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御代参街道を歩く・番外編2

旧湖南鉄道(近江鉄道・旧飛行場線廃線跡)を歩く-3

取 材 日:2016.09.27
      :2016.10.07
      :2016.10.12
初稿UP:2016.10.19
 
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4.東本町交差点から御園駅跡地まで-----専用路線の跡が跡地が見える

写真029.クルマがやって来た
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 地図007のB点あたり。線路跡を御園駅跡へ向かう。車がやってきた。少し行くと桜並木に入る。その手前に掲示があって、"この道路は自転車・歩行者専用道路です。自動車の通行はできません”とある。?、とするとさっきのクルマはどこから来たのかな。いわく不可解。  






写真030.彼岸花
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 道端には彼岸花がつづく。  


            写真031.バスの車庫

             近江鉄道バスが並ぶ。




写真032.バスの車庫
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 広い車庫である。小さくバンが走るのが国道421号。国道からこちらを見たところ。近江鉄道(株)八日市営業所とある。京都新聞の記事によると、----バス車庫は陸軍将校たちの集まる偕行社の建物跡や、憲兵隊の事務所もあり、戦争の記憶がよみがえってくるようだ。----とある。





写真033.飛び出すな
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 十字路、その前に何やら面倒くさい標識が。要するに自転車は飛び出すなということらしい。写真ではわかりにくいが、相手は片側二車線の広い通りだった。







地図008.東本町東交差点付近地図(マピオン地図に加筆)
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 東本町東交差点付近。交差点から真北へ向かう広い道が廃線跡と交わるところが上の「飛び出すな」の十字路。そこから始まる中央分離帯が写真に写っている。  









写真034.東本町東交差点
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 交差点を渡って右を見るとでかい建物が見える。広い道(片側2車線)と国道(片側1車線)との交差点(東本町東交差点)。でかい建物を交差点から見るとCROWNとあった。CROWNの横から広い通りを見たところ。何通りというのかは分からないが、真ん中のシルエットになっている標識の向こうが現在位置。廃線跡が横切っている勘定になる。  




写真035.十字路
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 十字路には必ずこういう安全対策。  


 写真036.児童公園
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 児童公園に沿って行く。  


 写真037.車止め
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 細い道路に出合うたびにこのような車止め。もう1枚。飛び出し坊やまで取り付けて賑やかなこと。  


写真038.並木のあと
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 太い木の根っこが並ぶ。先ほどの入り口のような並木だったのか。かなり古いもののようであるが、鉄道が走っていたときの並木だとは考えにくい。枝が邪魔になって走れないはず。とすれば廃線になったあとに植えたものか。  






写真039.視界が広がる
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 ずーと町中を歩いてきたが、ここへきて左側の視界が広がる。もう1枚。彼岸花が咲く先の3,4軒の家が、左の写真の右端に小さく見える。  







写真040.次の集落
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 次の集落が近づく。振り返れば夕暮れ近い空に太郎坊山がシルエットに立つ。(左の屋根近くの双耳峰・左ピークが太郎坊山。右のピークは箕作山)。  


 写真041.集落内を行く
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 次の集落内を行く。再び視界が狭くなる。







写真042.地蔵さん
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 御代参街道では地蔵さんは次々と現れたが、今回はこれが初めてだった。旧街道と廃線跡との違い。それにしてもふつうは道と直角方向を向いていることが多いのに、これは横面を道に見せている。不思議な建ち方。それとも廃線跡は道ではなかったのか。






5.御園駅跡地付近---- ヤードの跡地?が見える

写真043.御園駅跡
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 一旦停止のマークがあって、廃線跡もこれで終わり。十字路を渡った先にそれらしき道は続くが、これは単なる道路だろう。十字路の右奥の建物が野村沖会館、いわゆる自治会館らしい。正面の写真をどうぞ。
 ということでここが御園駅跡。開業当初は「飛行場前」駅だったらしいが、戦時体制になるに及んで、防諜のため「御園」駅とあらためられたとか。単線の終着駅、それも蒸機運転となれば転車台が必須になる。その痕跡でもと思ったが、見当もつかなかった。



写真044.延長線上
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 御園駅がどのあたりにあったのか。正確にはわからない。大体このあたりであっただろうというだけである。仮にホームの終端がこの十字路として、鉄道の終端駅のレールは、ハイそこで終わりというわけにはいかない。少なくも何10mかは余裕がいる。上でも述べたように、蒸気機関車運転となると転車台が必要になる。普通それは本線の延長線上に置かれることはない。側線へ引き出された続きに設定されるのが普通である。そこに扇状の土地がイメージされる。
 と書いても、大方の皆さんには何のことやらというところだろう。で、この写真をどうぞ。実はこの写真、鳥取県若桜鉄道の若桜駅構内にある転車台である(2014年10月の撮影)。その向こうに旧国鉄のC12という蒸気機関車が止まっている。おそらく飛行場線の機関車はこれよりもっと小型だっただろう(京都新聞の記事に紹介された当時の機関車。”「八日市市誌」より”とある)。しかし大型だろうと小型だろうと、蒸気機関車は運転台の構造上バック運転はできない。終点では必ず回れ右をしなければならない。そのための装置が転車台だった。
 写真の場合でいえば、C12をそろりそろりと緑色の鉄橋のような部分に乗せ、グイーっと180度回すのである。回す動力は大型の機関車の場合は、もちろん電力。小型の場合だと人間がだいたい2人ぐらいが力を合わせてということになる。上の写真のターンテーブルの左端に斜めの棒が出ている。後ろの車輪と重なってわかりにくくなっているが(車輪はモニュメントで転車台とは無関係)、この棒を握ってよいこりゃしょと押して、円形のふちを半周するわけ。イヤイヤ大変なものでした。  




地図009.御園駅構内想定図
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 上の写真は飛行場線廃線跡・御園駅の延長線上の道路である。十字路の左奥にバリュージュ・Kという集合住宅が道路に対して斜めに建っている。その内側が駐車場。航空写真で見るとその扇型が地方鉄道の終着駅ヤードとして何とも手ごろな形をしている。
 左の図はその土地のイメージから、私が勝手にでっち上げた御園駅の構内図である。実際問題としては、当時の列車の長さが何mだったか。また機関車自体の長さがどうだったか。そういったことが全く不明である。およその見当で線を引いただけである。  



写真045.延長線道路
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 延長線道路である。見たところ大した距離でもなさそう。とりあえず突き当りまで行くこととする。夕陽の中に学校帰りの子供。何とものどかな風景だった。   







写真046.広告塔
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 延長線道路終点からの撮影。別に洋服の青山に用事があったわけではない。まったく予備知識のない地域のレポートである。具体的に歩いたコースを地図の上で復習しなければならない。そのために、現場でメモをしておくのがベストだろうが、私はそれが面倒くさい。デジタルになってからはついメモ代わりに一枚ということになる。  




写真047.タイヤ館
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 青山の写真を撮って国道へ出たらタイヤ館の横へ出た。その敷地に接して地蔵堂があり、「阿迦喜禮地蔵尊」という由緒ありそうな石標までたっている。「あかぎれ」地蔵尊と読めそうだが。インターネットで検索したが反応なし。  





写真048.新しい橋
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 そこの信号が「札ノ辻東」、新しい橋がかかっていて、その向こうに青山がある。これだけ念を押しておけば、歩いたコースはしっかり確認できるはず。 写真拡大  


 写真049.札ノ辻食堂

 地名を直接店名にした食堂。こういうのは地名を知るのにありがたい。  


写真050.ローソン
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 コンビニがある。位置のアリバイは、その手前の斜めの道路。横断歩道が、道路に対して妙にねじれている。国道に対してトの字型に交差するT字路である。  







補遺:飛行第3聯隊関係碑・神社-----聯隊正門跡・冲原神社など

写真051.飛行第3聯隊正門跡
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 ローソンの駐車場の片隅、国道に面して「飛行第3聯隊正門跡」という碑が立っている。背面には「昭和62年3月 野村沖町建之」とある。古いものではない。「第」の字をしっかりした字にしてほしかった。手書きではこのように略する場合も多々あるが、碑としてはやっぱりね・・・。飛行隊というのだから空をバックに撮ってみたが・・・・。




写真052.札ノ辻交差点
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 正門跡碑から50mほど行くと「札ノ辻交差点」。ここを右へ進むと旧御園駅跡へ出る。地図009を見てもらうと分かるように、御園駅で降りた人は、100m足らず今の国道の方へ歩き、左折してすぐに正門前に立っていたということになる。交差点の向こうは滋賀日産のクルマ屋さん。





写真053.陸軍飛行第三聯隊跡碑
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 ニッサンと右隣りとの間に、「陸軍飛行第三聯隊跡」碑が立つ。身長170cmの背丈を優に超す重量感のある碑である。全体に黒っぽい岩で、その上周囲が白い建物なので、余計に黒く見え、ちょっと目には字が読めない。これはプラス1の露出補正でやっとというところ。
 さきほどのローソンの駐車場が正門跡で、ここが聯隊跡だという。正門跡はおよそその位置が特定できるが、聯隊跡といわれてもどこからどこまでがその範囲なのか。碑の場所が場所だけに表から撮るのが精いっぱいで、裏へは回らなかったが、地図でも埋め込んであったのだろうか。
 地図埋め込みの有無は別にして、地図001からも読めるように、飛行場跡の東側の地域、おそらく今の村田製作所あたりまでが聯隊の跡地だったのではないか。でかい碑だけどちょっと入り込んでいて気がつきにくい。沖野バス停のすぐ横である。




地図010.跡碑・冲原神社関連地図(マピオン地図に加筆)
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 関連サイトを読みゆくうちに「冲原神社」という飛行場と色濃く関連している神社が存在することが分かってきた。跡碑は国道421号札ノ辻交差点を挟んで2か所、図のような位置に存在する。地図のほぼ中央を斜めに走る直線道路が、地図001地図003に見るように飛行場の東端であったようである。冲原神社は飛行場に接するように建つ。神社といえば鎮守の森が深く遠くからでもそれと目につくものだが、この神社にはそのイメージはない。写真の道路がもと飛行場の東端だったと想定される。  




写真054.冲原神社
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 冲原神社、でかい台座の上にどーんと灯籠が鎮座する。それに刻まれた文字、右から「天壌無窮」とある。「てんじょうむきゅう」、この言葉に接したのは私の歴史でいえば小学校の6年の夏まで。以後、聞いたことはない。それが80歳を過ぎた今、とにもかくにも読める。日本書紀に出てくる言葉で、天壌(あめつち)窮(きわ)まり無し、天地は永遠に極まりなく続くことを意味するという。いい言葉である。それを一部の人間があの戦争に利用した。
 オキ原の「冲」は「ニスイ」である。そういえば昔、地学の教科書に「冲積平野」とあった。何か特別な意味を持つのかと身構えたが、知らぬ間に沖積平野に変わっていた。「冲」は「沖」の異体字だとか。何とまあ面倒くさいことを。   




写真055.冲原神社
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 ところでこの冲原神社、境内の由来によれば、「大正10年、飛行第3聯隊が八日市に創設され、時の大隊長後藤元治が敬神の念とくに厚く・・・・大正14年衛戌神社を創祀された。のち昭和2年に「冲原神社」と改名・・・・と。また、戦後廃墟化し昔日の姿はなかったが、昭和34年町制誕生に伴い・・・とも。





写真056.慰霊碑
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 前出の由来に、”境内に陸軍航空部隊の戦没殉職の士の慰霊碑が建立されている”という。探したが見つからない。最後に横長の真っ黒い石碑、あれはなんだろうと近寄ってみたが、字が読めない。目の前まで近寄ってやっと、「慰霊碑」と読めた。黒い地に黒い文字。さらに表面が反射する。読みにくいことおびただしい。こういう碑の類はまず無反射、地が黒なら字は白に。もっとも由来などは白字だが、表面が反射するから読みにくい。画像処理ソフトでひねくり回したが、この程度で精いっぱい。
 ところでこの慰霊碑に「由来記」がある。ものすごい文章だけど、それはおくとして、本文の最後から2行目に、”在天の英霊冀くは”・・・とある。この「冀」の字。送り仮名から、「ねがわくは」かなと思ったが、こんな字見たことないぞ。とりえずホコリをかぶった漢和辞典を引っ張り出した。「北カンムリ」から入ればいいのだろうと考えたが、ないんだなー、北カンムリが。つぎは「田」、「異」などを、天眼鏡片手にひねくり回したが、ナイ。
 知らん顔して通り抜ける手もあるが、・・・最後はこれかなと、「北の下に異・・・」の字と書こうとしたが、それよりも速くまさに電光石火、検索結果が出ていた。「こいねがわくば」だという。なるほどなー、参ったマイッタ。80爺にはまさに火打石の光そのものでした。冀くはこんな面倒な字はお使いにならないことを。  




写真057.境内の神木
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 これからですよ、大きくなるのは。いえいえ、軍国主義を復活させようなんて魂胆ではありません。ただただ、木の自然の成長を願うのみで。   





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