野洲川物語

南北両流跡探訪

はじめに


初稿UP:2011.08.30
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1.旧河道・境川のことなど

 かつての野洲川は、野洲市市三宅(いちみやけ)付近で、南北2流にわかれ琵琶湖に注いでいた。花崗岩質の鈴鹿山系を源とするため、河口部では多くの洲を作り、古くは「八洲川」と呼ばれ、それがいまの「野洲川」に転化したともいわれている。典型的な天井川で、下流域では度重なる水害に苦しめられてきた。

 地図01・02・03 過去の大きな災害の破堤箇所と冠水エリア

(資料・建設省近畿地方建設局琵琶湖工事事務所編「野洲川放水路」・昭和62年3月)
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 この図で見る限り、野洲川左岸が破堤した場合、冠水被害ははるか南の烏丸半島あたりにまで及んでいることが分かる。同資料には、”野洲川下流の大平野もことごとく渺々たる湖面と化したのである。”と美文調にかかれているが、現実の場面ではそんなに甘いものではなかったろう。

 地図04・野洲川旧河道一覧(資料・同上)
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 野洲川沖積平野は、湖に注ぐ川が作ったものとしては、わが国最大のものだといわれる。その流路は最初からいまのように定まっていたわけではない。川は勝手気ままに暴れ回っていたはずである。左はその旧流路一覧である。
 その中で特筆すべきは境川で、守山市の中心部から西へ延び、金森あたりを経由して草津市芦浦・烏丸半島に至る。境川の名は旧栗太郡と野洲郡の境をなすことに因むという。現在は川幅3mそこそこのものであるが、明治時代末期には30mほどどの幅を持っていたという。現在琵琶湖博物館や水性植物園が建つ烏丸半島は、この川が運び込んだ土砂によって形成されたものだという。上の冠水エリアの南端がこの川の流路と一致することがうなずける。

地図05・国土地理院1/50000地形図(平成6年9月1日発行)
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 境川流域である。左上が烏丸半島、右下が守山市中心部。この地図で、どれが境川だと特定は不可能であるが、いかにも旧流路跡らしさが感じられる。地図04で、芦浦から2つに分かれて、北北東に伸びる流れが、05では芦浦観音寺から下物を経由するルートと一致する。現在この川が草津市(旧栗太郡)と守山市(旧野洲郡)の市境にもなっている。これを遡上するのが手っ取り早いが、大林町付近で怪しくなる。流れに追従していた市境もあらぬ方へ行ってしまう。

 資料・「野洲川放水路」によれば、南北両流も中世以前は流れは固定されず、いくつかの分派流を伴って、琵琶湖に注いでいたのであろうという。
 その後、野洲平野の耕地化が進んだことにより、旧河道は勢力を失い、14世紀には野洲川の主流は、現況(放水路完成以前)に近い南北二流となり、耕地の拡大と、その防衛のため築堤が重ねられることになる。これにより天井川化が進み、16世紀になると増水による破堤の記録が頻繁に出て来るようになるという。

2.境川探索

 写真S01・金森湧水公園地図
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 上の地図04にある金森あたりである。地図05では右下あたりに見えるが、以前の地図で道路状況が変わっている。守山駅前通の泉町交差点から県道146号を進む。やがて川と併走するようになり急に「金森湧水公園」の看板と大きな水車に出くわす。案内板があって「野洲川旧河道の中心は金森町付近を流れており、その川幅は現在の地形で確認しても、125mとなります」との説明がある。地図も表示されているが細かくてわかりにくい。

 写真S02・湧水源
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 水車の少し奥にある湧水源である。横に説明板があって、・・・この金森湧水公園の地は、その昔「金ケ橋の池」と呼ばれ、一年を通して清らかで豊かな地下水がこんこんと湧き出ていました。春夏秋冬、変わることなき水温と水量をたたえ・・・とある。(説明板全文)。またその横に、守山市環境政策課名で、「運転時間(午前5:00〜午後9:00)を調整しながら、ポンプの運転を行っております」との掲示がある。

 写真S03・バイカモ咲く
写真拡大 水源地で、ポンプ運転の記事を読んで、下司の勘ぐりで循環運転だろうと早合点したが、近くの水路にバイカモが咲いているのを見て、本物の汲み上げだと納得した次第。手をつけると、反射的に「熱つッ」と思うほど冷たく、久しぶりで上高地・梓川の水を思い出した。


 写真S04・大門町付近地図
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 このあと境川は守山南中あたりから芦浦観音寺あたりにかけて大きく蛇行しながら流れ下る。この蛇行こそが自然の河川の特徴だろう。ここは、守山市大門町あたり。川幅数mの川が住宅地の中を流れる。エサをとっていた白鷺が足音に驚いて飛び立つ。これが古い野洲川の流路あとだとは、付近の誰もが信じないだろう。

 写真S05・守山市欲賀町あたり地図
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 一応どちらかに決めなければならないから守山市欲賀町としたが、実は守山市と草津市の市境である。写真は上流を向いて(琵琶湖を背にして)撮っている。左が守山市、右は草津市である。こんな川がなんでと思うが、これが野洲郡と栗太郡との境であり、川の名の由来でもある。

 写真S06・湖岸近く地図
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 県道26号、いわゆる浜街道を越えたあたりで、流露を北北西に定める。守山市山賀町(右)と草津市下物町(左)の境である。湖岸に近いこの付近では完全な直線。あきらかに人工的なものであろう。撮影場所は浜街道のもう一つ湖よりの広域農道とクロスするあたり(カメラは農免道路から琵琶湖向き)。川の奥、車が走っているのが湖岸道路、その向こうがハス群生地である。

2.キツネにつままれた話

地図01・国土地理院1/2500地形図(昭和53年2月28日発行)
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 その「八洲川」を1本の放水路に統合するという。1971(昭和46)年12月9日、野洲川改修工事起工式。私が滋賀県野洲町(現野洲市)に住まいを移したのがその前年、1970(昭和45)年11月のことだった。
 新しい土地の珍しさもあって、休日には自転車で近隣を走り回った。そんなある日、いつものように走っていて細い橋に出た。野洲川の橋であることはいわれるまでもなかった。水は自転車の進行方向に対して左から右へ流れていた。左が鈴鹿、右が琵琶湖である。橋の名前も確かめずそのまま渡りきった。
 ややあって、同じような堤防に出くわした。緩い坂を上るとまた同じような橋があった。その時点でまだ、野洲川が2本に分かれているとは夢にも思っていないころだった。まっすぐ走っていたつもりだが、いつの間にか道を間違え先ほどの橋にもどってきたのだと思った。とすれば、当然水は右から左へ流れているはず。と思ってよく見ると、なんと左から流れて来るではないか。キツネにつままれたとはあのようなことをいうのだろう。この地図を見て、そのときのことを懐かしく思い出している。野洲川北流・竹生橋を渡り、その集落を抜けて南流・川田橋を渡って、川田町喜多へ出たのだろう。これが南北両流に対するいちばん古い記憶である。

3.放水路工事中のことなど

 放水路工事、起工式が前述したように1971(昭和46)年12月9日。通水式が1979(昭和54)年6月2日。私が三上山を撮りだしたのが1976(昭和51)年である。暫定通水後の風景は三上山とともにカメラに収めている。それ以前、工事中の写真はごく僅かしか残していない。自転車でたびたび現場へ行ってはいるが、とにかく野洲へ来てわずかの土地不案内の上に、行くたんびに風景が変化していく、現在地すら分からない状況で、しっかりした記録写真が撮れるはずもなかった。次は、そのうちの何枚かである。

 写真01・中山道野洲川橋畔にあったケヤキの木 写真拡大

 中山道野洲川橋の守山側の河川敷。そこに生えていたケヤキの大木である。これが野洲川改修の一連の工事で伐採されてしまった。こんな大木でも伐られてしまうのか。これも大きな戸惑いだった。
 余談だが、中山道野洲川橋の”守山側”、日常的にはこれで通ずるはずだが、行政的にはおかしい。実は西側へ渡りきったところも野洲市である。ひとくちに野洲川というが、実際に野洲市域を流れるのは、このあたりのわずか1Km余だけ。橋でいえば、この中山道野洲川橋と、その下流に架かる近江富士大橋の2橋のみである。


 写真02・中山道野洲川橋畔にあったケヤキの木2 写真拡大

 上の写真01もそうだが、2本の木が内側に傾いている。実際にはこんなことはないわけで、これは当時おもしろがって使っていた超ワイドの21mmによる歪みである。次の写真3を見ていただくと分かるが、実に姿勢正しくまっすぐに伸びていた。
 写真01の左の木のさらに左へ寄ったところらしい。遠くに古い野洲川鉄橋が見えている。明治35年6月に架橋され、上部構造のみ、大正2年と同14年に改修されたものだという。現在の橋梁はこれより上流側に掛け替えられたもので、工事期間は昭和51年3月〜昭和60年3月だったとか。

 写真03・中山道野洲川橋畔にあったケヤキの木3 写真拡大

 どちらの木か分からないが、枝ぶりなどからして、右の木かと思われる。一連の三上山作品として撮影したもので、撮影日は1978(昭和53)年03月05日。写真を拡大すると、下端木の両側対称的に小さな白い点が見える。鉄橋の上につけられていた送電線の碍子である。望遠レンズで撮っているため、木から離れる必要があり、野洲側から渡りきったところで右へ下る道路から撮影している。


 写真04・05・06 放水路工事中1
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 放水路工事中である。山の形から見て4枚ともほぼ同じ場所からと思われるが、現在のどこに当たるかは不明である。バックの状況からして、写真04がいちばん古いかと思われる。05・06は放水路の堤防のようなものが見えるが04には森のままである。



 写真07・08・09 放水路工事中2
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  写真07は、工事跡が見られないし、水も止まっているようである。暫定通水されたあと竹生橋から見た北流かと思われる。
 08・09は通水以前の放水路内だと思われるが確証はない。



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