湖国のシンボル・三上山。古来、人々はこの山を、神の山としてあがめてきました。
山麓にある御上神社の社伝によれば、
孝霊天皇6年に、天之御影の命が三上山山頂に降臨されたので、神孫の御上の祝等は、この山を清浄な神霊の鎮まります山として齋まつった。
とあり、「御上の祝」の名は古事記にも登場します。
琵琶湖の東側には、鈴鹿山系から流れ出る大小の河川による沖積平野が広がっています。その中でも、主峰・御在所岳を源とする野洲川のそれは、湖成沖積平野としては、我が国最大のものといわれ、大きく琵琶湖へ張り出しています。三上山は、その野洲川沖積平野の東のはずれ、滋賀県野洲町(現野洲市)三上に位置します。標高432m、決して高い山ではありませんが、平野に立つその姿は凛として高く、その存在感は他を抜きんでています。
かつて、原始の人々が野山にまだ踏み分け道しか持たなかったころ、獲物を追っての原野の行き交いに、沖積平野に突き出たこの美しい山が、方向決定の役割を果たしていたことは想像に難くありません。一つの磁性体が周囲に磁場を作るように、この三上山は、南近江路全体を一つの緊張空間とし、そこに住む人々に、強い影響を与える求心体として存在し続けて来たであろうと考えます。
中生代末期、今から8000万年ぐらい前のことです。古生代に形つくられた日本列島の骨格となる陸地に激しい火山活動が起こり、花崗岩がその上にある古生代の堆積岩を押し上げたり、マグマがその隙間に貫入したりします。そのときの火山活動によって、今の地名でいうと、彦根・沖島・近江八幡・野洲・永源寺を結んだ円形のカルデラがあったといいます。
三上山のもととなる岩塊は、このカルデラの外側にあって、静かに熱変成を受けていたのでしょう。そして、固く緻密になった岩体は、大カルデラ本体や周辺の古生層の岩石が浸食し尽くされた後に残されていくことになります。実際に登ってみれば分かりますが、登山道の所々に露出している岩は非常に硬く、近隣の山々、例えば田上山や岩根山などの花崗岩質の岩肌との違いは一目で分かります。このため、この山は他の山に比べて風化や浸食をうけにくく、いつのまにか他に抜きんでる存在となったのでしょう。
神が降り下ったという巨大な岩座は、現在も、山頂の奥宮の前に静かに横たわり、ファミリー登山の休憩場としてのつとめを果たしています。
打出でて 三上の山を ながむれば
雪こそなけれ ふじのあけぼの 紫式部
大津打出浜に立って紫式部が詠んだ歌です。 三上山は、古来、幾多の人の目に映ってきました。いまも晩秋から初冬にかけて、太陽が昇って一時間ほどたったころ、寓居の窓から見る三上山は、透き通るようなライトブルーを呈し、何ともいえない美しさです。そして、寒い冬の朝、夜来の雨が上空では雪だったのでしょうか。頂上付近に薄く雪をかぶった三上山は、まさに墨絵そのものです。
しの原や 三上の嶽を 見渡せば
一夜のほどに 雪ぞつもれる 西行
西行法師もこのように歌っています。
「先代旧事本記」に、
一夜に近江の地折れて湖水となり、その土は駿河の富士山となる。土の少し残れるを故に、三上山となす。
とあり、また「東海道名所記」には、
昔、富士権現、近江の地をほりて富士山をつくりたまひしに、一夜のうちにつき給へり。夜すでにあけければ、もこかたかたをここに捨て給ふ。これ三上山なり。
とあります。三上山生成にまつわる伝説です。
昔、神様が国造りのとき、近江の国の真ん中に湖を作って、その土で駿河の富士山を積み上げたのだが、最後のもっこ一杯分を残しておいたのが三上山で、日本一高い富士山のてっぺんは、その分だけ平になっているのだというのです。
このように、三上山は琵琶湖と切っても切れない関係にあります。湖西路、国道161号沿いに立って琵琶湖を眺めるとき、三上山はひときわ目を引きます。かつて、天智天皇が大津京を建設したときも、湖上はるかに浮かぶ三上山を強く意識しただろうと想像します。大津京の宮殿が建っていたとされる、いまの大津市錦織の地から見る三上山は、神々しいまでに高く印象的です。
「万葉集」第1巻に「近江の舊堵を感傷みて作る歌」として、
ささなみの 国つ御上の心さびて
荒れたる京 見れば悲しも 高市古人
というのがあります。さざなみの国を守る神の心がすさんだために、荒れ果ててしまった大津京を見ればうら悲しいと解釈されています。
「ミカミ」の語源は、「御上」とも「御神」ともいわれています。そう考えると、この歌は、大津京を対岸から見守ってくれていた御神(三上山)からも見放されてしまった悲しみを歌った歌ともとれます。大津京がほろびる直接の原因となった壬申の乱において、近江朝軍が大海人皇子の軍に破れたのが野洲川のほとり、三上山の麓であったことを思うと、いつのまにか「ささなみの国つ御神」が「御上」になり、「三上」と重なってしまうのです。
ところで、前出の「東海道名所記」に、
(石部の)宿のまちはづれより、右のかた一里ばかりに三上山みゆ。世にこれを百足山という。その山のかたちは、うつくしうて、ちいさき富士の山なり。
むかし、この三上山を七巻き半まとひてすみける百足あり。勢多の橋のしたにすみける龍神をおびやかして、ころさんとしけるを、俵藤太秀郷ただ二矢にて、むかでをころしたり。その報恩に、米の俵一つ。絹一ひき。釜ひとつ。鐘一つあたへたり。秀郷を俵藤太といへるは、この故なるべし。
とあります。ご存じ百足退治の伝説です。
いうまでもなく、いまの国道1号がかつての東海道沿い、8号が中山道沿いに当たるわけですが、どちらをとっても三上山はよく見えます。いまのように高層建築がなかった昔の街道筋からは、それこそ手に取るように見えたことでしょう。三上山が富士山のミニチュアとして、旅人に愛されていたことが想像されます。
江戸へ下る旅人は三上山を見て、まだ見ぬ駿河の富士山に思いをはせ、京へ上ってきた人は、この山を見て京近きを知り、すでに見てきた富士を思い返したことでしょう。
富士を見ぬ 人に見せばや 近江なる
みかみの山の 春のあけぼの
これに対して、いや「富士を見し人に見せばや」であろうといったとかいわなかったとか。富士を見た人、見ない人が、一里塚で休みながらこんな問答を交わしているようすが目に浮かびます。守山市今宿町の旧中山道沿いに、一里塚が市指定史跡として残されていますが、おそらく昔の旅人はここに腰を下ろし、三上山を眺めて道中に思いをはせたことでしょう。
この一里塚を過ぎて、旧中山道を野洲に向かって進むと野洲川橋です。鎌倉時代にかかれた「海道記」には次のようにあります。
田中うちすぎ民宅うちすぎて遥々とゆけば、農夫ならび立ちて荒田を打つ声、行雁の鳴きわたるが如し。……かくて三上の嶽を眺めて八洲川を渡る。
いかにして すむ八洲川の 水ならむ
世わたるばかり 苦しきやある
いうまでもなく、八洲川はいまの野洲川のことです。野洲川は、鈴鹿山脈に源を持つ県下最大の河川ですが、そのほとんどが花崗岩質の山間を流れ下るため浸食作用が大きく、出水時には激流となりますが、普段は水量が少なく伏流となるため、平野に出てからは中州が多くできます。八洲川はその中州の多い状態を称したものだといわれています。
「近江名所図絵」には、
野洲川、横田川の下流なり。末は湖水に入る。この河水をせき入れて、布をさらしけるもの多し。至って白し。
とあります。野洲川の水をせき入れて布を晒す作業は、昭和の初めまで行われていたといいます。昭和54(1979)年に出版しました『四季近江富士』をご覧いただいた方から、「私の親の時代まで晒し業を家業としてやっておりました。子供ごころのその風景の記憶があります」とのお便りをいただいたことがあります。
ところで、この「至って白し」は、何が白かったのでしょうか。文脈からすれば、晒した布が白かったと解釈するのが自然ですが、野洲川の河原が「白かった」ととれないこともありません。鈴鹿山地の花崗岩が風化して流出してきた砂礫は、夏の昼どきなど、眩しいばかりの白さです。そしてその上の真っ白な晒し布、すべてが白かったのでしょう。
白砂の上を行く清冽な流れ、その流れに三上山が影を映しています。
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