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野洲川物語

南北両流跡探訪

南流跡・1 近江富士大橋から旧川田橋まで


初稿UP:2012.05.09
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1.概観

左 地図01A・国土地理院1/50000地形図(昭和43年3月30日発行)
右 地図01B・国土地理院1/50000地形図(平成6年9月1日発行)
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 地図01A、野洲川放水路工事開始前の様子である。地図の上中央に竹生(たけじょう)の集落があって、そこを通る道に橋が2つかかっている。東側の北流にかかるのが竹生橋、西側の南流にかかるのが川田橋である。ずっと上流(南・地図でいうと下端)に中山道「野洲川橋」がかかっている。(地図01Aでは「野洲橋」となっている)。その川幅を基準とすれば市三宅の対岸あたりまではややふくらみかげん、そこで一旦狭くなって、川田橋近くではぐっと広くなる。
写真拡大  これらの2枚の地図を、幹線道路等大きく変化していないと考えられる場所を合わせて重ね合わすと、かつての川田橋の位置が現在の放水路川田大橋の位置に一致する。余談だが、新旧2つの橋の位置が一致するのは、この川田橋だけである。川そのものを付け替えたのだから、橋の位置が変化するのが当たり前、この川田橋の場合は例外というべきだろう。
 旧川田橋の南西側のふくらみは、現在も同じ位置に残っている。



1.近江大橋付近 GoogleMap

 写真01・現在の近江富士大橋 2012年3月撮影
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 県道2号近江富士大橋。守山側から三上山を見たところ。走っている車は野洲から守山向き。常識的にはこれで話が通じるはずだが、細かいことをいうとこちら左岸も実は野洲市野洲。近くにある長府製作所なども野洲市である。誰がこんなややこしいことを決めたのか知らないけれど。橋の親柱にも銅鐸のレリーフがかかっている。

 写真02・近江富士大橋下流左岸堤防・1 2012年3月撮影
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 堤防上道路。ただし近江富士大橋を渡る県道2号からは緊急車両と人間のみ。野洲川放水路堤防上の道路は一般車両が通れるところと通れないところがある。左岸では上流の国道8号の少し上手から川田大橋までが通行可。当然ここは通行可の範囲だが、近江富士大橋を通る県道2号とは立体交差で、ここからは堤防上道路へは出られない。左、トラックが走っているところ、ここも堤防上道路。黄と黒のゲートで蓋をしている。意地の悪いことだ。で、このトラックへどこへ行くのか。右へそれて県道2号をアンダークロス。分かってなければ走れませんよ。

 写真03・近江富士大橋下流左岸堤防・2 2012年3月撮影 写真拡大

 上の写真でトラックが走っていたややこしい道から本当の堤防上道路へ出ていくところ。左はまたここで車止め。道がなくなるように見えるが、実際には細い道が続いている。上の地図01Bで左岸が道路2本に表現されているところである。実際にはもっとややこしく、GoogleMapが正確に表現されているようである。まあ要するに、このバイクは堤防上の道路へ出ていくところ。

2.昔の堤防は高かった GoogleMap

 写真04・思い出の1枚 1979年1月2日撮影 写真拡大

 三上山を撮り出して間なしのころ、30年以上の前の撮影である。場所は今でいうと近江富士大橋の下流左岸堤防上。冬の日の出である。同じ場所からもう1枚(写真04A)。
 当時は、上の地図01Aの世界だった。中山道「野洲川橋」を守山側へ渡って堤防を右折。地図を見るとどこからでも三上山が見えそうだが、実際は河川敷全体が森だった。途中一箇所だけ切れ目があって、そこに2本の木がそっと立っていた。近江富士大橋はなかったから目印にするものはなにもない。撮影場所については、うしろが旭化成の工場ということだけだった。
 この写真の撮影場所は現在でいえばどこに当たるのか。ちょっとこだわってみたい。


 写真05・近江富士大橋下流左岸堤防・3 2012年3月撮影
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 その前に左の写真05で周辺の状況を整理しておこう。問題は三上山の右すそである。ここにコブが4つ見える。高圧線鉄塔と重なっているのが三上山の雌山。その右に名称のないコブが見える。厳密にいうとコブといえるかどうか疑問だが、要するに雌山の右斜面が流れ下るのを一旦止めている(稜線を持ち上げているわけではない)。それを確認してほしい。

 そのあと、さらに右に見えるのが菩提寺山、三上山の奥にある山である。頂上部がへこんで2つに分かれて見えるのが特徴。その右が最後のコブ、これが菩提寺山の右すそである。


 さて、以上のことを確かめておいて両者を並べてみると写真4においては名無しコブのところが菩提寺山に取って替わられている。いいかえれば、写真05において、菩提寺山がコブ1つ分左へ移動したということになる。・・・・のだが、実際にどうだろう。菩提寺山が左へ移動して、そのピークがほんまに見えるのだろうか。少なくとも、写真05では菩提寺山と名無しコブとはほぼ同じ高さ、見方によっては名無しコブの方が高く見える。しかしここでそんなことをいっていても始まらない。実際に見てみよう。


   写真06・近江富士大橋下流左岸堤防・4 2012年3月撮影
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 写真05の撮影位置から堤防上を200m余ほど左へ移動し、菩提寺山のピークを名無しコブの位置へ動かしたものである。菩提寺山のピークは名無しコブに隠れ、その存在は右にはみ出したすそ(第4のコブ)で確かめる以外に方法はない。少なくともここでは写真04で見えた2つ目のコブの盛り上がりは見えない。写真04と06を並べて見よう。

 そんな不思議なことがあるのか。名無しコブの高さが高くなったか、菩提寺山が低くなったか。そのどちらかしかありえない。そのありえないことが現実に起こっている。30年やそこらで山の高さが変わることはまずない。火事で樹木が燃えることもあり得るが、菩提寺山ではそれもない。とすると、考えられることは、次のような場合である。


 図01・うしろの高い山が前山の奥に見える条件
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 図01のように、手前に低い山があり、奥に高い山がある場合、2つの山頂を結んだ直線の延長が地面と交わる点をPとすると、P点より山に近い場所では奥の山は前山に隠れて見えない。けれども次のような工夫をすれば奥の山は見えるはずである。



    A.P点で高い位置に立つ。(前のものが邪魔をして見えない場合、背伸びをすると見えるのと同じ理屈である。)
    B.P点より後退する。(P点が見えるか見えないかの境目であり、P点より遠くに立てば見える。)
 AかBかどちらか一方が満足しても成り立つし、両方同時に満足すれば効果は大きい。

 今回の場合は、写真04の撮影位置が、今思えば、このA・B両方の条件を満たしていたのではないか。そんなことを考えていて、『野洲川放水路工事誌』(建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編)に、次のような図が載っていることに気がついた。


図02 新旧堤防の高さ
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 新旧堤防の高さの比較である。左図の中央に高くかかれているのが旧堤防、左端の低いのが新堤防である。旧堤防に「一本松付近」とあるのは、実は次の項で触れる予定の場所で、写真05の撮影場所から500mほど下流の場所である。
 図は専門的な表現でわれわれ素人にはわかりにくいが、旧堤防の方が3m余り高かったようである。3mの差で菩提寺山が見えたり見えなかったり、大騒ぎするほどの差が出るのかといわれると、何ともいえないというのが正直なところ。クレーンか何かを持ってきて実証するしかない。


地図03 野洲川改修計画平面図(川田付近)
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 上の図02に付して、左の改修計画平面図が掲載されている。
図中赤文字は私が記入したもので、Aが写真05の撮影場所。Bが写真06、Cが写真04(昔の日の出の写真)の撮影場所。Dが後述する川田の一本松跡記念広場である。
 AB間の距離約200m余、BC間の距離約50mである。現在、旧堤防跡と考えられる道路(C点など)は新堤防上の道路(B点など)より低いが、かつて旧堤防として現役のころは3m余高かったと考えられる。


 写真07・現場航空写真 1980年9月撮影
 野洲川改修計画概要所載(建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所)

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 現場の航空写真である。撮影場所は上の図03の右上隅から左下向き。(図03を時計回りに90度回転させ、縦長の高さを半分ぐらいに圧縮するとこの写真の見え方と一致する。両者を並べて見る)。手前が上流、奥が下流。 画面左下に中山道野洲川橋。近江富士大橋はまだない。右岸茶色の土が露出している場所が見える。その対岸が旭化成の工場。その間に流れと直角方向に見える細い線が落差工。当時の堤防上の道路は、森のいちばん外側に見える。落差工近辺で、森を挟んで外側が旧堤防、内側が現在の堤防だと考えられる。

 思い起こしてみれば、今のように道が新しくなったとき、昔の堤防より内側につけられたなと思った記憶がある。GoogleMapで測ってみればその間約50m強、ある程度の効果が現れる距離ではある。それに加えて、昔の堤防はいまの堤防より高かった。


3.落差工 GoogleMap

 写真08・落差工 2012年3月撮影
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 これは新放水路の構造物であり、旧堤防とは直接関係はない。けれども、このあたりはとくに左岸に関してはほとんど新旧が重なってるため、旧堤防を見るとき無視できない。
 われわれ素人は何でこんなところにわざわざこんな落差を設けるのかと思う。近畿地方建設局琵琶湖工事事務所刊『野洲川放水路』によると、・・・・天井川解消の見地から、河床の高さを低くしたことと、流露を直線化したことにより湖岸からの高低差が減少し、旧来の河床との間に約3.5mの差が生じたため・・・・という。
 それなら勾配を大きくとって、3.5mを稼げばいいではないかと素人は考えるが、どうもそうではないらしい。なんでもより好ましい河床勾配があるのだとか。


4.川田一本松跡 GoogleMap

 写真09・川田一本松跡・1 2012年3月撮影
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 落差工から400m足らずのところにこんもりとした森がある。500mほど上流で新旧2つに分かれた堤防上の道が再び合するところ。これが川田の一本松跡だといい、ちょっとした広場になっている。左の写真は新堤防上の道路を上流から下流向きに見たところである。左奥に見えるのが一本松跡広場。右の山は津田山である。


 写真10・川田一本松跡・2 2012年3月撮影
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 広場内に「川田の一本松」との案内板がある。それによると・・・野洲川左岸に生えていた神木の老松が、昭和50年8月10日に伐採された。その松は堤防の安全、鎮水を願って江戸中期に植えられたもので、大神宮を祀ったものと伝えられて来た。野洲川改修工事で伐採されることとなり、川田自治会では昭和49年正月の伊勢神宮参拝の際に樹齢3〜4年の松1本、杉2本を代替わり神木とし拝受し、同年12月、天神社境内で遷宮と植樹祭が行われた。(八田要約)・・・とある。川田天神社の記


 写真11・川田一本松ありし日の姿 撮影年月日不祥
 建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」より

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一本松跡広場の掲示板写真の原板だと思われる。写っている道は当然旧堤防。いまこうして考えてみると、上の写真04を撮ったのが、いまの落差工あたりであった。そこからいまの一本松跡広場まで400m足らず。その堤防上にこの松は生えていた。しかし、私にはこの松の記憶は全くない。それは当たり前。私が三上山の写真を撮り始めるより以前に切り取られていたのだから。切り取られたのが上にあるように1975年8月、私の撮影開始が1976年11月。約1年3ヶ月前に切り取られていたことになる。

 写真12・工事中の放水路 1980年3月撮影
 建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川改修計画概要」より

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 さてこの一本松の位置である。地図03 野洲川改修計画平面図によると、Dの場所(現堤防の下流へ向かって左側)が現在の一本松跡記念広場であり、うっかりするとそこに一本松が生えていたのかと勘違いしてしまうが、地図によると旧堤防はそこでぐっと川幅がすぼまり、旧堤防がいまの放水路の堤防の内側へ入り込む。その内側に生えていたということになる。写真12では、旭化成工場裏から旧堤防が大きく蛇行し川田大橋に至るあとが見える。



5.悲劇の村・合村 GoogleMap

 写真13・十王堂遠望 2012年5月撮影
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 一本松跡広場に立つと、堤防の外は工場である。地図では「チッソポロプロ繊維守山工場」となっているが、実際には「JNCファイバーズ守山工場・JNCフィルター守山事業所」などとなっている。堤防を下りて、その工場の門前に立つと、田圃を隔てて、昔の小学校の講堂のような大きな建物(十王堂)と、こんもりとした杉の木立ちが見えてくる。一本松と川田集落の中間あたり、この辺り一帯は、かつて存在を確認されながら、いまはなくなった幻の村・合村(ごうむら)が存在したと推定されている場所なのである。


 写真14・十王堂正面 2012年5月撮影
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 民家の横の細い露地を入って正面に立つ。カメラのすぐ後が民家の建物である。砂利を踏んで歩くのはちょっと勇気がいる。もっとも一応この木戸が正式な入口というだけで、他に垣根がないところもあって、出入りは自由である。
 堂そのものは何の変哲もない建物で、番人がいるわけでもなくただそこに建っているだけである。中がどうなっているのかは分からないし、何に使われているのかも分からない。


 写真15・十王堂石仏群・1 2012年5月撮影
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 木戸を入って左側、杉の木に囲まれて石仏が集められている。これが後述するように、昭和7(1932)年、川田地区で耕地整理が行われた際に出土したものであろう。真新しいものではないが、前掛けがかけられていたりして、少なくともどなたかが心配りされているなということは分かる。

 写真16・十王堂石仏群・2 2012年5月撮影
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 中にはこのような新しいものもあったりして、全部が全部、幻の村からの出土品というわけでもなさそうである。(バックが十王堂)。
 石仏をもう1枚(写真16A)。



 竹林征三著『湖国の「水の道」』に、次のような記述がある。
 ・・・・伝承によれば、合村(ごうむら)は室町時代末期に川田村の枝郷となり、しばしば洪水に悩まされてきたが、江戸時代に一本松付近の破堤、大出水によって全村が流失、廃村となってしまったという。・・・

 そしてその後に、「守山の風土と歴史に学ぶ会」による調査と推論として、さらに詳しい記述がある。それを要約すると、
 ・・・・昭和7(1932)年、川田地区で耕地整理が行われた際、墓石、石仏、井戸跡などが出土。明治5(1872)年の川田村地籍図に、合村564番地に源吾と記入された民家が記載されている。川田町の大光寺で合村に関する年忌記録が発見され、同じ年月日の死亡者がいないことから、突発的な災害はなかったであろうと考えられる。
 とはいえ周辺一帯の地形を見ると、一本松から合村を抜けて湖岸に向かって帯状に低地が続いていることが読みとれる。いまの野洲川放水路にほぼ一致する線であるが、合村の場合その線上にあることから、幾度も水害に遭遇し衰微していったものであろう。・・・・

 とある。伝承にいうように、全村が洪水で一気に全滅に追いやられたものではなさそうだが、すくなくとも洪水と戦いながらいつしか衰微していったというところらしい。 

6.川田一本松跡から下流へ GoogleMap

 写真17・旧一本松付近概念図
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 川田の一本松付近の概念図である。(上の地図03と同じものである。広場の案内板に表示されているものに、白地の文字を八田が追記した)。近江富士大橋の下流、落差工のあたりでは新堤防の外側に旧堤防が残り、一本松跡広場のところで新堤防に合している。そこから川田大橋上流の残留堤防まで、放水路に吸収されて姿はとどめていない。



 写真18・旧堤防上の道路・1 2012年3月撮影
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 さて、落差工付近の旧堤防残留堤防上の道路である。写真は下流を向いて撮ったもの。右が新堤防、左が旭化成の工場である。工場との間に墓がある。写真04はこのあたりで撮ったはずだが、そのとき後に墓があったかどうか、全く記憶がない。



 写真19・旧堤防上の道路・2 2012年3月撮影
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 少し下流へ進み、墓のはずれから見たところ。右は新堤防との間の林。新旧両堤防間は一部は魚釣り用の簡易駐車場になっている他は、このような林である。
 前方に止まっている車の向こうの林が旧一本松跡広場。実際の一本松は新堤防の内側にあって、現在は河川敷に吸収されている。



 写真20・新堤防に出合う 2012年3月撮影
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 旧堤防上からの道路が新堤防と出会うところ。車が走っているのが新堤防上道路。左の林が一本松跡広場。一本松の本当の位置は、このままX字状に新堤防をクロスして、河川敷側へ出たところと推定される。
 旧堤防は新堤防より3mばかり高かったと考えられる。現在の新堤防は落差工のあたりで落差工の分高さを下げている。旧堤防はかつての高さより、高さを下げていると推定される。



 写真21・一本松広場から下流へ 2012年3月撮影
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 一本松跡広場からさらに下流外側を見たところ。JNCとの文字が見える。その外側を巻くように新堤防がなだらかな左カーブを描いている。ここから下流へしばらくの間は新放水路河川敷に吸収されて、旧堤防は消滅している。



 写真22・川田ニュータウン 2012年3月撮影
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 新しく開発中の「川田ニュータウン」。工場がとぎれると以前は田圃であったが、現在新住宅地「川田ニュータウン」の開発が進んでいる。





7.川田橋畔残留旧堤防 GoogleMap

 写真23・川田橋畔残留旧堤防・1 2012年3月撮影
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 ニュータウンが過ぎたところで前方に川田橋畔残留旧堤防が見えてくる。一目見て、現在の堤防より高かったことが分かる。右端、後ろ向きのトラックと重なって放水路川田大橋の一部が見えている。
 手前のビニールハウスは、地図によると永伊水産養殖場とあり、近づくと絶えず水音が聞こえている。旧堤防上一段低いところに見えるトラックは走っているように見えるが、留置されているもの。



 写真24・川田橋畔残留旧堤防・2 2012年3月撮影
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 新堤防上から川田橋畔残留旧堤防を見たところ。平地から一気に堤防に駆け上がる道が見える。その少し向こう、拡大してみてもらうと、赤シャツの人物が見える。注意してみないと見落とすぐらいだが、これと比較して堤防の高さのスケールが理解できる。その奥の竹薮と林。かつての野洲川はこのような状態で延々と続いていた。



 写真25・残留旧堤防から三上山を見る 2012年3月撮影
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 残留旧堤防から放水路越しに三上山を見たところ。カメラの前の道が、上の写真24で堤防へ駆け上がった道路。留置されたトラックが左に見え、車が走っているのが放水路進呈棒状の道路。ここからみて伸堤防が低いことが分かる。対岸に見える林は旧北流の堤防林。



 写真26・残留旧堤防上道路 2012年3月撮影
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 残留旧堤防上の道路。舗装はされているが滅多に車は通らない。右が新堤防との空間で竹薮と巨木で覆われていて、シラサギやアオサギの天国になっている。竹薮の奥から絶えず蛙の鳴くような(鳥の)声が聞こえてきて、不気味ですらある。鳴き声は多分アオサギだろうと思うが確認したわけではない。



 写真27・アオサギの巣 2012年3月撮影
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 ほとんどの鳥は竹薮の中の木に巣を作っているが、中には道路のすぐ上に巣を作っているのもいる。アオサギは普段川岸や田圃のふちにいるときは、注意深い鳥で、ちょっと足音を立てるとすぐに逃げ出すが、ここにいるときは以外とのんきにしている。ここまでは人間は来ないだろうと高をくくっているのか。



 写真28・川田町喜多交差点 2012年3月撮影
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 川田大橋を渡ってきた県道151号と守山市笠原町方面への道を分けるT字路である。こうして見ると2階建ての屋根の先端がほぼ水平に見える。写真23に見るように川田大橋自体が旧堤防より低い位置にあり、交差点はそこからさらに下り坂を下ってきた位置にある。
 手前に見えている緑地は、堤防の中段の遊び場で、しだれ桜などが植わっている。春になると綺麗な花を咲かせる



 写真29・県道151号とクロス 2012年3月撮影
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 旧堤防が約半周してきて、県道151号(車が走っている道路)と斜めにクロスするところ。道はいったん県道のレベルまで下り、そのまま斜めに突っ切って新堤防に向かっていく。手前は交通量もなく、道路の傷みも放置されているが、向こう側は道路としてきっちり整備されている。



 写真30・旧堤防を振り返る 2012年3月撮影
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 県道を渡って、旧堤防を振り返る。自転車のオバチャンが県道151号。オッチャンが下りてくるのが旧堤防。この2人、とくに関係があるわけではない。新堤防との間の空間には竹薮がぎっしり。その中が鳥の営巣地。絶えず出入りするのが見える。



 写真31・残留跡地放水路側 2012年3月撮影
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 県道に戻って川田大橋のすぐそばへ。そこから上流、三上山側を見る。左側に放水路左岸上の道路。その向こうが河川敷グラン後ゴルフ場。拡大するとプレー中の人物が見える。跡地は全面竹薮と森だが、右側のこの一画だけ畑になっている。といっても、正式な畑ではなく趣味の畑だが。



 写真32・残留跡地内畑 2012年3月撮影
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 その畑に近づいて見たところ。何でこんな畑を、と不審に思われるはず。実は地上50cmほどのところでちょん切られた木が見えるはず。実はこれ柿の木で30年ほど前(写真32A)はこんなに元気だった。柿の木と三上山がくっついて、余りいい構図ではないがご勘弁を。いまは新堤防との間に樹木が茂って三上山はアウト。



 写真33・新堤防上道路 2012年3月撮影
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 畑の横、新堤防上から三上山を見たところ。畑の中からは見えないが、ちょっと移動して堤防上へ出ればこのようにはっきり見える。『野洲川放水路誌』から新堤防工事中(写真33A)の写真を1枚。これが本当に左の写真と同じ場所なのか。疑う人はいないと思うが、もし疑問に思われる方は、三上山とその左の妙光寺山とのつながりをご覧いただきたい。見事に一致しているはず。


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