモーツアルトの39番と41番をカップリングしたものを持って帰ることになっていた。「悪いこといわへん、これなら間違いないのやから」。主人の声に送られて店を出た。その指揮者がワルターだった。オーケストラはどこだったか、現物がないから確かめるすべもないが、ニューヨーク・フィルではなかったか。すくなくともコロンビア交響楽団とのステレオ録音を始めるずっと前の話である。

 さて”田園”、その当時のレコード雑誌によると、ベートーベンの偶数番号はワルターだという。ふん、そんなものか。 自分で判断する能力がないのだから言われる通りにするしか仕方がない。”田園”を買うときはワルターにしようと思っていた。そんな話を先輩のAさんにしたところ、「それはアカン、”田園”ならクライバーにせい」という。クライバーといえば、カルロス・クライバーを思い浮かべる人もあろうかと思うが、ここでいうクライバーはそのオヤジのエーリッヒ・クライバー。これまた、ふーん、そんなものかと思う。遠くの雑誌より近くのなんとかで、レコードコレクションの何枚目かで、クライバーの田園が並ぶことになる。

 ということで、我が家にワルターの”田園”がやって来たのは、CDのベートーベン全集の中の1枚としてであった。輸入盤として全9曲がいくらだったか。とにかく安月給で月1000円か2000円かをS屋レコード店へうやうやしくもっていっていたときのことを考えると何分の一かの感覚だった。値段で音楽の価値が決まるとは思わないが、感激は異なる。ましてや全集の中の1枚となると、ワルターさんには申し訳ないが、一通り聞き終わると後は棚の上。

 そんなことを思い出しながら車の中で聞いていたが、2楽章の途中で目的地に着いてしまった。家へ帰ってCDをかければいいのだが、よし、このまま聞こう。日当たりのいい駐車場はエンジンを切っても暖かだった。例の雷鳴より稲妻が後で光るという第3楽章は憶えているのだが、そのあと気がついたときには番組は終わっていた。ああ、何という幸せ、ベートーベンさま、ワルターさま、ありがとう。




目 次 へ 1頁へ戻る このページのトップへ