---昔語り『音楽夜話』・9---



A8081

081.交響曲第3番「英雄」

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------ベートーベン--------

 もう一回「英雄」を。
 ・・・この曲のLPには、3枚の名演奏があります。トスカニーニ(ビクター)、ワルター(コロンビア)、フルトベングラー(エンジェル)がそれで、何れも録音は新しくなく、特に最初の2枚は良い音を楽しみたいという人には不満があるでしょう。・・・・

 これはきのう引用した宇野功芳氏の文章である。これら3人の指揮者のうち、その時点で、トスカニーニ、フルトベングラーの2人は既に亡くなっていたが、ワルター(1876.9.15〜1962.2.17)だけは、まだ健在で音楽活動を行っていた。

 Wikipedia によると----ワルターの演奏のステレオ録音のために、ロスアンジェルス付近の音楽家により特別に結成したコロンビア交響楽団を指揮し、この組み合わせにより多くの録音が残された。----とある。当時この「コロンビア交響楽団」とは?と話題になり、某オーケストラの別名だとか、その某と某が合体したものだとか、某に全米からプレーヤーを呼び集めたとか、いろいろ憶測されていた。結局はWikipedia にあるような話が実際のところだったのだろう。もちろん私がその真偽を確かめられるはずもない。オーケストラの正体は別として、最終的に彼はベートーベンの全曲ステレオ録音を残して死去した。

 さて、その中の「英雄」である。音があまりよくない先人2人に対してステレオ最新録音。話題になった。たしか、例の髪を振り乱したベートーベンの肖像画が夕焼け雲に向かって立っている。ジャケットはそんなデザインだった。ステレオ録音というのが魅力だった。それも最新録音。当時ステレオ盤といっても、かなり以前に録音されていたものが使われてたりして、最新録音はそれだけで結構魅力だった。

 胸をわくわくさせてその新盤を持って帰った。金を払ってないことはいうまでもない。うやうやしく針を落とした。ジャン、ジャン、全合奏の主和音2発。そして、タータタータタタタタータターーと曲は進む。しかしこんなこと書いて何になるんや。「タ」が何回あるか、合ってるのかこれ。まあ、そんなことどうでもよろしい。とにかく音楽が始まった。

 ところがどのあたりだったか、今となってはレコードそのものがないので、確かめるすべもないが、けったいな音がした。なにがどのようにおかしかったのか、記憶も薄れているが、とにかく針が溝をうまくトレースできていない音である。音は飛ばないからいわゆる針飛びではないのだが、針がレコード盤にきっちり着いていない感じ。足が地に着かないという表現があるが、あの感じかな。

 そのころのレコードは、いや、レコードというよりは、正確には私のプレーヤではというべきなのだが、とにかくそのようなことはよく起こっていた。だからレコードをかけていてウトウトするなんてことは絶対なかった。絶えず何かことが起こらないかと緊張していたからである。

 さてそのけったいな音。いったん演奏を止めて、盤を見透かすがなにも異常があるような様子はない。そのときの一番のチェックは、針にホコリが着いていないかどうか。これが意外に多かった。レコード盤上の微細なホコリが針で集められてかたまりになるのである。そのときはホコリは着いていなかった。となると針の摩滅、これが日常茶飯事。このときも冷静に考えれば、おそらく針を換えればよかったのだろうが、そのときはなぜか冷静さを欠いていた。

 針圧かも知れない。そう思った。ちょっと高めに調製し直してみた。変わらなかった。折角気持ちよく聞こうと思っていたのに水を差された感じで、腹が立ってきた。こういうときは、いったん休んで気分転換を図るのがいちばんいい。しかし、そのときはそうは思わなかった。お前が悪いんじゃとばかりに、ポケットにあった5円玉だったか10円玉だったかをカートリッジの上に載せた。何ということをする。他人がやれば、頭の一つも張り飛ばすところである。

 針圧、使っているカートリッジで差があったが、大きくても数g、それを針の先にかけるのである。針とレコード面との接触面積は、数字でいうといくらになるのか、いずれにしても微少な面積。それを比例計算して、レコード全面にかかる力に置き直すと、30cmLPでだいたい象一頭の重さに当たるという。レコードの上に象が1本足で立っているのである。それぐらいの力関係であるのに、その上に5円玉を置いた。むちゃくちゃである。盤面は削られて二度ともとには戻らなかった。

 このレコード、まだ一銭も払っていなかったんや。体中から汗が出た。・・・・安もん長屋の隣からラジオが聞こえてきた。美空ひばりの「お祭りマンボ」をやっていた。・・・・ワッショイワッショイ、ワッショイワッショイ・・・・・あーとの祭りよ。。。。。つまらん歌うたうな!。




A8082

082.ピアノ協奏曲第2番

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-------ブラームス----------

 そのころ、レコードマニア向けに「ディスク」という雑誌があった。今も続いている「レコード芸術」がメジャーとしてあったが、私は、トップのものより二番手の方が体質に合う。そんなこともあってこの雑誌を続けて読んでいた。その巻末に毎号クロスワードパズルがついていた。

 前回の全問正解者数が出るのだが、それがたいてい数名から10名以内なのである。一見誰が見てもできそうな問題である。それが何で正解者が少ないのか。そんなに応募者が少ないのか。ところがそうじゃない。応募者は結構ある。ということで、その正答率の低さが気になりだした。

 今なら、正答率が高かろうが低かろうが、ワシの知ったことかと、そんなしち面倒くさいことは絶対にやらないが、そのときは何故かそれにこだわりだした。参考のためにと前回の正解を確かめることにした。1回や2回ではわからなかったが、何回か続けているうちに、その理由が分かってきた。ほとんど誰もが正解するような簡単な問いの中に、1〜2カ所、一見簡単なように見えて、誰もがAと答える覧を、よーく考えると、Zという答えも成り立つようなキーワードが埋まっているのである。

 もちろん新しい問題ではそのキーワードがどれに当たるのか、それは分からない。しかし、そういうポイントがあるぞと意識して解答するのと、知らずに解答するのとでは当然差が出てくる。あるとき気がつけば全問正解者に入っていた。商品は新譜レコードだという。新譜の中から自由に選べたのか、あてがいぶちだったのかは忘れたが、とにかくレコードが送られてきた。それがブラームスのピアノ協奏曲第2番だった。指揮はカラヤン、これは間違いない。ピアノが誰だったか全く思い出せない。以上、ここまで余談。まじめに読んでくださった方、お許しを・・・。

 さてそのブラームス、ピアノ協奏曲でありながら4楽章構成という、いわばピアノ独奏付き交響曲ともいえる曲で、雄大なスケールが特徴である。ホルンとピアノで静かに始まる。開始から3分半前後のところ、私は素人で、曲の構成を分析したりはできないが、いわゆる提示部の真ん中あたりだと思う。全管弦楽とピアノが最強奏で入ってくるところがある。気持ちよく聴いていたら、そこで針が飛んだ。あっと思ったが、それで終わりだった。初めから繰り返したが、当然のごとくそこで飛んでしまう。これは「英雄」と違って汗はかかなかったが、何ともあっけないものだった。

 そんなことがあってから、カートリッジ(針の機械的な振動を電気振動に変える部分)はクリスタル式(圧電式=結晶を変形させることで起電力を生じさせる方式)ではダメだ。これはもう1ランク上げるしか手はない。またなにがしかの大金をはたいて、それをMM式(ムービング・マグネット式=コイルの中で磁石が動くことで起電力を生じさせる方式)に換えた。ヤレヤレ・・・・。




A8083

083.交響曲第4番

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 --------ブラームス----------

 昭和35(1960)年12月、例のウイーン・フィルを聴いた翌年である。イスラエル・フィルが来日した。その後何度か来日しているが、これが初来日だった。指揮は、当時若手のカルロ・マリア・ジュリーニ。私はその演奏会を京都会館で聴いたが、大阪でも演奏会を開き、それを受けて毎日新聞音楽評欄に次のように紹介がされていた。

-----昔からユダヤ人には優れた音楽家が多い。第二次大戦中にちりぢりになった彼らをテルアビブに集めて創設したイスラエル・フィルハーモニーは、歴史こそ新しいが、最近にわかに声価を高めてきたオーケストラだけに、その来演には期待をもたれた。また2千年の歴史を通じて祖国を持たなかったユダヤ人の民族色がどのように演奏に出てくるか、そして若いイタリア人指揮者ジュリーニが、腕には自信のある楽員たちをいかに掌握しているだろうか、という興味もあった。------後略---(渡辺記者)

 京都での曲目は次の通りだった。

   ウェーバー 魔弾の射手序曲
    ストラビンスキー 火の鳥
   シェリフ 詩篇による交響的二楽章「都もうでの歌」
   ブラームス 交響曲第4番

 今なら、当然「火の鳥」が興味の対象だが、当時の私には、ちょっと荷が重かった。ということでブラームスに関心が向いた。「ブラームスにしては、やや音が軽い感じがしたが、ものすごい力演であった。しかし、聞き終わって、ウイーン・フィルの時のような、いつまでも耳に残る印象はなかった」とメモを残している。

 ジュリーニは1914年イタリア生まれだという。当時まだ40歳代半ば。

長老が多い指揮界ではまだほんの駆け出しの若造というところだったろう。もうそのときの記憶は残っていないが、おそらく力まかせの演奏だっただろう。

 ジュリーニ自身もその後2度ほど来日しているが、演奏会の上でも、レコード・CDの上でも、ほとんど接点なしで経過していた。そして数年前、京都駅前近鉄百貨店の6階で、CDあさりをしていたとき、ジュリーニの名前がふと目に止まった。その日がいつだったか確かめようがないのだが、ジュリーニの死去が2005年というから、ひょとしたら、死を悼んでのことだったのかも知れないし、死の直前のことだったかも知れない。

 そのCDはブラームスの一番と三番の交響曲がカップリングされた2枚組だった。ブラームスは若いころからよく聴いた。一番では、とくに2楽章の最後の方で、コンサートマスターがリリカルなソロをやるところが何ともいえず好きだった。余談になるが、この部分、いちばん明確に聞き取れるのが、トスカニーニ盤である。彼の盤を聴くと、他の仕事をしていてもその部分になると必ず耳が引き寄せられる。他の演奏では、気が付かずにそのまま素通りしてしまうことが多い。

 一般にトスカニーニの演奏は、叙情性を排した即物的な解釈だといわれる。そういう演奏でありながら、曲中もっとも叙情的な部分が他の多くの演奏より、より印象的に聞き取れるのだから不思議である。

 話を戻して、ジュリーニという名前の懐かしさと、曲へのこだわりとから、それを買って帰った。何ともゆっくりした演奏だった。ゆっくりと堂々とした演奏の慣用句として、「悠揚迫らざる」という言葉がよく使われるが、そんな言葉では追いつかないぐらい。こうなれば言葉ではなしに、数字で表すしか方法はない。

 ブラームス交響曲第1番。一般に速いといわれているトスカニーニ、これが41分41秒。遅く「悠揚迫らざる」演奏の代表とされるフルトベングラーが46分48秒。某テレビ番組の「お父さんのためのワイドショー講座」みたいになってきた。その差約5分。ところがジュリーニ盤は51分42秒。

 このテンポの遅さについて、その後いろんなものを読んでいると、何かと話題になっているようである。要するに、あまりにも遅すぎるやないか、というのである。いまも書いたように、私もそのテンポの遅さに驚いた。しかし、第1番を聴いたとき、これはエエぞ、と思った。音の一つ一つに説得力があるのである。その後ついでだからと、二番と四番のカップリングも買った。第4番でも、ジュリーニ盤、46分20秒。フルトベングラーより約5分長く、トスカニーニより約10分も長い。一番と同じ傾向である。

 四番の交響曲は1楽章の途中にサンタルチアによく似たメロディが出てきたりして、若いころから親しんでいた。だから、その昔京都会館でイスラエル・フィルの演奏を聴いたときには、すでにこの曲は知っていたはずである。しかし、上に書いたようなメモを残しているだけで、演奏のテンポのことには全く触れていない。おそらく一般的なテンポだったのだろう。この四番の録音が1991年4月だという。彼70歳代後半のことである。京都での演奏会から30年の歳月が過ぎている。その変化が何を意味するのか知るよしもない。

 彼の死は2005年であるから、この録音の時は最晩年というほどのこともない。しかし、これは過ぎてしまってからいえること。人間、自分がいつまで生きられるから分からない。ひょっとして彼は、このウイーン。フィルとの録音を自分の遺言のつもりで行ったのではないか。そんな気がする。機会があれば、ドイツレクイエムを聴いてみたい。




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084.交響曲第4番「ロマンチック」

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-------ブルックナ--------

 昭和36(1961)年春のシーズンを最後に、京都市交響楽団育ての親、カール・チェリウスが離任。替わってハンス・ヨアヒム・カウフマンが第2代常任指揮者として就任した。長身の好男子だった。前宣伝ではブルックナーが得意だという。

 いまでこそブルックナーといっても、別段大騒ぎをするほどのことはないが、当時はまだほとんどの人が、ブルックナーを生で聴くということがなかった時代である。いつか、私をストラビンスキーに誘ってくれた音楽のK先生などが、「ヨーロッパではブルックナーが人気あるらしい。どれもこれも1時間を超える曲で、それをみんなじっと聴いとるらしい」という。放送ではときどき耳にするが、そんな大曲を実際に聴く機会など、絶対にあり得ないという思っていた時代である。

 とはいうものの、来日してすぐは無理だろう。9月の定期は、「未完成」。グリーグのピアノ協奏曲。それにブラームスの4番。まあ当たり障りのないところだった。

 そして10月定期。バッハの「ブランデンブルグ協奏曲」、モーツアルトのモテット「踊れ喜べ汝幸いなる魂よ」。そしてブルックナーの交響曲第4番。当時のメモによると「ホルンが6本ずらりと並んでいた。あの中世の夜明けと形容される冒頭のホルンもまずまずうまくいって、1時間以上を要する長大なシンフォニーが始まった。・・・」とある。

 「初めて生で聴くブルックナー、長大なだけで、どこといってつかみ所のない曲である。ブラスの咆吼と弦のささやきが繰り返されて進んでいく」と。なんとまあ20歳代の若造があつかましいことを。自分が経験したことだけを基準にするから、こんなことが書けるんだな。しかしよーく考えたら、今も同じかも知れん。あれから50年経っているというだけで、今書いていることも、結局は自分の経験の域は出ない。神様から見たら、何をいうとるか、ということだろう。

 この後カウフマンの時代、長大なつかみ所のない曲を何回か聴くことになるが、今考えると、貴重な体験だったと思う。




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085.二重協奏曲

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-------ブラームス-------
    ・・・・室内楽開眼の日・・・・

 タイトルが「二重協奏曲」、サブタイトルが「室内楽開眼の日」、意味が分からないはずである。

 昭和36(1961)年11月、京響定期。すーク・トリオと京響が協演するという。そのときスーク・トリオの名前を知っていたかどうかあやしい。たぶんこの時初めて知ったのではなかったか。音楽を聴きだしたころは、やはりオーケストラが面白い。室内楽に目がいくにはそれなりの時間がかかる。

 さて、スーク・トリオ。三重協奏曲か何かをやるのかと思ったら、ブラームスの二重協奏曲とドボルザークのピアノ協奏曲だという。数は合うかも分からんが、何のためのトリオやね。誰が考えたんや、こんなしょうもないこと。三色団子を2、1に分けて売るようなものやないか。3人で一曲やるより、2,1にわけて2曲やる方が時間はもつで。口の悪いのががやがや。

 まず二重協奏曲。ブラームスの有名なやつである。J・スークとJ・フッフロ。京響も発足間なしのころに比べると、これが京響?と思うぐらい充実した音になっていた。そしてドボルザークのピアノ協奏曲。ソロはJ・パネンカ。ファーストネームが3人とも「J」だけれども、確か前の2人がヨゼフ、あとは、たしかヤン・パネンカだった。このドボルザークもあまりなじみのない曲だったが、楽しく、聴き応えのある演奏だった。

 「しかし、今夜のコンサートで、何としても楽しかったのが、アンコール。スーク・トリオがやった三重奏だった」とメモを残している。曲目まで記録していないのが残念だが、「音楽の本当の楽しさを、身をもって表現してくれる彼らの音楽。バイオリンは美しく、チェロは力強く幅広く、その間をピアノが躍動する。聴衆のために演奏しているのだろうが、それよりも、彼らは自分自身のために音楽をやっている。いままでこの美しい演奏形式を見落としていたことを不覚に思う」。

 アンコールだけで30分近くを要した。このときだけかと思ったが、そのあとも、このトリオの演奏会に何回か足を運んだが、とにかくアンコールが楽しかった。・・・が、長かった。だいたい普通の演奏会より電車が2,3本後になるのが通例だった。

 「美しい、本当に心からの音楽、室内楽開眼の日といってよかった」という。




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086.ワルキューレ

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------ワーグナー------- 

 昭和37(1962)年2月、京響定期。オールワーグナー プログラム。歌ハンス・ホッター。

 この音楽会はきっちりと憶えている。京響定期にハンス・ホッターが来るというので期待が大きかった。1909年生まれというから、この年53歳。20世紀最高のワーグナー歌手として世界中から尊敬と賞賛を受けていたバスバリトンである。

 私を音楽に引きずり込んだAさんが、大のフィッシャー・ディースカウ ファンで、「冬の旅」のレコードを持っていて、何かにつけて、そのよさを吹聴する。彼(フィッシャー・ディースカウ)が京都へ来たときも「行こう」という。そのころはまだ歌曲のよさが分からないというか、それを聴く力がなかったというか。結局それには行かなかった。

 「よかったぞ。君も来ればよかった。頭から首まで同じ太さで・・・、まるでフットボールの選手やね。それでいて、弱音が何ともいえん・・・」。「ランパルと一緒ですか」。「そやそや、ランパルも頭から首まで・・」。ジャン・ピエール・ランパル、いうまでもないフルートのランパルである。彼の首も太かった。あれぐらいの体力がないと一流にはなれないのだろうと、いつも2人で話し合っていた。

 「冬の旅」を聴いてみようかと、ふと思った。しかし、同じフィッシャー・ディースカウでは面白くない。それならとハンス・ホッター盤を買った。ジェラルド・ムーア伴奏のモノラル盤である。さすが稀代のワーグナー歌手といわれるだけあって、よく響く幅の広い低音、いまもCDを車に積んで、思い出しては聴いている。そのハンス・ホッターがほんまもんのワーグナーを歌うという。

◆京響の演奏で
  さまよえるオランダ人序曲
  ニュルンベルグのマイスタージンガー序曲
◆ホッターの歌で
  マイスタージンガー・ザックスのモノローグ
  トリスタンとイゾルテ前奏曲と愛の死
  ジークフリート牧歌
  ワルキューレよりヴォータンの歌

 トランペット4本、トロンボーン3本、バストロンボーン1本、チューバ1本、それに7本のホルンのブラス群が力いっぱいの最強奏をバックにして、その中でホッターの声が聞こえてくるのには驚いた。戦車のような身体。このつやのある、力のこもった幅広い声は、とうていスピーカーからは出てこない素晴らしいものだった。

 外に出ると東山に十六夜の月がかかっていた。祇園まで歩いて”おかよ”でビールとお茶漬け。”おかよ”とは、その少し前Aさんと一緒にいってなじみになった店である。いまどうなっているのか。




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087.バイオリン協奏曲

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-------ハチャトリアン-------- 

 昭和38(1968)年2月の京響定期にハチャトリアンが来るという。
 ハチャトリアンて、あのハチャトリアンか?。ほんまに「剣の舞い」のハチャトリアンか?。
 ハチャトリアンて生きてるの?。ハチャトリアンをやるのとちがうのか?。

 正直いって、そのとき私はハチャトリアンが生きているとは思ってもいなかった。演奏会で演奏されるような有名な曲の作曲者は皆過去の人と相場が決まっている。生きている人がいるなんてことは考えられなかった。あのいそがしい「剣の舞」の作曲者も当然歴史上の人物だった。まさか、その人が生きて指揮台に上がろうとは。ほんまか?。足あるか?。

 1903年生まれというから、そのとき65歳。今の私より若かった。ハチャトリアン様失礼しました。

 バイオリン協奏曲。バイオリンはレオニード・コーガン。アンコールにやった「剣の舞」以外すべて知らない曲ばかり。何のことはない、「剣の舞」一曲が有名なばかりに、歴史上の人物に祭り上げられていたことになる。

 京響もカザルス以来の快演だった。その迫力もさることながら、弱奏が美しかった。これが京響かと驚いた。

■ 私が持っているCD----バイオリン協奏曲(D.オイストラッフ)モスクワ放送交響楽団。、ピアノ協奏曲(N.ペトロフ)ソヴィエト国立交響楽団。指揮、何れもアラム・ハチャトリアン----の解説書に次のようにある。

 ・・・・ハチャトリアンは自作の録音を多く残しているが、指揮者としての手腕も高く評価されていた。1963年、彼は読売日本交響楽団、京都市交響楽団を振るために日本を訪れ、交響曲第2番、バイオリン協奏曲(コーガンの独奏)ほかを演奏したが、それらは、日本の楽壇史上、もっとも輝かしい演奏の一つとして今も語りぐさとなっている。・・・・(平林直哉)

 目のぎょろっとした写真を見るたびに、そうそうこんなオジサンだったと当時を思い出す。




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088..交響曲第5番

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-------ショスタコービッチ--------

 昭和34(1959)年7月に発行された雑誌ディスクの臨時増刊号「名曲とレコード」で、ショスタコービッチ交響曲第5番が紹介されていた。その中で
 ・・・・第3楽章は、この曲をけなす人さえ、ここだけは褒めるという、非常に深い感動を持ったラールゴで、その清らかに澄み切った抒情は本当に素晴らしく、デリケートなニュアンスの点でも際だっています。ハープの伴奏でフルートが淋しく歌うところなどは晩秋の信州を思い出させるほどですし(恐らく北国ロシアの田舎も、そのような雰囲気を持っているのでしょう)曲の終わり近く全管弦楽が最強奏で盛り上がり、シロフォンが強打されるところの素晴らしい感銘は、そうざらにあるものではありません。(宇野功芳)・・・・とある。

 「ハープの伴奏でフルートが淋しく歌うところ・・・晩秋の信州・・・」、この文章が記憶に残った。今から50年以上前の話である。もちろんショスタコービッチは存命中だったし、ブルックナーやマーラーすらほとんど聴いたことがないというころの話である。S屋レコード店へいくと、バーンスタイン・NYフィルの盤があった。青みがかった雪原が広がっているジャケットだった。第3楽章の・・・秋の信州か、なるほど。全管弦楽の最強奏・・・シロフォンが強打、しかしそれより、わたしはハープとチェレスタで消えていくエンディングの方が気に入った。笠ヶ岳や槍で見た星空を思った。

 と、ここまではめでたしめでたしなのだが、別の難問に気がついた。アンプからごくわずかだが、ハムが出ているのである。ハムというやつはやっかいなもので、アンプの電源、家庭用の100V,60Hzの交流が変調されてアンプに入り込み、増幅されて「ブーン」という低音になって出てくるのである。アンプを組み立てたとき、十分対策をとって、ハムゼロのはずだったんだが、コンデンサーが劣化してきたのかもしれない。普通の音の時は気がつかないが、このような最弱奏の箇所を集中していくと「ブーン」とかすかに聞こえてくる。これは絶対あってはいけない音。またそれをとるのに一苦労だった。

 そんなこんなで迎えた昭和39年11月、ロンドン交響楽団の演奏会、大阪フェスティバルホール。指揮イストバン・ケルテス。そこでショスタコービッチをやるという。イストバン・ケルテス、いつかこの人の「新世界」を聴いたことがある。きびきびしていい演奏だった。そのケルテスがショスタコービッチをやるという。

 そのときのメモ。「ケルテスの指揮、実に見事。鳴っているすべての楽器が聞き取れる。フルート1本、トランペット1本でもはっきりと聞こえる。音が濁ごらない。それにティンパニのうまかったこと。初めて聴くショスタコービッチ。十分満足して終わる」。

 このケルテス、今はほとんど名前を聞かない。たしかこのあとすぐに、水泳中の事故で死亡したと何かで読んだ記憶がある。何か資料はないかとインターネットで検索していみたが、めぼしいものは見つからなかった。CDが1,2枚あったような気がして、さがしてみたがそれも見あたらなかった。これは困ったとお手上げの状態だったが、「カメラが見た来日演奏家1960's」という本の片隅にのっていた。事故死は1973年、このときから9年後のことだった。




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089.交響曲第1番

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-------ブラームス--------

 昭和41年(1966)10月、大阪フェスティバルホール。シャルル。ミュンシュ指揮、フランス国立放送管弦楽団を聴く。ミュンシュは昭和35(1960)年にボストン交響楽団を率いて来日しているが、その演奏会は聴いていない。ミュンシュといえばボストンの時代である。どうもこのころのミュンシュの音楽には肌が合わなかった。

 そのミュンシュがフランス国立放送管弦楽団との演奏会である。

 当時のメモに「パリ音楽院管弦楽団ほどうまくない。しかし、フランスものではかなり聴かせる。ところがブラームスとなると音の軽さが目立ってしまって物足りない。これほど国民性を見せたオーケストラも珍しい」と書いている。帰りの京阪電車の中で、なじみのレコード店でアルバイトをしている青年にあった。「ブラームスはつまらなかったですね」という。そうか、俺だけではなかたんだと思った。

 パリ音楽院管弦楽団というのは、昭和39(1964)年春に来日した、アンドレ・クリュイタンスとのコンビのことである。私はそれを京都会館で聴いた。ベルリオーズ、フランク、ドビュッシー、ストラビンスキーというプログラムだったが、この演奏会はすごかった。ウイーン・フィルから始まって、かなりの外国オーケストラを聴いてきたが、トップクラスの演奏だった。ホルンのうまさは抜群だった。その弱奏の見事さ、どこから聞こえてくるのかと探したくなるような音、それに和するフルート、クラリネット、オーボエのうまいこと。

 来日の翌年、クリュイタンスは癌でなくなり、パリ音楽院管弦楽団は解散して、パリ管弦楽団に変わる。

 1967年、新生パリ管弦楽団の音楽監督にミュンシュが就任する。私が大阪で放送管弦楽団を聴いた翌年である。

 それから数10年、今から数年前、CDショップ(そういえば、いつの間にかレコード屋という言葉が死語になっていた)で、ミュンシュのブラームスに出会った。ボストンか?とおもったが、そうではない。パリ管弦楽団だった。ボストンだったら買わなかっただろう。ミュンシュ・パリ管がどんなブラームスをやるのか。ちょっと聴いてやろうか、ぐらいの気持ちだった。

 第1楽章の出だしから、おッ、これはすごい。これがフランスのオーケストラかと驚いた。一音一音に説得力がある。解説によると3カ所ほどスコアにはないティンパニが追加されているという。何がどう違うのか、スコアを見て聞いてみたが、私にはその箇所すら見つからなかった。しかし、そんなことは別問題。終楽章のコーダなど、ものすごいたたみかけ。忘れられない1枚になった。このCDに出会わなかったら、ミュンシュのブラームスはどうも・・・、で終わっていただろう。

 録音はパリ管発足の翌年1月。その年の11月、同管弦楽団を率いてアメリカ演奏旅行の途次、心臓発作でミュンシュ急死。77歳だったという。




A8090

090.ラモーをたたえて

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------ドビュッシー----

 曲目未定の演奏会の切符を買ったのは、これが初めてで最後だった。アルトゥール・ルービンシュタインのピアノリサイタル。切符発売の時点では、曲目は一切不明。当日発表するという。福袋を買うようなものだけれども、まあエエか。昭和41(1966)年初夏のことだった。

 音楽之友社刊「カメラが見た来日演奏家1960’s」によれば、-----「1回1回が新しい創造であり、それが演奏家の生命。だから、即興演奏の発露こそ大切だ」と、プログラムは当日になってから決めることに徹底していた。------とある。京都だけのことかと思っていたが、そうではなかったらしい。

 「ルービンシュタインがドビュッシーを弾く。”ラモーをたたえて”、”プレリュード”。丸みを帯びた音が美しい。ギーゼキングのような高音の鋭さはないが、粒のそろった伸びのある、柔らかな音がドビュッシーの世界を作る。77歳という老ピアニスト指から流れ出る若いドビュッシー。つやのあるドビュッシー。きらりと光る高音。沈むがごとき低音。これぞドビュッシー。とにかく豊かな音を持つピアニストだった。2階の補助席で聴いていたが、音量の不足は感じられなかった。77歳とは思えない、若々しい音楽。ドビュッシーがことのほかよかった」。

 ここに書いている「ギーゼキングのような高音の鋭さはないが・・・」には、ちょっとした経緯がある。その少し前のこと、同僚のHさんが、「八田さん、ドビュッシーはギーゼキングですね。あの高音を聴いたら他のピアニストは聞けませんね」と焚きつけられた。それまでに安川加壽子の演奏会などで、ドビュッシーのピアノ曲のよさは知っていた。しかし誰の演奏云々とまでは思いも寄らないころだった。

 ギーゼキングのドビュッシー・ピアノ曲集を買った。エンゼル盤の赤いレコードだった。レコードは黒と相場が決まっているのに、そのレコードは赤色だった。正式名称は何といったか忘れてしまったが、たしかホコリをつけない、つまり静電気を蓄えない・・・というのがうたい文句だった。当時、レコードの静電気には一苦労も、二苦労もしていたころである。ホコリを取ろうとして、こすればこするほど静電気がたまってそれが原因でホコリが着くという難問だった。赤いレコードには静電気がたまらないという。

 それは結構なこと、と針をのせた。Hさんがいうように、鋭い高音、たしかにすばらしかった。これは一生付き合いをしていく盤だと思った。一通り再生が終わって、針を上げる。と、針の先にゴミがくっついている。再生が終わった針先に微細な繊維質のホコリが着くことはよくあった。しかし、そのとき付着していたのは細かい粉末だった。他のレコードにはなかった現象である。念のため、別の黒いレコードをかけてみた。別段異常はない。赤いレコードの盤質が柔らかくて、針がレコードを削っているとしか考えられなかった。

 難儀な問題だった。一生付き合っていきたいレコードが、それをかけるたびに目に見えるぐらいに削りかすが出るのである。できるだけかけないように長持ちさすしかない。そんなところでのルービンシュタインのドビュッシーだった。切符を買うときの違和感はとっくになくなり、その音楽に引きずり込まれていた。ショパンのポロネーズだったろうか。曲目の記録もしていないし記憶もないが、両手を肩より高く持ち上げて鍵盤をたたく有名なパフォーマンスも見せてくれた。あれやこれや、いろんな意味で印象に残る演奏会だった。 




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