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御代参街道を歩く・番外編2

旧湖南鉄道(近江鉄道・旧飛行場線廃線跡)を歩く-1

取 材 日:2016.09.27
      :2016.10.07
      :2016.10.12
初稿UP:2016.10.19
 
目 次 へ


1.前口上

 本編を「御代参街道を歩く・番外編」としたが、地域が偶然一致したというだけで、基本的には何の関係もない。あるとすれば、近江鉄道飛行場線が旧御代参街道と、現在の東近江市栄町7丁目付近で交差していたというたった一つの事実だけである。
 かつて八日市に飛行場があったということ、その飛行場まで近江鉄道が通じていたということ。以前からただ漠然とではあるが知ってはいた。しかし詳しいことは何一つ知ってはいなかった。それを具体的なものとして教えてくれたのが、2016年9月22日付の京都新聞に掲載された「夢幻軌道を行く8・近江鉄道八日市線」という記事だった。
 それによると、----新八日市〜飛行場までの2.8Kmは1930(昭和5)年に開通し、1948(昭和23)年に休止、1964(昭和39)年に正式に廃止となった。--(略)--運営会社も、湖南鉄道から八日市鉄道、近江鉄道へと変遷した。同線のうち近江八幡〜八日市間は現存する。線路跡の大半は道路などとして歩ける。----とある。
 これは記事のリード文である。記事にはさらに詳しい内容に、写真・地図などが添えられていた。

 下の地図は、その記事に添えられていた地図を頼りに実際に歩いてみて、国土地理院Web地図に書き込んだものである。下のボタンにマウスをのせると廃線跡が表示される。「飛行場跡」はあとで述べる昭和25年応急修正の地形図にある「飛行場跡」をもとに、およそこのあたりであっただろうと考えられるエリアを書き込んだものである。100%正確というものではない。



地図001.近江鉄道空飛行場線関係エリア地図 (国土地理院Web地図)
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このボタンへマウスONで廃線跡を表示します。

2.年 表

 と、ここまでは話が進んだが、新聞記事の”運営会社も、湖南鉄道から八日市鉄道、近江鉄道へと変遷した”という文章。とくに「湖南鉄道」なる鉄道、いままで見たことも聞いたこともない。とにかくこれは一から勉強だと、ズボラな方法だけど「湖南鉄道」で検索してみた。と、なんとまあいかに世の中知らないことばかりであるか。自分自身に驚いた。以下、いくつかのサイトを参考に私が年表風にまとめたものである。素人のマゴ引きもいいところ。間違いは必ずあるはず。どうかお許しを。
 下記年表の作成に当たっては次のサイトを参考にさせていただいた。
 wikipedia・近江鉄道八日市線
 湖南鉄道誕生秘話
 
旧湖南鉄道(東近江市観光ボランティア協会八日市支部)
 wikipedia・荻田常三郎



年   表

湖南鉄道関係

八日市飛行場関係

◆1911年(明治44年)5月、八幡町(現在の近江八幡市)〜八日市町間に湖南鉄道敷設(軌間762mm)を出願。
◇そのあと少し遅れて近江鉄道(1900(明治33)年に彦根 - 貴生川間が開通していた)が同じルートの路線を出願。鉄道院、湖南鉄道に対し免許を下付。
◆湖南鉄道は会社を設立したものの、国鉄や近江鉄道との連絡輸送の必要から軌間を1067mmに変更したため、資金不足に陥る。
◆湖南鉄道は地元五個荘出身の藤井善助を社長に迎え出資を受ける。
◆1913(大正2)年12月、湖南鉄道、新八幡駅(現在の近江八幡駅) 〜八日市口駅(現在の新八日市駅)間で開業。


地図002.明治25年測量、大正5年鉄道補正、八日市付近地形図(日本図誌大系・近畿、朝倉書店)
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 明治25年の測量だが、大正5年に鉄道の補正が行われている。鉄道が方々で新設されていたのだろう。左の地図は湖南鉄道が開業して3年目ぐらいのものだと考えらえる。中央を南北に走るのが近江鉄道、八日市付近から西へ、いまの近江八幡に向かって走るのが湖南鉄道。どちらも私鉄のはずなのに、近江鉄道はれっきとした鉄道線、湖南鉄道はいわゆる私鉄の線表示になっている。
 駅名表示を見ると、八日市が「ようかいち」、このころは新仮名づかいはないはずだが。八日市口が「やうかいちぐち」、いまの太郎坊宮前が「たろぼう」。これは「たろうぼう」のはずだが、いまでも滋賀県地元生まれの人は「たろぼうさん」と発音するから、それに従ったのかもしれない。
 そして、肝心の鉄道名は「湖南横関鉄道」とある。この名称で検索したが、当該サイトはありません。東横関、西横関が国道8号沿いにある。鉄道でいえばJR琵琶湖線(東海道本線)篠原駅に近い。まさかこんなところまで持って来ようとしたわけではないだろうし。意味不明。
 最後に新八幡駅。現在の近江鉄道八日市線はJR近江八幡駅へ乗り入れているが、当時は道路を挟んだ手前まで。駅名は「しんはちまん」とある。東海道線も「八幡駅」、北方に見える市街地にも「八幡町」とある。








◆1924(大正13)年7月 鉄道免許状下付(蒲生郡中野村-神崎郡山上村間)
◆1927(昭和2)年5月 琵琶湖鉄道汽船が湖南鉄道を合併。
◆1929(昭和4)年4月 琵琶湖鉄道汽船、京阪電気鉄道に合併される。このとき湖南鉄道だけは藤井善助が設立した八日市鉄道に譲渡される。
◆1930(昭和5)年10月 八日市鉄道 新八日市駅 - 飛行場駅(のちの御園駅)間が開業。
◆1935(昭和10)年6月 鉄道免許失効(神崎郡御園村沖野ヶ原 - 同郡山上村間)
◆1944(昭和19)年3月 近江鉄道が八日市鉄道を合併。八日市線となる。
◆1946(昭和21)年1月 新八日市駅 - 八日市駅間が開業。近江八幡駅 - 新八日市駅間電化。8月21日 新八日市駅 - 八日市駅間電化。
◆1948(昭和23)年8月 新八日市駅 - 御園駅間休止。
◆1964(昭和39)年9月25日 新八日市駅 - 御園駅間廃止。
◆余談:東海道新幹線の開業が同年10月1日。5日違いの廃止と開業。運命の皮肉である。


地図003.昭和25年応急修正、八日市付近地形図(日本図誌大系・近畿、朝倉書店)
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 八日市と新八日市の間はつながっていない。新八日市〜御園間のいわゆる飛行場線は記載されている。しかし昭和23年に休止になっているから、おそらく休止中の路線が記載されたのであろう。飛行場線の駅名。「ようかいちなかの」、「みその」、この2駅はすぐにわかる。問題は「かわいでら」。京都新聞の地図には「川合寺」とあった。付近にそういう寺があるのかと探したが見つからない。この地図を見ていて、駅跡から1.5Kmほど北西、愛知川左岸に河合寺という集落があるのに気がついた。念のためと現在の地図を見ると「川合寺」とある。1.5Kmも離れたところ、それも特に目立った存在でもない一集落の名を駅名に使うか。どうも意味が分からない。
 蛇足だけれども、京都駅から北へ向かう山陰線。次の駅が「丹波口」である。子供のころ京都市内に何で「丹波」なのかと不思議だった。これはそこが丹波への出発点(出口)で丹波口。これはわかる。同じ例が烏丸通りにある「鞍馬口」。こういうのはわかるが、「川合寺」はその例ではないだろう。




地図004.昭和45年編集、八日市付近地形図(日本図誌大系・近畿、朝倉書店)
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 新八日市と八日市間がつながっている。しかし、いわゆる飛行場線は消えている。鉄道線路に関しては現在の状態と変わらない。両駅間ががつながったのが昭和21年1月。飛行場線の休止が同23年8月というから、両者が営業運転していた期間は2年半ほどでしかない。しかし、廃止されたのは昭和39年9月だから両者合わせて線路が存在したのは8年余りということになる。(実際の線路撤去がいつだったかが分からないから何とも言えないが)
























◆1913(大正2)年9月
 荻田常三郎(滋賀県愛知郡八木荘村(現在の愛荘町)出身)、パリ郊外のヴィラークプレー飛行場にある航空学校に入学。
◆1914(大正3)年6月
 大阪で開催された帝国飛行協会(現日本航空協会)主催の第1回飛行競技会に参加。常三郎が高度2003mを記録し1位になる。
◆1914(大正3)年9月
 京都市の深草練兵場から八木荘村までを往復する飛行計画を立て、緊急時の不時着場として八日市町の沖野ヶ原を選定。
◆1914(大正3)年12月
 荻田常三郎、帝国飛行協会員となる。
◆1915(大正4)年1月
 荻田常三郎、大阪・東京間の飛行を計画。そのための飛行訓練中、1月3日京都深草錬兵場から離陸直後、エンジンの故障により墜落、同乗の大橋繁治と共に死去。
 これを機に「八日市飛行場設立委員会」が組織され、日本の民間飛行場の草分け「八日市飛行場」が完成。「翦風飛行学校」設立。
◆1917(大正6)年11月
 滋賀県で陸軍の特別大演習が行なわれ、沖野ヶ原飛行場が使用される。
◆1920(大正9)年12月
 陸軍「航空第3大隊」結成。八日市へ配属決定。
◆1922(大正11)年1月
 航空第3大隊の開隊式。
◆1925(大正14)衛戌神社を創祀
◆1927(昭和2) 衛戌神社を冲原神社と改名。









◆1945(昭和20)年8月
 終戦。飛行場は米軍に引き渡され、飛行機は焼却処分された。




3.荻田常三郎

 この一文を書くきっかけとなったのは、上にも触れたように京都新聞に掲載された”夢幻軌道を歩く・近江鉄道八日市線”の記事だった。その本文は次のように始まっている。
 ----かつて滋賀県中部の東近江市に陸軍八日市飛行場があり、飛行場への人や貨物を運ぶための鉄道もあった。終戦を迎え、飛行場の撤去と同時に姿を消した。廃線跡を歩きながら、悲運の鉄道に思いを巡らせた。----
 この文章から私は単純に、鉄道も飛行場も戦争という不条理に引きずり回された悲運の主人公をイメージした。結果的にそういうことで終わってはいる。しかし、出発点は明らかに違う。どちらも大正期、1910年代、時期を同じくしているが両者の意図に接点はない。特に飛行場に関しては荻田常三郎の存在が大きい。

 以下、「Wikipedia・荻田常三郎」をもとに八田がまとめなおしたものである。
 荻田常三郎(おぎたつねさぶろう)、1885(明治18)年、滋賀県愛知郡八木荘村(現愛知郡愛荘町島川)に生まれる。滋賀県初の飛行操縦士、日本の民間飛行家の先駆者。
 同志社中学を中退後、陸軍に志願。陸軍在職中に飛行機に興味を持ち、除隊後、1913(大正2)フランスに留学し、パリ郊外のヴィラークプレー飛行場にある航空学校に入学。入学後5か月で万国飛行1級免許を取得し、大阪で開催される第1回飛行競技会(帝国飛行協会[現日本航空協会]主催)に参加するため、当時フランスの最新機モラーヌ・ソルニエーG型機を購入し帰国。
 1914(大正3)年6月、大阪での競技会で、常三郎が高度2003mを記録し1位になる。---ライト兄弟の初飛行1903年12月の11年後のことである。---
 1914(大正3)年9月、京都市の深草練兵場から八木荘村までを往復する飛行計画を立て、緊急時の不時着場として八日市町の沖野ヶ原を選定した。常三郎は神崎郡八日市町長に「故郷の人達にも飛行機を見せたい」との思いを伝え、町長は同年10月急ぎ沖野ヶ原を整備し常三郎の思いは実現した。
 その3か月半後の1915年1月3日、深草練兵場から離陸した後に荻田は墜落死した。訃報を聞いた八日市町は飛行場事業を継続し、同年4月には飛行場の造成を開始した。同年6月に飛行場は完成した。
 こうして最初は戦争とは直接関係がなかった八日市飛行場も、1922(大正9)年1月、航空第3大隊が置かれることで戦争へつながることになる。

 余談:荻田常三郎の愛機を「翦風号」と称したという。御代参街道を歩いた時、街道沿いに昔の映画館風の建物があり、軒下に”100年前沖原で翦風号が初飛行”として2分の1の模型(前部のみ)が展示されていた。そのときは荻田常三郎の名前を知らなかった。ただ単に昔の飛行機として見ただけだった。

 余談をもう1つ:深草練兵場
 荻田常三郎は京都市の深草練兵場から離陸した後墜落死したという。大正も初期の話だから私は全く知らない。しかし「深草練兵場」という名称に驚いた。実は子供のころ市電に乗ってこのそばを通った記憶がある。私は京都市伏見区の生まれだが、京都駅から京阪電車の中書島駅まで市電が走っていた。子供のころはその市電に乗って「京都へ行く」のが一大行事だった。
 今その市電の路線は国道24号になっている。南から北へ名神高速道路の下を過ぎると東側、いま伏見区西浦町となっている空間が練兵場だった。いつごろだったか記憶がないが、停留所の名前が「竹田久保町」に変わった。その前の名称は覚えていないが、たぶん「練兵場」ではなかったか。「飛行場前」が「御園」に変わったのと同じ筋書きである。
 と書いて来て、妙なことに気がついた。練兵場の東側、京阪電車沿いの道路には、戦後70年を過ぎていまだに「師団街道」という名が残っている。これまた不思議、戦争中はどう呼んでいたのだろう。
 荻田の飛行機は練兵場近くの稲荷山に落ちたという。その稲荷山、有名な鳥居の山道は、いま外国人旅行者で連日押すな押すなの大混雑だという。嗚呼・・・・。


3.湖南鉄道

 一方、湖南鉄道は1913(大正2)年12月、新八幡駅(現在の近江八幡駅) 〜八日市口駅(現在の新八日市駅)間で開業する。奇しくも荻田常三郎のフランス留学と時を同じうするが、もちろんここに接点はない。
 微妙に絡んでくるのが1924(大正13)年7月の蒲生郡中野村-神崎郡山上村間鉄道免許状下付である。蒲生郡中野村、地図で見ると八日市町(当時)の南西方、八日市口を示すことは言うまでもない。そこから神崎郡山上村(現在の東近江市山上町)、この時点ではまだ永源寺までの路線延長を目指したものであったはず。これが八日市飛行場に陸軍航空第3大隊が置かれる2年後である。そして6年後、1930(昭和5)年10月 新八日市駅 - 飛行場駅(のちの御園駅)間が開業するに及んで、鉄道と飛行場のつながりは決定的になる。そして敗戦。鉄道は飛行場と運命を共にする。

4.最後にもう1つ

 京都新聞には、「近江鉄道八日市線」として紹介され、「飛行場線」という言葉は使われてはいない。これは私が便宜上使った言葉である。近江鉄道八日市線はいまも存在している路線で、それと混同すると話がややこしくなるからである。と同時に、私自身の感覚として、「八日市線」という名称がどうもしっくりこない。常づねこれは「近江八幡線」というべきだと考えている。八日市線という名称を使えば、貴生川から来るのも彦根から来るのも、すべて八日市線ではないのか。本線の八日市から近江八幡へ向かうのだから、これは「近江八幡線」の方が分かりやすい。これが今までの私の考えだった。
 ところが今回いろいろと学習して、「八日市線」という名称は湖南鉄道の一時期の便宜的な呼称だったことが分かってきた。本来この線は、最終的には湖南鉄道永源寺線と呼ばれるはずだった。それが不幸にも戦争という魔物に遭遇し、こと半ばで終わらなければならなかった。これが今の路線が「八日市線」と呼ばれている最大の理由だったのではないっか、そんな気がしてくるのである。  



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