---昔語り『音楽夜話』・8---



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071.ラインの黄金・続

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-------ワーグナー------

 レコードを聴くということは一種の中毒で、いいとなるとどうしてもほしくなる。例によってS屋レコード店へ行くと、主人がニヤニヤしながら、「八田さん、きてまっせ」 という。3枚組のレコードはしっかりしたケースに入って棚に麗々しく飾られていた。別に注文したわけでもないんだから、「きてまっせ」 はないのだけれども、中毒患者の弱み、やっぱりほしくなる。追い打ちをかけるように、例によって「よろしで」 という。金は後でいいから持っていけということである。

 「月給の半分を超えるのやで」 とはいわなかったが、結局誘惑に負けた。といって、一銭も払わずに給料の半分を超えるものを借りていくには気が引ける。結局そのとき、3枚のうち1枚目だけを貰っていく。あとの2枚とケースは最後の代金を払うまで、店に預けておくという条件で手を打った。なんと、涙ぐましいことよ。

 レコードに打っていた整理番号を見ると、この3枚を完全に自分のものにするのに約半年かかっている。半年間もよく黙ってケースを預かっていてくれたものと、いまとなってはS屋の主人に頭が下がる思いである。金額が高額だったことにもよるのだが、実はこれ以外に、もう一つ金のかかることを計画していたのである。テープレコーダーを作ろうというのである。

 レコードを買うには金がかかりすぎる。テープレコーダーがあれば、テープ代を計算しても、レコードを買うよりは安かろうというアホな計算である。だいたい世の中の××中毒、××地獄はこんなところから始まる。しかしそのときはそんなことは考えない。考えないから地獄に堕ちる。一方、その地獄をネタに金を稼ぐやつもいる。長い人生、地獄のエンマさんに結構奉公してきた。そのうちエンマさんから表彰状が来るだろう。

 さてそのテープレコーダー、完成品を買うとべらぼうな値段である。雑誌を見ると中毒患者の思いをくすぐるように、裸のデッキだけを販売するという。アンプは自分勝手に組みなさいというわけである。五球スーパーを組めるぐらいの知識があれば、間違いなく組み立てられますと配線図までついている。デッキだけで1万数千円、アンプのパーツ代を入れると2万は超える。これではレコード代に金が回せるはずはない。

 いつまで経っても「ラインの黄金」には行かない。眠たくなった。




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072.ラインの黄金・続々

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------ワーグナー------

 楽劇「「ニューべルングの指輪」は上演するのに4日間を要するワーグナーの大作である。古いドイツの神話をもとにワーグナーが書き下ろしたものといわれている。 

 「ラインの黄金」は楽劇「ニューべルングの指輪」の「序夜」にあたり、第一夜に上演される。上演時間は他の3作に比べると短いが、それでも2時間30分、当時のLP3枚、現在のCDでも3枚組になっている。

 先日、N響アワーを見ていたら、珍しい楽器として巨大な木槌が紹介されていた。土木工事で杭を打つときに使うようなものである。どこで使うのかと思っていたら、マーラーの第6番のシンフォニーだけにしか使われないとか。ここ20年で4回とか5回とか。それならそのときだけ、借りてきたらよさそうなものだが、そうはいかないと見えて、ちゃんとN響の備品としての銘が入っていた。

 それはともかくとして、マーラーの6番に木槌の音があったのだろうか。曲そのものはCDで、今までに何回も聞いたが、木槌が使われていることなど、まったく気がつかなかった。ましてや、それがどこでたたかれるのか。舞台の上でなら目につくだろうが、録音されたものでは多分注意していても気がつかないのだろう。




 左上の写真は、「ラインの黄金」で出てくる雷神ドンナーがハンマーを振り下ろす場面である。キーンという金属的な音が響く。そしてその右、・・・ドドドーンと雷鳴が響き渡る。写真に見るような高さだけでいえば人間の身長の2倍以上もあるような金属板がたたかれる。居眠りをしていても目が覚めるほど。



 そのほかにも18人の打楽器奏者が金床をたたいたり、虹が架かる場面では6台のハープが使われたり、とにかく大がかり。最後のワルハラ城への神々の入場の場面の金管楽器の壮大な盛り上がり。

 いまから半世紀前、あのシャリシャリ音のSPから10年そこそこの時代である。この音は凄かった。この雷のところと、最後の神々入城のシーンを何度繰り返して聴いたか。その後になってCDで聞き直したが、あのときのすごさは感じられなかった。バーンスタインの「春の祭典」とこの「ラインの黄金」、これだけはレコードの勝ちだと信じている。




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073.交響曲第9番「合唱付き」

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------ベートーベン------

 昭和35(1960)年4月29日、京都会館が落成した。そのこけら落としの演奏会。京都市交響楽団、ベートーベンの第9交響曲。指揮カール・チェリウス。音楽ホールのなかった京都に本格的なホールということで話題になった。六角形の不思議な形をしたホールで、天井から六角形の反射板がたくさんつるされていた。

 京都新聞社編「京都楽壇史点景」(人文書院)によると、こけら落としの一連の演奏会に、ボストン交響楽団を率いて来館したシャルル・ミュンシュは、ホールが響きすぎるとの指摘をして、例の反射板をもっと下げた方がよいとアドバイスとしたといわれている。最初は純然たるコンサートホールとして設計されたが、講演会もしたい、芝居もやりたいと、様々な注文が入り、結果的には中途半端な多目的ホールに変わっていったという。そうはいうものの、それまではヤサカ会館が中心で、時には岡崎の京都アリーナが演奏会に使われていたことを考えると、まさに夢が叶ったような思いだった。

 合唱は京都市民を中心とする600名の合唱団。独唱、伊藤京子、市来崎のり子、柴田陸睦、中山悌一。曲が終わって涙を流している合唱団員もいたりして、感動的な演奏会だった。

 以下、「京都楽壇史点景」による、京響発足当時の様子(要約)。

 昭和30年6月、ドイツから一人の音楽家がやってきた。カール・チェリウス、47歳。チェリウスは市立音大客員教授と市立オーケストラの指揮者を兼務するつもりだったが、オーケストラは影も形もない。チェリウスは、当時の高山市長にオーケストラ創設を訴える。これに応じる形で、翌31年、交響楽団を結成する。オーディションで採用された38名のうち、プロのオーケストラの経験者は数名。まさにチェリウスのオーケストラ学校だったという。

 以来4年目の第9である。その間、京響というとハイドンやモーツアルト。京都アリーナで東京芸大オーケストラ(指揮:金子登)の演奏で第9を聞いたことはあったが、正式なホールで聞くのはこれが初めて。やっとここまで来たか。拍手が絶えない夜だった。 




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074.チェロ協奏曲(ドボルザーク)

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-------パブロ・カザルス---------

 カザルスがチェロを弾いたのではない。指揮をしたのである。昭和36(1961)年4月20日、京都会館開館1年目、当時84歳のパブロ・カザルスが来日し、ドボルザークのチェロ協奏曲を指揮した。チェロは愛弟子の平井丈一郎、オーケストラは京都市交響楽団。

 昨日も少し触れた「京都楽壇史点描」に-----「あの音楽会はすごかった」と、いつまでも語り継がれる演奏会がある。-----との書き出しで紹介されている。

カザルスは、理想的に演奏ができるまで、飽くことなく徹底的にリハーサルを繰り返した。冒頭のわずか4小節を、カザルスは何度も何度も繰り返した。1時間かかっても、たった8小節しか進まなかった。数小節にこれだけ時間をかけたら全体を仕上げるのに何時間かかる?と心配させた。ところがこの箇所をマスターしたオーケストラは、続く部分を見違えるように演奏することができた。音楽の神様だけあって、その指導力はさすがに偉大だった。

 通訳を務めたソリストの平井丈一郎は、「練習しているうちに、リズムも音色も見違えるほどに磨かれていった。芸術は人をここまで引き上げられる力があるのかと、改めて驚いた」と話す。

 28日夜、入洛したばかりのカザルスは、19日朝10時から京響に稽古ををつけたが、午後1時すぎまで15分の休みを1回とっただけだという熱心さ。かたわらのチェリウスが見かけて「一度休まれては」と声をかけたが、耳にも入らぬようすで、大物を迎えて張り切る京響団員もネをあげるほどだった。

 以上、「京都楽壇史点描」から要約した。この本は平成7年4月から翌8年にかけて京都新聞連載記事をベースにしてまとめられたものという。初版発行が1996年、おそらく著者はその演奏会そのもを聴いてはいまい。しかし、その文章はけっして俗に言う”作文”ではない。まさにこの通りであっただろう。まったくの部外者であり、単なる一聴衆に過ぎなかった私にも、その様子が手にとるように読みとれた。

 いまと違って日本全体の音楽レベルが低く、その上、創立5年そこそこの京都市交響楽団は、モーツアルトやハイドンなど、編成の小さな曲をちまちまとやっていたころで、素人の私が聴いても分かるようなミスをよくやっていた。それがカザルスの指揮で変わったのである。50年近く経ったいまでも、そのときの感動をはっきりと思い出すことができる。

 指揮者一人で音楽が変わる。タクトの一振り一振りをおろそかにしない。聴衆の我々が見ていてもそれがはっきりと分かる。ただ音楽を音楽として演奏しただけである。それでいながら、いままでの京響の音楽とは、およそかけ離れた見事な音楽になっていた。平井丈一郎の言葉を借りれば、「奇跡は奇跡でなかった。カザルスの音楽に対する厳しい姿勢が、楽員を動かし、聴衆を動かしたのである」という。

 私は、この演奏会に聴衆の一員として参加できたことを誇りに思っている。カザルスの指揮による音楽をこの耳で聞いた。自分の人生の大きな遺産の一つであると思っている。そのときカザルスは、日本ではチェロの演奏はしなかった。心残りといえなくもないが、かりに公開演奏会を開いていたとしても、20歳代の私には、彼のチェロを聴く力はなかっただろう。

 彼の残したSP録音は、LPになりCDになって復活した。いま持っているCDのうち、1点だけ残して、他はすべて捨てろといわれたら、私はフルトベングラーの「第9」と、カザルスのバッハ「無伴奏チェロ組曲」の2点を残したいと頼むだろう。もし、それが許されなければ、結局カザルスと選ぶだろう。




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075.交響曲第9番「合唱付き」

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-------ベートーベン---------

 おいおい、また「第九」かよ。何回書けば気が済むのといわれそうだが、まあ、そういわずに。

 2008,第50回大阪国際フェスティバルのHPを見ていて、「?」と目が止まった。-------オペラ 「アイーダ」(EU文化首都プロジェクト)、演出=ペーター・コンビチュニー。・・・ちなみにペーターの父フランツ・コンヴィチュニーは、第4回のフェスティバル(1961年)にゲヴァントハウス管弦楽団を率いてベートーヴェンの交響曲全曲演奏を果たした旧東ドイツの名指揮者。親子2代の登場となる。------とある。

 聴いたぞ。フランツ・コンヴィチュニー、ゲバントハウス、懐かしいなー。1961年(昭和36年)、そうか、あれが第4回だったのか。昨日書いたカザルスが4月20日、このゲバントハウスが22日、なんと1日おきに京都へ、大阪へとせっせと足を運んでいたことになる。若かった。

 その年の1月、ひょんなことから一人の女性と出会った。不思議なほど気持ちが合った。それまで出会った(ここのところを強調しておかないと、コトが大きくなる)女性ではこの人しかいないと思った。2月中旬だったか、例年通り大阪国際フェスティバルのプログラムが発表された。メインのオーケストラは、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団。ベートーベンの全曲演奏をやるという。もちろん指揮はフランツ・コンヴィチュニー。よし、第九を聴くぞ。1枚1000円の切符を2枚買った。涙ぐましい努力。

 これで思い通りにことが運べば、めでたしめでたし。この演奏会は、我が人生にとって特筆大書すべきものになるはずだった。ところが何事も、思い通りに行かないのが世の常。相手の女性に縁談が降ってわいた。職場の上司からの話で、父親が乗り気だという。私のことを話すと、「そんな夢みたいな話に・・・」と耳を貸さないという。いまの若い人には考えられない話だが、「浪花節だよ人生は」。結局アウトになった。泰山鳴動して切符1枚が残った。

 周りがあれこれ心配して、当日隣の席には代打が座ることになった。・・・そういえば、昔阪神に代打の神様というのがいた。八木裕。今年(2008年)は、檜山進次郎がその座に近づきつつある。・・・しかし神様でも、代打は代打。私にとっては、世界で一人の人の代打である。いってみれば、4番金本に代打を出すようなもの。誰が出てきても話になるはずがない。

 そのときの演奏の記憶は何も残ってない。忘却とは、神が人間に与えた最高の能力である。

 幾10年が過ぎた。定年退職して非常勤講師をしていたころ。時間に余裕ができた。京都駅前近鉄百貨店6階にある旭屋書店とレコード店(三星堂だったかな)をときどきぶらつくようになった。ある日そこで、コンヴィチュニー・ゲバントハウスのベートーベン交響曲全集を見つけた。懐かしかった。輸入盤で6枚組、確か3000円前後だった。身についた貧乏人根性で、つい昔の値段を考えてしまう。安くなったものである。考えられない値段である。買おうかと思ったが、その日は他に気持ちが散って、慌てることもないか。

 翌日だったか、そのことを同僚のTさんに話をした。何日かして「買ってきました。・・・・ゲバントハウスのピッチはちょっと低いですね」という。そういえば何かの本で、440Hzでチューニングしているのは、東独だったか、共産圏だったか、いずれにしてもごくわずかのオーケストラだけで、他はほとんどそれより高い音で合わしていると、読んだことがある。しかし、自慢じゃないが、絶対音感なんてやつは薬にするほども持ち合わせていない。440であろうが445であろうが、そんなことにぎゃーぎゃーいうなと思っていた。

 ピッチの問題など、よその国の話だと思っていたのが、Tさんにそういわれて「おい、お前そんなこと分かるんか」。俄然気になりだした。その日の帰り近鉄百貨店へ寄った。例のCDを探したが、どこにも見つからなかった。どうやらTさが買ったのが最後らしかった。その後また入荷しないかと注意していたが、二度と現れることはなかった。どうもゲバントハウスとは縁がなかったらしい。そういえば、近鉄百貨店もいまはない。そして気がつけば、こちとらは後期高齢者目前(2008年現在)である。




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076.交響曲第6番「悲愴」

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--------チャイコフスキー---------

 もうちょっと「第九」の話を。おいおいまたかい。タイトルは「悲愴」だよ。そう、そうなんですが、「第九」から入らないと、話がつながらない。

 以前、30cm盤2枚組の「第九」の話を書いた。これが2300円×2で4600円。細かい話でゴメンナサイ。考えてみると、若いころからずっと、こんなけちな計算ばかりで過ごしてきたので、身に染みついてしまっている。それに対して、1枚の「第九」がでた。これも以前書いた。まだあるのか、まさか3枚組じゃなかろうな。3枚組ではないが、あっと驚く隠し球があった。

 そのころ1000円のLPというのがあった。25cm盤である。30cmとか25cmとかいうのは、いまの単位制であって、当時は、12インチ盤、10インチ盤と呼んでいた。1インチ100円か、というのが当時の反応。「第九」を10インチ2枚に収めようというのである。とすると2000円になる。なるほど・・・。と、感心していたら、4楽章の途中で裏返しだという。

 同僚のKさんがそれを買った。ヘレンツ・フリッチャイ指揮、ベルリンRIAS交響楽団。さっそく12インチ2枚組フルトベングラー盤と聴き比べてみた。正直言って値段の差はあった。10インチ2枚に収めるためには、多少無理があるのか、カッティングのレベルも低く、音そのものに迫力がなかった。その少し前にはやったコロンビア・ローズの「どうせ拾った恋だもの」にでてくる「捨てちゃえ、捨てちゃえ・・・」を「フリッチャイ フリッチャイ」ともじって、

  聞くも聞かぬも あたしの勝手
  余計なお世話さ よしとくれ
  愚痴ってみても 仕方ないさ
  ・・・・・
  フリッチャイ フリッチャイ
  どうせひろった ・・・

 と、バカにしていた。ごめんなさい。フリッチャイさん。

 その後いつとなはしにフリッチャイの名前を忘れてしまっていた。いまから10年ほど前のこと。レコード店の棚でこの名前を見つけた。曲は「悲愴」。なんで?というのが偽らざる気持ちだった。「いまさらー、なにをいってるのさ・・・」、これも”どうせ拾った”か。しかし、懐かしかった。手にとってみた。1959年ステレオ録音、「世界初出」だという。ちょっと分かりにくい言葉だが、要するに焼き直しではないということだろう。帯付を呼んでみると、

■ -------1963年に49歳で夭逝したフリッチャイ。彼は第二次世界大戦後の混迷したヨーロッパ楽界に彗星のように登場し、モノラル録音の時代からステレオの初期に活動し、数多くのレパートリーを次々に録音していきました。そうした彼も病を境にその芸術が一変します。中でもこの《悲愴》は二度目の手術後の再起第一作として、またドイツ・グラモフォン初の《悲愴》ステレオ録音を目指したものとして意義深いものですが、これまで様々な理由から発売されませんでした。その幻の《悲愴》が、初めて登場します。フィリッチャイが一音一音を慈しみ、万感を胸に抱き演奏されたこの《悲愴》は、彼の時代を明確に刻む記念碑といえるものです。------

 とある。

 有無をいわずに買って帰ったことはいうまでもない。「一音一音を慈しみ、万感を胸に・・・」、言葉通りの演奏だった。切々と訴えるという言葉がぴったり来る。世に「悲愴」といえば、ムラビンスキー、レニングラードと相場が決まっている。その演奏を生で聴いたが、それとは別の、まさに自分の命を見つめる、一つのレクイエムとしての音楽がそこにあった。

 若いころ2000円の「第九」を聞いて「捨てちゃ捨てちゃえ」と揶揄していたまさにそのころ、自分の命に代えるような録音が行われていたのである。




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077.交響曲第6番「悲愴」

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----------チャイコフスキー---------

 昭和37(1962)年3月。飛騨側から西穂高山荘まで登った。現在は新穂高から西穂高山荘のちょっと下までロープウエーが通じている。いまから50年近く昔の話であるから、もちろんロープウエーはない。

 その年の2月ごろ、先輩のAさんが「3月に西穂高へ行こう」という。Aさんはレコードの先輩だが、山はボクが先輩。比良山から始まって、槍へ行き、穂高へ行った。しかし3月の西穂高である。「それは無理でしょう。山は冬ですよ。そんなところへ素人が紛れ込んだら大変なことになる」。「大丈夫。いとこが仕事の関係で近くにいるので、案内してやるといっている」ということで、冬山装備一切合切全部借り物で雪の西穂高へ(といっても山荘までだが)登ることになった。

 山に入るまでの余談だが、高山線の列車が遅れて、思わぬことで夕暮れ時、神岡の町で1時間ほどを過ごすことになった。いま思うと、神岡鉱山華やかなりしころだったのだろう。鉱山の煌々たる光、山の中に突然都会が出現した感じで、パチンコ屋、喫茶店、洋品店、バーetc、都会にあるものはみなそろっていた。これが、神通川流域のイタイイタイ病につながり、一方その跡地がカミオカンデとなって、ノーベル物理学賞につながるのだから世の中は不思議である。 

 さて、一行はくだんのいとこさん・Bさんと地元の方2人の計5名。朝のうちは若干晴れ間もあったが、登り出すとすぐに吹雪になった。西穂高山荘は半分以上雪に埋まっていた。雪の中から煙突が出て、薄い煙が揺れていた。トンネルをくぐって中にはいると、小屋の中は真っ暗。何も見えなかった。ストーブの中で木が燃えるのが唯一の光。その中でじっと座っているのが仕事だった。

 翌日も雪は止まなかった。外も見えない完全な穴蔵の中で座っている、ただこれだけのことにも精神力が必要だった。冬山で幾日も沈殿していたと聞くことがあるが、なんと凄い精神力だなと思う。小屋番は若い青年だったが、「この雪は当分続きますよ」という。常識では春の雪だから長くは続かないと分かっていても、自信ありげにそう断言されるとそうかなと思う。午後も少し回ったころ、結局きょうのうちに下ろうということになった。

 長い千石尾根を下って、蒲田川沿いに出たときは日もとっぷりと暮れ、暗褐色の闇が迫っていた。ほとんど民家も見えない川沿いの道をいくとき、チャイコフスキーの悲愴のメロディーが思われた。第1楽章の第2主題。アンダンテのメロディーである。

 レコードを集め出したころ、例のS屋レコード店の店頭に黄金色の葉っぱをつけた白樺が林立するジャケットが飾られていた。その写真に惚れた。曲よりもジャケット優先でそれを買ってきた。曲はチャイコフスキーの4番だった。第1楽章の冒頭から、運命の動機とかいう派手なラッパが鳴るやつである。昔のことで記憶も怪しいが、たしかロジンスキー指揮、NYフィルだった。

 最初は面白いなと思って聞いていたが、そのうちに嫌気がさしてきた。理由は分からない。アメリカのオーケストラがロシアものをやる違和感かなとも思ったが、バーンスタイン・NYフィルのショスタコービッチなどはすんなり聞ける。まあ、理由はとにかく、坊主にくけりゃ袈裟まで憎いのたぐいで、チャイコフスキーが嫌いになった。

 とっぷり暮れて明かり一つない蒲田川沿いにの道で、そのチャイコフスキーのメロディが浮かび上がってきた。いまも「悲愴」を聞くとあのときの暗褐色の風景がよみがえってくる。

 京都へ帰ってすぐにS屋へいった。いまなら、ちょっと大きな店へ行けば、同一曲でいろいろな演奏のものがおいてあり、それを選ぶことができるが、当時はそういう自由は利かなかった。それをやろうとすれば、事前に予約なりが必要で、飛び込みで行ったのでは、そのとき店にあるのを貰ってくるだけであった。そのとき店にあったのが、ジャン・マルティノン指揮、ウイーンフィルの盤だった。

 マルティノンは戦後早い時期に来日した。Aさんはマルティノン・N響で「幻想交響曲」を聴いたというのが自慢だった。そのAさんもいまは亡い。




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078.山男の歌

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--------娘さんよく聞けよ---------

 きのうの話の続きである。雪の西穂高山荘から岐阜県側、蒲田川沿いの谷へ降りて、Bさん懇意の今田館に泊まった。いまとなっては確かめるすべもないが、確か、当時奥穂高山荘を経営していた今田重太郎さんの・・云々とのことであった。重太郎さんは井上靖の小説「氷壁」でGさんという名で登場する人物のモデルである。

■写真:西穂高山荘前にて。左・Aさん、右・かく申す私。私とスキーの間に見えている穴が山荘への入り口。前日の登りで、サングラスを失った。空は曇天だったが、穴蔵から出てすぐの慣れない目には、開けていられないぐらいまぶしかった。スキーは地元の3人用。私たち素人は輪カンジキでエッチラオッチラ。


■千石尾根の登り。スキーを担いでいるのがBさん。後ろでバテているのが私。

 さて今田館の朝、目が覚めてみると外が明るい。朝、外が明るいことがこんなに凄いことかと改めて感じ入った。きのうは一日、明るさとは無関係のところにいた。時間の経過を確認できるのは時計の針だけ。そんな生活を一日経験しただけで明るい朝がありがたかった。

 ?、それにしても明るすぎるぞ。単なる明るさではない。窓に直接太陽が当たっているのである。何を?、そんな馬鹿な。表へ飛び出した。何たることか、快晴である。もう一晩辛抱すれば、この光の中で奥穂高の岩峰を目の前にできたのである。あれほど悔しいことはなかった。

 その光の中で、Bさんが口笛を吹きながらスキーの手入れをしていた。「ピッピピピピー ピッピピーピピー・・・・」、山男の歌だった。

 娘さんよく聞けよ 山男にゃ惚れるなよ
  山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ
  山で吹かれりゃよ 若後家さんだよ

 ダークダックスか何かが歌っていて、そのころよく流行っていた。「娘さんよく聞けよ」という言葉も好きでなかったし、「後家さん」という言葉も、いまでいうセックス何とかの感じがして嫌いだった。だから自分では積極的に好きになれない歌だった。

 山は冬でも、太陽の光は間違いなく春だった。その光の中で、白銀に輝く穂高を見上げながら、地団駄踏みたくなる気持ちを押さえて、好きでもない曲を聴く。何ともちぐはぐなひとときであった。




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079.替え歌「穂高よさらば」

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--------安房峠----------

 長野県在住のFくんから便りをもらった。学生時代、濃飛バスに車掌としてアルバイトに行き、そのまま信州に住み着いたという変わり種である。バスの教習時代に「穂高よさラバ」という歌を教えられたという。

 以下、Fくんからの便りである。

 『穂高よさらば』

 穂高よさらば またくるひまで
 奥穂にはゆる あかねぐも
 かえりみすれば とおざかる
 まぶたにのこる ジャンダルム

 乗鞍さらば またくるひまで
 夕日にはゆる 鶴ヶ池
 かえりみすれば とおざかる
 まぶたにのこる 剣が峰

 上高地をでて平湯高山へ向かう人は大正池を過ぎると穂高は見ることは出来ませんので安房峠でよく歌ったり、何度か登った穂高の下り道で仲間に教えてくちずさみました。

『雷撃隊出動の歌』

 母艦よさらば  撃滅の
 つばさにはえる  あかねぐも
 かえりみすれば  とおざかる
 まぶたにのおこる  菊の花

 そして作曲が、『長崎の鐘」の古関裕而。

 この替え歌が山で歌っていた穂高よさらばでした。先生の軍歌シリーズが終了する前に書き記しました。-------

 最初便りを貰ったときには、例の「ラバウル小唄」の替え歌だと思ったが、そうではないらしい。『雷撃隊出動の歌』という。そんな歌きいたことないぞ、ほんまかいな。と、作品リストを調べてみたら、間違いなく載っている。あったんだなこんな歌が。そして、インターネットで検索するとちゃんと載っている。まいった(上のリンクからどうぞ)。そして、替え歌の「穂高よさらば」を照会したブログまである。まいったまいった。それによると替え歌の作詞は、なんと芳野満彦さん

 安房峠の話をもう少し続けようか。昭和37(1962)年10月、秋の穂高。相棒は先輩のAさん。上高地からか涸沢へ、そこから奥穂高へ登って、白出沢を飛騨側へ下りた。土曜日の昼前に京都を発って高山から平湯へ、そこで一泊。翌日安房峠を越えて上高地へ入ろうというのである。山へ行きだしたころは、名古屋から中央線が定番だったが、高山線になれてしまうと、多少の不便ささえ辛抱すれば、何かにつけてのんびりしていて気が楽だった。

 翌日朝一番のバスで上高地へ向かう。初めての安房峠越えである。朝、まだ陽の当たらない西側の斜面を登り詰めて峠へ出る。・・・と、突然眼前に穂高が現れる。下半分が前山に隠れているのが残念だが、それさえいわなければ、上高地は別にして、車で行けるところで、穂高がいちばん大きく見えるところだろう。このときは、そんな予備知識なしで行ったのだから驚いた。写真:2000年10月撮影。

 何年か前に安房トンネルが開通して、現在では平湯から中ノ湯まであっという間に抜けてしまうらしい・・・が、私はこのトンネルはまだ通ったことがない。時間はかかるが必ず旧道の安房峠を越える。遠くの山を少しでも高く撮るためには、ちょっとでも高いところに立つのが鉄則である。峠の背後に高圧線鉄塔が建っている小高い丘がある。ある日そこまで登ってみた。大した距離じゃない。歩いた距離で50mそこそこ。槍が見えた。そんな楽しみも加わって、紅葉シーズンの安房越え、私のやみつきの一つである。




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080.交響曲第3番「英雄」

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--------ベートーベン----------

 昭和36(1961)年夏、トスカニーニ・NBC交響楽団のベートーベン交響曲全曲を買った。赤い箱に入った6枚組だった。そんな大金どうした。当然借金。どうして返したか。記憶にございません。

 前に述べた例の2枚組「第九」で、ぞっこん参ってしまった私は、ベートーベンといえばフルトベングラーと信じ込んでいた。かたや、トスカニーニといえば、私が手作りのレコードプレーヤーでアリ地獄へはまりかけのころ、学校から借りて帰った「ローマの松」の冒頭で、これはたまらんと拒否反応を起こした、その張本人だった。傾倒と背反、その差は大きかった。それがどうしてこの6枚組を買う気になったのか。今となってはよくはわからない。

 あれから50年経ってしまった現在、トスカニーニの演奏が放送される機会はほとんどなくなってしまったが、そのころは死去(1957.1.16)後4年あまり、トスカニーニNBCの名はラジオによく登場した。そんなことがあって、いつの間にか耳になじんでいたのだろう。

 それと、音楽を聴く立場としては不純な動機だが、ジャケット、解説書などについてくる彼の写真(彼を被写体とした写真)がすきだった。暗黒をバックに、顔、手、指揮棒だけが白で表現される独特の写真。トスカニーニというとこの写真を思い出す。撮影者はRobert Hupkaという。舞台の照明を考えると、この種の写真がもっとあってもよさそうなものだが、他の指揮者にはこういう表現はあまりない。不思議である。以上余談。

 もう一つ、余談の余談。大谷高校の吹奏楽部定期演奏会の記録写真を頼まれたことがあった。この表現を思い出して、狙ってみたが、そう簡単にはいかなかった。やはりプロはプロ、素人にまねのできるものではない。それなりのライティングが必要なのだろう。

 その当時の入門解説書に、この「英雄」について、次のようにある。(レコード番号等も添えられていたが省略した)

 ------この曲のLPには、3枚の名演奏があります。トスカニーニ(ビクター)、ワルター(コロンビア)、フルトベングラー(エンジェル)がそれで、何れも録音は新しくなく、特に最初の2枚は良い音を楽しみたいという人には不満があるでしょう。 しかし、演奏のすばらしさはそんなことを吹き飛ばしてしまいます。灼熱的な迫力を誇るトスカニーニ、豊麗にして重厚なワルター、スケールが大きく劇的なフルトベングラー、どれをとっても間違いありません。-----(宇野功芳)----

 私は、トスカニーニの演奏から、切れ味の鋭い鉈を振り下ろしたようなイメージを感じ取っていた。そのころ高山で見た円空仏を思った。とすると、ワルターは慈愛に満ちた観音さん。フルトベングラーは眼光鋭くまわりを圧する仁王さんというところだろうか。

 そのころ山へ行くと、不思議にトスカニーニを聞きたいと思った。それも「英雄」。なぜだか自分でもよくわからない。その後40歳代になってたまに山に登っても、そんな感覚は戻ってこなかった。トスカニーニの赤い箱が気になったのは、若さだったのかもしれない。




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