---昔語り『音楽夜話』・6---



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051.あの丘越えて

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-------山の牧場の お昼どき-------
  作詞:菊田一夫  作曲:万城目正  昭和26年  

 1.山の牧場の 夕暮に
    雁が飛んでる ただ一羽
    私もひとり ただひとり
    あおの背中に 目を覚まし
    イヤッホー イヤッホー

 時代は少し前後する。このとき私は高校3年生だった。鶴田浩二と美空ひばりが主演をした、同名の映画の主題歌だった。高校生には最後の「イヤッホー イヤッホー」が人気だった。同級生のSという男が、体育の授業中にイヤッホー イヤッホーをやってどやされていたのを思い出す。

 私は、この映画を家の近くの伏見の映画館で見た。なぜそんなことまで憶えているのかというと、映画の中のひばりの歌を聞いて、ああこれだと思った記憶があるからである。というのは、伏見の映画館へは、封切館に比べて、2〜3週間、ものによっては1ヶ月近く遅れてやってくるのが普通だった。だから、歌がはやりだしてから間が抜けたころに映画がやってくるのである。このときもそれだった。

 映画そのものは、少女ひばりの家庭教師・鶴田浩二へ淡い恋心で何がどうということのないものだった。しかしその中で見た風景は深く心に残った。閑かな山間の水面に枯死した木が立っていた。いまならどうということのない有名な大正池である。しかしそのころの私にとって、大正池はおろか、上高地すら写真ででも見たことのない、未知の風景だった。どこだろう。その思いが深く残った。

 昭和29年夏、友人のHがコダクロームで撮ってきた大正池の写真を見て、ここだと思った。「あの丘越えて」はモノクロだったが、間違いなくこの風景だった。翌30年、生まれて初めて美ヶ原へ行ったことは、「アルプスの牧場」の項で触れた。その帰り、というより、美ヶ原がついでで、こちらがメインだったのだが、上高地へ行った。梓川にダムも何もなかったころ、島々からの道はまだ地道で、バスはもうもうたる砂塵を巻き上げてあえいでいた。沢渡でエンジン冷却を理由に30分ほど止まった。道路脇の茶店の前で、小猿が1匹ひもにつながれて、愛嬌を振りまいていた。   




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052.海行かば

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-------海行かば 水漬(みづ)くかばね-------

  作詞:大伴家持  作曲:信時 潔  昭和12年   

海行(ゆ)かば  水漬(みづ)く屍(かばね)
  山行かば  草むすかばね
  大君の 辺(へ)にこそ死なめ
  かえりみはせじ

 去る3月15日(2008年)、京都の大谷ホールで、アンサンブル「サンギーティ」演奏会があった。サンギーティとはサンスクリット語やパーリ語で「一緒に歌い会わせる」という意味だそうだが、仏教賛歌、日本の抒情歌、混声合唱のための唱歌メドレーと楽しい内容だった。

 すべてのプログラムが終わってアンコール。指揮者のWさんが曲を紹介された。「みほとけは」。大谷高校での宗教行事でよく歌われた曲だった。「この曲は信時潔の作曲で、昭和22年の作です」。ふーんそうなのかと聞いていたが、続く言葉にあっと思った。そうだったのか。「じつは信時先生は、あの”海行かば”を作曲された方です」。

 少なくともあの戦時下を生きた日本人で、「海行かば」を知らない人はいない。Wikipediaによれば、昭和12年、国民精神強調週間が制定された際、そのテーマ曲としてNHKが信時に委嘱して完成されたものだという。最初は出征兵士を送る歌として使われていたが、やがてそれが学徒出陣にまで及び、戦争末期には、玉砕を報ずる番組導入部のテーマ音楽として用いられようになる。

 信時潔はこのことに苦しむ。以後作曲のペンを取らなかった信時が、戦後初めて作った曲がこの「みほとけは」だったという。   

みほとけは

  作詞:仲野良一  作曲:信時 潔

 1,みほとけは  まなこをとじて
    み名よべば
    さやかにいます わがまえに 
    さやかにいます わがまえに

 聞いていただいたとおり、この2曲、何ほどの差があるとも思えない。「海行かば」の作曲動機に多少の違和感を感じるとはいえ、歌詞を見なければ、ともに落ち着いたいい曲である。芸術作品も使われ方によって、とんでもない方向へ一人歩きする、恐ろしい例である。




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053.アイネ クライネ ナハトムジーク

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-------モーツアルト-------

 昭和31(1956)年4月、京都市交響楽団が創立された。全国でも初めての自治体直営のオーケストラとして、カール・チェリウスの厳格な指導のもとに一歩一歩前進を始める。京都会館もまだなくて、祇園のヤサカ会館を使って定期演奏会をやっていた。戦後10年あまり、日本全体の音楽レベルも低く、素人の私が聞いても明らかに分かるミスをやっていた。そんなことで、演奏曲目もモーツアルトの序曲や、ブラームスのハンガリア舞曲などポピュラーなものが多く、初心者の私にはありがたかった。

 そのころ円山音楽堂で毎週土曜日の夕刻から、土曜コンサートが開かれていた。京都を離れて長くなるので、これが今続けられているのかどうかは知らないが、当時はアマチュア、セミプロに広く門戸が開かれて、楽しみにしている人も多かった。昭和30年代の前半だっただろう。その土曜コンサートに京響が出演した。曲目に「アイネ クライネ ナハトムジーク K525」・・・・とある。おなじみ、モーツアルトのポピュラー名曲である。しかし、当時の私には、曲と題名がつながらない。長い題やな。どんな曲やろ、聞いてはいるのだけれど。子どものころの軍歌と同じ耳学問だった。

 きょうの「アイネ・・・なんとか」いう曲は?と思いながら、音楽堂への坂道を上っていった。ころは5月、したたるような新緑だった。と、楽員が練習するバイオリンの音が聞こえていた。野外の音楽堂だから、本番前の練習が外へ丸聞こえである。というより、外でやっているのだから聞こえて当たり前である。何やこの曲か。分かってしまえば何でもない。訳の分からんじゅげむじゅげむみたいな題をつけやがって。・・・・

 本番の演奏は気持ちよく聴けた。もともとは弦楽五重奏の曲だけれど、当日はオーケストラでの演奏だった。ときどきエラーをする管楽器群はお休み。毎年、新緑のころになると、あの日の坂の上から聞こえてきたバイオリンの音を思いだす。




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054.はげ山の一夜

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-------ムソルグスキー-------    

リンク先にある、「参考音源:MP3」をクリックしてください。

 ムソルグスキーの交響詩「はげ山の一夜」。ヨーロッパでは、聖ヨハネ祭のころ、魔物が地下から現れて、山の上で饗宴を開くと言い伝えられている。曲はその悪魔たちの饗宴と、夜明けの教会の鐘で魔物たちが退散するまでを描いている。描写的で親しみやすい曲である。私はこの曲を聴くと、50年も前の夏の日、北アルプス餓鬼岳の一夜を思い出す。別項「穂高から三上山まで」と重複するがお許しいただきたい。

 昭和32年、山へ行きだして3年目の夏、まだ山の歩き方も知らないのに、槍へ行こうと言い出した。友人Hは、上高地から槍沢を詰めるのがスタンダードだが槍沢が長い。燕へ登って、表銀座を縦走しようという。例によって一ひねりしなければ気が済まない私は、「表銀座」かてもっとスタンダードやないか。そんな誰でも行くところはおもしろない。もうちょっとなんとか考えようや、と地図を見ていて、燕の北に餓鬼岳という山があるのに気がついた。

 餓鬼岳、なんちゅう名前や。えぐい名前やな。と、調べてみると、奇岩が林立していて、燕までは、尾根づたいに一日行程だという。しかし、アプローチの悪さが災いしてほとんど登る人もない。・・・これは面白い。と、いえたレベルではなかったのだが、当時はそんなことお構いなし。よしこれにきめた。

 盆過ぎのある日、Hと二人、大糸南線信濃常盤駅に降り立った。夕方4時か5時かのころである。改札を通ろうとすると、「山行くのけ?」という。ザックにキャラバンシューズである。誰が見ても山へ行くのに決まっている。意味が読みとれなかった。「は?」、要領の悪い返事をしていると、ふたたび、、「山行くのけ?」・・・

 「見たら分かるやろう」とはいわなかったが、内心「海へ行くように見えるけ?」・・・とおもいつつ、「はい」。・・・「これからけ?」。・・思わず顔を見なおした。・・・「こんな夕方から、山へ行くアホはおらんやろ」

 と、いいたかったが、そこは京都の紳士である。「いえ、明日登ります」。・・・会話がかみ合わないというのはあのようなことをいうのだろう。このときまではこの駅員何を訳の分からんことをいうとんのか、とバカにしていた。・・・驚いたのは次の言葉だった。

 「どこへ泊まるのけ?」・・・「???」。それをはよいえ、という余裕もなかった。辺りを見回した。なるほど、駅前に何軒か民家はある。しかし、一言でいえば広大な田圃の中。そういえば、さっきの電車で降りたのは、我々2人だけだった。いまなら、大町なり、松本なりへ出てビジネスホテルへ泊まる手はある。しかしそのときの我々には、そんな智恵はなかった。いや、智恵があったにしてもビジネスホテルそのものがなかったろう。

 「ちょっと待っとれや」、駅員は、いや駅員さんは、である。いうがはやいか3,4軒向こうの家へ飛び込んでいた。駅の事務室をほったらかしにしてである。しばらくしてその家から50年配の奥さんが顔を出してこちらを見た。引き返して来た駅員さんは、そこの「O衣料店に止めて貰えるように話してきたから」という。さっきのは、人相改めやったんや。駅員さんに三拝、九拝したのはいうまでもない。

 バカ話が長くなった。「はげ山」は明日の話になる。




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055.はげ山の一夜(続)

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-------ムソルグスキー-------    

リンク先にある、「参考音源:MP3」をクリックしてください。

 翌朝、朝食をいただいていると、例の駅員さんがやってきて、「北海道からやってきた人が、餓鬼岳へ登ると行っている。一緒にどうだ」という。親切な駅員さんもいたものだ。もちろん旧国鉄の時代である。

 昨夜、夕食後のデザートに出してもらったリンゴを、「おいしいですね」といったのが、苦難の始まりだった。出発の時、無理矢理ザックを開かれて、「持っていけ、持っていけ」、あふれんばかりにそれを放り込まれた。欲と二人連れでいただいたが、重かった。荷物は肩に食い込むし、さりとて捨てるわけにも行かず・・・。

 餓鬼への登りは長かった。普通は、駅前からバスが出て山の中のしかるべきところまで連れて行ってくれる。しかし、ここはそんなことは一切なし。とにかく自分の足、それしかない。こんなにしんどかった登りは後にも先にもない。例のリンゴが肩に食い込む。早く減らしたい一心で、リンゴばかり食べていた。

 北海道氏はかなり山慣れしている感じで、途中、こちらがばてているのを後目に、すっと行ってしまった。餓鬼岳小屋へ着いたのは、夕闇迫るころだった。小屋は番人なし。燕からやってきたという男が一人いただけ。先着しているはずの北海道氏はいなかった。燕まで足をのばしたのかも知れない。

 翌朝、燕氏がごそごそし出して目が覚めた。あたりは明るくなっていて、別段魔物が出た様子もない。「ほう、槍が見えますね」とこともなげにいう。指さす方を見ると、なるほど槍だ。餓鬼から燕へ向かう尾根の上に、小さく顔をのぞかせていた。見えるときはこんなに簡単に見えるのか。不思議だった。過去2回まで視界不良でダメだった。それがこんなに簡単に。上の写真は、小屋の中から見た槍である。上の黒い部分は屋根。下は腰板。間は当然窓ということだが、ガラスなどあるはずがない。突然、「はげ山の一夜」を思い出した。昨夜、魔物が出ていたのではないか。熟睡していて知らなかっただけで、この窓の外で、魑魅魍魎の大饗宴が繰り広げられていたのではないか。そんな思いすらする風景だった。

 そんな思いも小屋の中だけだった。外へ出ればすぐ目の前から燕へ、一日行程だという尾根道が続いていた。以来50年、燕は登ったという話は何度か聞いたが、餓鬼へ登った人に会ったことはない。「燕の北に餓鬼という山があってね、いいとこですよ。年がら年中ムソルグスキーのはげ山の一夜が鳴っているんですよ」。いささかの自慢とホラの、数少ないネタの一つである。 




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056.月光の曲

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-------ベートーベン-------

 山へ行きだした当初から気になっていたことがあった。小学校の国語で、『燕に登る』というのを習ったことがあった。細かいことは忘れてしまったが、麓の旅館から燕の頂上までの様子を書いた文章だった。これがずっと気になっていた。何年生で習ったのだろう。そして、頂上から見る「遙か向こうの槍ヶ岳」。私の中での槍ヶ岳は、遙か向こうで、天をさして聳えていなければならなかった。その槍ヶ岳を餓鬼岳から見た。

 餓鬼から燕までの縦走路は快適だった。ガイドブックにあったとおり、巨岩が林立していて、人も少なく、思うように歩けたし、進むたびに微々たるものではあったが、少しずつ近づいてくる槍が楽しみだった。

 その日の午後、燕岳に着いたはずなのだが、ここからの記憶が一切ない。当時のアルバムを見ると、「自家発電による蛍光灯には驚かなかったが、テレビがあったのには驚いた」とある。我が家にまだなかったテレビが燕の山荘にあったという。ところがその記憶が全くない。不思議である。

 不思議だというと、国語の『燕に登る』、習ったことは鮮明に覚えているのだが、いつ習ったのかが全く記憶から抜け落ちている。ずーと気になっていたのだが、今回この文章を書くについて、インターネットで検索してみた。『燕に登る』、で入力してみたが、それらしいものは出てこなかった。ひょっとしてと思って。『燕岳に登る』で検索してみると、あった。「燕に登る」だとばかり思いこんでいたのだが、さすがは教科書。正しく「燕岳」だった。それはいい。しかし、但し書きに『初等科国語七』よりという。「七」てなんやね。小学校は6年生までやぞ。

 文句を言っていても仕方がない。さらに調べてみると、当時の国民学校では1・2年生では国語とはいわず、「よみかた」といったらしい。したがって、「国語」は3年生から。そこから各学年2冊ずつで、「七」は6年生の前半に当たるという。「なに?、それはないやろ」。

 国民学校6年生の前半。昭和20年である。その前半といえば、集団疎開で山の中で暮らしていた。麓の学校へ形式的に編入はしたが、教室で授業を受けた覚えはない。日常生活している部屋で、机を出して勉強をした記憶もなくはないが、定常的なものではなかった。私の記憶では、小学校6年生の前半は、いっさい学習とつながるものはない。

 学習したとはっきり記憶がある『燕岳に登る』が、6年生前半の教科書に載っている。そして驚くべきことに、その目次を調べてみると、『月光の曲』が載っている。例の盲目の少女とベートーベンの話である。これも確かに習った。この話は捏造だとされている。それはそうだろう。しかし、少なくとも小学生の私は、ムソルグスキーは知らなかったが、ベートーベンは知っていた。それはこの文章のおかげである。

 これをどうして授業できたのか。集団疎開の寮では4〜6年生が混在だった。暑い夏の日、ノミ・シラミの中で学年別に、この内容を記憶に残るレベルの授業ができたとすれば神業である。しかし、例の教科書墨塗りのあとも、この教材は生き残ったはずである。とすると、これはあくまで推測だが、その生き残った教材をつかって、卒業までの半年間の授業が行われたのかとも思う。




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057.月光の曲(続)

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-------ベートーベン-------

 ベートーベン作曲 ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調『月光』、これが正式な名称である。昨日少し触れたように、小学校の国語(6年生前半)の教科書に出てくる話。いまの子どもたちは知らないのだろうか。教科書もいつまでも同じ内容でというわけには行かないだろうが、これは作り話ですよと注釈を入れて、取り上げたってかまわないのではないか。

 私などは、この作り話によって、「月光」を知ったのだが、別にだまされたとも思っていない。もちろんそのときは、月光の曲がどちらを向いていようと知ったことではなかった。しかしそれがどんな曲なのかと興味を持つたことも事実である。何かの機会にその曲にふれたとき、ああこれが作り話の・・・ということでいいのだろう。

 私は槍が岳を見て、ただの槍ではなしに、「燕岳に登る」に出てきた「あの槍が岳」だと感じた。何も知らずに見るのとは、受け止め方が全く違う。これが教育だと思う。

 『月光』というサブタイトルは、ベートーベンの死後、詩人レルシュタープが「スイスのルツェルン湖の月夜に、さざ波に揺らぐ小舟のごとし」といったのがはじまりだという。これがどこまで正しいのか私は知らないが、一応定説だから正しいとして、それならそれで、作り話を教えた上で、実はこれは作り話で、本当は・・・・。と教えればいいのではないか。だいたいサンタクロースにしても、かぐや姫にしても、みな作り話だろう。だから教えてはいけないというのはおかしい。

 いまの世の中、おかしくなったのは、ウソとホンモノの区別をつけられない人間が多くなったことによる、と私は考えている。ニュートンが、リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見した。これだって作り話だろう。いくらニュートンが天才だったとしても、リンゴで万有引力は無理である。しかしそれが作り話であったからといって、万有引力がウソかというと、けっしてそうではない。現に、毛利さんや、土井さんが宇宙空間へ行って活躍している。すべて万有引力の法則の上に成り立つ話である。盲目の少女の話が作り話だといって、ベートーベンの月光が駄作だということはけっしてない。

 明日出撃するという若き特攻隊員が、基地近くの小学校のピアノで、この曲を演奏した。数年前この話が話題になり、映画にもなった。特攻隊員の心情を思うと頭が下がる。創作なのか実話なのか、私にはよく分からないが、仮にそれが創作だとすれば、曲は何でもよかったはずである。ベートーベンの「熱情」でもよかったし、ショパンの「ノクターン」でもよかった。その中にあって、なおかつこの曲が選ばれたということは、この曲そのものに、伝説や物語の対象になる、そういうもって生まれたものがあるのであろう。しかし、それもこれも、すべては盲目の少女の物語、これに起因しているのではないか、私にはそう思えて仕方がない。




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58.山の夏の日

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-------ダンディ-------

 土曜・日曜を除く毎日、午後2時からNHK−FMで「ミュージックプラザ」という番組がある(2008年現在)。家にいるときはこれを聞くのが習慣になっている。今週の月曜日、スイッチを入れたら、ドラマをやっていて、稗田阿礼だとか、太安万侶がどうしたどか。何でこんなとこで古事記やね?。選局を間違えたか、と新聞を見ると「オーディオドラマ・古事記」だという。なるほど、雷の音などは真に迫って迫力がある。それはそれで面白かった。

 その中で驚いたこと。稗田阿礼が女性だという。長く人間をやってきたが、いまのいままで稗田阿礼が女性だなどとは考えたこともなかった。調べてみると性別も不明で、女性であろうと考えている人もいるとのこと。なるほどそうか。私は、古事記の語り部のような人物は、当然男性だと思いこんでいたのだが、これも女性差別の一つか。

 初めから脱線した。先が思いやられる。・・・・そんなことで、きょう(3月27日・木)のミュージックプラザはレギュラーに戻ったかなと、新聞を見たら、「2:00 ミュージックプラザ▽クラシック ダンディ 山の夏の日」とある。これは懐かしい。

 前にも少し述べたが、昭和30年代の前半、山へ行きだしたころ、尾崎喜八の詩や文をよく読んだ。喜八戦後の富士見高原時代、その生活の文章に、八ヶ岳山麓の風景描写とともに、「オーベルニュの歌」や、ダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」などがよく出てきた。そのころの私は、フランス系の作曲家の管弦楽曲はどうも苦手で、あの曲が何でエエのかな、と首を傾げていた。そうとはいいつつ、尾崎さんがいいというのだからと、ある日ダンディのことに触れた解説書を読んでいて、「山の夏の日」という曲があることを知った。

 餓鬼にも登った。槍にも立った。霧の穂高も経験した。「山の夏の日」が聞きたかった。しかし、LPレコードが出て10年そこそこの時代である。レコード屋へ行っても「そんな曲ありまへん」といわれるのが関の山だろう。しかし、聞けないとなるとよけいに聞きたくなるなるのが人情というもの。考えあぐねた末、NHKにリクエストを出した。人生長い間、リクエストを出したのは、これが最初で最後だったが、それが採用されて放送された。私の名前が電波に乗った最初のことである。

 ということで、この曲を生まれて初めて聴いた。ところがいまとなっては、リクエスト云々のことはしっかり憶えているのだが、肝心の曲がどうだったか、何の記憶もない。その後、CDになって輸入盤の中にこの曲を見つけだした。1000円そこそこだった。こんな曲だったのかと軽く聞き流してしまった。給料が1万円足らずの時の2300円とは話が違う。人生、物事を金で勘定するとろくなことはない。音楽の聴き方まで軽くなる。

 いま、年金生活になってみると、1枚1000円のCDでもままならない。・・・とぼやいていたら、CDなら100円ショップにあり末世、という。・・・「ありまっせ」と打ったら、「あり末世」と出てきた。・・・ワープロもたまには粋なことをする。・・・・社会保険庁スイセン。

 ときどき思い出して「山の・・・」を聞こうとするのだが、整理の悪さからなかなか見つけだせない。バリラックスの老眼では、輸入盤の細かい字、それもフランス語と来ると探すだけで首が痛くなる。というわけでどうしてもおくうになる・・・。その点、放送はいい。スイッチ一つ。午後2時が楽しみである。3時半からは、車を12ヶ月点検に持っていかなければならない。それまでに流れてくれるといいのだが。




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059.喫茶店の片隅で

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-------アカシヤ並木の たそがれは-------

 作詞:矢野亮  作曲:中野忠晴

 アカシヤ並木の黄昏は
  淡い灯がつく喫茶店
  いつもあなたと逢った日の
  小さな赤い椅子二つ
  モカの香りがにじんでた

 ヒットした、という感覚もない。いつはやったのかもよく分からない。気がつけば憶えていた。不思議な歌である。Wikipediaによれば、1955年の発売とある。紅白歌合戦の記録では、松島詩子は第9回と11回に、この歌を歌っている。これは、年でいうと1958(昭和33)年、1960(同和35)年にあたる。まあ、こんなことから総合して昭和30年代前半に歌われたのであろう。松島詩子自身にとっては、昭和12年のマロニエの木陰のヒット以来20年、おそらく大人の歌として、静かにヒットしていたのであろう。

 京都河原町蛸薬師、丸善の南側を木屋町へ抜ける通りをちょっと入ったところに、「るーちぇ」という喫茶店があった。(「るーちぇ」の"ぇ"は小さい"ゑ"だったが、私の機械にはそんな器用な字は入っていない)。古風な木製の椅子に赤いクッションがよく似合っていた。「いつもあなたと逢った日の 小さな赤い椅子二つ・・・」この歌を聞くと、夏の暑い日、よくそこへ通ったのを思い出す。

 この歌は、爆発的なヒットでこそなかったが、けっこう長命で、新しいところでは倍賞千恵子も歌っている。歌詞の2番にある「ふたり黙って向きあって 聞いたショパンのノクターン・・・・」というくだり、この歌詞が好きだった。映画「愛情物語」のテーマ、カーメン・キャバレロが弾く”トゥ・ラヴ・アゲイン”がヒットしたりしたこともあって、そのテーマを重ねてイメージしたりした。ところが、倍賞千恵子のCDではそこのところが「・・・ショパンのセレナーデ」と歌われている。

 どういう理由でそのような改ざんをしたのか。改ざんという言葉が過ぎるとすれば改変か、少なくとも変更ではなかろう。確かに、ノクターンとセレナーデとはどう違うのかといわれれば、私などには区別は付かない。なるほど、日本語に直せば、「夜想曲」と「小夜曲」という違いはある。しかし、両者具体的に違いは何かと問われれば、「ハイすんません」といって、しっぽを巻いて逃げるしか手はない。しかし、これはそういう問題ではない。詩の問題である。ノクターンと歌われていたところをセレナーデと換えて歌う。これはおかしい。第一、ショパンに「セレナーデ」という作品があるのか。私が知る範囲ではその名のつく曲はない(何ほどのものを知っているのかと問われれば、これまたスンマヘンと謝る以外ないのだが)。

 詩は虚構だから、ショパンの作品にあろうとなかろうと関係ないという考え方もあるかも知れないが、私はやはりこだわる。原作者との了解はあるのだろうか。

 と、ここで文章は終わっていたのだが、実は大変な後日談がある。どうか最後までお読みいただきたい。

 後日談

 草津市渋川、旧中山道沿いに”灯心草舎”という小さなギャラリーがある。本職が畳屋のNさんが趣味で開いているものだが、そこを会場に1年ほど前から月1回、「名も知らぬ会」という歌う会が開かれている。集う人10数人。50歳代以上の方ばかりである。

 じつはそこでこの「喫茶店の片隅で」を歌った。誰もこの歌を知らなかった。会員の中で唯一私より年上のNさん(畳屋のNさんとは別人)が、ハーモニカの名手で楽譜はありますかとおっしゃる。ここにはありませんが、うちに帰ればあるはずですから探しておきます。ということで古い昔の本を引っ張り出してきた。

 「全音歌謡曲全集」5,発行日は紙が破れて分りにくいが、1956の数字が見える。それに載っていた。昭和31年。紅白の年代とだいたい合う。左がその楽譜である。縁が茶色くなって年代が分かる。それはいい。問題はこのあとである。

 ついでに歌詞を見た。問題の2番の冒頭で我が目を疑った。

 ”二人黙って向き合って 聞いたショパンのセレナーデ”となっている。

 事情は分からないが、1956年の時点では”セレナーデ”だったのである。もう一度私が持っている松島詩子のCD,LP(4種類)を引っ張り出して聞き直してみた。録音に新旧は感じられるが、すべて”ノクターン”と歌われているし、添付の歌詞も”ノクターン”である。ということは、最初は”セレナーデ”として作られたが、かなり早い時点で、ひょっとして松島詩子が初めて歌ったその時点で、”ノクターン”に変更されていたのではないか。 倍賞千恵子版が改変版だとばかり思っていたのだが、それが原本の原本だったらしいのである。




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060.弦楽のためのアダージョ

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-------バーバー------- 

 Samuel Barber(1910-1981)、アメリカの作曲家である。初演は1938年11月5日、NBC交響楽団、指揮アルトゥーロ・トスカニーニだったとのことである。ジョン・F・ケネディの葬儀、アメリカ同時多発テロ世界貿易センタービル跡地での慰霊祭等でも演奏されたという。人生の悲しみを深く、静かに、時には激しく歌い上げるレクイエムである。

 私が勤めていた大谷高校の最寄り駅は京阪電車の東福寺駅。いま、秋のシーズンには紅葉の見物客でごった返すあの駅である。夏の夕方、たまに日のあるうちに帰ると、下りホームは西日を真正面にうけてたまったものではなかった。昭和30年代、まだ一般家庭にクーラーなど考えられない時代だった。帰っても私の部屋は西に面した屋根裏部屋、窓は西に面して一つだけ、立てば天井で頭を打つ部分もあったりして・・・、自然、足は上りホーム(京阪三条行き・当時三条が終点だった)に向いた。行き先は、きのう述べた喫茶店「るーちぇ」、冷房のきいた店内は心地よかった。

 褐色の木の椅子に赤いクッションは昨日述べた。コーヒーを注文すると、角のとれた三角形の小さい皿にアーモンドが2つつけられてきた。その白い皿にランプの絵がデザインされており、山への思いを誘った。普通の時間帯は順不同適当にリクエスト曲などが流れていたが、一日何回か、定時番組が組まれており、一ヶ月分のプログラムによる曲が流されていた。

 その定時番組のテーマ曲がこの「弦楽のためのアダージョ」だった。ほの暗い室内に、コーヒーの香り、曲の後半終わりに近く、徐々に盛り上がっていって、フォルテシモで完全休止、そして・・・、静かに冒頭の主題に戻るところが何ともいえずよかった。

 もちろんそのときは曲名も知らない。それを知ったのは、ずっと後になってから。放送で、あれこの曲は「るーちぇ」で聞いたあの曲だ。懐かしくなって、ある日そこを訪ねた。影も形もなくなっていた。そういえば何かの時に、「火事で焼けた」と聞いたことを思い出した。そんな年月が経っていた。

 いま、現代音楽の古典といわれるストラビンスキーの「春の祭典」、これの初演が1913年だという。もうすぐ初演100年が来るが、そのころはまだ50年弱。当時、マニアでもそのレコードを持っていた人がどれだけいたか。そんな時代である。このバーバー「弦楽のためのアダージョ」にいたっては、1938年の初演から20年ほどしか経っていない。国内盤のLPがあったかどうか。おそらく輸入盤だったのだろう。いまと違って目が出るほど高かった輸入盤である。その曲をテーマに使っていたこと自体、店のオーナーの高い見識と自負があってのことだったろう。そのときは暑さしのぎ一心だったが、いまとなってはそれが貴重な体験だったのだと改めて思う。

■補足

 左は1997年3月21日発売、トスカニーニ・ベスト・セレクションNO.26 バーバーのアダージョ〜アメリカ管弦楽曲集CDの解説書表紙である。特に但し書きはないが、LONG PLAY 33.3のレタリングがあるところを見ると、その昔のLPのジャケットをそのまま転載したものではないかと思われる。これはあくまで憶測の域を出ないが、このLPが、当時「ルーチェ」で聞いたレコードではなかったか、そんな思いがする。




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