---昔語り『音楽夜話』・3---



A2021

021.夜のプラットホーム

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 ------星はまたたき 夜ふかく-----

 作詞:奥野 椰子夫  作曲:服部 良一

星はまたたき 夜ふかく
 なりわたる なりわたる
 プラットホームの 別れのベルよ
 さよなら さよなら 君いつ帰る

 名曲である、と今になって思う。二葉あき子のアルトがいいし、スロータンゴの曲想がまたいい。昭和22年2月の発売というから、歌われていたころは中学生、歌より野球の方が面白かったから、こんな辛気くさい歌は勘弁いただきたいと、特別関心があったわけではない。

 あとになって知った話だが、この曲は、出征兵士を送る悲しみを歌った歌として、昭和17年に発表されたものだという。しかし、検閲に引っかかって完全にアウト。これをアウトにしなければ、何をアウトにするのというのというところだったのだろう。

 人はちりはて ただ一人
 いつまでも いつまでも
 柱に寄りそい たたずむわたし
 さよなら さよなら 君いつ帰る

 「人はちりはて ただ一人・・・」、なんともせつない歌である。自分と一緒に送る側に立って、元気でやってこいよと手を振ってくれた友人たちも、しょせんは他人、汽車が出てしまえば、さっと散り果ててしまう。あとに残るのは自分一人。「君いつ帰る・・・」。

 そうして、二度と帰ってこなかった若者たち。昭和17年にこの詞を書いた奥野椰子夫、曲を作った服部良一。命がけの仕事だったろう。単なる「夜汽車もの」ではない名曲である。




A2022

022.雨の夜汽車

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 ------雨の夜ふけの 夜汽車の笛は-----

 作詩:西条八十  作曲:古賀政男 

 雨の夜ふけの 夜汽車の笛は
  なぜに身に沁む 涙を誘う
  窓のガラスに 君が名を
  書いてあてない 旅をゆく

 前回、調子に乗って『夜のプラットフォーム』のことを、----単なる「夜汽車もの」ではない-----と書いてしまった。あとになって考えた。夜汽車ものってあったのかなと。

 たとえば、『高原の駅よさようなら』に---しばし別れの夜汽車の窓よ----なんてのが、あるにはある。しかし、「夜汽車もの」といえるほど数があるわけではない。これはちょっと早まったかな・・・と、後悔しかけたところで思い出した。そうだ、『雨の夜汽車』があった。そういえば、『赤いランプの終列車』というものあったぞ。ということで、きょうは『雨の夜汽車』。

 歌っているのは奈良光枝。ものの本によると、発売が昭和23年9月。『湯の町エレジー』のB面だという。近江俊郎が歌った湯の町エレジーはよくはやった。ラジオでもよく聞いた。といっても、先日も書いたように、我が家のラジオは、古道具屋から買ってきた3球ラジオ。語彙に乏しい中学3年生には、「湯の町」が聞き取れない。「エロ町」に聞こえてしまう。京都生まれの中学生には、「伊豆の山々月淡く」といわれても、そこにある湯の町など、遠く離れた外国の町でしかなかった。私の歌の世界では、長い間「エロ町エレジー」だった。

 脱線した。夜汽車が脱線すればどうなるか。当時、東北本線の夜行列車が脱線した松川事件というのがあったが、そこまで行くと話が帰ってこれなくなる。

 さて、『雨の夜汽車』、当時、この歌には何の記憶もない。昭和40年代の後半、「オリジナル原盤による日本流行歌の歩み戦後編」というレコードを買った。その中にこの歌が入っていた。これが最初だった、この歌を意識して聞いたのは。

 「雨の夜更けの 夜汽車の笛は・・・」。夜汽車、何となく哀愁を誘う言葉である。しかし、いつごろまで使われていたのだろう。松川事件を「夜汽車が脱線した」とは言わない。転覆したのは夜行列車である。私などが中央線をD51に牽かれて、山へ行っていたころ、間違いなく、さんずいヘンの「汽車」だったが、夜汽車で山へ行くとは言わなかった。自分で使わない言葉だが哀愁を感じる。何かそれを感じさせる遺伝子を持っているのだろうか。

 ちなみに、「蒸汽」と「蒸気」、蒸汽は水が気体になったもの。すなわち「水蒸気(steam)」。蒸気(vapour)は水以外の液体、たとえばアルコール、ガソリンなどが気体になったもの。SLは水蒸気の圧力で走るから汽車。ディーゼルカーなどは気動車。SLを蒸気機関車と書くのはおかしい。

 「オリジナル原盤による日本流行歌の歩み」、大半がSP盤の復刻である。例のしゃーしゃーというスクラッチノイズの向こうから歌が聞こえてくる。同時にその歌声は、どこかで割れたり歪んだりする。ところがこの『雨の夜汽車』だけは音の割れがない。不思議に思って、ほかに奈良光枝が歌った曲をピックアップして聞いてみた。たとえば、『悲しき竹笛』----ひとり都のたそがれに 想い哀しく笛を吹く----という曲。奈良光枝と近江俊二人で歌っているのだが、近江俊郎の声は割れても、奈良光枝のは割れていない。歌い方が、うまいとか下手だとか言うのではなしに、彼女の細い声が当時のレコーディングシステムにマッチしていたのであろう。




A2023

023.夕やけ小やけ

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------子盗りが夢を見るころは-----

 「エロ町エレジー」・・・、ニキビがでかかった中学生の聞き間違いである。これによく似た話は、大なり小なり誰もが持っている。放送でだったと記憶するが、藤本義一さんが、疎開先で聞いた『湖畔の宿』を「ご飯の宿」だと思いこんでいたという話を聞いたことがある。「・・・書いてまた消すご飯の便り・・」、とにかく腹が空いて仕方がない。疎開児童から両親への痛切な便りだと思っていたという。疎開児童はよく親へ便りを書いた。それが「ご飯の便り」である。

 これも聞いた話であるが、讃美歌かな、クリスマスソングかな、『諸人こぞりて』に「主は来ませり」の歌詞がある。これをずっと「シュッ沸きませり」だと思っていたという。しゅーっと(お湯が)沸いたというのである。

 そういえば、最近、風呂がしゃべるらしい。クルマや自動販売機がしゃべる時代だから、風呂がしゃべっても何の不思議もないが、「お風呂が沸きました」ときれいな女性の声でしゃべるのだという。「オッサン、風呂わいたで!」とはいわない。そのうち「上さま、お湯わきませり」というポットが必ず出てくる。十二ひとえを着て保温力もいいという。ひょっとしたらもう出ているかも知れない。いよいよキショクの悪い世の中になってきた。

 『夕やけ小やけ』、誰でも知っている歌だが、正しい題名は何だろうと、「夕焼け小やけ」で検索したら、「夕やけ小やけ」ではありませんかとでた。ハイハイ、あなたのおかげで、いろいろ重宝させていただいております。ご親切なことで・・・・、どっちでも「エエやけ」。

 夕やけ小やけ

 作詩:中村雨紅  作曲:草川 信

 夕やけ小やけで 日が暮れて
 山のお寺の 鐘がなる
 お手々つないで 皆かえろ
 烏と一緒に帰りましょう

 子供が帰った 後からは
 円い大きな お月さま
 小鳥が夢を 見る頃は
 空にはきらきら 金の星

 面倒くさいが、2番まで書き出さないと、きょうの話に行き着かない。

 私は、2番の「小鳥が夢を見るころは」を「子盗りが夢を見るころは」だと思いこんでいた。
 子どものころ、夕方外で遊んでいると、「はよ帰らんと子盗りが来るで」と親が呼びに来た。実際に”子盗り”なるものがいたのかどうかは知らないが、少なくともそのころ世間一般に「子盗り」という言葉が存在していた。まだ見たこともない「子盗り」さんが、一日の仕事に疲れて、どこかで夢を見ているのだと思いこんでいた。

 その解釈が、意味の通らないことだということは、小学校高学年になれば分かる。そうとは知りつつ、これだけはどうしても「子盗り」だとしか思えなかった。私が関西人だったからである。

 この歌の、「小鳥が夢を 見る頃は・・・」の部分のメロディーは、「ドーレドラ ドドソー・・・」である。「小鳥」の部分の「ドレド」が、まさに関西弁で言う「子盗り」の音程に一致するのである。「小鳥」は、「ドドド」である。「ドレド」とは発音しない。

-----(100%の自信はない。私は絶対音感どころか、相対音感すら怪しいと自認している。少々のずれはお許し願いたい。)-----

 このメロディーが、「ドードドラ ドドソー・・・」だったら、おそらく初めから解釈違いはしなかっただろう。関東圏の人たちは、「小鳥」をどういう音程で口にするのだろう。




A2024

024.山小屋の灯

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------黄昏の灯は ほのかに点りて-----

 作詞・作曲 米山正夫

 たそがれの灯は ほのかにともりて
  なつかしき山小屋は 麓の小径よ
  思い出の窓により 君をしのべば
  風は過ぎし日の 歌をばささやくよ

 リンゴの歌のところでも少しふれたように、歌はどういうメカニズムではやりだすのかと、いつも疑問に思っている。この曲もそうだった。確か中学3年生だったと思うが、みんなが一斉に歌い出した。あれよあれよという間に、気がついたらみんなが歌っていた。自分ひとりが取り残されたような、そんな感じだった。

 NHKのラジオ歌謡だという。一般的に聞ける電波といえば、NHKの第1放送と、第2放送しかない時代、一般家庭では、ダイアルを回すことすら必要なかったそのころ、そこから放送されるということは、一極集中、圧倒的なシェアであったのだろう。

 昭和31年だったか、白馬岳に登った。そのころの私にとって、山へ行くことは異文化との遭遇だった。山が異文化ではない。生まれてこの方、せいぜい京都と大阪を往復するぐらいが関の山の生活にあって、山は大げさにいえば関東文化圏との接触だった。このとき、混雑する駅前で特にそれを強く感じた。古ぼけた大糸南線「しなの四谷」。

 関東の連中が「ハクバへ登る」のだという。関西系にもハクバ組がいたかも知れない。しかし少数派だった。少なくとも名古屋経由中央西線の車中では聞かなかった言葉である。新宿発の「白馬」という準急があった。正式には「はくば」だったのか「しろうま」だったのか、今の私にはよく分からないが、少なくともこのときの連中は、この準急を「ハクバ」と呼んでいた。

 白馬岳は「苗代馬」から来たのだという。山頂付近の雪が解けて、馬形が現れるのを見て、麓の人は苗代の準備に取りかかったとか。白馬はけっしてWhite Horseではない。にもかかわらず、この「ハクバ攻勢」である。村の名前も「白馬(ハクバ)村」になり、駅の名前も「白馬(はくば)」になった。山の名前だけは、かろうじて「白馬(しろうま)岳」らしいが、これも将来、間違いなく「白馬(ハクバ)岳」になろう。

 『山小屋の灯』、2番の冒頭、「昏れゆくは白馬か 穂高は茜よ・・・」、ここは「くーれゆくはー、しろうまかー・・・」と歌われる。当たり前である。「くーれゆくはー、ハクバーかー・・・」ではメロディーと合わないし、ハンバーガーの宣伝と間違われる。

 中学3年当時、何も知らずにみんなのあとについて歌っていたが、この歌は「ハクバ」が「しろうま」であった歴史の生き証人であった、と今になって思う。ながく歌い継がれていかなければならない歌である。 




A2025

025.誰か夢なき

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------想いあふれて 花摘めば-----

 作詩:佐伯孝夫  作曲:清水保雄

 想いあふれて 花摘めば
  白い指さき 入日がにじむ
  あざみなぜなぜ 棘(とげ)持つ花か
  たとえささりょと
  ああ…誰か夢なき

 この歌もよく歌われた。しかし、この手の歌詞が中学生に分かるはずはない。とくに「誰か夢なき」の意味が、何となく分かるのだが、よく考えると分からない。難儀な歌だった。この歌をいい歌だと感じるようになるのは、かなりあとのことである。

 さて問題の、「誰か夢なき」。きょうは関西弁で行こう。

 ということで、想いにあふれて、花を摘んだわけや。
 その花つんだんは誰や?
 そんなもん分かるかい。そやけど「白い指先」というのやから、女やろな。

 「白い指さき 入日がにじむ」、ここやなエエのは。その花を摘んだとき、夕日が山の端に落ちるころやった。普通やったら、「夕日が赤い」というとこやけど、「夕焼けー空が、真かっか・・・」では面白うもおかしくもないわな。それを「入り日がにじむ」ときた。エエなー、なんとなくじんとくる。

 ところで、花を摘んだのが女性やとすると、摘まれた方が男性か。「きれいな花にはとげがある」ちゅうて、昔からとげがあるのは女やときまっとったもんやが、ちょっとげせんな。

 そこや、この歌は先をずーーーと見越しとったんやな。いまどうや、男がみんな「のぺー」としてもうて女のほうがはるかに元気やで。知事さんかて女やし。クリントンさんもがんばったはるし。男も少々のとげぐらい持たんと魅力ないで。

 たとえささーりょーと・・・か。強い女やなー。

 さあ、そして問題の「誰か夢なき」や。これが分からんがな。ということで、大きな声では言えんのやけど、さるえらーいお方に聞いてみた。そしたらお前。なんというた思う。・・・・「係り結び」やて。入学試験やあるまいし、ワシらにそんなこと分かるか?。わかるはずないがなー。始めから終わりまでわからなんだ。分かったのは、「誰か故郷を想わざる」と一緒やということだけや。

 なるほど、そういわれたら・・・・。そやけど、一緒やいうことは分かるけど、両方とも意味はわからんで。

 そやろ。そやからワシは、そのお方にいうた。むつかしことはワシらにはわからん。早い話、ここんとこはどういう意味や、と。そしたらお前、よう聞けよ。「誰も夢を持たんやつはおらへんのや」ということやて。

 ・・・そんな持って回ったいいかたせんでも、「誰でも夢を持つ」いうたらええやないけ。

 さー、そこや、そういうてしもたら身もフタもないやないけ。

 おっちゃん、何ぼやいてんの。黙って聞いてたら、おっちゃんらかて「身もフタもないやないけ」て、もって回ってるやんか。うちらそんなこと、毎日使こてるで。

 おっちゃんがいうてるのは、「誰も夢持たへん人はいないじゃないですか」ということやろ。

 そうか。それが「係り結びか」どうかは知らんで。しかし大流行やな、この言葉。ワシらには、夢見るのか見いひんのか、勘定せなわからんわ。

 どっちでもエエけど、とにかく勘定してみよか。エエか、いくで・・・。

 夢持たへん人は ・・・・・・・・「持たない」。
 いないじゃ・・・・・・・・・・・・・ 「いない」、ここで一回否定やから「持つ」やな。
 ないです・・・・・・・・・・・・・・ また否定や、「持つ」の反対やから「持たない」。
 か。・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 最後にもっかい否定。「持つ」。

 そうか、この女の人、夢持っとんたんや。そやけど、お前ら、毎日こんなこと勘定してしゃべっとるのか。そんなヒマあったら、クリントンさんのツメのあかでも煎じて飲んどけ。アホか!。

 分かった、わかった。野球は逆転・逆転の方がオモシロイのや。それより曲もエエぞ。スロータンゴちゅうてな。そや、タンゴで思い出した。もう一つとっておきの名曲があるのや。また明日。

 ああシンド。誰か関西弁のワープロ作ってくれや。ああ…誰か夢なき。

 



A2026

026.マロニエの木陰

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------空は暮れて 丘の果てに-----

 作詞:阪口 淳  作曲:細川潤一  昭和12年

  空は暮れて丘の果てに
     かがやくは星の瞳よ
  なつかしのマロニエの木蔭に
     風は想い出の夢をゆすりて
  今日も返らぬ唄を歌うよ

 昭和12年の発表というから、この歌が歌われたころの記憶はない。その後、何かの折りにこの歌を聞き、タンゴというとこの歌を思い出すようになった。作曲は細川潤一。三橋美智也の歌として、『一本刀土俵入り』(昭和32年4月)、『おさげと花と地蔵さんと』(昭和32年9月)、『古城』(昭和34年7月)などの作曲者として記憶に新しいが、この中のベスト1を選べといわれたら、私は迷わずこの『マロニエの木陰』をあげる。

 曲はいきなりカデンツァふうのピアノソロで始まる。いわゆる日中戦争が始まったこのころのはなしである。この曲想は、ずいぶんモダーンなものだったろう。たとえば、ベートーベンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』、この曲も冒頭のカデンツァふうのピアノソロで有名だが、この曲にして、最初の一発は、管弦楽の合奏がついている。シューマンのピアノ協奏曲またしかりである。クラシックとポピュラーとの違いはあるとはいえ、この斬新な曲想は刮目に値する。

 この曲を初めて聴いたのがいつだったか、いまとなってはそれも記憶にないが、少なくとも私は、この曲は戦後の作品だと思いこんでいた。昭和12年、発売当時に歌った松島詩子もそのころまだ健在だったし、戦後の作品として、何ら違和感を感じなかった。念のため、同じころに発表された曲を挙げてみよう。『人生の並木道』、『青い背広で』、『別れのブルース』、『裏町人生』、『露営の歌』・・・。どうだろう、古色蒼然といえば失礼だが、「マロニエ・・・」に対抗できるのは「別れのブルース」ぐらいだろうか。

 一応、この曲を紹介しているサイトへリンクはした。しかし、制作者には申し訳ないが、正直言って物足りない。ぜひ、松島詩子が歌う本格的な演奏を聞いていただきたい。




A2027

027.月よりの使者

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------白樺揺れる 高原に-----

 作詩:佐伯孝夫  作曲:佐々木俊一   昭和24年

  白樺ゆれる 高原に
  りんどう咲いて 恋を知る
  男の胸の 切なさを
  啼け啼け 山鳩幾声も

 「しーらかーばーゆーれーるー こおおげーんんんんにーー」とよく歌われた。クイズ、ここまで打つのに、「n」を何回たたいたでしょうか。ヒマな人は勘定してください。

 さて、この歌は大映映画『月よりの使者』--昭和24(1949)年--の主題歌だそうだ。久米正雄の原作も読んだことがないし、映画も見ていない。長野県の富士見高原療養所が舞台になっているらしいのだが、堀辰雄の「風立ちぬ」でそれを知るのも、ずっと後のこと。白樺も実際に見たこともなかったし、リンドウも知らなかった。ましてや、男の胸の切なさなんて、とてもとても。模型の電車作りに、日が暮れていた。

 時は移って、昭和30年代前半、せっせと山へ行っていたころ、山の雑誌で詩人・尾崎喜八を知った。いま考えると、氏の著述との出会いは、20歳代の私にとって、大きな意味を持っていた。

 年譜によると、「昭和20年5月、空襲で家屋焼失。昭和21年9月、長野県富士見村に移り住む」とある。生活は貧困を極め、風呂すら屋外にドラム缶をおいてのものだったという。当時は、日本中似たり寄ったりだったといえばそれまでだが、そんな生活の中で、創作意欲は旺盛を極め、昭和27年まで、7年間の富士見生活で、『高原暦日』、『美しき視野』、『碧い遠方』などを出版する。氏の富士見在住を知った、高原療養所で療養中の人たちが、氏を訪れて密度の濃い親交があったという。映画ではない本当の話だが、それを知るのも、ずっと後、昭和33年に刊行が始まった、『尾崎喜八詩文集』のなかでのことである。

 昭和が平成に変わるちょっと前、氏の『富士見高原詩集』の中にある、「杖突峠」に触発されて、諏訪湖の南にあるというその峠を訪れた。「峠の展望茶屋」からは、左眼下に諏訪湖、その向こう遠く青くかすむ槍・穂高、正面に霧ヶ峰、右前方に八ヶ岳が見える。そしてその麓、なだらかに広がる富士見高原。

 二度、三度と通ううちに親しくなった喫茶店の主人と、話がこと尾崎喜八におよぶと、「私の親父の代にはよく来ておられましたよ。たしか尾崎さんの書いたものがありましたよ。探しておきますよ。」という、「晴好楼」というのが、そのときの店の名前らしいが、要するに、その店からの眺望を絶賛するという主旨の文章である。いまとなれば、その文章表現に、何を大げさなとの思いもわくが、そこからの眺めそのものは今も昔も変わりはない。「雨漏りで濡れてしまってね・・・」、そういって大事そうに見せてくれた店主もいまは亡い。 

 昭和20年代半ばの富士見高原。氏の文章から、手にとるように見えてくる。そのころ、同じ映画主題歌で、いまもナツメロの定番になっている『青い山脈』、こちらは小説も読み映画も見た。しかし、なぜか何も知らずに聞いていた、この「白樺揺れる・・・」の方に惹かれるのである。




A2028

028.ラベル・ピアノ協奏曲

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------バーンスタインとうどんのにおい-----

 ニューヨークフィルが平壌で演奏会を開いたという。2008年2月27日付の新聞に大きく取り上げられているし、テレビでも全員起立してアメリカ国歌を演奏するところが流れていた。指揮はロリン・マゼール。

 さて、こちとらは、40数年前のNYフィルにまつわる、嘘のようなホントの話。始まりはじまリー。

 ときは昭和36(1961)年5月、バーンスタイン指揮のNYフィルが来日した。バーンスタイン47歳。脂ののりきったところ。そのときの副指揮者がいまをときめく小澤征爾だったのだが、それはきょうの話とは何の関係もない。

 そのNYフィルが大阪府立体育館で演奏会をやるという。なんでやねーと思う。うそやろう、NYフィルてバレーのチームか。いやホントの話。ホントの話どころか、プログラムにはバーンスタイン作曲・交響曲第1番、ラベルのピアノ協奏曲、ピアノソロはバーンスタイン本人だという。もっとも前座として、シャベツとかキャベツ(Chavez)とかいう作曲家のシンホニア インディアという訳のわからん曲も入ってはいたが。

 当時、京阪電車は天満橋で終点だった。そこからフェスティバルホールまで、よく歩いたものだが、その日は難波だから、バスに乗った。夕方の渋滞を見越して早めに勤めを抜け出しては来たのだが、バスは遅々として進まない。
 いらいらしながら窓の外を見ると、NYフィル云々の立て看板。バスが遅いからしっかり読めた。「午後6時開演」。ナニ!?。6時半とちごたんか?普通演奏会というと午後7時が常識だった。その切符を買ったときにちょっと早いなという意識はあった。しかし、それは6時30分だとばかり思いこんでいた。それでもなんとか5時55分に体育館に着いた。

 どこかでゆっくり腹ごしらえをしてと予定していたのが、当てがはずれた。これは終わるまで辛抱するしかしゃーないなと、会場へ入ろうとすると、直ぐ横で、臨時の立ち食いうどん屋さん。ここらが大阪。あと5分・・・。とにかく死にものぐるいでソバをかき込んだ。
 汗をかきかきホールへ戻ると、でかでかと張り紙があって、「都合により、プログラムを変更します・・。」とあって、ラベルのピアノ協奏曲を、チャイコフスキーの4番に変えるという。なんでやね。ウソやろー。「チャイコフスキーなんか聴きとないわい。ワシはラベルを聞きに来たんやぞー」とどなりたかった。

 6時開演が無理だったのだろう。遅れてくる人引きもきらず、結局開演は20分遅れ。その後もさらに遅刻者は入ってくる。フロアーにパイプ椅子を並べただけの会場だから、ガチャガチャいうのは当たり前。外の音も筒抜け。そうして鼻をくすぐるうどんのにおい。これが演奏会か?。なんぼなんでもひどいで。

 そんな中でバーンスタインは熱演した。うどんのにおいなどくそ食らえというように。ワシはバーンスタインやぞ、ワシらがNYフィルやぞと。そこにはあの重たく暗いチャイコフスキーはどこにもなかった。底抜けに明るくはでやかな、ヤンキー・チャイコフスキーがそこにあった。

 これがワシらのチャイコフスキーじゃ。文句あるか。これがチャイコフスキー嫌いのためのチャイコフスキー講座じゃ。ハイハイ分かりました。しかしやでー、だからこそあんたらの演奏でラベルを聞きたかったんや。
 おそらく、ピアノ協奏曲が交響曲に変わったのは、ピアノが運び込めなかったからだろう。いずれにしてもNYフィル楽団史上、歴史に残る演奏会であったことは間違いない。

 それにしても、どうしてあんな演奏会が開かれたのか、七不思議の一つだが、嘘のような本当の話である。    




A2029

029.さくら貝の歌

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------うるわしき さくら貝ひとつ-----

 作詞 :土屋花情   作曲 : 八洲秀章

 美しきうるわしき 桜貝ひとつ
   去りゆける 君に捧げん
  この貝は 去年(こぞ)の浜辺に
   われひとり 拾いし貝よ

 ほのぼのと うす紅染むるは
   わが燃ゆる さみし血潮よ
  はろばろと かよう香りは
   君恋うる 胸のさざなみ

 ああなれど 我が想いは儚くはかなく
   うつし世の 渚なぎさに果てぬ

 しみじみと胸を打つ名曲である。上のリンク先には、この曲の誕生秘話まで添えられている。是非お読みいただきたい。

 NHKのラジオ歌謡として発表されたのが、昭和24年初夏、レコード化されたのが、翌25年1月だという。最初に歌ったのが辻輝子だとか。ちょっと変則的な構成で、1番、2番として4行ずつが歌われ、それを受ける形で、「ああなれど・・・」からが異なるメロディで締めくくられる。

 当時私は高校生。朝は7時過ぎには学校について、授業が始まるまで野球、休憩時間も寸暇を割いて野球、放課後は理科室に集まって、みんなでワイワイと電車作り。家へ帰りつくのが夜の7時、8時というサラリーマン並みの生活だったから、ラジオなんて聞くヒマもない。このうたも何かそんな歌がはやっているなぐらいの印象でしかなかった。

 この歌の良さに気づくのは、ずっと後になってのことである。何かの本を読んでいて、この曲の作曲者・八洲秀章(やしま・ひであき)と、『高原の旅愁』を作った鈴木義章とが同一人物だということを知った。自分の感性もまんざらではないわい、とうれしかった。なんとかいう女性マラソン選手の「自分で自分をほめてあげたい」という言葉があったが、それと同じ心境だった。

 ただし、わたしは「自分をほめてあげたい」という言葉は使えない。日本語としては、自分のことは「ほめてやりたい」だろう。




A2030

030.水色のワルツ

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------君にあううれしさの-----

 作詞:藤浦洸  作曲:高木東六   昭和25年

 君に逢ううれしさの 胸にふかく
  水色のハンカチを ひそめる習慣(ならわし)が
 いつのまにか 身にしみたのよ
  涙のあとをそっと 隠したいのよ

 これはよく歌われた。「歌われた」ということでは「さくら貝」は遠く及ばない。昨日も書いたが、普段の日はサラリーマンなみの生活だが、日曜日だけはうちにいる。昼ののど自慢が唯一歌の情報源だった。いま覚えている歌は、ほとんどがそこからの仕込みだといっていい。

 さて、作曲家・高木東六、不思議な人である。軍歌・『空の神兵』一曲。歌謡曲・『水色のワルツ』一曲。きっちり調べれば、もっとあるかも知れないが、少なくとも私が知る限りではこの2曲ポッキリ。どうにも不思議だからWikipediaで調べてみた。驚いた。1924年に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)ピアノ科に入学。その後中退。フランスに留学し、パリ音楽院教授アルマン・フェルテにピアノを師事した後、スコラ・カントルムでヴァンサン・ダンディに作曲を学んだという。

 ヴァンサン・ダンディ、『フランスの山人の歌による交響曲』で有名な作曲家である。私自身は、フランス系の音楽はあまり好きでなく、積極的に聞くことはなかったが、富士見高原時代の尾崎喜八の文によくこの曲が登場した。そんなこともあって、どんな人かなと、本を読んでいて、同じ系統の『山の夏の日』という曲があることを知った。20歳代後半のころである。よく山へ行っていたこともあって興味を覚えた。いまなら大きなレコード店へ行けば、CDで見つかるかも知れないが、そのころそんな曲が見つかるはずはない。ふと思いついて、NHKへリクエストしてみた。曲が珍しかったからかも知れない。NHKが流してくれた。放送局へリクエストしたのは最初で最後だったが、懐かしい思い出である。

 高木東六は、そのヴァンサン・ダンディに作曲を学んだという。そうか、『水色のワルツ』はそこへつながるのか。Wikipediaによると、シャンソンも書いているとか。2曲ポッキリのプラスアルファとして、聞いてみたい気がないでもないが、どうもシャンソンは苦手である。


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