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野洲川物語

南北両流跡探訪

南流跡・2 旧川田橋から旧笠原橋まで


初稿UP:2012.06.01
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1.川田大橋付近 GoogleMap

 写真01・現在の川田大橋 2012年5月撮影
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 現在の野洲川放水路川田大橋付近。県道151号が通っている。一つ上流の近江富士大橋は両岸とも野洲市だが、この橋は逆に両岸とも守山市である。しかし、日常的には対岸は野洲市竹生で通用する。放水路左岸河川敷がグランドゴルフ場になっており、連日人影を見ない日はない。



 地図01・市三宅・竹生付近 国土地理院1/50000地形図「近江八幡」
(左)工事開始前(昭和43年3月30日発行)
(中)工事終了後(平成9年11月1日発行)
(右)両者を重ね合わせたもの

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 旧南流川田橋と新放水路川田大橋は、この改修工事で新旧2橋が同じ場所に位置する唯一ものである。
 左・工事開始前の地図で竹生〜喜多の間で南流にかかっている橋が旧川田橋である。まん中の赤い地図には川田大橋の字が見える。いうまでもなくこれが現在の橋。両者を重ねてみるといまの川田大橋の中程にかつての川田橋がかかっていたことが分かる。いま川田大橋は三上山撮影ポイントとして名高い。冬至前後の日の出どきは大勢の人が集まる。しかし、旧川田橋から三上山を撮った記憶はない。樹木が多くて見えなかったのである。

 ここで、地図1A、いちばん左の地図にこだわってみる。野洲川左岸堤防上の道が、喜多・川田の間で旧川田橋を通る道とT字路をなしている。問題はそのT字路から川田橋までの間の道の状態である。この道がどういう状態だったのかということである。
 北流との間にある竹生集落側には堤防が記載されてない。これも驚きの一つだが、実際に現場を見てみると、竹生集落自体の標高が周囲の堤防と同じぐらいの高さであり、集落自体が堤防の働きをしていたことが分かる。それはいい。しかし分からないのが左岸である。
 先ほども書いたが左岸堤防が突き当たるT字路。田圃の中の道路ではない。堤防上の道路である。いま、川田大橋畔川田町喜多の交差点から見る旧南流跡堤防は見上げるように高い。当然当時のT字路もその高さだったはずである。旧川田橋もその高さだったはずだし、T字路から橋までも同じ高さだと考えざるをえない。とするとこれはダムということになる。いまの野洲川放水路よりも広い川幅のところで、流れと直角に堤防を築き、流れのところだけが橋になっている。地図を見る限りそんな状況が見えてくる。


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 実はこの地図、前項「川田の一本松」のところで見てもらったものである。現在の放水路をベースにしたものであるが、川田大橋を挟んで「戸田堤」の文字が見える。蛇行する旧堤防の川田大橋畔残留跡地をショートカットするようにつながれている。旧川田橋付近はこのように二重堤防になっており、橋はそこから始まり、外側の堤防から橋まで道路としての堤防でつながれていたのだろう。



 写真02・残留堤防上道路と県道のクロス 2012年5月撮影
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 川田大橋畔残留堤防上の道と県道151号とのクロス。地図01Aで川田大橋から道とT字型に交わっているところである。画面の軽トラは川田町喜多交差点から川田大橋へと坂を登っていくところ。現在の交差点は堤防の高さよりかなり低いが、当時はおそらく同じ高さだったはずだ。
 堤防上の道は県道を越えて下流側へつながっている。地図01Aでは上流側がしっかりした道、下流側はあいまいになっているが、現在は地図01Bのように下流側もしっかりした道になっている。

 写真03・堤防に突き当たる 2012年5月撮影
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 県道を越えて進むと道は下りになって、放水路の堤防に突き当たる。旧堤防はそのまま進んで、放水路の河川敷側へ出ていっていたようである。いまの道はここでカーブして新堤防の外側を進む。一見するとこの道が旧堤防の跡に見えるが、これはあとで造られた道である。


 写真04・新堤防上道路 2012年5月撮影
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 改めて新堤防上の道路へ上る。車両進入禁止のゲートがあって、旧堤防はこのあたりを通って、河川敷側(画面右側)へ出ていたと推定できる。右へ下っていく道はグランドゴルフ場への進入路である。遠景の山は比良山。今年は5月になってもびわ湖バレイの雪が残っていた。


 写真05・上流側を振り返る 2012年5月撮影
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 ゲートを越えて少し進んだところから上流側を振り返る。三上山の右に見える森が旧南流跡地。現在はシラサギやアオサギの営巣地になっている。
 右奥から出てきたのが旧堤防上の道路。高さはもっと高かったはず。これがそのまま進んでゲートあたりを経て左の河川敷側へ出ていた。カメラの位置は、旧野洲川南流でいえば左岸堤防の外側に当たる場所である。


2.新堤防左岸を下る GoogleMap

 写真06・田中コンクリート工場 2012年5月撮影
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 道は一直線に下る。左に田中コンクリートの工場が近づいてくる。堤防の下、黒い車が走っている道も田中コンクリートまで一直線。





 写真07・旧堤防が近づく 2012年5月撮影
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 田中コンクリート工場が近づき、その右に旧堤防の森が近づいてくる。このあたりでも、旧堤防はまだ画面右の河川敷側であって、放水路に吸収されたままで、何の痕跡もとどめていない。





 写真08・三上山を振り返る 2012年5月撮影
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 川田大橋畔のゲートから600mほどの地点である。もう一つゲートがあって三上山を振り返る。道が不思議なほど一直線に伸びている。「通行止め」の内側に何で車が止まっているのか事情が分からなかったが、後で考えると除草作業用の車だったらしい。



 写真09・南流分岐近づく 2012年5月撮影
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 放水路の河川敷側を通っていた旧堤防左岸がここでようやく元へもでってくる。新堤防とクロスして左外へ出ていく。新堤防よりは高く道が坂を上っていく。



3.南流堤防跡地 GoogleMap

 写真10・旧堤防分離 2012年5月撮影
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 旧堤防分離と書いたが、これから進もうとするのは旧堤防だから、本来は新堤防分離としなければならないところである。川田大橋からここまでは旧堤防が消滅していたから便宜上新堤防を歩いてきたわけで。いちばんいいのは「旧堤防へ復帰」かな。




 写真11・旧堤防へ上がる 2012年5月撮影
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 旧堤防へ上がる。道は舗装されていて歩きやすい。最近有名になってきた笠原の桜などテッペンのわずかしか見えない。遠望がきいて気持ちが。昔はこの両側が森で、一切視界はきかなかった。
 右の石は、このように大量に山積みされている。いい加減に置いてあるわけでなく、何か意味があるはずだが素人には分からない。



 写真12・新堤防を振り返る 2012年5月撮影
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旧堤防上から新堤防を振り返ったところ。竹薮のふちにチラッと見えるのが先ほどの除草作業業者の車。新堤防上を走っている自転車を見ても高さが分かる。遠くの橋が川田大橋。橋の向こう、旧右岸の堤防林がずーとつながっていたが、竹生付近で宅地開発が進み、とぎれとぎれになっている。


 写真13・石置き場 2012年5月撮影
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 石置き場を通して見下ろす新堤防上道路。フェンスをスケールにしてみると旧堤防の高さが分かる。遠くの橋は新庄大橋。中央やや左寄り、遠くにメタセコイヤのテッペンが見える。これがクリスマスツリーで有名な中洲小学校に立つ。




 写真14・笠原の桜並木1 2012年5月撮影
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 笠原の桜並木。田中コンクリート工場を過ぎて、新堤防から旧堤防跡を分岐したあたりから新庄大橋畔の公園まで、旧南流堤防跡地に植えられている。最近とみに有名になり桜の時期は車が数珠繋ぎになる。これは旧南流堤防の外から見たもので、いわゆる堤防の中段に植えられているのが分かる。


 写真15・笠原の桜並木2 2012年5月撮影
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 よく似た写真だがこちらは旧堤防の上から。旧南流左岸堤防跡、上流から下流を見たところ。左が外側で右が旧南流の河川敷ということになる。
 自転車の人物のすぐ後あたりで、左(桜並木側)へ下りる階段があって、その下に次の水害記念碑が建っている。


 写真16・水害記念碑1 2012年5月撮影
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 自然石にただ「水害記念碑」と刻まれただけで、表から見る限りもう一つ意味が読みとれない。裏へ回ってみると漢字ばかりの文章が刻まれているが、年月を経たためかこれもはっきりは読みとれない。もっとも仮に読みとり可能だったとしても、私の能力でどこまで読み下せるかは疑問だが。
 そばにもう一つ案内板が立っていて、それに解説がある。薄汚れていて、「もう少し手入れせいや」といいたくなる状態だが(かく申す私がやればいいのだろうけど、なかなかね。イヤイヤぼやくばかりで申し訳ない)意味は読める。
 それによると、
 ・・・・ここ笠原は過去何度となく堤防が決壊していることを述べたあと、この記念碑が大正2年の堤防決壊場所だという。また新放水路建設について述べ、昭和28年9月の台風13号による大災害が契機になったという。・・・・


 写真17・水害記念碑2 2012年5月撮影
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 昭和28年の台風、滋賀県だけではなく京都山城地区の被害も大きかった。そのとき私は大学1年生だった。京都にいたが、稲荷山へ登ると小椋池を初めとして、京都府南部が見渡す限りの海と化していた。忘れられない記憶である。
 このあたり堤防は三段積みになっていて、カメラの位置が中1段。記念碑の位置が中2段という勘定である。



 写真18・離れて戻り1回目 2012年5月撮影
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 田中コンクリートをあとにしてから、一直線の新堤防に対して、旧堤防はついたり離れたりを2度繰り返す。右の建物が田中コンクリート。一度離れて元に戻ってきたところである。その間の空間が石置き場になっている。



 写真19・2回目の離れ 2012年5月撮影
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 ほぼ同じ場所から下流側を見たところ。再び道は新放水路堤防から離れていく。右の方にブロンズ像のようなものが見えるが、実はこれ人間である。失礼なことを言って申し訳ない。草刈り作業中、大変な仕事である。直線道路が新放水路堤防上の道路。遠くの橋が新庄大橋。外側には桜並木が延々と続く。

 写真20・トンビ舞う 2012年5月撮影
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 弓状に離れた道路をもう一度新放水路側へ戻ってきたところ。三上山側(上流側)を見るとトンビが賑やかに舞っている。 意外と近づいてきたりする。まさか攻撃を仕掛けてくるとは思えないが、何となく普通ではない。



 写真21・草刈機 2012年5月撮影
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 と、桜並木の影から草刈機が現れた。正式名称は分からないが、草刈りトラクターとでも言えばいいのか。堤防の斜面を斜めに機体を傾かせて進んでくる。初めて見る作業だった。近くまで来たとき、おっちゃん(といっても、私よりははるかに若いが)が機械を止めて話しかけてきた。「あいつらよう知っとる。これで作業すると必ず寄ってきよる。草刈ったあとへ飛んで出る虫を狙ろとるねや」。なるほど、さっきからのトンビはそれだったのか。
 それはいいとして、こういう機械を見るとすぐに心配になる。「最大何度ぐらいまで作業できるの?」ときくと「そやなー、35度ぐらいかなー。それ以上になるとひっくり返りはしないけど、滑るわなー」。なるほど滑っては商売にはならんわなー。ワシはこれで何人分の仕事してるやろ。オッチャンの仕事の様子をもう1枚。どれもこれも、皆さん仕事は大変です。


 写真22・最後の分かれ 2012年5月撮影
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 離れてくっつき、離れてくっつき、そんな夫婦がときどきいるけれども、これが旧南流左岸堤防と新放水路堤防との最後の別れである。これを最後として両堤防が再び出会うことはない。右側の旧南流河川敷(旧堤防と新放水路左岸堤防との間)は公園になっている。



4.旧笠原橋跡地 GoogleMap

 写真23・旧笠原橋跡に出会う 2012年5月撮影
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 公園が近づいてきて、ゲートにぶつかる。直角に交わる道に出会う。その道がかつて南流にかかっていた笠原橋のあとだと推定される。
 この写真で言うと道をふさぐ緑のゲートの左、白い柵がつながっているが、これが笠原の集落から上ってきた道。そこから右へ、グランド様の空き地の向こうを通る(一段低く、写真では見えない)のが旧笠原橋跡の道。



 写真24・新放水路堤防から旧堤防を見る 2012年5月撮影

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 一旦、新放水路堤防へ出て、というより堤防へ下りてという印象の方が強い。堤防へ上るなら分かるが、「堤防へ下りて」はなかろうと思われるだろうが、そうじゃない、いま歩いてきた旧堤防の方がはるかに高く、新堤防上に立つと下りてきたという感覚にになる。放水路の堤防もそこそこの高さを持っているはずだが、その堤防上の道路がいちばん低いのである。左、遠くに見えるのが川田大橋(距離約1.1Km)。

 写真25・旧笠原橋跡 2012年5月撮影
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 次項で詳述するが、旧笠原橋は放水路左岸堤防を越えて現在の河川敷側へ若干つきだしていたようである。この写真は現存する橋跡いっぱいの所から左岸を見たところであるが、かつての橋の長さよりは短いはずである。


 写真26・旧笠原橋西詰 2012年5月撮影
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 旧笠原橋跡を進んで左岸との十字路から笠原集落を見たところ。集落にたどりつくまでずっと下りである。
 旧笠原橋については次項で詳述する。







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