---昔語り『音楽夜話』・4---



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031.イヨマンテの夜

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------アーホイヤー イヨマンテー-----

 作詞:菊田一夫   作曲:古関祐而  昭和25年1月 

 アホイヤァヽヽヽヽヽイヨマンテ
  イヨマンテ 燃えろ かがり火
  あゝ満月よ 今宵 熊祭り
  踊ろう メノコよ タムタム 太鼓が鳴る
   熱き唇 われに寄せてよ
   あゝゝゝゝゝ イヨマンテ 

 NHK連続ドラマ『鐘の鳴る丘』の中で使われた山男をテーマにした曲に、ドラマの原作者菊田一夫がアイヌ村に取材した歌詞をつけたものだという。のど自慢のスタンダードナンバーで、とにかくよく歌われた。難しい歌だから、のどに自信のある連中しか歌わない、というより歌えない。うまい人が歌うからカネ連打の率は高い。結果がさらに人気を生んで・・・という相乗作用だったのだろう。

 発売が昭和25年1月というから、高校2年生になる年の正月である。その後、大学生になったころだと思うが、友人のHくんが歌謡学校へ通い出した。その練習にこの歌のレコードがほしいという。2人で京都中のめぼしいレコード店を探し歩いたが、どこにも見つからなかった。SP末期のころで、発売から2,3年しかったっていないのにそんな状態だった。よく売れたのか、発売枚数が少なかったのか、そこのところは分からない。中古の店へ行けばあったかも知れないが、そこまでの知恵は回らなかった。

 同じころ、授業をサボって映画館通い。新京極三条を下がったところに松竹座という映画館があった。鶴田浩二、佐田啓二、津島恵子らのころである。映画の合間に”実演”と称して、歌手が生出演することがあった。そんな中に伊藤久男がいた。灰田勝彦・菊池彰子、まだ新人だった青木光一もいた。
 特に圧巻だったのが伊藤久男。マイクスタンドが舞台に1本立っている時代。その前にすっくと立って、リズムに合わせて右手を軽く揺りながら歌う姿をいまも思い出す。その声が他を圧していたことはいうまでもない。

 それを思うにつけ、あらためて「イヨマンテ」のレコードがほしくなった。時代は進んでLPの時代に入っていた。いつのころか、10インチ盤(25cm盤)で、伊藤久男集というのが出た。当然その中に「イヨマンテ」も入っていた。しかし、買って帰ったそのレコードは、情けない音しか出なかった。録音が悪かったのか、再生装置が悪かったのか。しっかりした「イヨマンテ」が聞けたのは、LPもステレオになった昭和も30年代後半、ひょっとしたら40年代に入ってからのことだったかもしれない。




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032.鈴懸の径

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------友と語らん 鈴懸の径-----

 作詞:佐伯孝夫  作曲:灰田有紀彦(灰田晴彦)  昭和17年 

 友と語らん 鈴懸の径
    通いなれたる 学舎の街
    優しの小鈴 葉かげに鳴れば
    夢はかえるよ 鈴懸の径

 これも戦後の歌だと思っていたのだが、昭和17年だという。佐伯孝夫の作詞で、曲が灰田有紀彦。この曲を歌っている歌手・灰田勝彦の兄さんである。

 私はこの歌詞について、今のいままで、「葉かげになれば」だと思いこんでいた。おかしな言葉だなとは思いつつも、そういう表現もあるのかと。いまはやりの「…になります」の先駆者ぐらいに思っていた。「葉かげに鳴れば」なら理屈は合う。イヤハヤお恥ずかしい限り。

  この歌の発表が昭和17年9月だという。ほんまかと思う。高校生のころによくきいたから、当然戦後の歌だと思いこんでいた。先日取り上げた「マロニエの木陰」と同じ驚きである。いやマロニエより驚きは大きい。

 同じ戦中でも、昭和12年と17年では桁が違う。16年の12月に始まった太平洋戦争、あけて17年4月、ドーリトル隊による日本本土空襲が行われ、緒戦の戦勝ムードがいっぺんに吹っ飛んだころである。日本本土東方海上の空母から、陸上爆撃機が発艦、日本本土を東京から九州まで日本列島を縦断して、中国へ降りたった。

 ときに私は、小学校3年生だったが、空襲警報発令で急遽下校、その帰り道だったと思うが、町内会のおじさんがお寺の本堂の大屋根に上って監視していたのを記憶している。そんな時代にこの歌である。勇ましい軍歌はしっかり憶えても、この歌が存在したことすら知らなかった。

 そして、「葉陰に鳴れば・・・」、上にも少し書いたが、本当に「葉陰になれば」だと思いこんでいた。「これラーメンになります。ご注文は以上でよろしかったですか」の「なる」である。この日本語は、われわれ年寄りには、外国語に聞こえる。これを聞くたびに「ラーメンでございます。ご注文は以上でよろしゅうございますか」と翻訳をする。そんなことはどうでもよろしい。要するに、スズカケの実に日が照っていたのが、何かの事情で葉陰になったのだと理解をしていた。思いこんだら命がけ、思いこみほど怖いものはない。

 歌詞が短いので、同じ歌詞を繰り返し歌うのだが、その中で灰田勝彦は変奏風にメロディを換えて歌っている。これがまたいい。その変奏メロディをいれたWebサイトがないかと探したが、見つからなかった。CDできいていただくしか手はない。 





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033.白い花の咲くころ

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------白い花が咲いてた ふるさとの遠い夢の日-----

 作詞:寺尾智沙  作曲:田村しげる 

 白い花が咲いてた  ふるさとの遠い夢の日
  さよならと云ったら
  黙ってうつむいてたお下げ髪
  悲しかったあの時の  あの白い花だよ

 「白い花の咲くころ」と入力すると、《修飾語の連続です》との注釈が出る。よけいなお世話じゃねえか、そんなこと。ワシが知ったことか。歌の題がそうなってんだよ。

   それより、この歌詞見てみ。1番から3番までのなかで「さよなら」が4回出てくるやろ。
 1番は、「さよならといったら、黙ってうつむいてた」というのやから、お下げ髪の少女はすぐ目の前におるわけや。
 2番は、「さよならといったら、こだまがさよならと呼んでいた」というのやから、少女は声が届くか届かんぐらいの遠くにいることになるな。そやから、この「さよなら」は、口に両手を当てて、大きな声で、「サヨウナラ!」と叫んでるはずや。そしたら、「さよなら・・・」とこだまが返ってくるわけや。

 そうか、だから最初の「さよなら」と、あとの「さよなら」は、歌い方を変えないかんのか。たかがさよならやけどな。 

 さあ、そして3番や。これお前どう思う。「さよならといったら、涙の眸で ぢっとみつめてた」ちゅうのやで。
 それがどうしたゆうねや。
 よう考えてみーや。お下げ髪の少女は、1番ではすぐ目の前にいたんやで。それが2番でこだまが返ってくるくらい離れてしもた。なんぼなんでも、目の前におる少女に、口に手を当てて怒鳴るヤツはおらんやろ。
 それもそうやな。
 そうやろ。少女はまた目の前におるんや。眸の涙が見えるのやから。スーパーガールか、彼女は。いったり来たり。

 そんなことワシにゆうたかて知るか。歌がそうなっとるんじゃ。モンクがあるなら智沙さんにきいてくれ。しかし、エエ名前やな、「智沙」て。ラジオでは「ちしゃ」と読んでたけど。

 それはそれとして、「涙の眸でぢっとみつめてた」、この「ぢ」は出て来なんだで。むかし、ラジオの「ジ」は、この「ぢ」やったらしいな。
 しょうもないこと知っとるのーお前も。
 めんどくさいから、「じっと」でいくで。問題はこの「じっと」や。この歌が決まるか決まらんかの境目やな。
 というと?
 この「じっと」がどれぐらいのじっとかいうことや。要するにや、「じっと」か、「じーっと」か、「じーーっと」かということや。これをどう表現するかでこの歌は決まる。エエか。涙の別れやで。「じっと」見つめるぐらいなら見つめんほうがましやろ。そうかというて、すわった目で「じーーっと」見つめられたら怖いやろ。心のこもった目で「じーっと」見つめなあかんのや。与えられたメロディーの中で、この「じーっと」をどう歌うか。岡本敦郎はうまかったな。それが。

 目がすわってきた。もうやめよう。




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034.リラの咲くころ

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------リラの花が胸に咲く今宵-----

 作詞:寺尾智沙  作曲:田村しげる

 リラの花が胸に咲く今宵
  ほのかな夢の香(か)に
  ああ 思い出のあのささやき
  遠くはるかに聞こえくるよ

 「白い花の咲くころ」の姉妹作である。NHKラジオ歌謡で、レコード化が昭和26年5月だという。寺尾智沙、田村しげる、岡本敦郎のトリオによる「咲くころ」シリーズ第2弾(シリーズといえるかどうかは疑問だが)。当時よく歌われたが、いまとなってみると、「白い花」に大きく水をあけられて、周回遅れの感がある。

 私は、なぜだか分からないが、どうも2番手を応援したくなるたちである。たとえば、石坂洋次郎の原作で、戦後両方とも映画化されて歌も大いにはやった、「青い山脈」と「山の彼方に」。これも忘れかけられている「山の彼方に」の方が好きである。ということで、「白い花」よりはこちらのほうが好みに合う。上のリンク先では、十分表現し切れていないが、原曲はタンゴ調のすきっとした曲で、べたべたしないところがいい。

 経緯は忘れたが、高校生の後半になったころハーモニカが手に入った。クラスじゅう見渡してもピアノをたたけるヤツなど誰もいなかった昭和20年代半ば、ハーモニカは貴重な楽器だった。一生懸命練習した。ご存じのように、ハーモニカはC調だとか、A調だとか、曲にあわしていろいろ調性があるが、何調であろうと全部C調に読み替えて吹いていた。そこはそれ、絶対音感なんて代物は、とうの昔に神様に返上してしまっているから、怖くもかゆくもない。それはそれでいいとして、困るのは、曲の途中で出てくる臨時記号。こいつばかりはどうにもならない。いまはクロマチックハーモニカとかいって、半音が自由に使えるのがあるが、当時そんなものはない。曲の途中で「♯」や「♭」がでてくると気色悪くて仕方がない。

 本を読んでみると、原調より半音高い(たとえばC調に対してC♯調のハーモニカを重ねて持ち、♯がで出てくるところで素早くそれに乗り移るのだという。乗り移るだけなら、分からなくもないが、大概の場合は臨時記号など音符1つがあたりまえ。当然それが過ぎれば、何事もなかったように、もとに戻っていなければならない。文章で書けばこれだけ面倒くさいことを、一瞬のうちにやれというのである。そんな牛若丸みたいなことがやれるのか。

 「白い花」にも「リラの花」にもそれが出てくる。いや出てこない曲の方が少ない。出てきて当たり前である。例の係り結びの「誰か故郷を・・・」なんてのは、16分音符の連続したところで出てくる。牛若丸か義経か知らんが、とにかく鞍馬山へこもってでもやらなければ曲が吹けない。(「ふけない」とうちこんだら、「老けない」とでる。何じゃこのワープロは、老けとるんじゃワシは!)。ハーモニカのクロムメッキがはげて、真鍮の地金が出てそれがつるつるになるまでやった。義経さん、あんたのおかげで、やっと八艘飛びができるようになりました。これで五条大橋で流しができます。弁慶さんによろしゅういうといて。

 立命館大学理工学部にハーモニカバンドがあった。いまの大学生諸君には想像がつかないはずである。大学1回生の終わりのころ、そのバンドの発表会があった。やったのが「リラの花咲くころ」だった。ほかにも曲はあったはずだが、これだけしか憶えていない。

 終わったところで、部長だかマネージャーだか分からないが、その中の一人がボクに声をかけた。「きみ、一緒にやらへんか」。なんでボクにその声がかかったのが不思議だった。しかしそれを考える前に「やります」と答えていた。「ボクは義経級です・・・・」とはいわなかったが、4月、年度が替わったら練習に行く約束をした。

 そのあとで、運命が変わった。大谷高校から「理科の助手にこないか」との誘いをうけた。大学は2部(夜間)にかわった。誘った相手は、ボクが雲隠れしたと思っているはずである。




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035.たそがれの夢

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------たそがれの 窓を開き-----

 作詩:西沢 爽  作曲:田村しげる  昭和23年

 たそがれの 窓を開き 青いランプに 灯りを点せば
  囁きは 優しかったと 古い日記の ひそかにも
  ああ 夢よ  仄かなる
 悲しみよ 我が胸に流れて やがて消え行く 愛のワルツよ

 田村しげるの曲で、どうしても触れておかなければならない曲があったはずだと思いながら、なかなか思い出せなかった。気持ちが悪かったんだが、やっと思い出せた。『たそがれの夢』である。ラジオ歌謡。レコード化昭和23年。こんなに古いとは思わなかった。もう少し後かというイメージがあったが、そう思いこんだのは、大学生時代に映画の合間に聞いた”実演”のせいだったのかも知れない。伊藤久男のちょっとリズムを崩した歌い方が魅力的だった。

 いつだったか、田村しげる・寺尾智沙夫妻のラジオ放送を聞いたとき、智沙夫人が、「あの歌、私歌えないの、何回歌っても途中でもとに戻っちゃう」といっていたのを思い出す。そういえば、「たーそーがれのー」のメロディーと、「あーおーいランプにーー」、「あーあーゆめよーー」がよく似ている。うんなるほど。
 そんな記憶から、この歌も作詞は寺尾智沙だと思いこんでいたのだが、申し訳ない、西沢爽だった。

 高校時代だったか、・・・「たそがれ」は「誰ぞ彼」であって、夕暮れ時、「あいつは誰や」という時間帯が「たそがれ」だという。文語では「誰」は「たれ」と読む。だから「誰か故郷を想わざる」、「誰か夢なき」は「たれ」が正しい・・・、という熱弁を聞いたことがある。へそ曲がりの私は、そんなめんどくさいこと「だれ」が決めたんや。「だれ」が「たれ」なら、なんで「かれ」が「がれ」やね。「たそかれ」でないと理屈に合わん、とふてくされていた。 

 



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036.あざみの歌

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------山には山の愁いあり-----

 作詞:横井弘  作曲:八洲秀章  昭和26年

 山には山の愁いあり
  海には海のかなしみや
  ましてこころの花園に
  咲きしあざみの花ならば

 さて、八洲秀章・『あざみの歌』。昭和25年のラジオ歌謡、レコード化は昭和26年だという。八洲秀章としては、昭和15年鈴木義章のころの「高原の旅愁」、昭和25年、「さくら貝の歌」、に次ぐヒットである。以来抒情歌の代表作として、いろんな歌手が歌っているが、私としては、やはり最初に歌った伊藤久男にとどめを刺す。それも最初の版。

 なぜ最初の版にこだわるか。八洲秀章のメロディもいいし、伊藤久男の歌もいい。それに加えて、初版の2番についている女性コーラス、これが何ともいえない。後にステレオになって、伊藤久男自身のもっといい録音もあるが、それには女性コーラスはついていない。あざみの歌にはどうしてもこれが要る。

 2番、歌の間はハミングでついてきて、「いとしき花よ 汝はあざみ」の「み」のところで半拍遅れて「ナハアザミ」と続く。次のフレーズも、同じように「ナハアザミ」、そして、「さだめの径は 涯てなくも」で、「ハテナクモ」。もちろんラジオ歌謡のときもこれがついていた。レコードではコロンビア女性合唱団が歌っている。いいですよこれ。これがなかったら、わさびなしで刺身くっているようなもの。
 聞けば一発で分かるものを、面倒くさいものだ、こうして文章で書くことは。

 京都生まれの私は、あざみの花など、ほとんど縁のない生活を送っていた。何かのとき山でこの花を知った。その後、20歳代半ばだったと思うが、田沢湖高原へ行った。8月にもかかわらずひんやりとする高原の冷気のなかで、アザミが群生していた。霧に濡れたその花が可憐だった。高校の全国ユネスコ大会か何かがあって、その引率だった。大会のことは全部忘れてしまったが、この歌を聞くと、そのときのアザミを思い出す。




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037.山のけむり

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------山の煙のほのぼのと-----

 作詞:大倉芳郎  作曲:八洲秀章

 山の煙のほのぼのと
  たゆとう森よ あの道よ
  幾年(いくとせ)消えて流れゆく
  想い出の ああ 夢のひとすじ
  遠くしずかにゆれている

 つづいて、八洲秀章・『山のけむり』。昭和27年のラジオ歌謡。「高原の旅愁」、「さくら貝の歌」、「あざみの歌」とこの「山のけむり」、これが作曲家・八洲秀章の4大ヒットといえるが、私個人としては、「さくら貝」を除く3作を、山旅歌謡ないしはフィールド歌謡3大ヒットだと考えている。そして、何度か書いた松竹座の”実演”で、胸を熱くして聞いた曲の一つであることはいうまでもない。

 何の本だったか、今すぐには思い出せないが、この歌詞は浅間山の煙をイメージして作られたと、読んだ記憶がある。なるほど、「幾年消えて流れゆく」といわれれば分からないこともないが、「・・・のほのぼのと、たゆとう森よ、あの道よ」とあるのだから、私のイメージとしては、山陰の炭焼き小屋からの煙とか、山小屋からの夕餉の煙などをイメージする。

 この曲が世に出た昭和27年、私は大学1回生だった。夏休みの体育科行事として伊吹山登山があって、それに参加すると体育実技の出席時間に換算されるという。これは面白いと何も知らずに飛びついた。事前の説明があったのかどうかも今となっては記憶が怪しいが、カッターシャツ1枚、ズック靴で参加した。1300mを越える山へである。

 それまで山といえば、ケーブルで上った比叡山が最高だった。1000mを越す山へ登るということがどういうものなのか、何も知らずに例の夜間登山である。ガスがかかって何も見えない山頂の夜明け、寒かった。ほうほうの体で逃げ帰った。おそらく事前の説明はあったはずである。しかし説明と、身をもってした体験の差は大きい。説明は忘れても、あの寒さは忘れない。そんな登山でも、この曲を聴くイメージの助けにはなった。

 山を下って雲の下へ出たとき、見晴るかす平野の向こうに琵琶湖が見えた。登るときは真っ暗で何も見えなかったのだから、突如眼前に現れたと言っていい。寒さから解放されて、見下ろす眼下一面緑の田畑から、煙が幾筋も立ち上がっていた。しかしいま振り返ってみると、大工場の煙突の煙ならともかく、農作業の煙が伊吹山の中腹から見えるはずがない。おそらく、生まれてこの方、高校の修学旅行以外に京都を離れたことのない大学生が、初めて見た大風景を前に、何かちょっとした煙の記憶が拡大されたものであろう。

 その後、信州の山を訪れ、記憶が入れ替わるまで、私の「山のけむり」は、目に見えないくらいの煙を、頭で拡大したこの風景だった。




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038.合奏協奏曲「四季」

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-------「冬」の第2楽章・ヴィヴァルディ-------

 高校生のころだったか大学生のころだったか、記憶が怪しいが、夜11時台、11時15分からだったか、45分からだったかに、NHK第1放送で「お休みの前に」という番組があった。それが終わると、ニュースか何かの短い番組のあと、「君が代」が鳴って放送終了という段取りであった。一晩中、のべつ幕なしに電波たれ流しの昨今とは訳が違う。日本中がきわめて健康的な生活を送っていた時代であった。

 その番組のテーマ音楽がヴィヴァルディ・合奏協奏曲「四季」、全4曲中の4番目、「冬」の第2楽章だった。といってもそのときその曲名を知っていたわけではない。高校の音楽の授業を鵜呑みにして、音楽はバッハから始まったのだと、信じ切っていた時代である。バロック音楽の知識など、薬にするほども持ち合わせていなかった。そんな白紙の頭に、この曲の美しさが染みついた。曲目を知らないまま数年が過ぎた。

 昭和30年代に入ってからだったか、何かの番組で、ヴィヴァルディを知り、この曲を知った。演奏はイ・ムジチ合奏団、コンサートマスターはフェリックス・アーヨだった。生演奏を聴いてみたいと思った。それをイ・ムジチより先に聴かせてくれたのが、ビルティオージ・ディ・ローマだった。

 昭和37年4月21日、大阪フェスティバルHでの演奏会。オール ヴィヴァルディ・プログラム。どれを聴いても同じ曲に聞こえた。やっている本人たちは飽きないないのかなと思ったりもしながら、うとうとしていた。安月給だから、演奏会は一番安い席と決めていた。その日も2階のいちばん後ろの席だった。後ろの人を気にすることなし、いい気持ちだった。そのうちに、演奏に合っているような、合っていないような不思議な音で目がさめた。演奏は何事もなかったように続いている。夢だったのか。

 バロック音楽は、ときどき自然描写を擬音的に取り入れたりすることがあるから、曲の一部だったんだろうと納得した。と、今度は頭のすぐ上で音がした。頭の上、そこは天井だった。音は天井の上。雷だった。そういえば、大阪への途中、どこかへの落雷で電車が止まりかけたことを思い出した。それがまだ暴れていたのである。バロック音楽の伴奏で聴く生の雷。最初で最後の体験だった。




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039.アルプスの牧場

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-------雲がゆく雲がゆく アルプスの牧場よ-------

 作詞:佐伯孝夫   作曲:佐々木俊一   歌:灰田勝彦 

   雲が行く雲が行く アルプスの牧場よ
   鈴蘭の花咲けば レイホー レイホー
   青春の胸が鳴る ハイホー ハイホー
   角笛吹けば 駈けてくる 駈けてくる
   レイホー レイホー 愛らしい子羊よ
    レイホー レイホー
    レイヒレイティレイホー
    レイホー レイホー
    レイティレイホレイティー

 昭和26年、私が高校3年生のときにはやった歌である。伊藤久男とは全く傾向が違う、軽快な灰田勝彦の歌である。この歌は、京都の円山公園音楽堂で聞いた記憶がある。確か、菊池章子も一緒で、「星の流れに」などを歌っていたが、公園の中の屋外では、「・・・こんな女に誰がした」は気の毒だった。そこへ行くと「アルプス」は環境庁スイセン。例のヨーデルで歌われれる「レイホー レイホー」のところでは、どないしたらあんな頭のてっぺんから声が出るのやと、なかばあきれてきいていた。

 「山小屋の灯」と傾向を一にするが、「山小屋」が「暮れ行くは白馬か、穂高はあかねよ」と具体的な地名が出てくるのに対し、こちらは、一切地名抜き。アルプスの牧場てどんなとこやろと、中部地方の地図を眺めていた。そうか、ここが白馬で、穂高はここ。松本から電車が出ていて、終点が島々。なんでこんな山の中が「島々」やね、といつものようにへそを曲げていた。そこの奥の上高地の地名すら知らないころだった。

 昭和30年、大学最後の夏休み。その前の年、上高地へ行って来た友人のHが、コダクロームで撮ってきた写真を見せながら、口ではいえへんぐらいエエとこやから、一緒に行こうという。8月半ば、京都から松本まで、夜行列車で蒸気機関車にひかれて出かけていった。冷房もない時代だったから、トンネルに入るたびに窓の開け閉めをしなければならない。ゆっくり眠ることもできずに、途中で買った週刊誌を読んでいた。「美ヶ原」の案内記事が目に入った。

 きけば、松本から麓までバスが出ているという。上高地へ行く前にこっちへ行こう。ずっと後になって、こういういい加減なヤツが遭難事故を起こすのだと知ったが、そのときはのんきなもの。急遽予定を変更して美ヶ原へ。行ってみてびっくりした。今と違って、ビーナスラインなどあるはずがない。およそ無限に続くかと思われるぐらいの草原に、牛や馬がのんびりしているだけだった。人工建造物といえば、例の「美しの塔」がぽつんと立っているだけ。

 この塔には、尾崎喜八の

 登りついて不意にひらけた眼前の風景に
    しばし世界の天井が抜けたかと思う
  やがて一歩を踏み込んで・・・・

 と、「美ヶ原溶岩台地」の詩が埋め込まれているのだが、そんぽときはまだ尾崎の「お」も知らない。なんで、こんなところに、こんなけったいなものを建てたんやと、例によって例のごとく腹を立てていた。そのあと、嘘か本当か知らないが、霧で視界が悪くなったとき、この鐘を鳴らして人を誘導するのだときき、なるほどと納得した。

 アンテナも何もない、本当の草原だけ。そんな時代だった。あいにく視界が悪く、槍・穂高の眺望もきかなかったが、それでも、これが本当の「アルプスの牧場」だと思った。ここでならどんなに大きな声を出してもエエやろうと、「レイホー」をやってみたが、牛が「モー」と鳴いただけだった。アホか。 


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040.お富さん

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-------粋な黒塀 見越しの松に-------

 作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信  昭和29年

 粋な黒塀 見越しの松に
  仇な姿の 洗い髪
  死んだ筈だよ お富さん
  生きていたとは お釈迦さまでも
  知らぬ仏の お富さん
  エーサオー 玄治店(げんやだな)

 今までこの「むかし語り・・・」を読んでくださった方で、なんでここで『お富さん』なんのか?と首を傾げてくださる方が一人でもおられたら、私はうれしい。

 昨日書いたように、昭和30年、生まれて初めて長野県へ足を踏み入れた。と同時に自分のカメラで写真を撮るということを経験した。持って回ったいい方になってしまった。要するに、この山行きの前にカメラを買ったのである。大谷高校から、理科助手としていただく月々のアルバイト代が5000円。買ったカメラがアルコ35というカメラで、定価27,000円余。実際の価格が25,000円なにがしかであった。当時のカメラがいかに高価なものであったかがおわかりいただけよう。

 モノクロームのフィルムは、ASA100のSSが出て少したったころだったか。ネガカラーはなく、今でいうリバーサルフィルムが、「SAKURA COLOR」、「FUJI COLOR」という名称で発売されていた。ダイレクトプリントなどは想像外、撮った写真はスライドで見るしか方法はなかった。コダックだけは、「コダクローム」、というように、「・・・クローム」で呼ばれていたが、「サクラ」や「Fuji」は「・・・COLOR」と今でいうネガカラーの名称で呼ばれていた。コダックの現像所が日本になく、ハワイまで送らねばならなかった。船便で送ると戻ってくるまで一ヶ月ほどかかった。そんな時代の話である。

 大学の写真部に入っていた友人のHが、写真の基本はフィルム現像、これをやらんと意味がないという。失敗したらどないしょうと恐ろしかったが、怖がっていても意味がない。いっちょうやってやろうと、学校の暗室に潜り込んだ。有名な京都の8月である。冷房のない暗室で、どうして仕事をしたのか。今では想像もできないが、とにかく現像はできた。あとはそれを楽しみながら焼けばいい。といっても暑いものはあつい。フィルム現像は、1本あたり10分あまり、それが終われば、外へ出られるが、プリントとなるとそうはいかない。2時間3時間はざら。これは昼間の仕事ではない。夜、部屋のすべての電灯を消して、暗室のドアーを開け放してやることにした。

 京都では戦後、昭和22年ぐらいから、各町内会が競って盆踊りをやり出した。それが昭和30年前後まで続いただろうか。当時、土曜日の夕方、日が暮れてから家路につくと、2カ所、3カ所と盆踊りに出くわした。使われる曲は、最初のころは「みずほ踊り」といったものだったが、昭和30年にきて爆発的に『お富さん』にかわった。開け放した暗室のドアーから、遠く近く「粋な黒塀 見越しの松に・・・・」が聞こえてきた。

 このレコードの発売が昭和29年である。たしか、昭和27年の『赤いランプの終列車』が春日八郎の初ヒットだったと記憶する。とびきりの名曲だとは思わないが、まあそれなりの歌だった。しかし、この「死んだはずだよ お富さん・・・」はいやだった。歌舞伎から題材をとったという歌詞は、素人にはちんぷんかんぷん。曲も体質に合わない。それが写真焼き付けの伴奏として、毎晩のごとく聞こえてくるのである。これには参った。

 光はカーテンなり何なりの遮蔽物でシャットアウトできるが、音はそうは行かない。いやな音楽を聴かされるのは拷問に等しい。今このいやな曲を、「知らぬ仏のお富さん・・・」とすんなり歌えるのは、あの苦しかった夏の夜の拷問の代償である。空気は通すが、音は通さないカーテンを発明して、お富さんのハナをあかしてやろうと密かに研究中である。(お前にそんなことができるか。アホか。)・・・・へイ、すんまへん。

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