野洲川物語


あのころの野洲川渓谷

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 1982(昭和57)年6月、『四季近江富士』が本になった。撮影を始めてから6年たっていた。いまから考えると6年で本になれば万々歳というところ。それはいいとして、実際に本ができてしまうと、それまでの目的が消えてしまった。写真を止めるつもりはないが、次は何を対象にすればいいのか。人生60歳で定年になって、やることがなくなった。人間を止めるつもりはないがなにをすればいいの?、というのと同じである。
 その年の秋、野洲川ダムからそのころまだ有料だった鈴鹿スカイラインを越えた。午後の光の中で逆光の紅葉がきれいだった。渓谷だから山は深い。山影をバックにすることは簡単だった。これは写真になる。

 野洲川、鈴鹿山系御在所岳を源とする。里へ出てからは東海道沿いを流れて、横田の渡しから、十二坊・菩提寺山・三上山のすそを経て、野洲川沖積平野を琵琶湖へ注ぐ。土山・水口・石部と続く宿場町、横田川原から三上に至る天保一揆、歴史的にも事欠かない。これは面白い。今度はこれや、野洲川をやるぞ。

 野洲川渓谷

 地図を調べてみると、水月、和草野、瀬音、鮎河など、観光旅館の部屋の名前に使いたいような地名が並んでいる。いっぺんに気に入ってしまった。

 そのころは青土ダムの工事が始まったばかりのころだった。国道1号の旧土山町役場の横から青土ダムまでの道は、現在と大差ないが、そこから上流は工事中だった。少なくともいまのダムの左岸ルートはなかった。
 一方、もう少し山手の猪鼻から野洲川ダムへの道は現在の同じルートを国民宿舎「かもしか荘」までのバスが走っていた。

 上の写真左は、そのバス道沿いの鮎河小学校から見て、野洲川を渡った対岸の山ぎわに生えていた1本のケヤキ。秋の終わり、夕日に照らされて黄葉が見事だった。どういう加減か木の幹には陽が当たらず、葉っぱだけがいきいきと照らされていた。申し分のない状況だったが、よく見るとケヤキの後に1本の杉の木。そのテッペンだけがちょんまげのように顔を出している。これさえ消えてくれたらと、粘ってみたが、最後まで消えなかった。
 写真右は、すっかり葉を落としてしまったケヤキ。雪が来てムードが変わる。ちょんまげの杉の木は影を潜めたが、別の杉の木がしゃしゃり出てきた。思うようのはいかないものである。

 この2枚は場所不明である。左の写真は、鮎河小学校を過ぎて、野洲川が大きく右へ曲がった県道9号沿いの橋の上からかとも思うが、確たる自信はない。

 野洲川ダム

 野洲川ダムである。水がたまっているだけで、一見何の変哲もないダム湖も、何回か通うと違いが見えてくる。いうまでもなく左が冬枯れの湖面。右は新緑のころ、水の色も変わってくるから不思議である。

 下左、水没した鳥居。これはどのあたりだったのか。この鳥居は最近どうなっているのだろうか。いまでもも何年かに1回ぐらいはスカイラインを越えるが、見た記憶はない。私の注意力が散漫になって、見逃しているのかも知れないが。
 右下、マンサクかロウバイか、いずれにしても春早く咲く花である。水面を冷たい風が吹き抜ける。これは野洲川ダムではなく、青土ダムの工事現場の一角だったような気がする。

 

 ということで、昭和57・58年、いまから四半世紀以前の話である。撮影場所も、野洲川渓谷というだけで、ほとんどの場所が確認不能である。

 左上、国道1号旧土山町役場前から、青土ダムへ向かう。山に突き当たったところ、青瀬橋で野洲川を渡る。その橋の手前、左側にあるお寺。地図によると妙楽寺とある。手前の茶畑とバックの岩山がマッチして、いい風景だった。いま見ると、もう少しバックして、広い風景の中で屋根をもっと小さくした方がよかったかとも思う。
 右は、国民宿舎「かもしか荘」から野洲川ダムへ向かう途中、大河原の集落である。

 青瀬橋

 青瀬橋上から野洲川の下流を見たところ。2007年12月、ラフォーレ琵琶湖のカメラウォークでここを歩いた。この絶景はほとんどこのまま残っていた。画面右上はしの大きな岩山が、黄葉をつける時期もいい。ただし、このすぐ上にトンネルが整備されて、いささか邪魔をする。以前は、トンネルはあったのだが、ただ打ち抜いただけのもので、風景の邪魔にはならなかった。

 左上、国道1号猪ノ鼻交差点から国民宿舎かもしか荘へ抜ける道、途中から右へ分かれて、もう一度国道1号山中交差点に戻る道がある。新名神の開通で様子が変わってしまったが、途中に笹路という集落があって、その近くにこの桜があった。見事な枝振りで、何も考えずに、花だけを撮らす圧倒的な迫力があった。
 右上、青土集落の山ぎわ、きれいに並んだ杉の木と山との間に、2本の山桜が見事だった。春霞の日で、日中の真上からの太陽が効果的だった。

 鈴鹿スカイラインの途中、野洲川の最上流。こぶしの花が咲き誇っていた。時期的には桜のすぐあとのような気がするが、スカイラインが開通していたのだから、ゴールデンウィーク前後だったのかも知れない。

 土山宿


 野洲川の流れは、石部あたりまでは東海道に沿っている。写真にストーリー性を持たすとすれば、この街道を取り入れることは欠かせない。ということで、まず土山宿から。野洲川渓谷の写真を見ても雪が多い。いまより雪が多かったのだろうか。このときも雪が残っていた。いまはご多分に漏れず観光化されているが、このときはまだひっそりと静まりかえっていた。使ったカメラは6×7判のマミヤだから、手持ちでは無理だ。道の真ん中に三脚を立てて撮っているわけで、車を気にしながら撮ったのだろうか。そこのところは全く記憶がない。

 鈴鹿峠


 旧東海道、鈴鹿峠の常夜灯。でかいものだった。現場で石を調達したとしても、おあつらえ向きのものがそうザラにあるはずはない。昔の人のご苦労を忍びながらの撮影だった。



 写真左、国道猪ノ鼻から鮎河へ入る道の途中にあった。けっこう大きな樹木が生えている中で、この一部だけが若木で、秋の紅葉がきれいだった。ふだんはバックが枯れ葉で木や葉っぱと同化してしまうような感じだったが、このときは前日の淡い雪が残っていた。
 写真右、いまの青土ダム上流、鮎河からダムへ向かう途中、対岸のケヤキが見事だった。

 これは上でも見ていただいたが、青瀬橋下流の岩山。ここは行くたびに装いを新たにしてくれて、いつ行ってもここから撮影が始まる。まあ、儀式みたいにして、行けば必ずカメラを向ける、そんな場所だった。
 といったことで、約1年半、夏場はほとんど写真にならなかったが、秋から春にかけてせっせと通った。冬場はスカイラインが通行止めになるから、奥までは入れなかったが、青土や鮎河へは雪を求めてよく行った。

 『野洲川渓谷』写真展

 昭和59(1984)年8月、丸2年ぶりで個展『野洲川渓谷』を開いた。
 撮りだして1年やそこらで展覧会をやろうという厚かましさは、いまになって振り返ると恥ずかしい限りだが、そのときはそこまでは考えなかった。
 私としては、『四季近江富士』で、一つの区切りはつけたつもりだった。それに続く「野洲川」への挑戦である。「三上山」とまるきり縁がないわけではない。そこそこの作品が集まったから、展覧会を・・・ということだった。

 ところが見に来てくださる皆さん方の反応はちょっと違っていた。何の予備知識もなく見てくださる方ももちろんいらっしゃるのだが、「あれ?、三上山じゃなかったの?」、「あれ?、三上山はどうしたの」、「もう三上山はやらないのですか、やっぱり三上山がないと淋しいな」、こんな反応が結構多かった。
 左の新聞記事は、京都新聞のものだが、四半世紀昔のものだからまあいいだろう。記事が読みにくいので肝心なところだけ抜き書きしてみる。

 ・・・八田正文さんが京都市内の画廊とーべえ=三条寺町西入る=で写真展を開いている。八田さんといえば近江富士(三上山)でおなじみの写真家。今回は「野洲川渓谷」をテーマに新境地を見せる。・・・

 -----私自身は、「三上山でおなじみの」なんて思っても見なかったし、ましてや「写真家」だなんてこれっぽっちも考えたことすらない。自分の写真はあくまで趣味、金は出ていくだけで入ってきた例しはない。決して写真家なんてものじゃない。まあ百歩下がって、それはヨシとしよう。問題はその次・・・、

 話は三上山休戦の弁から。・・・・

 -----野洲川渓谷展覧会の紹介記事が、「三上山休戦の弁」から始まるのである。

 新聞記事に文句を言うつもりはない。むしろ私自身への客観的な見方を教えてもらったことで、ありがたかった。そうか、周りから見るとそう見えるのか。なるほどなー。
 記事を書いていただくだけでありがたいわけで、文句を言う筋合いはないのだが、過去3回の個展の印象が、皆さんの印象に残っているらしく、「やっぱり、三上山がないと淋しいな」の声。

 話は前後するが、昭和57年、三上山展覧会の3回目、その年から京都写真芸術家協会に加入した。これも三上山の3回の展覧会を評価して、理事のどなたかが、推薦してくださったのだという。

Yさんとのこと

 そういう流れのところへ、ある日Yさんとおっしゃる方が訪ねてくださった。私より、少し若い年格好で、初めてお会いする方だった。そのYさん、温厚な笑みを浮かべて「日野町から来た」とおっしゃる。京都伏見区に日野という地名がある。醍醐と六地蔵の中間で、法界寺というお寺があって、その昔、伏見の写真を撮っていたころ、よく行ったので懐かしかった。しかし、どうも話が合わない。よくきいてみると、滋賀県の日野町だとおっしゃる。ちょっと待ってくださいよ。どうしてそんなところから・・・、失礼とは思いつつ思わず口をついて出てしまった。
 片道2時間以上は間違いなくかかるだろう。仮に全部電車で来てくださったとして、日野から近江鉄道で貴生川へ出て、草津線で草津へ、東海道線に乗り換えて京都へ、地下鉄はまだなかったから、バスで・・・。か、山科から京阪に乗り換えて・・・。上の写真は、雪の場面だが、現実は8月の暑いさなかである。気が遠くなる道中だったはず。
 いまのようにホームページやブログがあるわけでなし、展覧会自体をどうして知られたのか。「自分も写真をやっていて、野洲川の上流は、日野町からも近い。新聞記事を見て、これは是非拝見したいとやってきたのだ」とおっしゃる。言ってみれば、こと野洲川に関しては、私よりもそのNさんの方が地元なのであって、撮影場所のことなど見事に話しが合った。
 三上山だけじゃなしに、こんな方もいらっしゃるのだ。2時間近く写真談義に花が咲いた。「水口でこの展覧会をやっていただけませんか。私は、中学の教師をやっていて、水口文化会館の学芸員の方と懇意なので・・・」と言い残して帰って行かれた。

 夏の暑いさなか、Yさんが遠路日野町からわざわざ来てくださったことは、私にとって大きな励みになった。その名前は、私の脳裏に焼き付いた。

 その年だったか、次の年だったか、年代はつまびらかでないが、滋賀県写真展いわゆる「県展」の審査結果の発表記事を見ていて、Yさんの名前があるのに気がついた。それも特選5回だったか、いわゆる無審査になられたのだという。それは聞いていなかったぞ。「私も写真をちょっとやってまして・・・」とはきいていたが、県展無審査とは。私も2年ほど出品したことがあったが、どちらも入選どまり。入賞などとてもとても・・・。あの夏の日の、片道2時間半の熱意はこれだったんだなと思った。

 昭和60(1985)年、春ごろ、Yさんから電話がかかってきて、「水口文化芸術会館で”野洲川渓谷”の写真展を企画展としてやりたいと言っている」という。前の年、京都の展覧会のとき、ちらとおっしゃっていたことだった。多分Yさんがそれなりに動いてくださったのだろう。ありがたかった。
 このあと、Yさんとのことで後日談があるのだが、その前に野洲川渓谷のけりをつけてしまおう。

 次は野洲川渓谷水口展パンフレットの抜粋。

 野洲川は、前述のように鈴鹿の盟主・御在所岳に源を発し、その急斜面を流れ下って、勾配がやや緩くなったところに野洲川ダムがあります。厳寒期にこの水面が全面凍結するさまは、そういった光景を見慣れない私たちにとって、荒涼としたものを感じさせます。
 野洲川ダムのすぐ下にあるのが大河原の集落で、国民宿舎≪かもしか荘≫などがあり、野洲川渓谷観光の中心的位置を占めています。大河原から下手少しの間、川幅はぐっと狭くなります。それを抜けると鮎河、ここは小学校などもあり、こちらは野洲川渓谷の生活の中心地といえます。道はそのまま直進して国道1号猪ノ鼻へと向かいますが、川は大きく右へ曲がって、青土へと向かいます。
 現在、鮎河・青土間に、野洲川水系2番目のダムとして、ロックヒルダムが建設中で、このあたりの景観も大きく変わりつつあります。この区間は工事のため通行もままならない状況ですが、ダムが完成したときには、どのような風景ができあがるのでしょうか。・・・・

 ・・・青土から下流、瀬音あたりで川幅は再び狭まり、河岸段丘にはさまれて底深く流れていきます。その狭隘部を過ぎると、明るい感じのする山間平野へ出、瀬音・和草野・水月・白川などの集落を左右に見て、大きく蛇行するようになります。そして、東海道49番目の宿場町土山町のはずれで国道1号とクロス、左手から流れてきた田村川と合流し、琵琶湖へと流れ下っていきます。
 今回、私が対象としましたのは、野洲川ダムの上流・鈴鹿スカイラインのゲート付近から、この近江土山あたりまでです。川の流れそのものと同時に、渓谷の雰囲気をつかむため、周囲の風物にもカメラを向けました。しかし、これは野洲川のほんの一部に過ぎません。源流から、河口までの風景が一つのイメージとして定着するには、まだ数年はかかると思います。それがいつ、どのような形でまとまるかは、私自身も分かりませんが、それが見えてくるまで、野洲川に通い続けようと考えています。

 結局三上山へ

 と、大見得を切ったのだが、結果から見て、野洲川渓谷はこれが最後だった。
 というのは、野洲川を対象として作品をまとめて行くには、他の川も知らなければならない。近いところでは日野川、愛知川、湖西の安曇川など、川に沿って走れそうな川を訪ね歩いた。そのころ、安曇川沿いには茅葺き屋根が残っていたりして、多少独特の雰囲気もあったが、他の川はみな似たり寄ったり、これはよほど特徴のある場面を押さえない限り、どの川でも一緒じゃないか。ふと、そんな思いがよぎった。

 それに比べたら、三上山は面白かった。どこからでも、見えた瞬間に何の疑いもなしにそれと分かる。もう一度、三上山に戻ろうか。・・・・
 以上、いま(2011年)から30年前の話である。



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