---昔語り『音楽夜話』・2---



A1011

011.加藤隼戦闘隊

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 ・・・・エンジンの音轟轟と

 作詞:田中 林平・旭 六郎  作曲:原田 喜一・岡野 正幸

 エンジンの音轟々と
  隼は征(ゆ)く雲の果て
  翼(よく)に輝く日の丸と
  胸に描きし赤鷲の
  印は我等が戦闘機

 曲そのものは昭和15年に作られたらしいが、レコード化されたのは昭和18年だという。3連音符が随所に使われ、軍歌としてはしゃれたスタイルだったといえよう。この歌もよく歌われた。しかし、私自身としては、当時これといった記憶はない。ただ一般的にはやっていただけという歌をなぜここで取り上げたのか。まあ、あわてずに最後まで読んでください。

 1999年4月。土曜・日曜だけ、自宅を開いて、三上山の写真を展示することを始めた。新聞等で取り上げていただいたこともあって、最初のうちは、毎日何人かの方が、来てくださった。初めてから2年ほどしたころだったろうか。人の流れが一段落したある日のこと、Oさんとおっしゃる、かなりご年輩のご夫婦がお見えになった。

 聞けば、永年建築写真で生計を立ててこられたとのこと。いまは第一線を退いて風景写真を楽しんでおられるとか。私は風景写真ももちろんだが、建築写真にも少なからず興味があったので、いろんなことを教えていただいたりして、楽しいひとときを持たせていただいた。
 そんなことがご縁になって、その後Oさんご夫妻は、2〜3ヶ月に一度ぐらいの割合で、遊びに来てくださるようになった。新たに撮られた写真を見せていただくのがほとんどだったが、そんなある日のこと、そのOさんが「私、昔、飛行機に乗っていたんですよ」とおっしゃった。

 「飛行機?」、「どこか、海外旅行でも?」。「いえ、操縦してたんです」、「建築の現場写真を操縦しながら撮ってたんですか」。操縦しながら写真が撮れるか。考えてみれば間の抜けた質問をしたものと、後で自分自身馬鹿らしくなったが、その時はそう考えるしかなかった。

 「戦闘機ですよ」。「???戦闘機て・・・、戦争中の?・・」、またばからしい質問。観光用の戦闘機ががあるか?。「そう、加藤隼戦闘隊」、「へえー?」。思わず「本当ですか」と聞き返してしまった。「どうして、いま・・・」、また馬鹿な質問だと思ったが、Oさんは平然と「不時着しました。それで助かったんです」。敵の弾に当たっての不時着だったのか、自機不調による不時着だったのか、どこへ不時着されたのか、細かいことは聞き逃したが(聞いても分かるはずもないが)。

 加藤隼戦闘隊。私などには歌の中の世界、架空の世界でしかなかったのだが、実際にその戦闘機に乗っていたという人が目の前に現れた。テレビゲームの中から、本当の人間が現れたばかりに驚いた。戦争はまだ終わっていない。


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012.空の神兵

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 ・・・・藍より蒼き大空に大空に

 作詞:梅木 三郎  作曲:高木 東六

  藍より蒼き大空に大空に
  忽(たちま)ち開く百千の
  真白き薔薇の花模様
  見よ落下傘空に降り
   見よ落下傘空を征(ゆ)く
   見よ落下傘空を征く

 軍歌の中の叙情曲である。作曲は「水色のワルツ」の高木東六。なるほどと納得する。「そらのしんぺい」と入力しても「・・新兵」としか出てこない。Wikipediaによると「空の神兵とは、大日本帝国海軍、並びに大日本帝国陸軍の落下傘部隊(空挺部隊)に対する愛称、またはそれをモデルにした映画及び軍歌の題名」だという。

 この歌の対象になったのは、1942年(昭和17年)1月11日、海軍陸戦隊落下傘部隊によるセレベス島メナド、同年2月14日に陸軍挺進連隊(落下傘部隊)によるスマトラ島パレンバンに対する敵前奇襲降下である。レコードの発売がその年の4月。計算をすると私は小学校3年生ということになる。何も分からず、皆が歌うのを聞いて憶えただけである。

 この曲、というより落下傘部隊の話になると、といった方が適切かも知れないが、必ずついて回る写真がある。

 青い大空(もちろん写真はモノクロだから、色などついていないのだけれども)の中を、大きく広がってシャボン玉のように点々と舞い降りてくる落下傘群(パラシュートとはいわない)、それをバックに鉄兜(てつかぶと・ヘルメットとはいわない)に、迷彩用のネットをかぶり、銃を抱えて中腰で前進する兵士の姿。それを地面すれすれのローアングルでアップした写真である。

 この写真、実は合成写真だったと、何かで読んだ記憶がある。こんな写真が実際に撮れるかどうか、考えてみれば直ぐ分かることで、もし実写だとしたら、カメラマンも落下傘部隊と同時に飛び降りなければ現地におれないはずなんだから。バックの大空も、前進する兵士も、どちらも練習のときの写真であって、それら2枚を合成したものだという。たぶん当時の大人は、分かっていてだまされたふりをしていたのだろう。

 そしてこの歌詞の4番に

  讃(たた)えよ空の神兵を神兵を
  肉弾粉と砕くとも
  撃ちてし止まぬ大和魂(だま)
  我が丈夫(ますらお)は天降(あまくだ)る
   我が皇軍は天降る
   我が皇軍は天降る

 とある。我が○○は天降る。いまも十分現役で通用する言葉である。もちろん、飛行機から命をかけで飛び降りて、純粋に戦った若者を揶揄していっているのでない。合成写真を使って、若い兵士を神兵と祭り上げ、後ろで操っていた得体の知れない組織に、いまの天下りと似た体質を感じるのである。




A1013

013.勝ち抜く僕ら小国民・1

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 --------60余年まえの亡霊・1--

 そして昭和20年、あとわずかで5年生が終わるという3月13日深更から14日未明にかけて、大阪が大空襲を受けた。

 当時私は京都市伏見区肥後町に住んでいた。市電通りの道ばたに防空壕が掘ってあった。といっても、畳2枚を縦に並べたぐらいの場所を、大人がしゃがんですわれるぐらいに掘っただけのものだったが、そこへ近所の人たちと一緒に、畳を上からかぶせて潜っていた。空襲警報が解除になったころ、雨が降ってきた。大火災の上昇気流による雨である。

 翌朝、夜が明けなかった。大阪の煙が京都まで流れてきて、空を覆っていたのである。朝8時、学校へ行っても授業にはならなかった。確かその日は休校になったのではなかったか。

 そんなことがあって、かねて準備が進められていた集団疎開の実施が早められた。年度が替わってということになっていた出発日が、急遽3月25日に繰り上がった。疎開先は京都府乙訓郡奥海印寺村楊谷寺、俗に言う柳谷観音である。伏見板橋小学校(当時は国民学校)から柳谷まで、ざっと測って10Kmあまり、曲折を考えると、おそらく15Km近くにはなるだろう。その道をわら草履一足を予備として歩いていった。

 このあと、柳谷観音内で2カ所、門前の旅館に2カ所、計4カ所に分かれて、疎開児童のノミとシラミとの同居生活が始まる。麓の村の小学校へ、形ばかりの編入式はあったが、ちっぽけな村の小学校に、100人を越える編入生を受け入れろという方が無理だったろう。その後半年間、学校へ通った記憶はほとんどない。毎日、毎日、米(それも配給があっての話だが)や野菜の運搬(といっても、各自徒歩で山を下って、手に持って帰るだけ)。山へ柴刈りに明け暮れた。 




A1014

014.勝ち抜く僕ら小国民・2

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 --------60余年まえの亡霊・2--

 きょうぞうさーんのかえりみち、
  みんなでつーんだはなたばをー、
 えーいれいとーおーにー さーさげーたーらー・・・

 昭和20年といえば、『リンゴの歌』、これが定番だが、それは戦争が終わってからの話である。戦争末期、20年前半はどうだったのかと記憶をたどっていて、この歌を思い出した。タンスの引き出しのそのいちばん底から出てきたような、記憶の断片である。おぼろげながらのメロディーと歌詞の断片。これが記憶のすべてである。

 第2フレーズの、「みんなで摘んだ花束を」は、これはいまの若い人にも分かる。第3フレーズはどうだろう。「英霊塔に捧げたら」だが、若い人に英霊塔が分かるかどうか。それはさておき第1フレーズ、これがくせ者。そのまま入力すれば「恭三さんの帰り道」とでてきた。新婚の奥さんが夫の恭三さんの帰りを待っている、とこじつけてみても意味は通らない。これにはちょっと解説がいる。

 正解は、「きょう増産の帰り道」である。現在の感覚で、日本語として通じるかどうか。兵器増産、食糧増産・・・・。戦争貫徹に向けて、何かにつけて、「増産」が叫ばれていた。中でも食糧増産は切実な問題だった。男手の足りなくなった農家へ手助けにと、小学校高学年、中学校低学年の生徒がかり出された。といっても実際には何の役にも立つはずがなく、こられた方はありがた迷惑、体のいい食客をあずかったぐらいでしかなかったというのだが。

 そんなことで、歌詞の意味は、「きょう食糧増産のための勤労奉仕にいっての帰り道」ということになる。文脈としては、「今日野球の帰り道」、「ゴルフの帰り道」というのと同じである。

 そこまではいいとして、この断片だけでは話にならない。これがこの後どう続くのか。こんな歌が出てくるはずはないと思いつつ「今日増産の帰り道」で検索してみた。・・・と、でてきたのである、「勝ちぬく僕等少国民」と。これには驚いた。歌詞を見てさらに驚嘆した。こんな歌だったのか。これは亡霊だ。

 「英霊塔に捧げたら」だと思っていたが、正しくは「英霊室に供えたら」だった。しかし、そんなことは些細なことである。「・・・天皇陛下の御為に 死ねと教えた父母の 赤い血潮を受けついで 心に決死の白襷・・・・」。初めから終わりまで、狂気としか思えないこの歌詞の中で、私が憶えていたのは、唯一まともな箇所だった。これがどうして私の記憶に残っていたのか。不思議である。




A1015

015.勝ち抜く僕ら小国民・3

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 --------60余年まえの亡霊・3--

 いま考えてみると、そのころの私たちは陸の孤島へ追いやられたのと同じだった。疎開児童同士以外の人との接触は皆無だった。もちろんラジオなし、新聞なし。そんな中で、私はこの歌をどうして覚えたのか。  

『勝ちぬく僕等少国民』

 作詞:上村数馬 作曲:橋本国彦

  今日増産の帰り道
  みんなで摘んだ花束を
  英霊室に供えたら
  次は君等だわかったか
  しっかりやれよたのんだと
  胸にひびいた神の声

 この歌詞は全部で5番まであるうちの4番である。歌は1番から覚える。1番は歌えても、2番以降は歌えないというのが普通である。それがどうして4番だけを憶えているか。それも前半だけ。後半は全く記憶にない。不思議である。(全体の歌詞に関心のあるかたは「勝ちぬく僕等少国民」で検索してください。右左いろいろ出てくる。どう考えるかはご自身の判断で。)

 私たちの寮の引率先生に、Oという先生がいた。若い女性の先生だった。その先生がハーモニカを一本持っていた。それが私たちの周りで唯一の楽器だった。夏の夕方、夕食(・・・・といっても、大豆の中に米粒が混ざっているご飯一膳と、たくわんが二切れぐらい、かろうじて命だけは保てるという最低のものだった。もっともそのころすでに、人のものに手を出さなければ、自分の命が保てない戦災孤児が都会にあふれていた。それに比べればまだ恵まれていたというべきだったが・・・)が終わったあと、私たちは、O先生にハーモニカを吹いてくれとねだった。

 その時の曲目の中にこの歌があったような気がする。しかし、O先生自身はこの歌をどうして知ったのか。それすら不思議である。これはあくまで推測だが、当時の文部省あたりから、この歌を教えるよう指示があったのかも知れない。しかし、見ればこの歌詞である。思い悩んだO先生は、いちばん歌詞の穏当な4番だけを私たちに教えたのではないか。それも前半だけを。そう考えると、かろうじて話のつじつまだけは合う。

 この曲の作曲が橋本国彦であるという。これにも驚いた。遺作になったという戦後のラジオ歌謡『アカシヤの花』(1948年)は、私の好きな歌である。その橋本国彦、1933年(昭和8年)から母校・東京音楽学校(現・東京芸術大学)の教授をつとめ、門下生に矢代秋雄、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎らがいるという。その人がこのような狂気の歌を作らなければならなかったところに、戦争という大きな「亡霊」を見るのである。




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016.リンゴの歌

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 -----あんまり有名すぎて・・・------  

 作詞 サトウハチロー  作曲 万城目正   

 赤いリンゴに 口びるよせて
  だまってみている 青い空
  リンゴはなんにも いわないけれど
 リンゴの気持ちは よくわかる
 リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

 あまりにも有名すぎて、ここに取り上げるのも気が引けるのだが、避けて通るわけにも行かないし・・・。それにしても不思議な歌である。昭和20年の秋に発表された何とかいう松竹映画の主題歌だという。映画というものは一ヶ月や二ヶ月で作れるものなのか。これがまず第1の不思議。
 その映画を見に行く人がいたのだろうか。仮にいたとして、どういう人が見に行ったのか。食うや食わずで、明日の命も明朝起きてみなければ分からないというときに、である。これが第2の不思議。

 歌詞の訳の分からないこと。よくよく考えると、軍歌も訳の分からないものだったが、この歌もそれに輪をかけた・・・とはいわないが、それに負けず劣らずのわからなさ。昨日の「恭三さん・・・」のわからなさと方向が逆向きだけで訳のわからなさの絶対値は同じである。これが第3の不思議。

 そして最後の不思議は、この歌が流行ったメカニズムの不思議さ。レコードが売れたといっても、あのぐるぐるとゼンマイを巻いて、一回ごとに針をつけ換える蓄音機。私たちの町内に何台あったんだろう。ラジオが、一日中リンゴの歌をやっていたわけでもない。にもかかわらず、あの流行は?。とにかく不思議である。 

 私は、今流行っている歌が分からない。そういう状態になって何10年になる。TVもあるし、ラジカセもあるしといえば、今頃ラジカセで聞いたはるんですか、といわれそうだが、少なくとも昭和20年の状態の何倍、いや何100倍の情報量の中にいる。それでいて、今はやっている歌は分からない。昭和20年のあの爆発的な流行のメカニズムは・・・本当に何だったのか。不思議である。




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017.和音笛・1

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  -----歌ではありません。不思議な楽器でした。------

 前回は、昭和20年、「リンゴの歌」でやっと戦争が終わったのだが、不思議なものを思い出した。もう一回逆戻り。

 「和音笛」、おそらくこの楽器を憶えている人は、私の学年と、その下の学年ぐらいの人ではないか。2年下ではたぶん何の記憶もないだろう。

 昭和19年か、ひょっとしたら18年かも知れないが、学校でけったいなことをやり出した。オルガンで和音をひいて「ドミソ」、とか「ファラド」とかを答えさすのである。「そんなことなら今でもやってますよ」というかも知れない。そう、音楽の時間に確かにやった。退屈だったけれど。

 私が「けったいな」というのは、その理由である。なぜその和音当てをやらすのか。和音を聞き分けて、飛行機の爆音当てに役立てようというのである。あの爆音はロッキードだ、グラマンだ、B29だと判断に役立てようというのである。そんなもの聞き分けて何になる。敵と味方の聞き分けなら、まだ意味があるかも知れないが、日本の飛行機は飛ばないのだから、飛んでりゃアメリカの飛行機にきまっている。

 敵の飛行機の爆音を聞き分けて、それが分かってみても何がどうなるものか。「そんなアホこと学校でやったんか。あんたの記憶違いじゃないか」といわれそうだが、けっして記憶違いではない。「自分の記憶間違いを、がんとして認めない、だから年寄りは・・、何か証拠でもあるのか」。

 そう、その証拠が、「和音笛」なのです。


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018.和音笛・2

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 さてその和音聞き分け、大まじめに行われた。上で書いたことは、今になっていえること。当時はそんなことを大きな声でいえる時代じゃなかったし、ましてや小学校4年生や5年生の子どもである。一生懸命「ドミソ」、「ファラド」、「ソシレ」とやっていた。
 私の組にMという少年がいた。彼は抜群だった。私なんかは、さっぱり分からないというのに、彼は百発百中、パーフェクトに答える。たしか学校対抗試合があって、彼はそれに出場したはず。絶対音感がよかったのだろう。

 私なんかは、自慢じゃないが絶対音感なていう代物は、生まれれる前にどこかへ置き忘れてきた。絶対に分からない音感である。
 ずーとあとになって、いわゆるLPの時代、30cm盤で45回転というゲテものが出た。今の人には分からない話だが、その当時、LPは33回転、EP(いわゆるドーナツ盤)は45回転と回転数が分かれていた。LPはEPより直径が大きい。それを45回転で使おうというのだから、当然単位時間にトレースする溝の長さは長くなる。その分細かいデータが記録できて、音質がよくなるというのがうたい文句だった。
 曲は「運命」だった。あの30分前後の曲が、30cmLPの両面に分かれて入っているのである。マゼールだったか、ブーレーズだったか、その盤が手元にないので、細かいことは分からないが、とにかくその盤を買って聞いてみた。音がいいのか悪いのか、いいといわれたらいいのかなぐらいで、そのまま棚にしまい込んだ。
 何年か経って、ふとそのレコードに気がついた。あれ、こんなものがあったのか。それをとりだして聞いてみた。ちょっとテンポが遅いけれども、面白いなー。フルトベングラーなみやぞ・・・・、と思いながら聞き終わった。ジャケットへしまおうとして、45回転という字が目に入った。「何・・・?」。
 33回転で聞いていたのである。当然テンポが遅くなる。と同時に、音程も下がっているはずである。ものの本によると絶対音感のある人は、全音の3分の1狂っても気持ちが悪くなるという。私なんかは、45回転を33回転で聞いても平気のへいざ、絶対音感くそ食らえ!である。

 脱線した。さてその和音笛。ようするに「ドミソ」、「ファラド」、「ソシレ」、基本3和音をぶーぶー鳴らせるようにした、子供だましの笛である。それを飛行機の爆音を識別するためという理由で子どもに押しつけたのである。学校でやったのは、ひょとしたら、これ以外の和音もあったかも知れないが、和音笛なるものは、この3和音だけだった。それでも今考えてみると、ハーモニカも持てなかった子どもたちが、唯一手にできた楽器だった。




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019.和音笛(付け足し)

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 要するに音楽の先生たちは音楽をやりたいわけ。ところが、「この非常時に音楽などをやっている場合か」、という声が出てくる。この声がべらぼうに大きい。黙っていたら音楽が消されてしまう。和音を聞き分ける練習をして、敵機の爆音を識別する能力を身につけさせる。お国のために音楽をやっています。という筋書きが必要だったのだろう。「お国のため」という大義名分、これがなければ一切が成り立たない時代だった。山田耕筰が、橋本国彦が、軍歌を書いたのも、すべてへはこの大義名分だったのだろう。

 そうして戦争が終わった。昭和22(1947)年、私は中学2年生。「科学と模型」という本に出会った。粗雑な紙の薄っぺらな雑誌だったが、模型鉄道の工作記事が満載?されていた。現実には3つ、4つの記事がちょろっと小出しに載っており、ほとんどが次号に続くというスタイルだったが、私には「満載」に見えた。

 小学校では工作といえば、飛行機だった。竹ヒゴと檜棒が主材料。ゴムを巻いてプロペラを回すのである。同級生のMくん(絶対音感のMくんではない、別のMくん)の作ったヤツがよく飛んだ。ゴムを巻いて講堂の床に置くと、すーっと滑走して離陸した。同じようにやりたかったが、私が作ったのは無理だった。

 そんなこんなの模型鉄道だった。これは離陸する必要はない。これのとりこになった。そうして高校生になったころ、「鉄道模型趣味」という長ったらしい名前の雑誌が出ていることを知った。この雑誌は現在も書店の雑誌棚に並んでいる。考えてみれば、もう60年になるのではないか。地味な雑誌だが、よくぞ続いたものと感心する。

 それにしても長い名前だった。漢字6文字、常識を越えた名前である。「趣味」はいらんのじゃないかと思っていたら、あるときこんな文章に出会って疑問が解けた。

 ・・・・「鉄道模型趣味」、この名前が長いという声をよく聞く。しかし、これはわれわれスタッフが考えに考えた末に付けた名前であって、特に「趣味」の2字は絶対に落とせない・・・・のだという。どうしてか。鉄道模型は「科学ではない、趣味なのだ」という。「科学と模型」などという名前はもってのほかだと・・・。そして、「たとえば、魚釣りは趣味であって、食糧増産のためにやるのではない」という。「きょう増産の帰り道・・・」の増産である。驚いた。模型飛行機を作るのも科学だと教えられていたし、そうだと思いこんでいた。それが違うという。「好きだからやる」でいいのだという。

 なるほどそういう考え方もあったのか。これが私の「和音笛」的発想からの脱却だった。戦争が終わって4年経っていた。 




A1020

020.港が見える丘

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 ------あなたと二人で来た丘は-----

 終戦後まで、我が家の電気は定額制だった。3軒長屋の1軒で、階下は3畳、2畳、6畳の三間だったが、そこにつり下げ電球が1灯、夕方暗くなるとそれが点って、翌朝消えるのである。こう書くと各部屋に1灯ずつ、計3灯と思われるかも知れないが、そうじゃない。この三間と京都独特の通し庭、(というと格好がいいが、要するに炊事場)、そのすべてで1灯。長いコードがついていて、そのときどき必要に応じて引き回すのである。

 音を出すものといえば、ラジオが1つ。それも戦争中に、空襲情報を聞く「必需品」として、父がどこかの古道具屋から買ってきた3球ラジオ。裏をのぞくとうずたかく積もったほこりの中で、なすび型の真空管がボーとともっていた。3球のうち1球は整流のはずだから、残りは2球。検波と出力だけ。これで音を出せというのが無理な話、いくらボリュームをあげても、周囲2mぐらいしか聞こえなかった。

 さて、港が見える丘。そんな環境だったから、うちで音楽を聴くことは無理だった。昭和22年から23年、町内会の青年部が主催して演芸会が開かれた。みんなが娯楽に飢えていたときだから盛会だった。そのときののど自慢で歌われたのがこの曲。近所のお姉ちゃんたちが競って歌ったから、いっぺんで憶えてしまった。

 作詩・作曲 東 辰三

 あなたと二人で来た丘は 港が見える丘
  色あせた桜唯一つ 淋しく咲いていた
  船の汽笛 咽び泣けば チラリホラリと花片
  あなたと私に降りかかる 春の午後でした

 ずーっと後になって知ったことだが、この歌の作詞、作曲が東辰三。

 また時代が逆戻りする。戦争中に『荒鷲の歌』というのがあった。昭和15年の発表という。「・・・・来るなら来て見ろ赤とんぼ、ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ」と、よく歌われた。なじみやすい歌詞とメロディーで、題も知らずによく歌っていた。
 その後、「七つボタンに桜と錨」の『若鷲の歌』が出てきた。『若鷲』のほうが有名になったが、『荒鷲』のほうが先輩。しかし、ややこしい。そして、この「ブンブン荒鷲」の作詞作曲が東辰三だった。この落差・・・・のことは、もう言うまい。

 今、横浜に「港が見る丘公園」というのがあるらしいが、そんなことはどうでもよろしい。

 余談:
 当時は何も考えずに歌ってたこの歌詞、考えてみるとどうもオカシイ。「赤とんぼ」というのは、当時航空少年兵が乗る練習機のことだった。機全体が赤色でぶるんぶるんとのんびりした爆音をとどろかせて飛んでいた。もちろん「荒鷲」は我が空軍の精鋭機のことである。とすると、「・・・・来るなら来て見ろ赤とんぼ、ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ」というのは、同士討ちと違うのか。
 いや、しょうもないことでお騒がせを。

 
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