---昔語り『音楽夜話』・1---



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001.露営の歌

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 一応、続けるつもりで「1」とナンバーをつけましたが、どこまで続くかは分かりません。どんな話になるのかも分かりません。とにかく始めます。・・・  

 まずは、『露営の歌』・・・・勝ってくるぞと 勇ましく・私のいちばん古いメモリー

   作詩 藪内喜一郎  作曲 古関裕而
     1 勝ってくるぞと 勇ましく
       誓って故郷(くに)を 出たからは
       手柄立てずに 死なりょうか
       進軍ラッパ 聞くたびに
       瞼(まぶた)に浮かぶ 旗の波

 「何?それ、露営て何?」、「直訳すれば屋外でのキャンプだけど」、「ワアー、キャンプの歌か」。もちろん、キャンプといってもただのキャンプではない。
 これを書き出すに当たって、自分のいちばん古い音楽(歌)の記憶は何だろうと、考えてみた。結果、行き着いたのがこの歌だった。作曲者古関裕而の年表によれば、昭和12年8月発売とある。私はこのとき3歳。この年から始まった当時の支那事変、いまでいう日中戦争の戦意高揚のために作られた歌である。とにかくはやった。ゲートルを巻いて、銃を持った兵隊が見張りに立つ姿が絵本に載っていたのを覚えている。

 「勝ってくるぞと勇ましくー・・・・」で始まる歌は、戦後、バーゲンセールに出向くおばちゃんを揶揄して、 「買って来るぞと勇ましく、誓って家を出たからは・・・・」と替え歌にもなった。
 「・・・・手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞くたびに 瞼に浮かぶ旗の波」。
 数多くの若者が、この歌に送られてふるさとを出た。そして、二度と日本の土を踏むことはなかった。わたしも大人たちに混じって旗を振って送った側だが、送られる側はどんな気持ちだったのか。いまとなって胸が痛む。
 「・・・・しばし露営の草枕 夢に出てきた父上に 死んで還れと励まされ さめて睨むは敵の空」。3番の歌詞である。我が子に、「死んで帰れ」と励ます親がどこにいるのか。これが戦争の狂気である。




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002.愛国行進曲

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 これも私のもっとも古い記憶に残る歌である。昭和12年12月発売というから、『露営の歌』とほぼ同じ、私の小学校低学年のころまで、国民的マーチとして歌われた。いまでも1番だけなら自然と口をついて出て来る。何の意味かも分からずに憶えてしまうのが歌の力でもあり、怖さでもあるのだが、文字にしてみると・・・・。はてさて何たる美辞麗句、なんたる空虚。こういう詩をを書ける詩人の頭脳構造はどうなっているのか。

    作詩 森川幸雄   作曲 瀬戸口藤吉

 見よ東海の空あけて 旭日高く輝けば
 天地の正気溌剌と 希望は踊る大八洲
 おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ
 金甌無欠揺ぎなき わが日本の誇りなれ

 私の子供のころ、絵本の主役は特急「つばめ」号だった。チョコレート色の流線型電気機関車EF55に牽ひかれて驀進する姿。最後尾のオープンデッキ展望車。それが富士山をバックに快走する。ある時、京都駅で特急「さくら」を見たことがある。展望車はついていなかった。それでも、日本中で特急が走るのは、東海道線だけだと教えられて誇らしかった。後で考えれば、山陽本線も走っていたのだが、それはさておくとして・・・。
 日本で唯一特急が走る線、東海道本線。「見よ東海の空あけて」というのは、その東海道線の夜明けだと思っていた。大八洲(おおやしま)も金甌無欠(きんおうむけつ)もどうでもよろしい。「聳ゆる富士・・・(をバックにした特急「つばめ」)・・・の姿こそ、わが日本の誇りなれ」だった。

 いま学校の指導要領に愛国心が云々されている。内容を伴わない美辞麗句が出てきたら要注意。内容を伴わないことにかけては、X会の質問も答弁もその最たるものだが。





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003.紀元二六〇〇年

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・・・・金鵄あがって十五銭

 とりあえずもう一曲、大言壮語のすごいやつを。 

 昭和15(1940)年、私は小学校1年生だった。この年、神武天皇即位2600年に当たるとして、奉祝行事が行われた。そのときの奉祝國民歌が、この「紀元二千六百年」である。R.シュトラウス(ドイツ)が「日本建国2600年祝典曲」を寄せている。 「戦争レクイエム」等で有名なB.ブリテン(イギリス)も「 シンフォニア・ダ・レクイエム(鎮魂交響曲)」を寄せているが、演奏されなかったという。

 さて、その奉祝歌
 内閣奉祝會撰定/紀元二千六百年奉祝會・日本放送協會制定
 増田好生 作詞/森義八郎 作曲

 金鵄(きんし)輝く日本の
 榮(はえ)ある光身にうけて
 いまこそ祝へこの朝(あした)
 紀元は二千六百年
 あゝ 一億の胸はなる

 「金鵄」というのは、神武天皇の東征のときにどこからともなく金色のトビが現れたという古事を歌ったものだが、とにかくすごいんだわ、このころの歌は。「あなたがかんだ、小指が痛い・・・」なんてのとは全然違う。

 荒(すさ)ぶ世界に唯一つ
 ゆるがぬ御代に生立ちし
 感謝は清き火と燃えて
 紀元は二千六百年
  あゝ報國の血は勇む

 この調子でがんがん行くんだからたまらない。

 金鵄あがって十五銭
 栄えある光三十銭
 今こそあがる煙草の値
 紀元は二千六百年
  あゝ一億の金は減る

 これは替え歌に軍配が上がる。もちろん「金鵄」も「光」もたばこの銘柄である。




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004.高原の旅愁

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・・・・昔の夢の懐かしく

 作詞:関沢潤一郎、作曲:鈴木義章、歌:伊藤久男

  むかしの夢の 懐かしく
  訪ね来たりし 信濃路の
  山よ小川よ また森よ
  姿むかしの ままなれど
  なぜに彼の君 影もなし

 レコードの発売が昭和15年5月のだという。例の「金鵄(きんし)輝く日本の・・・」とほぼ同時期。軍歌一色の中で、異色と言っていい抒情歌である。「訪ね来たりし・・・」、「・・・ままなれど」、所々に入る文語調がいい。それに加えて、伊藤久男の朗々たる声もたまらない。私の好きな歌の一つである。
 にも関わらす、この曲との出会いは全く記憶にない。ほぼ同時発売の「金鵄(きんし)輝く日本の・・・」が、替え歌まで含めて、その当時の記憶がまざまざとよみがえるというのに。

 昭和15年、私は小学校1年生だった。それから60年以上の歳月を経ているというのに、そのころの軍歌は歌い出せばきりがないほど頭に残っている。不思議であるというより怖い。その年齢の子供たちの頭に、一方に偏った情報が入り込むことの怖さである。そのころの子供たちは、軍歌で飼育されたモルモットだった。

 「アザミの歌」、「山の煙」、「さくら貝の歌」、すべて戦後の歌だが、私の好きな歌である。作曲はすべて八洲秀章(やしまひであき)。「高原の旅愁」の作曲者・鈴木義章がのちの八洲秀章だと知って、なるほどと納得したのは戦後かなりたってからだった。




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005.琵琶湖哀歌

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 ・・・・遠くかすむは 彦根城

 作詞:奥野椰子夫、作曲:菊地博

  遠くかすむは 彦根城
  波に暮れゆく 竹生島
  三井の晩鐘 音絶えて
  なにすすり泣く 浜千鳥

 抒情歌をもう一つ。生まれたときから軍歌漬で育った私が、軍歌以外の曲を、流行したその時点でリアルタイムに聞いた最初の歌である。この歌を聞くと、白いエプロンがけで家事をしながらこの歌を歌っている母の姿を思い出す。それも1番ではなしに、「瀬田の唐橋こぎぬけて・・・」という2番の冒頭である。

 この詩に詠われた旧制第四高等学校(現在の金沢大学)のボート部員の遭難事故が昭和16年4月6日、母が死んだのが昭和18年7月、晩年は歌など歌える状態ではなかったから、私の記憶にある姿はおそらく、この歌がはやりだした16年末から17年初頭のころであろう。

 昭和45年、滋賀県へ引っ越して『琵琶湖周航の歌』を初めて聞いた。それまで、琵琶湖周航の歌というのがあることは知っていたが、琵琶湖哀歌の別名だと思っていた。へー?別の歌だったのかと驚いた。

 いまでも、周航の歌をうたうと、
  「われは湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと・・・」の後、かならず「三井の晩鐘 音絶えて・・・」とつながってしまう。難儀なことである。
 逆に哀歌から周航の歌につながることは、ない。不思議である。


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006.暁に祈る

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 ・・・・ああ、あの顔で、あの声で

作詩 野村俊夫  作曲 古関裕而

 ああ あの顔で あの声で
 手柄頼むと 妻や子が
  ちぎれる程に 振った旗
 遠い雲間に また浮かぶ

 ごめんなさい、また軍歌になってしまった。きのうの『琵琶湖哀歌』は、その歌を聞いた記憶だが、これは自分がうたった記憶である。歌の発表は昭和15年ということだが、私のその記憶は、昭和18年か、ひょっとして19年・・・。19年にはたびたび空襲警報が発令されてしたから、そんな悠長なことはしておれない。たぶん18年ではなかったか、それも夏休みのある日。

 近所にY川という少年が引っ越してきた。私より一歳年上だった。そのY川少年が陸軍病院へ慰問に行こうという。そのために一緒に練習しようといったのか、私だけに「歌え!」と命令したのか、細かい記憶は定かでないが、その時うたったのがこの歌だった。

 場所はその当時住んでいた京都伏見の私の家。「うたう、うたう、何うとたらエエの?」、「暁に祈るや」、「アカツキニイノルてどんなん?」、「アホ、暁に祈る知らんのか・・・。ああ、あの顔で・・や」、「ああ、それなら知ってる」。そんなやりとりとともに、壁をバックにして歌ったのをはっきり憶えている。

 そのあと、たしかに京都藤森の陸軍病院へ慰問に行った。しかし、そのとき連れて行ってくれたのは、近所のY田さんのお姉ちゃんで、Y川少年が一緒にいたかどうかの記憶はない。

 この歌は3番に

 ああ 傷ついた この馬と
 飲まず食わずの 日も三日
 捧げた生命 これまでと
 月の光で 走り書

 とあるように、軍馬を歌った歌で、当時の陸軍省馬政課課長が、『硫黄島からの手紙』で脚光を浴びた栗林忠道中将であったという。もちろん当時はそんなこと何も知らない。Y川少年とのやりとりのように、大人が歌っているのを聞いて憶えるのだから、正式な題名も知らない。いま、歌と題名が一致するのはすべて、戦後の話である。




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007.アッツ島血戦勇士顕彰国民歌

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 ・・・・刃(やいば)も凍る北海の

 作詞:真巽 久信  作曲:山田 耕筰

 刃(やいば)も凍る北海の
   御盾(みたて)と立ちて二千余士
  精鋭こぞるアッツ島
   山崎大佐指揮をとる
   山崎大佐指揮をとる

 「アッツ島玉砕」、あの時代に生きていた日本人には忘れられない言葉である。アッツ島、アリューシャン列島の一孤島である。そんなところでどうして、といまのわれわれは思う。昭和18年5月12日から始まった戦闘は、17日間に及ぶ激しい戦闘の末、日本軍の玉砕に終わった。小学校4年生だった私は、このとき「玉砕」という言葉を初めて聞いた。

 しかし、山田耕筰作曲のこのような歌があったことは、つい最近まで知らなかった。歌手・伊藤久男の死後、買い求めたCD・伊藤久男全集の中にこの曲が入っていた。驚いた。山田耕筰が「作った」のか「作らされたのか」その辺りのことはわからないが、戦死者の家族がこの歌をどんな気持ちで聞いたのか。
 いくら「・・顕彰国民歌」だとはいえ、いかに「玉と砕ける」とはいえ、こんな内容の歌を皆が歌うはずがない。耳からしか入らない私の記憶に、それが残っていなかったのは当然のことである。

 歌詞の4番に「・・・・敵六千は屠れども 我また多く喪(うしな)えり」とある。おそらくこの歌詞は大本営発表をもとに作られたものであろう。戦後の記録では、死者、日本軍 2,351名、アメリカ軍600名とある。いかに「大本営発表」とはいえ、10倍の誇大広告はひどい。それはともかくとして、尊い命を散らした日米合わせて3000名の若者に謹んで鎮魂の意を捧げる。




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008.燃ゆる大空

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 ・・・・燃ゆる大空気流だ雲だ

 作詞:佐藤惣之助、作曲:山田耕筰

 燃ゆる大空気流だ雲だ
 あがるぞ翔るぞ迅風の如く
  爆音正しく高度を持して
 輝くつばさよ光華と勢え
  航空日本空ゆくわれら

 この曲も山田耕筰の作曲である。アッツ島玉砕と違ってまだ救われる。「モユルオーオーゾオーーラ」、と小学生もよく歌った。しかし考えてみれば、クラシック界の大御所もこういう曲を作りたくて作ったわけでもないだろう。作らなければならない時代だったんだなと思う。

 作詞が佐藤惣之助。わが阪神タイガース『六甲おろし』の作詞家である。「・・・蒼天翔ける日輪の・・」、難しいんだなー、この人がこうゆう詩を書けば。燃ゆる大空・・まではいいとして、その後小学生に分かったとは思えないのだが、そこはそれ、耳学問で。

 歌詞が難しいからという理由で、いい曲が教科書からはずされていくが、あれは間違い。それが証拠に、あの難しい六甲おろしを、甲子園では小学生が「テツワンキョーダ、イクチタービ」と歌っているではないか。この外国語のような歌詞が「鉄腕強打幾千度」とつながっている子供はたぶんいないだろう。耳学問でいい。必ずあの子たちは、鍛え抜かれたタイガースファンになる。

 脱線した。脱線ついでにもう一つ。戦後入学した旧制の大谷中学校の校歌が北原白秋作詞、山田耕筰作曲だった。びっくりした。小学校の教科書で何べんも見た名前がそこにあったのだから。すごい校歌だと思った。

 その後、映画『ここに泉あり』で、山田耕筰本人が画面に現れてまた驚いた。群馬交響楽団の練習場に、旅行の途中で立ち寄ったというとってつけたような設定だった。まだ冷房もない時代、団員たちがシャツ一枚で練習しているところへ激励に現れるのである。モノクロの映画で、団員たちの白いシャツと、山田耕筰の夏服の正装、帽子を取ったときのはげ上がった頭、すべてが妙に白かったのが印象に残っている。




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009.若鷲の歌

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 ・・・・若い血潮の予科練の

作詞:西条八十  作曲:古関裕而

  若い血潮の予科練の
 七つボタンは桜に錨
  今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃ
 でかい希望の雲が湧く

 「わーかい ちーしおの よかれんのー・・・」、よくはやった。文句なしにはやった。

 そんなある日、私の通う小学校へ、七つボタンのお兄さんが2人やってきた。そのうちの一人が私と同じ町内のTさんだったから、強く印象に残っている。講堂で全校生が集まって激励会だったのか、講演会だったのか。内容は全く記憶がないが、とにかく集会が行われた。終わりぎわに「君たちも来てくれよ。待ってるぞ!」と呼びかけられたのだけが記憶に残っている。

 レコードの発売が昭和18年9月、七つボタンも、桜も、錨もこの歌で知ったのだから、それから逆算すると、お兄さんがやってきたのは昭和19年、小学校5年生ということになる。私は体が弱く、行けるはずもなかったし、行きたくもなかったが、作文には「ボクも行きます」と書かなければならなかった。

 そのあと、遠足で訪れた浜大津で、当時「下駄履き」と呼ばれていた練習機が飛んでいるのを見た。

 時代は過ぎて、いまから20年ほど前、三上山の写真を撮るため大津市堅田の湖岸を歩いていて、城山三郎作、「一歩の距離」の文学碑に出会った。『若鷲の歌』は霞ヶ浦だが、この小説の舞台は大津。学生を横一列に並べて、時局の急を告げた後、(特攻隊へ)「志願するものは一歩前へ」と募る。一歩前へ出たもの、出なかったもの、互いの心の葛藤。
 自由外出を許された日、予科練生の一人が浮御堂で母親と密かに会う。それを他の予科練生が見てしまう。手紙等すべて検閲され自由に連絡できないはず。どうして母親と連絡を取ったのか。母親への手紙で、切手糊面の中央にに日にちだけを書き込み、周囲を糊づけにして出していたのだという。それがばれたときの凄惨な制裁、そして死。すべてが小学生の時に見たあの赤い「下駄履き」につながった。




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010.出征兵士を送る歌

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 ・・・・わが大君に召されたる

 作詞:生田 大三郎  作曲:林 伊佐緒

 わが大君(おおきみ)に召されたる
  生命光栄(はえ)ある朝ぼらけ
  讃えて送る一億の
  歓呼は高く天を衝く
  いざ征(ゆ)けつわもの日本男児

 まあ、すごい歌詞である。このころの詩人は、どうしてこのような詩が書けたのか。しかし、それはさしおいて、きょうは作曲者・林 伊佐緒。この曲は、昭和14年、当時の大日本雄弁会講談社(現講談社)が陸軍省と提携して公募。そのとき、すでにキングレコード専属の歌手だった林 伊佐緒の曲が当選した。一般応募だったという。

 歌手としても有名だが、作曲者としても、「ダンスパーティーの夜」、「真室川ブギ」、「高原の宿」など、自作自演で多くのヒットを飛ばす。そのほかにも、三橋三智也の「リンゴ村から」、「リンゴ花咲く故郷へ」、「母恋吹雪」、春日八郎の「海猫の啼く波止場」、「長崎の女」、「ロザリオの島」など。

 その中で「長崎の女」(昭和38年)。この歌もよく歌われた。このころには、わたしはこの種の歌に興味を失っていたが、これを聞いたときに、子どものころによく似た感覚を体験したことを思い出した。

 私はいまでも、この「長崎の女」をまともに歌えない。歌っている間に行ったり来たりするのである。そういえば、『出征兵士を送る歌』がそうだった。「・・生命光栄(はえ)ある」と「・・讃えて送る」が、この部分、ほとんど同じメロディーで始まって、途中から気がつかないままにひょいと変化するのである。うっかり歌っていると元に戻ってしまう。

 「長崎の女」も、同じパターンがある。「・・風にこぼれる 石畳」と「・・尋ねあぐんだ 港町」、ここにはまりこむと無限循環に陥る。そうか、両方とも林 伊佐緒だったのかと妙なところで納得した。

 
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