野洲川物語


祇王井川探索Map

2.三上から野洲駅前まで 3.1Km

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写真拡大 写真201・地図

 野洲市三上、三上小学校の近くで、ヒラカワガイダムの敷地内に消えた祇王井川は、地図によると敷地内の前半を地下に潜り、後半は地上に出て、国道8号に達する。写真は国道の反対側からフェンス越しに敷地内の様子と見たところである。





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写真202・地図

 祇王井川はそのまま国道を横断して、北側の中国塗料の敷地内にはいる。写真は国道の歩道から敷地内の水路を見たところである。この後約400m近く敷地内を流れる。地図によると、ここでは地下に潜ることはないようである。





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写真203・地図

 中国塗料の敷地内から出てきたところ。橋は敷地のすぐ北を通る里道である。地図を見ると御上神社交差点から県道504号に沿って、よく似た水路が続いていて紛らわしいが、この時期は両者の水量に歴然たる差があり、違いは一目で分かる。





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 上の写真の左端にチラと見えている木である。根は1つ。幹が2つに別れて、メガネ状の孔を造り、いったん2本の幹が1つになって、その後また2本に分かれている。何とも不思議な木である。その昔、近所にお住まいのお婆ちゃんが、農作業に邪魔になった若木2本を紐でくくっておいたところ、いつの間にかこんな木になったのだという。1977年当時の姿・上の写真203の祇王井川の横から、三上山を見たところ。


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写真205・地図

 その後も、竹薮や畑の横を流れていく。












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 ていねいなデザインを施された橋。真横から見れば、人間が渡る橋かと思う。いつごろ造られた橋だろうか。








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写真207・地図

 水路のインターチェンジというところ。地図で見ると2つに分かれているだけのように表現されているが、実際にはもっと複雑に絡み合っている。写真でもその全容をキャッチできないのが残念である。去年だったかリニューアル工事が行われていて、全体的に新しい感じである。



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 何本かに分かれた中で、一番しっかりした水路が祇王井川。車が通っているのが県道504号。車は国道御上神社交差点に向かっている。









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写真209・地図

 天保義民、土川平兵衛の墓。上の写真のカメラ位置から、川を挟んだ反対側にある。
 案内板には、「天保13年10月15日、三上村庄屋土川平兵衛は、湖南三郡の頭首と仰がれ幕府の検地役人市野茂三郎らの不正の数々に対し敢然と立ち向かった。一基は成功したが捕らえられ、翌年3月江戸へ護送。・・・・義民再び帰らず。云々とある。


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 祇王井川はそこで県道を504号をくぐる。写真は暗渠から出てきたところである。県道は右上を通っている。ここからは見えない。
 ここからは上の県道を歩いてもいいし、水路のすぐそばの農道を歩いてもいい。いずれにしても後に三上山を見ながらのんびり歩ける。




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 上の写真と同じ段差。私としてはどうしても県道側から見て、三上山と組み合わせたい。











写真212・地図

 オリベスト社の駐車場が2つあって、最初の大きな方については、駐車場と県道の間を通り、あとの小さい方は県道から離れて、駐車場を巻巻くように流れている。写真はいったん離れたあと県道沿いに戻ってきたところ。新幹線に近づく。






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 新幹線をくぐったところ。県道との間に「霞み庭園」なる公園がある。写真左の生け垣の向こうが公園。











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 公園内から。右上から流れてくるのが祇王井川である。水車が一基あって、写真のように水を引き入れ作動する計算だが、見た限り回った様子はない。右下のような立派なフェンスが囲み、以前は「危ないから近寄ってはいけません」との張り紙があった。張り紙のお返しを・・・。「公園に危ないものを作ってはいけません」。


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 公園の横を通って、大畑交差点のそばへ出てきたところにある自然分水工。角にガソリンスタンドがあって、その裏手に当たる。左の祇王井川は2本に別れる。右の細いのと合わすと3本が並行する。
 左の1本は、ここで分かれて、市三宅の方へ流れていく。右2本は何らかの事情があって、ここでは2本に分かれているが、すぐ下流でまた1本になる。



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 左、野洲中央線をくぐって市三宅の方へ。右2本は右折して、中央線に沿って下る。










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 平田医院の手前で中央線をくぐる。ガソリンスタンドの裏では細い方が水位が低かったが、ここへ来ると逆転している。こういう手品のような水位調節が方々で行われている。






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 道路をくぐって出てきたところ。右側の水路は道路から離れており、よほど注意してみていないと気がつかない。









写真219・地図

 祇王井川の碑。「史跡 妓王井川」と「ぎ」の字がおんな偏になっている。上の写真で右側に移っている川が、近寄ってきて、また離れていく。









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  ここで2本の川が再び一緒になる。それぞれ高さが違う2マイの田圃に注水できるようにとの配慮かと思うが、いま見る限りではその対象になる田圃が見あたらない。







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 少し下流へ下ったところで、また2手に分かれる。自然分水工。以前は例の手品で、立体交差をしていたらしいが、いまでは平面で分かれていく。右側から流入してくる水路があるが、いまでは本流より水位が低く機能していないようだ。





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 行事神社の参道にはいる。灯籠のそばに地蔵さんが祀られている。











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 上の写真の右側。「行事神社」の碑と鳥居。桜の時期は見事である。










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 由緒ありそうな塀。中山道に面した民家の背面である。そのそばを流れる。










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 行事神社の前で参道と本殿が新しくできた県道によって分断されている。これは参道側の広場に置かれたモニュメント。「このレリーフは当時の水路工事の風景を模写したものである」、とある。







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 行事神社境内。
 妓王寺で説明してくださった中北自治会の宮田会長の話によると、「井上り(ゆのぼり)」といって、地域の人が妓王井川を遡りながら、川さらいをする作業があり、昔は、井上りの終点がこの行事神社だった。境内にむしろを敷いて・・・、ということだった。
 *ぎおう風景写真同好会・山本清一さんの話によると、さらにその昔はここで二手に分かれ、一手は野洲川の取水口近くの松林までいって、そこでむしろを敷いて昼食だったとか。




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 中山道と県道との交差点。角に「背くらべ地蔵」が祀られている。我が子を地蔵さんと並ばせて、背の高さを較べ、成長を楽しんだという謂われがあるとか。祇王井川は、行事神社とこの地蔵さんの間を抜けていく。





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 行事神社境内のはずれ、中山道ぞいから見える立体交差。数年前までは田植えの時期には、上の水路からあふれるぐらいの水が流れていたが、最近はほとんど水量0。しかし、このときは何故か水が流れていた。でも画面の左下でストップされ、水は止まったまま。対岸であふれた水が流れ落ちていた。




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 同じ立体交差を下流側から見たところ。荒削りの石造り、風情が感じられる。

*祇王井の水路は、このあたりの農地より相当低く作られており、余り水を祇王井川へ集めて下流で利用したとのこと。





写真229・地図

 中山道と朝鮮人街道の分岐点。朝鮮人街道とは江戸時代、朝鮮通信使(信を通じる使い)が通った道で、ここで中山道から分かれ、近江八幡を経て彦根で再び中山道に合する。・・・彦根東高校新聞部による消えたみちさがし「朝鮮人街道をゆく」に詳しい。ぜひ一読ありたし。・・・
 祇王井川は朝鮮人街道に沿って下る。前方、ブルー・ズボンの男性のところ。


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 野洲小学校前を流れ下る。修景工事が行われてはいるが、全体としては荒れた感じがする。小学校の清掃もここまで手が回らないのか。








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 同じく野洲小学校前に建つモニュメント。「妓王・妓女」が舞いを舞っているところだろう。下にプレートがあって、左右にボタンのようなものが見える。できたときにはここにライトがあって、夜には・・・という仕掛けだったが、ともっていたのはどれぐらいだったか。
 すぐに電球がポロンとはずれ、引きちぎられた継子の状態。もちろんできの処理は行われているとは思うが。


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 さらに野洲駅に近づく。右から1本合流してくる。これは石部の源流で右に分かれ、三上地区あたりを流れてやって来たもの。川岸の桜は、以前は何本かあったがいまは1本。人間も桜年いってからが淋しい。





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 かつての野洲郡勧業館、野洲郡役所跡だという。建物は幼稚園として使われていたこともあったが、
 いまは公園になっている。









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