HN・JIJITKS・森川・MEGW・S.T・SS・MRT・MO・マミー・YSK・館長・ |
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■1.サギソウ
場所は自宅の庭です。今年はサギ草が伸びすぎたので杉の盆栽に登らせました。咲いてみるとサギの子が巣立つように綺麗に羽を広げたように見えましたので日陰のほうに持って行き撮影しました。
◆黒をバックにサギソウの花だけを浮かび上がらせた。
話は変わるが、その昔アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo
Toscanini 1867〜1957)という指揮者がいた。昭和30年代から40年代にかけて、彼のレコードには必ず独特のポートレートが使われていた。顔、手・場合によってはワイシャツの袖口までが真っ白に表現され、あとは完全な黒。暗黒の中に顔、手、指揮棒だけが浮き上がっている。写真を始めたばかりの私には、どうしたらそんな写真が撮れるのか見当もつかなかったが、とにかくその写真にあこがれた。
ポートレート1, ポートレート2, ポートレート3, ポートレート4, ポートレート5,
(RCAビクター・トスカニーニコレクションより)
HNさんのこの写真を見て、その昔のレコードのジャケットを思い出した。当然、トスカニーニを撮ったカメラマンには、指揮をしている全身像が見えているはずである。その状態であえてハイライトだけで絵を作った。発明された当時カメラ・オブスクラ(「暗い部屋」の意)と呼ばれていたこの装置を「写真」と名付けたのは誰か知らないが、このトスカニーニの写真を見て、これは「写真」やろか、「写偽」と違うのかと思った記憶がある。真(本当の姿)を写す。いわゆる証拠写真などはこれに当たるが、これは現場の「再現」である。いま写真は決して「再現」を目的とはしていない。写真は「表現」である。
HNさんにはサギソウの茎や葉も見えていた。その状態であえてそれを闇に隠したとしたら、これは立派な「写偽」であるし「表現」である。トスカニーニのポートレートは本来なら1,2点でよかったのだが、あえて5点も並べたのは、この場合(暗黒の中でハイライトだけで絵を作る)一番大切なのは、ハイライトが置かれる配置だと言うことを知ってもらいたかったためである。
そういう意味でHNさんの作品を見直すと、左上のところで花が2、3バランスを欠いているように感じられる。それともう一つ。トスカニーニの場合は「顔」という「主役」がはっきりしている。と考えてくると、ここで一番大事なことは、この花の中で主役はお前やという、「首班指名」だったのかも知れない。
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■2.羽動くアゲハチョウ
近くの花畑でキアゲハ蝶を撮って居る時のものです。ふつうに撮っていては面白く撮れないぐっとシャッタースピードを遅くして羽を動かせてみました。練習です1/60秒。
◆花とアゲハチョウをアップした。そして比較的遅いシャッターで羽をぶらした。
シャッターは60分の1秒だという。昼日中このシャッターを切るためには、かなり絞り込まなければならないはずだが、花の手前やバックはきれいにぼけている。よほど長いレンズをうまく使いこなしているのだろう。正面から狙えば、羽は流れて写らなかったはず。
HNさんのチョウに、新しいページが加わった。見事。
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■3.光に照らされて
近くの花が垂れさがって咲いている処に光が差していてチョウが止まった処、綺麗に見えました。
◆右半分のバックのボケが邪魔をした。単なるボケじゃなしに、黒バックにクリーム色だったから、余計に目立つ。チョウ自身は存在をアピールしているのだろうが、ボケに負けた。右半分をカットすれば若干見やすくなるかも知れないが。
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■1.朝だァ
雲が今日の始まりを悦びいっぱいで表現しているように見えました。
◆雲の饗宴。JIJIさんは「よろこび」だというが、私には「怒り」に感じられる。ゴメンなさい、なにも楯突いてるわけではございません。思ったままを述べましたわけで、ハイ。
グレゴリア聖歌の「怒りの日」。聖歌そのものは穏やかな曲だが、モーツアルトやベルリオーズ、ベルディのレクイエムに使われると、とたんに仁王さんの「怒り」に変貌する。その怒りを表現するためには、何をさておいても右半分の沸き立つ雲。これを少しでも優遇したい。と考えると、この場合左の穏やかな部分をどこで止めるか。妙に切ると上の天女の雲が絡んでくるし。結局、カメラを右上へ振る(左から出てくる細く黒い水平な雲のギリギリまで、そして湖面を下から3分の1まで)。これで落ち着くではないか。
上の写真をちらちら見ながらここまで書いてきたら、出てきましたぞ昔の歌が。・・・あーさあだ、夜明けーだ、うしおの息吹、・・・・海の男の艦隊勤務、月月火水木・・・。手前に軍艦が出てきたら使えますな。
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■2.湖面A
旭に染まる雲を映す湖面の従順な表情。
◆上と同じ日の撮影かと思ったらそうではないらしい。上の写真では雲の影がきれいに手前に向かって(画面の上では上下に)伸びてくる。それに対してこれは上空にある雲そのものを映しているのだろう。その上空の雲がこのように色づいているということは、やはりこれも早朝の撮影か。左の明るいところにヨットを置いた(雲が勝手に演出したのかも知れないが)のは正解だった。右上にトンビでもいませんかな。
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■3.湖面B
航跡と風紋を穏やかに残す湖面の表情。
◆こうしてみると雲の影が表情を造っているのが分かる。細かいことだけど、2はヨットがすべて完全に画面上に入っている。3は左、下と2艘が半分切れている。この取り扱いの違いを検証しておくのも、今後のために必要だろう。ボクには何となく、3の方に動きを感じるが。2は完全に捕獲されて自由がきかない感じ。2は鎖国、3は自由貿易(出入り自由)。
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■森川邦昭
着信:2012.09.17
■いつも通う三上山への道中と登山道での撮影です。朝の光を受けています。 | |
■1.早朝の散歩道でA
登山道脇の葉っぱにスポットで当たった光をこの場合は周囲が暗くなることを想定し、さらに少しだけ周囲に当たった光を添えました。この光がもうひとつ効果が低かった(弱い)かと思います。
◆山道でよく見る葉っぱ。それに木の間漏れの光。森川さんのコメントで言い尽くされている。右上と左下、それぞれのグループから代表選手を1枚ずつ。右上は大きく少し黄色い。左下は青くいくらか小さい。そこらのバランスは絶妙。あとは右側の暗い部分に多少なりとも光が感じられれば。
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■2.早朝の散歩道でB
塀の影の角度から時間帯を表現、道路に何かを入れたい、そこに軽トラが通ってくれました。この場合乗用車よりも似合っているのではと選びました。
◆塀の下に置き石を並べた狭い露地。光る路面に影が落ちる。その先を軽トラが行く。「乗用車よりも
」という設定。確かにその通り。しかし、その思惑が何となく息苦しい。
仮に自分がクルマでこの場所へさしかかったときどう感じるか。人それぞれだとは思うが、大なり小なり、アリャーどないしょうと思う。ましてや軽トラが止まってでもいたら・・・。軽トラは現実には走っているのだろうが、絵の中ではまさに停車中。道路(奥行き)が塞がれた息苦しさ。
と、考えてみると、この場合、問題になるのは軽トラの位置。もう少し先で、もしかしてどちらかへ曲がってくれたら、その曲がりかけ。とにかく露地はある程度まで奥行きを見せたい。犬を連れた人物がベストだけど。
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■3.早朝の散歩道でC
斜めからの木漏れ日と季節感を表現しました。
◆前回の灯籠かとも思うがよくは分からない。心穏やか、いかにも秋を思わすな静かな写真である。森川さんのコメントには、「灯籠」の文字がない。灯籠よりもそれを取りまくススキの光を主と考えたのかも知れない。もしそうであったとしてもその意図は生きている。
以上を確認した上であえて欲をいえば、灯籠の右上の小さな白い点。それと左上隅の明るい黄色(黄葉しかけた葉っぱかな)が目立つから、少し押さえておきたい。前者は完全に抹殺してもいいと思うが、左上はつぶさず押さえる程度に。調整見本。押さえすぎるとまた雰囲気が変わるようだ。
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■MEGW
着信:2012.09.21
今回の写真は朝雲を3点をおくります。
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■1.雲なびく
三上山から?X字になびく雲、広角で切り取ってみました。
◆珍しい雲。どこかの某球団のマジック1を先取りしたような雲だ。これだ!ということで狙ったのは目に見えるが、よく見るといろんな矛盾も見えてくる。
1,空の雲は当然として、湖面の波の網目模様も捨てがたい。ということで、空も水面も結果的に両方に配慮した絵になった。
2.そして、広角を使って対岸は遠くなった。とはいえ、やっぱりぴょこんと飛び出した山は目立つ・・・、はずだが、低い雲がずーと対岸を覆い、肝心のVの谷の部分で、山と重なってしまい表情を単調な物にしてしまった。
1はMEGWさんの気持ちの振れだが、2は自然の条件。一見面白そうに見えながら、結構、いじわるな雲だった。
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■2.光芒の輝き
朝陽は光線強く難しい撮影で帰る途中振り返ると光芒が輝く景色、慌てて撮影した一枚です。朝夕の景色は辛抱強く待つこと、改めて痛感しました。
◆雲の背比べをしているようだが、絵として考えるとこの黒い横一線の雲はまいったな。何月何日の朝、琵琶湖の上にこんな雲が出ましたという、記録としてなら面白いが、写真としては敬遠すべき条件だった。
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■3.朝靄染まる
山並みに低く朝靄がたち、朝日を受け刻々と景色が変わる。七色の虹が・・・と歌いたくなるような朝の出来事でした。
◆3枚の中ではこれがいちばん問題点がない。だけど逆にいえば問題点がなくて、味ががなくなったともいえる。あーいえばこういうで、結局どないせーちゅうねんということになろうが・・・。
三上山と重なった草津の風車。これは重ねたのか、重なったのか。重ねるためには意図してそこへ立たなければならないわけで。離そうとすれば、またそれなりの位置を考えなければならないはず。風車を生かすか殺すか。これは十分考えなければならないところ。左半分の明るいところへこれを立てたら、この薄味の風景の中で、1つのポイントになったはず。
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■1.伴走:(希望ヶ丘)
競技を観戦をしていましたら足音と息使いが聞こえ振り向くとどちらが伴走者か慌てました。
◆かなりの望遠だとは思うが、真正面からカメラを向けるには勇気がいった。黒をバックに帽子など、ハイライトがいい。日中に撮ってもこれだけ影が伸びる時期になった。細かいことだけど、おじさんの右手(カメラから見れば左)が後の茶色の砂地に重なって、見えなくなっているのが惜しい。左手並みとまではいわないが、(身体の影になったりして、)多少なりともハイライトが当たれば申し分なしだった。
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■2.傘(赤白)一対:近江八幡堀 (明治橋)
新町通りの堀のコーナーでボランテェアさんの説明の時、堀端を行く赤白一対の日傘を慌て撮りましたが画面中央天に電線有残念、電線消す為の 1枚は引くしかありませんでした。
◆上のコメントをつけて「S.T1」、「S.T2]の2枚が送られてきた。多分、「S.T1」の上の電線が気になったので、ズームで伸ばして「S.T2」にした。という意味だとは思ったが、最終的にどちらを投稿するという指定がなかったので、枚数オーバーのルール違反。ちょっと意地が悪いかなと思ったが、「どちらにするか」を問い合わせた。
返事が来るまでの間、もう一度写真を見直した。「S.T2」は、電線云々よりも水に映った白抜けが致命傷。もしこれを指定されてきたら、笑ろとらなしゃーないな。しかし、「S.T1」には、致命傷になるようなものはない。S.Tさんは、「電線が・・・」というが、これにしたって白抜けしているわけではない。何?、電線。そんなものそこにあるのやから、しゃーないやないけ、と開き直ればすむ話。よしんばその開き直りを潔しとしないとしても、トリミングすれば逃げられる。右端に何か白い抜けがある。抜けた空間に石灯籠が立っているようにも見えるし、白壁の土蔵の窓のようにも見える。それをどう考えるかの問題はあるが、とりあえずトリミング見本を作っておくことにした。トリミング見本A(白抜けあり)、トリミング見本B(白抜けなし)。
返ってきたメールを見てうなった。
・・・・よく見ればトリミングすればいい事ですが、そのときは気がつきませんでした。ご指摘を受けた件ですが、添付しましたトリミング版に置き換えて下さい。・・・・
とあって、2の写真が貼付されていた。いうまでもなくこれは、私のトリミング見本Bとうり二つ。上部の隙間を残すか残さないかの差だけ。私は、ほんの少しだけでも隙間があった方が息抜きができていいだろうと考えた。S.Tさんは息抜きを犠牲にしてでも、フタをしたほうがいいと考えたのだろう。
最後に、私は白抜けのあるトリミング見本Aに、魅力を感じることを付け加えておく。
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■3.赤い屋根:(南信濃 遠山郷)
しらびそ高原から下栗の里の入口にある休憩所から南アルプスを見る。緑と赤い屋根、スイスの様に深い谷間でなく残念。
◆赤い屋根、屋根の置き石。昔は木曽谷、伊那谷、どこへ入ってもこの屋根が見られた。懐かしい。スイスはともかくとして、この場合谷筋が見えることがポイントになると思う。建物と木との間に、ちらっと街道らしいものが見えるが、これがもう少し見えると、谷の深さが表現できたのだが。
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■SS
着信:2012.09.23
■撮影場所:
香川県 直島 ベネッセアートサイト直島 | |
■1.何処から
何処から流れて来たのか、はたまた何処へ流れて行くのか大きな南瓜。
◆野外アートのイベントらしい。ポイントはいうまでもなく大きなカボチャ。大きさは並んで立つ人物でおよそ見当がつく。島崎藤村の「椰子の実」のイメージにつながっていることも分かる。
しかし、そのカボチャまでの距離が分からない。何mかということではない。この大カボチャまでの距離が何を意味するのか。カボチャを遠くに置いた意味が分からない。人物が近くにいるのだから、立入禁止ではなさそうだし、手前の赤トンボと大カボチャの大小逆転でもなさそうだし。
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■2.おもいおもい
松の木陰でくつろぐご夫婦、通り過ぎる若者、海を見ているアート作品の猫、皆おもいおもい。
◆松の木、人の影、それがシルエットでそこまでは分かる。ネコだというアート作品の意味が分からない。どうしてもここでネコが必要だとしたら、もっと近寄って、これがアート作品のネコだということをはっきりさせる必要があるだろう。背中に穴があいていて、大型の灰皿をイメージさせるが、このままだとするとネコが風景の邪魔をした。
別の問題として、1でも多少その傾向を感じるが、このように明るい場所では、オート撮影は必ずアンダーになる。雪が灰色に写るのと同じ理屈。最低限明るさの調整はしておきたい。調整見本。
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■3.ちょっと失礼します
ちょっと失礼して撮らせていただきます(カメラマン)。私もそれを撮らせていただきます。
◆まさか自転車が作品だとは思わないが、カメラマンが被写体にしている「新聞を読む人物」は作品らしい。奥の人物の組み合わせを撮ったらしいが、それよりも手前に自転車の方がはるかに強い。もし奥の人物を目玉にするなら、90度右へ回って、作品とカメラマンを前後に重ね、望遠で狙うことだろう。2人を圧縮してくっつくように狙っているところを表現する。いずれにしても自転車は要らない。
以上3点とも、アート作品に振り回された感あり。
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■1.秋の足音:(希望が丘)
希望が丘を歩いていると、涼しげな風が草を扇ぎながら通り去って行く、それがとても美しく、私の指がシャッターを押しました。
◆まあ、足でシャッター押すヤツはおらんけど・・・。いや、これは独り言。・・・もっとも最近、ボクは口でシャッター押しとるけど。・・・独り言の続き。
うん、たしかにきれいやった。名前はわからんけど、さらさらとして。問題はこの木との組み合わせかな。草は左の方が影になっている。それと木とを組み合わせた。木には葉っぱが残っている。そこで話がややこしくなった。100%の自信を持っていうわけではないが、この場合は木がなくても絵になったのではないか、草の陰だけで。もし木のない写真があれば較べてみたいところ。どうしても木を置くとしたら、右側に置く手もある。頭で考えていても仕方ない。とすりゃこの場合はやっぱり手で押さなしゃーないか。
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■2.浜辺の花に:(丹後)
丹後の浜辺に貝が花のようになっているのに目がとまりました。
◆浜辺の貝は分からなくはない。でもバックの黒いどろどろのイメージはしんどいな。もうちょっとカメラ位置を変えたら、海面を持って来れたのじゃないのかな。
それと、仮にそれが解決したとしても、貝がらが一枚では絵にならなかっただろう。
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■3.伊根の夕刻:(丹後)
仕事を終えて帰る船、カモメも家に帰るそんな伊根の夕方です。
◆船が2艘併走しているようにも見えるし、そうでないようにも見える。屋根が見えるが、それも手前の船のものか、これもよくはは分からない。そこらのごちゃごちゃに先ず目が行ってしまう。そののちカモメの軍団に目が移り、最後に海面の夕映えで、やっと題名に行き着く。そして改めて全体を見直して、手前の波にピントが来ているのに、鳥のピントが甘いのは、鳥が近すぎたのか、流れているのかと考え出す。
まあ、これはこれでよかったのだろう。波よりは鳥の方が近く、鳥にピントが合うと船は多分ぼけるだろう。もう少し夕日が赤かったら、いい写真だったろう。
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■1.闇の中の美:(御上神社)
何の花かはわかりませんが、人知れず咲いている姿にそそられて撮りました。
◆真珠のような光を持った花だ。軽いストロボが飛んだのか、それともカメラの真後ろからひかりが来る条件だったのか、真珠玉一つ一つの中心部がちかっと光っている。それが結果的に茎全面にほとんど影がない状態を作り出した。斜めから光が来ると光が当たった方が明るく、反対側が暗くなるはず。左の写真にはそれがない。茎には影が見えない。
光を読んでカメラポジションを決めたら、もっと立体的なイメージになった。多分カメラが自由に動けない苦しい場所だったようだ。余り無理は言えない。右端に見える円いボケは、あと少し左へ寄せて(カメラが左へ寄る)、半分ほどカットした方が安定する。
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■2.見つけた!:(御上神社)
親子共にセミを探している姿に感動。ともすれば、どちらか一方だけが一生懸命というのが最近の定番。とても嬉しい光景でした。
◆「どちらか一方だけが一生懸命」、余り深く考えたことはなかったが、そういう風潮があるのか。そういわれたらそうかも知れない。なるほどね。見上げている方向を考えると坊やが持っている網では絶対無理やね。でもどこにいるのか一生懸命探す。これが大きくなってからの宝になる。
OMさんは大木を含めた神社の雰囲気を意識したらしいが、たとえば狙っているのはセミで、木の上にいることは分かっているのだから、鳥居と灯籠とでこんなトリミングの考え方もある。トリミングが大きいのでピントが怪しくなる。トリミングというより、撮影の時点でこんな考え方もあったかなという例である。
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■3.愛のレッスン〜逃避行〜
:(野洲川)
何枚か撮った一枚です。最初はエサを捕ったりしていたのですが、両親に背を向けて・・・。遊びたかったのか・・・。子どもの姿から想像して題をつけました。写真としては・・・です。
◆随分思い入れのある題で、見たときはびっくりした。遊んでいるのはシラサギで、右の方はアオサギに見えるのだが違うのかな。
シラサギにせよアオサギにせよ、用心深い鳥で、少しでも足音を立てると逃げてしまう。これだけ大きく撮るにはかなり長いレンズを使っているのだろう。それにしてもシラサギの足や首の細さ。それがうまく表現できた。シラサギの身体が黒い中洲をバックに出来たら、左から来る光によるハイライトだけで型取られ、繊細な表現になって面白かっただろう。
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■1.鵜飼いA
◆船に乗って鵜飼をショーとしてみるのだそうだ。私は50年ほど前に岸から見たことはあるが、このように船に乗って見たことはないので、撮影の条件などは分からない。できあがったものを見てイチャモンをつけるだけだから悪しからず。
ひとことでいえば鵜飼の様子が手にとるようで、分かりやすい写真だ。初めてならばこれで十分だと思う。細かいことをいえば手前の鵜2羽に当たっているストロボの光。鵜庄さんが乗っている船は篝火の明かりで夜の雰囲気がうまく出ている。ところが鵜にはストロボの光があたり、篝火とは光の質が違う。篝火の光は赤く、ストロボの光は白い(昼間の太陽と同じ光)。異質な光が混じり合うところに違和感が生じる。しかし、これは本格的に鵜飼を狙おうとするときに問題になるぐらいで、普通ならばこれでOKだろう。
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■2.鵜飼いB
◆篝火から少し遠ざかった。1に較べて距離にしたら、大きな変化はなさそうだが、それでも随分違う。篝火自体の光も多少弱くなっている感じ。お互い変化しているのだから、こういうことは往々にして起こることだろう。こういう場合、そのままほっておかずに明るさを調整すればよい。デジタルの場合、暗から明への調整は比較的無理が利く。明るさ調整例。
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■3.鵜飼いC
◆まだ空の明るさが残っている。鵜飼の開始に当たっての鵜くんの紹介らしい。羽を広げて格好をつけている。割に近くらしく、ストロボの光が画面全体にきいた。結果船縁などが全体が明るく単調になったが、それはそれで仕方ないことだろう。鵜くんの芸に拍手。
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■1.クモの巣
◆YSKさん、初登場、よろしく。見事なクモの巣である。画面を拡大してとくとご覧いただきたい。几帳面なクモと見えて、ほとんどほころびがない。見事な巣である。右上の白抜け部分にも糸が見える。
クモの巣というヤツは難儀なもので、キラリと光らなくては存在感がない。当たり前である。いつもかも光っていたのでは獲物はつかまらない。クモの巣が光るのは、それに当たる光の角度とその反射光を見る場所。これが決まったときに光る。そのときバックが気に入らないからと、少しカメラの位置を変えるとトタンに光らなくなる。何ともはや前号(9月前半)で館長さんがいう「二律背反」の世界である。
さて、前口上はこれぐらいにしておいて、この写真には驚いた。写真の出来もさることながら、驚いたのはその製作過程にである。
左の写真がオリジナルである。YSKさんの言によると、私はこの写真を以前に見ているのだという。そして、「クモの巣はエエけど右斜めのハイライトがなー・・・」と嘆息かたがたいったという。申し訳ない。何の記憶もない。記憶はないが、この写真を見せられたら、いまでも間違いなく同じことは言う。そばでこのやりとりをきいていた教室のみんなは、「当たり前や私ならその場で捨てる」。
それでもYSKさんは捨てなかった。デジカメ版松下禅尼やね。(読み飛ばしたら罰があたりますぞ。相模守時頼の母・障子の破れを切り張りして、倹約の生活を時頼らに教えた話。徒然草にあり)。そして修復したのが上の写真である。
ハイライトをそこへ入れたのは私(YSKさん)の責任。クモのせいではない。まずそのハイライトを緑で埋めた。当然、その部分のクモの糸は消えてしまう。それをどうして復活させたか・・・。「次号へ続く」と行きたいところだが、そういうわけにも行かないし、種明かしをすると、なんと「描いた」のだという。そりゃーいまどきのことだ。線を引くぐらいのソフトは探せばすぐに見つかる。問題はそれをやろうとしたこと。
ちなみにYSKさん、私と同級生、もちろん学校は違うが昭和15年、金鵄(きんし)輝く日本の・・・紀元は二千六百年の小学校入学組みである。いやー、まいったマイッタ。
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■1.黄金のツル:(野洲川の堤防)
西陽を受けて光っている、つる草です。
◆太陽をギリギリのところへ置いて、難しい逆光。蔓草をうまく捉えたが、まん中に1本だけというのが芸がなかった。もちろん右下にお愛想が着いてはいるが、離れすぎてこれを脇役には無理だった。左上に夕空を入れたのは正解。これがなかったら息が詰まる。
写真をやり出して最初のころの絵作りはとにかく空は極力入れない。その段階がクリアーできたら、今度はどこまで入れるか。「入った」空は死ぬが、「入れた」空は生きる。
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■2.寺院と教会:(長崎県平戸市)
寺院と教会が隣接する、珍しい組み合わせです。
◆平戸カトリック教会。お寺と教会が混在する不思議な空間。確か仏教式のお墓の向こうにこの教会が見える風景もあった。遠い昔、ここに立った記憶があったので、古い写真を調べてみた。出てきたのがこの写真である。おそらく±1mぐらいの誤差ではないか。手前の2つのお堂と教会とを組み合わす。狭い坂道だから位置は自ずから決まってくるようだ。私の位置より、館長さんの位置がわずかに右うしろということらしい。私の写真では、左のお堂の先っぽと境界の左端が重なってしまっている。館長さんはその点見事クリアー。それが1mの差。
上の写真もモノクロームのように見える(ところどころにうすい色は見える)。意図してこの表現にしたのか、自然の成り行きか、どちらとも判断しかねるが結果的には成功だった。絵としてはもう少しレンズを伸ばして、ポイントを押さえた方がよかったか。
ちなみに私の撮影日は1969(昭和44)年3月、いまから43年前である。どちらの空も白く抜けている。撮り直しがきかない遠征写真の苦しさである。
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■3.出口:(長崎県佐世保市)
JRの電車内から、トンネルの出口を撮りました。
◆この露出はうまいこといった。普通こういう場合はトンネルの黒に負けて、開口部は白く飛んでしまう。たとえばスポット測光などの手もあるが、現場に立って急に操作は難しい。その点はどんぴしゃり。
問題は開口部をどれぐらいの大きさでどこに置くか。いまの場合は小さかった。走っている電車からの一発勝負だから、「いま」を切り取るのは難しい。トンネルの出口というのだから、電車の前に立って、近づいてい来るのを撮った。人間は意識したものを大きく感じる。それと待ちすぎてチャンスを逃がしてはいけないとの気持ちから、どうしてもシャッターを早く押してしまう。
これで目の前一面ぐらいに感じたのかも知れないが。トリミング見本。トンネル内のレール。出口の信号が生きてきた。
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