付章2 谷文晁が見た三上山

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別項・「三上山スペシャル・谷文晁が見た三上山」=ふるさと富士サミット講演録
「三上山スペシャル・谷文晁超広角の世界」(「文晁が見た三上山」あっと驚く後日談)
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 江戸時代後期の文人・谷文晁(たにぶんちょう1763〜1840)が描いた『日本名山圖絵』という図録がある。左はその中に描かれた三上山である。
 30年ほど前、三上山を撮りだしたころに、『新編日本名山圖絵』(1977青渓社刊)という本でこの絵の存在を知った。しかし、そのころの私にはこの絵を読み解く力はなく、「いくら何でもこれは違うぜ」と、いつの間にかこの本の存在を忘れてしまっていた。
 その後、最近になって山岳写真家三宅修氏の『現代日本名山圖絵』(2003実業之日本社刊)という本に出会った。文晁が描いた全国88座の視点を探し求めて撮影した労作で、昭和30年代から40年近くの歳月をかけたものという。
 今回、本書の編集中に、このことをふと思い出した。イメージだけを強調した架空の絵と思いこんでしまっていたのだが、やはり視点を定めた位置があったのではないか。としたらそれはどこか。三宅氏には遠く及ばないが、三上山だけなら私にもその場所を探し出せるかもしれない。
 この写真集を最初から連続して見ていただくと分かるが、撮影位置の方位が変わると、山の並び・重なりが変化する。このことからピークの並びを読めば、撮影方位がかなり正確に読める。あらためて文晁の絵を見直してみた。

 左に大きく主峰雄山、これは疑うべくもない。右側の小さい山2つ。これが議論の分かれるところだが、私はこの2つのうち、左側の小さい山を雌山、右の大きい山を菩提寺山と判断した。3つのピークの距離の比は、雄山と雌山の距離を2とすると、雌山・菩提寺山の間が1ということであろうか。
 3つのピーク間の距離の比がこの割合に見えるのはどのあたりか。方位300度のスケッチ図がほぼそれに近いが、菩提寺山が離れすぎている。もう少し左へ寄せたい。そのためには、自分が左へ移動すればよい。ということでだいたい305度前後と読んだ。
 あとは距離である。文晁の絵では雌山より菩提寺山の方が大きく見える。この方位で、平地から見て雌山と菩提寺山が同じ高さに見えるのは、三上山からほぼ6Kmの位置である。とすれば求める位置は少なくともこれ以遠ということになる。
 また画面の右端、堤防上を人と馬が歩いている。これは多分野洲川だろう。文晁の絵では、三上山に向かって左が田圃になっている。ということは画面の右外が野洲川だということになる。すなわち文晁の位置は野洲川の右岸であろうと推理した。

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 推定した場所・守山市水保町旧野洲川南流右岸(地図)に位置を定めてカシミール3Dで作画してみた。それが左の画像である。多少理に合わないところもあるが、私はこれが文晁の位置だと信じている。100%とは言い切れないが、少なくとも半径50mぐらいの誤差であろう。文晁はそれぞれの山体の幅は変えずに高さを約3倍に強調し、ピーク間の距離を約2倍に広げて描写した。当然それらの山体間に隙間ができる。そこを遠景の山で埋めているのだが、理に合わないのはその部分だけである。

 それにしても文晁はどのような目を持っていたのか。現地から撮影したとき、いまのカメラでも写らない三上山本体の西尾根をきっちりと描いているのである。これはこと三上山だけに限らない。例えば伊吹山。私には一つの山塊にしか見えないその山に、文晁は2本の尾根を書き込んでいる。念のために地図を見ると間違いなくその尾根が見える。けっして架空のスケッチではない。

 なお、三宅修氏は、『現代日本名山圖絵』に三上山の写真として、野洲市の野洲川河川敷公園から撮影したものを掲載しているが、後日、比良山撮影のとき、琵琶湖大橋の頂点から東を見て、あっと声が出たという。三宅氏はそこに文晁の絵と同じ3つの峰の並びを見た。ちなみに、その点の三上山からの方位は309・5度、私のポイントと1度の差でしかない。



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