061.ローマの松 |
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-------レスピーギ------- 16mm映画のバック音楽に、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を使い、それがきっかけとなって、レコードプレーヤーの自作をした話は以前述べた。そのとき(16mm映画のバック)は、そのほかにロッシーニのウイリアムテル序曲や、ドボルザークの「新世界より」なども使ったが、もしもの時の予備にという名目で、レズピーギの「ローマの松」、「ローマの噴水」をカップリングした1枚が準備されていた。 もちろんそのころは、レスピーギなんて作曲家は知るはずもない。どんな曲やろ、一度聞いてみたいと思った。というより、家にあるレコードは、S屋レコード店の主人が、「あんたらの月給で1枚2300円は買えるはずがない。よろしで、持っていき」といわれて貰ってきた、「新世界」が1枚あるきり。貰ってきたというと聞こえがいいが、要するに借金をしてきただけ。残りを持っていかなければ、次が買えない。いくら名曲でも、毎晩毎晩新世界ではたまらない。 そんなことで、未知のレスピーギを学校から借りて帰った。オーケストラがNBC交響楽団、指揮がトスカニーニ。きのう書いた、バーバー(もちろんそのときはバーバーを知るはずもないのだが)と同じ組み合わせである。人のふんどしで相撲、とにもかくにもきょうは新世界を聞かなくてもいいぞ。興味津々で針を載せた。冒頭、飛び出した音に思わず耳をふさいだ。何やこれ、音楽か?おもちゃ箱をひっくり返したという表現があるが、まさにそれだった。それとどうだ、この音の悪さは。 あとで考えると納得ができるのだが、プレーヤーを作ってから、毎晩毎晩仇になって新世界を聞いた。永久針との売り込みを正直に信じ込んで、どこかのN氏の引退の時の台詞ではないが「永久に不滅です」と思いこんでいた。その針が減っていることに気がついていなかったのである。あのやかましい出だしに、針が減っていてはたまらない。いまの若い方は、針が減るとどのような音になるのか、想像ができないだろうが、要するに何ともいやな音になる。 とくにレコードの内周部でこれが顕著に現れてくる。楽器ではピアノ、バイオリン。だからこれらが絡む曲は3楽章、4楽章が怖かった。レコードは針の位置の如何によらず同じ回転数で回転する。とすると、当然1秒間あたりのトレース距離は内周部ほど短くなる。その短くなった溝に同じだけの音楽量を入れようとするのだから無理がある。それとピックアップのアームと溝との接触角度の問題。CDにしろMDにしろ、そんなことは何の心配も要らないいまの機械は幸せである。だから聞いてるうちに眠くなる。以前のLPは絶対眠くならなかった。どこで音が割れ出すか。気になって仕方がなかったのだから。 昔のLPのほうが、生きた音楽が聞こえると、未だに一部の人には人気があると聞くが、少なくともトスカニーニのレスピーギ「ローマ三部作」については、CDになって生き返ったと思った。とくに古代ローマ軍の行進をうたった「アッピア街道の松」の圧倒的な迫力。最初に使っていたクリスタルにサファイヤ針のカートリッジではどうにもならなかった。素人の機械で再生するには、どうにも手に余る曲だった。 |
062.交響曲第5番「運命」 |
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------ベートーベン------ 京都会館がオープン(昭和35年4月)する前の話である。京都市交響楽団は弥栄会館で定期演奏会を開いていたし、南座でNHK交響楽団の演奏会がが行われたこともある。 これは書くつもりはなかったのだが、いまふと思い出したので、ついでだから書いておこう。NHK交響楽団、東京でならともかく京都にいて、そうたびたび聞けるものではない。N響が来るというので、どこで?、と聞くと、南座だという。アホいえ。お前寝ぼけてんのか。むこうは芝居をするとこやないか。そうやで。それがなんで南座でN響やね。そんなもんワシに聞いても知らん。 まあ、とにかく南座でN響の演奏会が行われたことは間違いない。指揮はウィルヘルム・ロイブナー。野島稔がピアノソロで、モーツアルトだったか、ハイドンだったかの協奏曲を弾いた。1945年生まれという彼はまだ10歳代の前半。ピアノのペダルに足が届いていなかったのではないか。そのほかにベートーベンの「運命」とJ・シュトラウスの「皇帝円舞曲」。演奏時間を考えると、他にもうちょっとあったかも知れないが、それ以上は記憶にない。 こう書いてくると、気の早い人は、ああ、きょうは南座の「運命」の話か・・・ということになりそうだが、そうじゃない。最初にも書いたように、この話は、ふと思い出して書いたまで。この話はここで終了。 いつか大阪の府立体育館でバーンスタイン・NYフィルを聴いた話を書いた。これがとんでもない演奏会のNO.1。上に書いた南座のN響がNO.3。・・・・1があって3があって、2がぬけとるで。そう、ご心配いただいたそのNO.2がこれからの話。 3月30日、日曜の夜9時。「N響アワー」を聞こうとTVをつけたら、特別番組とかで、「オーケストラの森」とかいう番組をやっていた。大阪フィルハーモニーの「幻想交響曲」、指揮は大植英次。いまの言葉で言えば、パンチの効いたというのか、メリハリが利いたというか。ダイナミックレンジの大きい、普通の「幻想」とはひと味違う、楽しい演奏だった。若いころの岩城宏之がこうだったなと思いつつ聞いていた。しかし、これもきょうの本題ではない。いつになったら本題になるのや。ホント。 その大阪フィルの前身は、昭和22年朝比奈隆によって設立された「関西交響楽団」で・・・。懐かしい。このナレーションを聞いていて、あのとんでもない演奏会を思い出した。演奏は関西交響楽団、指揮は近衛秀麿だったと思うのだが、記憶が怪しい。ひょっとしたら朝比奈隆だったかも知れない。 場所は、京都岡崎のスケート場「京都アリーナ」。美術館の前、平安神宮の大鳥居の西。近代美術館がそのころあったかどうか。その横にあった。疎水沿い、たしかいま都メッセとかが建っているあたりである。そこの2階。スケート場の夏場利用でべらぼうに奥行きの長い部屋だった。部屋である。けっしてホールではない。当然壁面での反響などお構いなし。そこにパイプ椅子を並べて・・・「運命」。 ダダダンダダーーー。まじめに読んでくださっている方は、「ダ」が多いのじゃないかと思われただろう。ありがとうございます、きっちり読んでいただいて。「ンダ」、あなたのおっしゃるとおり、きょうは東北弁のベートーベン。ダダダ・ダーーーとやるたびに、後ろから「ンダ」、「ンダ」と返ってくるのである。一回の演奏会で「運命」を2度聞いた気分だった。人生もこの調子で戻ってくると、多少は修正もきくのだが。イヤハヤ。 |
063.春の祭典 |
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------ストラビンスキー------ 大阪国際フェスティバルが、今年(2008年)50回目を迎えるという。そういえば、1958年、昭和33年が第1回だった。きのう書いたように京都の勧業会館で、「ンダ」、「ンダ」と後ろからこだまが返ってくる「運命」を聞いていたころである。音楽のK先生が「大阪にすごいホールができたらしい。そこへストラビンスキーが来るそうや」という。そのすごいホールがフェスティバルホールで、催しが大阪国際フェスティバルだった。 「オーケストラはN響、"春の祭典"をやるんや。いかへんか」。ストラビンスキーが来て、N響を相手に自作の"春の祭典"を振る。それがどんなにすごいことか、いまなら分かる。いまならさしずめブーレーズというところか。そのブーレーズがしかるべきオーケストラを相手に振る。そこまでは分かる。しかし自作の何を振るのかというと、私にはすぐには思い浮かばない。ストラビンスキーが”春の祭典”を振る。それがどんな大事件か。命を質に入れても聞いておいて損はしない。いや損得の問題ではない。一生の宝になろう。 しかし、そのときの私には、その大事件を読みとる力はなかった。ストラビンスキー「春の祭典」、初演は1913年。以来100年近く経ったいまでこそ、現代音楽の古典としてすっかりスタンダードナンバーになったが、そのころはまだ初演後40年、ましてや音楽を聴きだしてたかだか数年の私には荷が重すぎた。しかしそれは表向きのこと。毎月毎月の小遣いのほとんどすべてを、次のレコード代につぎ込んでいた。全部払い終わる前に次のを「貰って」来るのだから、アリ地獄である。演奏会どころの騒ぎではない。 さらにテープレコーダーがほしくなった。もちろん買ってきてすぐ録音できるようなテープレコーダーは買えるはずがない。雑誌で調べてみると、デッキだけを売っている。要するにテープを走らすメカだけを買って、あとのアンプ部分は自作すれば、テープレコーダーになるのだという。アンプを組むだけなら5球スーパーと大差ないだろう。よしこれや。といっても少なくとも何万かはする。 そんな騒ぎの中でのストラビンスキーだった。巡り合わせが悪かった。「やっぱりよかったで。赤い絨毯に赤い椅子や。ストラビンスキー、感激したで・・・」。K先生の土産話に黙って聞くしか手はなかった。返す返すも残念な「春の祭典聞かざるの記」である。 |
064.ステレオレコード |
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---------上村愛子さんが両足を------ 先日から、何回か喫茶店「ルーチェ」のことを書いてきたが、そこに双頭のアームを持ったプレーヤーが設置されていた。店に入ると、ガラス張りのスタジオ風のコーナーがあり、壁面に天井近くまでびっしりとLPが収められていた。その下にプレーヤーが2台だったか3台だったか、堂々とした風格ででーんと鎮座していた。特に目をひいたのが双頭のアームを持ったバイノーラル・レコード用のプレーヤーだった。初めて見たときは思わず息をのんだ。 バイノーラル・レコードというのは、いまの「ステレオ」という言葉が使われだす前に、一時的に使われていた言葉である。左右にスピーカーがあるいわゆるステレオシステム。現在では当たり前の話であるが、当時はそれが大変なことであった。ステレオには音源が2つ必要になる。NHKの立体音楽堂の第1放送と、第2放送がそれに当たる。 ところが当時のレコードは溝が1本で、当然1つの音源しか再生できなかった。それなら溝を2本にしようじゃないかというのが、双頭アームの発想である。レコードの面を外側半分と内側半分に分割して、それぞれに左右の音源を刻み込もうというのである。話には聞いていたが、そのレコードを見たこともなかったし、再生音を聞いたこともなかった。すごいな、どんな音がするのやろ。 結局その音は聞かずじまいだった。ものの本によると、2本の針をそれぞれの溝にぴたっと落とすのが神業レベルの修練が必要だったとか。それはそうかも知れない。片方が1周違いのところに落ちたら、それぞれの針は全くトンチンカンな音を拾うのだから。 そうこうしているうちに1本溝のステレオレコードが出るという。なんで1本で音が2つ拾えるねん。聞けば、それまでのレコードは、1本の針が水平方向に振動していたのを、45度・45度の2つの方向に分けて振動させるのだという。 たとえば、モーグルの上村愛子選手。体を揺すらずに両足を揃えて、あのコブを滑り降りる。どないしたらあんなことができるのか。われわれ素人には、うなりながら黙って見ているしか仕方がないのだが、まあ、足の振動はすごい。私はあれを見ているとレコード針にあんなしんどいことをさせていたのやなと思う。京都のどこかに針供養をするところがあるが、レコード針にも供養が必要だろうな。 まず、1本溝のモノラルレコードの針。モノラルレコードにはコブはない。左右に細かく振動する溝があるだけ。愛子さんには役不足だが、足を揃えてその溝に沿ってり滑ってもらう。左右の足をそろえて水平方向にだけの操作である。いうまでもなく足の動きは1つである。彼女には楽なもんだろう。 次にステレオレコード。左右の足を45度ぐらいに開いてコブの斜面を滑って貰う。そんなもんモーグルと違います。それは素人がやることです・・・。それはそうやけど、まあそういわずに・・・私も素人のはしくれですが、それすらできないのです。片方の足がコブを越えるとき、他方の足は溝かも知れない。両方コブの時もあるかも知れないし・・・。そんなコトしていたら、世界チャンピオンにはなれません。 そう・・・、そうなんです。左右の足は別々に動く。これは忙しいぞ。ステレオレコードはこの左右の足の動きを、1本の針でそれぞれ別々に読みとろうというのである。なるほど考えたもんやな。しかしこれはえらいことやぞ。スピーカーは2ついるし、アンプももう一つ。どないすんねん。 |
065.春の祭典 |
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---------ストラビンスキー------ 当時、1本溝のステレオレコードは画期的な発明として、各所で話題になった。寺町の電気屋も四条通の銀行の会議室などを借りて、デモストレーションなどをやった。ちょっと遅れていくと入れないぐらいだった。 第1回発売曲が、ギレリス(P)でチャイコフスキー・ピアノ協奏曲第1番、ハイフェッツ(Vn)でベートーベンのバイオリン協奏曲だった。 そのころ、五味康祐が『芸術新潮』で「オーディオ談義」だったか「音楽談義」だかをやっていて、毎月毎月タンノイのスピーカーがあーしたこーしたとか・・・、スピーカーの前に濡れた日本手ぬぐいを垂らしておいて、低音でそれが揺れたとか揺れなかったとか、賑やかなことだった。感激で思わず口をついて出た言葉が、「女房、ゆれたぞ」だったとか。・・・勝手にセイ。 その五味康祐が、発売されたばかりのステレオレコードをこきおろした。ローラースケートをはいたピアニストが、舞台いっぱいに暴れ回っている・・・。バイオリンについても、それに類する形容があったが、細かいことは忘れてしまった。要するに再生空間の中で、音像が定位しないというのである。 そういわれると逆に聞きたくなるもの。いままでのやつにアンプ1組とスピーカーを付け足してナントカ格好をつけた。冬のボーナスでカートリッジをステレオ用に取り替え、我が家のステレオ第1号。例によって、「もって行きなはれ」と借りてきたのが、「春の祭典」、フェスティバルホールで聞けなかった仇討ちのつもりだった。演奏はバーンスタイン指揮、ニューヨークフィル。定価2800円。コロンビア盤だった。 S屋レコード店へ連れて行って、私をアリ地獄へ陥れた先輩のAさんを招待して、屋根裏部屋でステレオ披露演奏会を開いた。「ドビュッシーの牧神の午後に似てるな」。最初の出だしでは余裕を持っていたAさんも、続々と出てくるフォルテシモでは、「これは凄い!」。 とにかく贅沢なレコードだった。たかだか30分そこそこの曲に、30CmLP1枚を使っているのである。レコードの溝の刻みが見える。五味康祐が何といおうとこれは凄い。 その後CDになっても、このLPが忘れられず、同じ演奏を探して買った。ダメだった。LPの方が遙かに凄い音がする。オーディオにはうるさいMさんにそのことを話したら、そういうことはあるでしょうね。特に最近のCDには、リミッターがかけられて、ダイナミックレンジをコントロールしているから。そういう操作をしていない初期のLPのほうが凄い音がするかも知れませんよ、とのことだった。 |
066.タンホイザー序曲 |
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---------ワーグナー------ 昭和34(1959)年秋、カラヤンがやってくるという。それもウイーンフィルと一緒に。先輩のAさんは、これだけはなんとしてでも行くぞ、という。私もその前の年、ストラビンスキーでチャンスを逃しているから、同じ失敗は2度繰り返したくない。音楽雑誌でもカラヤンが来る。ウイーンフィルが来ると騒がしい。しかし肝心の切符はいつどこで売り出すのか。そういう情報が何もない。やきもきしながら夏を越したころ。やっと情報にありついた。大阪では3回公演があるという。 左がそのときのチラシである。なんと貧粗でそっけない・・・。細かく見てみると、東京体育館(¥500)なんてやつがある。そういえば、大阪体育館・NYフィルなんてのもあった。このころはまだこんな演奏会があったんだな。 さあ、どれにする?、そんな選択ができたのかどうか。細かいことは忘れてしまったが、11月1日の1200円の切符が手に入った。もし、多少なりとも選択の余地があったとしたら、これを選んだ理由は、ベートーベンの7番だったはず。この曲は、その少し前に、アンドレ・クリュイタンス指揮、ベルリン・フィルのレコードでなじみになっていた。とくに第3楽章のトリオの部分で、全金管の強奏のなかで、トランペットが14小節同じ音を延々と吹き続ける部分、これが凄かった。これをウイーンフィルがどう吹くのか。これを聴いてみたかった。 余談だが、昭和39年、クリュイタンスがパリ音楽院管弦楽団をつれてきた。これは京都会館で聞いた。これも金管がうまかった。いままで聴いたオーケストラで、よかったものを3つ挙げよといわれたら、迷うことなくウイーンフィル(カラヤン)、パリ音楽院管弦楽団(クリュイタンス)、それにレニングラード交響楽団(ムラビンスキー)をあげる。 脱線した。チラシのとおり、当日の曲目は、 ベートーベン 交響曲第7番 だった。普通なら、曲目の順番は下から上へ、ワーグナーからはじまってベートーベンで終わるところだろう。しかし、聞いてみて、その意味が分かってきた。後になるほどボリュームが凄くなる。たとえば、R・シュトラウスの金管群、ホルンが8本。トランペット4本。トロンボーン4本。チューバ1本。これには驚いた。当時の京都市交響楽団などは2管編成でしかなかったのだから。テレビでは見てただろうといわれるかも知れないが、そのころまだ我が家にはテレビはなかった。そんなもの見るのも聞くのも初体験。タンホイザーの最後の盛り上がりなど、何もかも忘れて聞き入った。 そのときのコンサートマスターがウィリー・ボスコフスキー。例のニューイヤーコンサートで指揮をしながらバイオリンをひくので有名になった。R・シュトラウスでバイオリンソロが出てくるが、そのスタイル。楽譜も見ずにさらさらと・・。翌日から2〜3日仕事をする気にならなかった。 |
067.交響曲第9番合唱付き |
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---------ベートーベン------ 話が前後する。昭和33(1958)年12月、フルトベングラー指揮のベートーベン交響曲第9番のレコードを買った。戦後再開されたバイロイト音楽祭の初日(1951.7.29)の記念すべき実況録音として有名な盤である。 第二次世界大戦中、ほとんどの有名な音楽家が国外に脱出したのに対し、フルトベングラーだけはドイツ国内に残る。ナチに協力したとの疑惑につながり、戦後、戦争犯罪者の容疑をかけられる。事実法廷に立たされたりもしたが、最終的に無罪となる。そういう経緯を経ての戦後復活バイロイト音楽祭の初日である。歴史的な演奏であると同時に、稀代の名演奏であるという。 当時、指揮者ではフルトベングラーとトスカニーニが人気を二分していた。ベートーベンの演奏についても、どの曲でもこの2人の盤が一、二を争っていたが、第九だけは有無をいわせずこのフルトベングラー盤を推すという。 後年、LPとしても疑似ステレオ盤が出たり、CDになってからも、「足音入り」などというキャッチフレーズがついたこともある。彼の舞台への足音が入っているというのである。50年を経た今日でも、立派な現役盤として残っている伝説のレコードである。 疑似ステレオというのは、モノラル録音の音源を、左右2つの音源に分け、エコー効果をつけたりして、ステレオ的に聞こえるようにしたもので、「ニセレオ」などと呼ばれていた。いつか取り上げたトスカニーニの「ローマの松」や「新世界」などもニセレオ化されて、結構好評を博していた。 ここまでは分かった。こちとらはまだ聞いたこともないのだから、偉い評論家のセンセイのいうことを信じるしかない。それはいい。しかし買うのはこちら。店に並んでいる白地に黒のどでかいドイツ文字、他を威嚇するようなジャケットを何度恨めしく眺めたことか。 いや、恨めしく眺めたなんてものではない。このドイツ文字には恨みがある。大学で第2外国語とかでドイツ語をやった。このややこしいやつには参った。こんな字がちゃんと分かるやつはどんな頭しとるねん。最初は学年途中で止めた。次の年は一応最後までやったことにはなっているが、単位は取れなかった。当時は必修でなかったからよかったものの、そうでなかったら卒業できていない。 ドイツ語の恨みは別にして、何が恨めしかったが。このレコードは30cmLP2枚組なのである。対抗馬のトスカニーニやワルターなどは、「1枚の第九」が売りだった。あの1時間なにがしかの曲が1枚に収まるというのである。これは人気があった。しかし、A面に1,2楽章。B面に3,4楽章と入ればめでたしめでたしだが、そうはいかないのが世の中の面白いところ。3楽章の途中でレコードを裏返しにしなければならなかった。これまたけったいなもので、野球放送でイニングの途中にコマーシャルが入るようなもの。 私は、思いきってこの「2枚の第九」を買った。これだと楽章の途中での裏返しはない。そのかわり値段は倍。買うときはずいぶん迷ったが、結果的には間違いなかったと思った。年末の第九の放送のあと、もう一度このレコードを出して聞き直すのが年中行事になった。どの演奏もこのレコードを越すものはなかった。 フルトベングラーの演奏はテンポの揺れが大きいといわれる。その最たるものが、この第九の終楽章のコーダ。合唱が終わってからのオーケストラによるエンディングまでの20小節、脱兎のごとき加速。これ以上の加速は無理だというところで突き抜けるように終わる。これはどの演奏にもまねできない。 これから述べるのは、音楽にはど素人の私のタワゴトである。私は、合唱が終わってからの20小節は要らないと思っている。合唱が終わっているのに、何でオーケストラがもたくたやってんねんという感じ。合唱の終わりで曲そのものを終わればいい。人間誰しも調子に乗るとつい冗長になる。ベートーベンもつい筆が滑った、とフルトベングラーは考えていたのではないか。これはできるだけ短い方がいい。その思いが他に例を見ない加速になったのではなかろうか。フルトベングラーが残した本をかじり読みをしてみたが、私が読んだ範囲では、そんなことは書いていない。しかし。書かないまでも、彼自身はそう思っていたのではないか、そんな気がするのである。 CDになったとき、持っていたレコードを全部処分した。買ってきて1,2度しか針を通さなかった新品同様のものも多かった。しかし、このレコードには手垢が付いていた。レコードプレーヤーも故障してしまったし、2度とかけることはなかろうと思いつつ、処分する気にはならなかった。 |
068.管弦楽組曲第2番 |
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---------J・S・バッハ------ 昭和33年、田淵行男の写真集『尾根路』に出会った。田淵行男、明治38(1905・アインシュタインが特殊相対性理論他の論文を発表、日本では日露戦争)年、島根県生まれ。東京高等師範学校博物科卒業。高山蝶の研究家である。当時は長野県南安曇穂高町牧に住まいし、高山蝶の研究のかたわら山の写真を撮影していた。 『尾根路』、発行・当時山岳関係の図書を精力的に出版していた朋文堂。定価・2000円。北アルプスを中心にして、南アルプス、八ヶ岳、浅間山、谷川岳に及ぶが、中でも高山蝶研究のため、登山回数が100回を越えるという蝶・常念から見た槍・穂高連峰の写真は圧巻であった。(氏終生の常念登山回数は200回を超えたという)。この『尾根路』の写真が私の師になった。人間が単純だからこれに触発された。よし、来年の夏は常念へ行こう。 四条小橋を上がったところ、・・・常念が何で四条小橋やねと思ってはいかん。これには深かーいわけがある。・・・高瀬川の西側に「みゅーず」という喫茶店があった。川の西岸が直接建物になっていて、その西側が道路。そこから2階へ上ったところが喫茶店だった。去年だったか、一昨年だったか、長年続いた店を閉じると新聞に出ていて、ああ「ミューズ」が今まで続いていたのかと懐かしかった。その「みゅーず」。 山へ行く前にそこで時間をつぶししようというのである。誰と、・・・自分一人で。面倒なことを考えたものである。 当時、住んでいた家は、市電の伏見線「肥後町」電停へ2分ほどの場所だった。そこから20数分で京都駅。それで行けばいいものを、大きなザックを持って登山靴を履いて、10分あまりかかる京阪丹波橋駅へ。そこから四条へ出て、「みゅーず」へ。推理小説のネタになるような手の込んだことをやったものだ。いきがっていたのだろう。今なら絶対やらない。 そのとき、「みゅーず」ではバッハの管弦楽組曲第2番がかかっていた。全曲にわたってフルートが活躍するこの曲が好きだった。現役のころは、朝音楽を聴く余裕はなかったが、たまの日曜日など、早春の朝、明るい光の中で聞くのにぴったりだった。その曲をくそ暑い夏の夕方、山へ行く前に・・・、まあええか。 そのころやっと東海道線米原・京都間が電化され、「比叡」という電車準急が走り出した。暮れゆく山科盆地。湖東方面から見る西の山のシルエットも印象的だった。10年後その地に住むことになろうとは思っても見ないことだった。 名古屋で乗り換えて、木曽福島からバスで、快晴の上高地へ。しかし、いいことはここまでだった。大滝小屋で一泊し、蝶を越えて二泊目の常念小屋についたときには雨だった。 『尾根路』で見た槍・穂高連峰は、常念の登りで雲の合間からちらっと見えただけ。夜を徹して降り続いた雨は翌日もやまなかった。籠城も考えたが、一日待っても止むような雨ではなかった。道に流れ込む水に足首まで浸かりながら、安曇野側へ下山した。 中央線は東線が不通、西線は何とか動いている。しかし、こともあろうに東海道線の柏原〜近江長岡間が不通だという。とにかく夜行で名古屋まで出る。豪雨のあとを見ながら米原まで、そこまではナントカ開通していた。しかし、ここで彦根駅構内浸水のため不通。電車がだめでも船は動いているだろうと、案内所へ行くと「こんな天気の日に遊覧船が動きますかいな」。それもそうや、つまらんことを・・・。あとは待つしか方法はない。どれぐらい待ったのか。午後2時ごろに京都へ帰り着いた。市電伏見線も棒鼻で折り返し。 出発するときすんなり市電で行けばいいものを、わざわざ遠回りして「みゅーず」へ寄ってバッハを聴いた祟りだった。以来、バッハは身を清めてから聴くことにしている。 付け足し。「○○駅と○○駅の間で事故のため、ただいま運転を見合わせています」。この言葉を聞くと腹が立つ。何が腹立つかというと、電車が走らんこと。これは当たり前。腹は立つけど仕方がない。私が腹立つのは、「見合わせていいます」という言葉。要するに「不通なんやろ。"見合わせる"なんて、どこかの日和見主義みたいなこというな」と思う。電車が走らなんだら「不通」でよろしい。・・・またつまらんこと書いてしもた。バッハに祟られる。今晩はバッハは聴かんぞ!。 |
069.さすらう若人の歌 |
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------マーラー------ あれは真空管式だったのか。トランジスター式だったのか。とにかく小型のプレーヤーとアンプが一体となったものだった。スイッチを入れるだけですぐスタンバイ状態になった。20cmぐらいのプレーヤーで30cmのLPを載せると航空母艦の甲板のように外にせり出す感じだった。ピックアップもクリスタル式の簡単なもの、それで結構いい音がした。昭和30年代の前半、時代的なことを考えると真空管式だったのだろう。 私がいた教員室のロッカーに、そんなプレーヤーとレコードが2枚預けられていた。誰の所有物だったのか今になっては確かめようがないが、土曜日の午後など、あいた時間にこっそり持ち出して、隣の会議室でそれを聞いた。2枚のうちの1枚がマーラーの『さすらう若人の歌』だった。歌っているのがディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウ、伴奏フィルハーモニア管弦楽団。指揮フルトベングラー。 マーラー23歳の作であるこの曲は、シューベルトの歌曲集『冬の旅』などの叙情性を追いながら、その手法では次に来るドビュッシーやラベルにつながるという不安定さを見せている。この不安定さこそが若い日のマーラーの魅力だといえる。 いまでこそ、マーラーやブルックナーなどの大曲も、CDショップの棚にずらりと並んでいるが、当時はマーラーて何?という時代。この曲は格好の入門曲だった。あとになってシンフォニーを聴くとき、「ああ、これは”さすらう若人の・・”の」と親しみを感じることにつながった。 そういうことで、この曲は私をマーラーに近づけてくれた仲人なんだが、"さすらう若人の・・"という題が気になって仕方ない。若いやつがさすらっていてエエのかいな、と思う。"さすらう" のは年寄りのすることやろう、若人は "さまよう" のと違うか。 原曲の題は、Lieder eines fahrenden Gesellen。これを訳すと「さすらう」がでてくるのだろうが、何せ、きのうも書いたように、ドイツ語は2年かかっても単位が取れなかった。「さすらう」でなくて「さまよう」だという自信はない。 ワーグナーの楽劇に「さまよえるオランダ人」というのがある。これは Der fliegende Hollander だから、やっぱり違うのかな。こういうときは辞書を引けばいいのだろうが、ドイツ語の辞書は行方不明。 「さすらい」と「さまよい」、漢字で書けば「漂白」と「彷徨」。 「予もいずれの年よりか片雲の風にさそはれて漂白のおもひやまず・・・」、有名な芭蕉の『奥の細道』の出だしだが、どうしてもこれにつながってしまう。 |
070.ラインの黄金 |
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---------ワーグナー------ カラヤン・ウイーンフィルの演奏会で、ワーグナーのタンホイザーを聴いて腰を抜かしたのが1959(昭和34)年11月。それから一月ほど経ったころ、同じウイーンフィルで『ラインの黄金』がレコードになるという。指揮はゲオルグ・ショルティ。たしかこのショルティ、ウイーンのコンビは1994年に来日したはずだが、このころ(ラインの黄金のころ)はまだ若く、ショルティて誰?という感じだった。 そのことをレコード雑誌で知ったのか、NHKのFMでの放送を聴いて知ったのか、記憶が定かでないが、とにかく凄い録音だということで前評判が高かった。喫茶店「みゅーず」で、そのステレオ盤のコンサートを開くという予告があった。喫茶店が予告をしてレコードコンサートを開く時代だった。大型の再生装置で聴く「ラインの黄金」、これは凄かった。一月ほど前に生を聴いて、耳の底にまだその音が残っている。これは生の音と変わらない。そんな思いだった。 録音は英デッカ、日本ではロンドン盤で発売された。その当時コロンビア、ビクター、フィリップス、グラムホン、ウェストミンスター等々、いろんな系列のレコードが発売されていたが、ロンドン盤がいちばん安定した音を出していた。当時のレコードは針が内周部に近づくほど音が悪くなった。ロンドン盤は内周部の音の劣化がいちばん少なかった。かつて、ロンドン盤で一世を風靡したアンセルメ・スイスロマンド管弦楽団、来日してから人気が落ちた。あれはロンドン盤の録音がよかったのだとささやかれた。そんなことで、当時のレコードマニアは今以上に録音に神経質だった。 余談だが、正直言ってCD以降の再生装置のメカニズムはよく分からない。訳も分からずにかけてもちゃんと再生してくれるから何の苦労もないが、初めてCDを買ってきたときはとまどった。片面がぴかぴか虹色に光る再生面。そこまでは分かる。これでどないして音が出るのか。カチャっと出てきたプレー用の台、(何か正式な名前があるのだろうが、そんなことどうでもいい。名前を知らなくても音は出る)の上に載せた。何の迷いもなかった。再生面を上にして置いた。エジソンのレコードが円盤になって以来、再生面は上と決まっている。その上にピックアップをおくのだから。 うんともすんともいわない。このCDプレーヤー故障している。買ってきたばかりやのに。まじめにそう思った。中を覗きこんでみると、どうも反対らしい。天地がひっくり返るとはあのことか。思いこみほど怖いものはない。 話を戻して、この「ラインの黄金」、いうまでもなく、年末にNHKから放送される恒例のバイロイト音楽祭の中心的出し物、四夜に渡って上演される楽劇「ニーベルングの指環」の第1夜に当たる。他の三夜に比べれば半分ぐらいの長さだけれども、それでもレコード3枚組。発売当初の1枚2800円よりは下がっていたと思うが、それでも全部で7000円ほどでなかったか。 |
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