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写真集『四季近江富士』

は る

初稿UP:2012.02.14
 

 

1001.石仏春色

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 撮影日:19xx.xx.xx
場所:野洲町(現野洲市)三上

2004年ごろの様子・1

 県道504号(旧道)と国道8号に挟まれて広がる田畑の一角。野洲町行畑から野洲高校のグラウンドの横を通って三上へ向かう。車の場合ならフロントグラス全面真正面に三上山が迫ってきて、初めての人は息をのむところである。 グラウンドを後ろに少し行くと、左手に日通の倉庫が見えてくる。その手前の農道を左折。300mほど行くと、 細い橋があって車は通行不能になる。そこの水路の横に、この柿の木と石仏がある。昔からの写真を確かめてみると、水路や水門の工事によって何回か置き換えられてはいるが、石仏そのものはかろうじて昔の雰囲気のままに残ってきた。周りの状況を無視して、石仏だけを撮るのなら十分絵になるところである。
 問題は、三上山の麓を走る国道8号沿いの建物である。どう隠しようもないところに、派手な黄色系統の大きな倉庫が建っている。せっかく石仏が残っていてくれたのだから、何とかとの思いが強いが、どうしようもない。 「35.秋の午後」のように、石仏そのもので倉庫を隠す手もあるにはあるが、安定した絵にはならない。 「秋の午後」以外に 「37. 石仏秋色」も同じ場所からの撮影である。

 

1002.梅匂うころ

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 撮影日:19xx.xx.xx
場所:大津市千野

2004年ごろの様子・1

 三上山を撮りだして約4年。どうしてこの梅林を知ったのか。多分、湖西の高台からというイメージで、地図を頼りに山あいへ入り込んで偶然見つけたのであろう。場所は雄琴温泉街の背後、千野の集落から直線距離でさらに2Kmも山手へ入ったところである。淡い記憶だけを頼りに、それらしき山道を走ってみた。県道とはいえ対向車が来たらどうしようもない細い道である。ひやひやしただけで、気がつけば坂本だった。  あらためて千野へ出なおし、道を尋ねると、「梅林がなくなってもうだいぶになるな、道は細いけど滅多に車は通らんから…」、よく聞けば、先ほどの道の途中から、さらに 山手へ入るのだという。何となく見覚えのある細い道を登り切る。そこには、棚田の上と下に離れて 民家が2軒建っていた。もちろん梅林の姿はどこにもなかった。

 

1003.菜の花畑

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 撮影日:1980.04.25
場所:野洲町(現野洲市)北

2004年ごろの様子・1

 野洲町北集落の近くにあった菜の花畑。その向こうの田圃には水が張られて、はや田植えの準備。4月下旬、移動性高気圧に覆われた好天の日の夕方、 バイクで帰るときの風が異様に寒かったのが記憶に残っている。
 右手のケヤキの木から画面いっぱい横に並ぶ家並みが北の集落。このケヤキの木は今も健在である。三上山の右裾の低い山が妙光寺山、左手に高くとがっている山が田中山。山火事に遭う前の緑豊かな姿である。その左手の鞍部越しに山が2つ見えるが、手前の低い方が菩提寺山、後ろの高いのが阿星山である。
 家棟川と平行に「新川」と呼ばれている水路が流れている。小南のほうから農免道路を走り、新川沿いの農道を左折する。あたりは全面田んぼだから、どこからでも三上山が見える。
 この写真を撮ったのは、北墓地の近く。田んぼが家庭菜園風の畑に変わった以外、大きくは変わっていない。

 

1004.春の宵

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 撮影日:1978.03.24
場所:野洲町(現野洲市)南桜

2004年ごろの様子・1

 現在のさくら墓園付近での撮影である。私が三上山を撮りだしたころは、大山川の堤防は木々がうっそうと繁り簡単には近寄りがたく、そこに川があることはわかっていても、川の流れそのものを見ることはできない、そんな状態であった。 今はそれらの木々がすべて切り払われ、堤防は公園化されて明るくなった。
 そのころの大山川は現在のさくら墓園の外縁を巻くように流れていた。もちろんさくら墓園が先にあったわけではなく、もともと北に蛇行していた川を直線に戻し、その土地を墓園にしたのだが……。
 こうして大きく変化した中で、唯一風景の生き証人として残っているのがバス道沿いの竹やぶである。 「17.竹の秋」に当時の姿が残っているが、写真の梅林は、この竹やぶの画面の左から巻くように 斜面を下ったところにあった。現在墓園の西端をかすめるように道路がつくられ、大山川をまたぐ南北桜橋がかかっているが、竹やぶを基準に考えると、この橋の近辺が梅林の位置だったかと思われる。なお、 2004年ごろの様子・写真4は、もしいま撮るとするならばというイメージ写真である。

 

1005.花・三上

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 撮影日:1981.04.11
場所:野洲町(現野洲市)妙光寺

2004年ごろの様子・1

 三上山と妙光寺山との山あいにある農業用水池、地元では御池の名で親しまれている静かなたたずまいの池である。その周辺に何本かの桜が植わっていて、 この年は見事な花をつけてくれた。
 国道8号から妙光寺の集落を抜けて、山道になるところに石橋があり、そのそばに「この先行き止まり」の看板が立っている。確かに行き止まりに違いないと納得しながら山道を曲がると、突然道をふさぐゲートが現れて立ち往生。 イノシシよけ のゲートで、「出入りの人は扉を閉めておくこと」とある。通れないのかと驚いたが、まずは一安心。
 現場は三上山そのものに近く、肉眼で見ると仰ぎ見る形になり、けっこう高さを感じるのだが、カメラでは必然的に広角レンズとなり、 残念ながら山は寝てしまう。季節の違いにもよるが、昔に比べて現在は、見通しがよくなったような気がする。桜の木の本数も減ったようである。
 次の 「6.花かおる」も同じ場所からの撮影だが、「5.花」のほうが山に対して若干右の寄った位置から撮っている。

 

1006.花かおる

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 撮影日:1981.04.11
場所:野洲町(現野洲市)妙光寺

2004年ごろの様子・1

 「花の命は短くて」という。桜の花の最盛期、いわゆる満開の時期は何日続くのだろうか。 その年その年の条件によって多少の揺れはまぬがれないが、長くて一週間、短ければ4、5日ぐらいだろうか。 仮にそれを一週間とすれば、理屈の上では、その期間中に必ず一度は日曜日が巡ってくるはずである。と書けば 簡単なようだが、これは言い直せば一年に一度だということである。それに天気の条件が加わると、確率は極端に低くなる。 勤めを持っていて、日曜日だけしか撮影できない立場のものにとっては、桜を撮ることは容易なことではない。 私の場合も、この桜が撮れたのは、撮影を始めて6年目だった。
 場所は、「5.花・三上」と同じ場所である。今回久しぶりでたずねてみた。前述のように、いのししよけのの囲いはここにも巡らされており、周辺に多少の違和感はあったが、 木はかろうじて残っていた。しかし、木そのものに昔日の勢いがなく、枝ぶりもずいぶん変わっていた。本当にこの木だったのだろうかと見直したほどだったが、この20年間の自分自身の変化を見直して納得したことだった。

 

1007.春の午後

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 撮影日:1981.04.25
場所:野洲町(現野洲市)南桜北

2004年ごろの様子・1

 野洲町南桜、畑の向こうは大山川の堤防である。画面のどこにも位置の基準になるものがないので、山の形と記憶だけを頼りにする以外方法はない。 画面の左端に見える雌山に向いた畦を探したが、 ここかなと思えるのは大山川近くの家庭菜園付近だった。しかし、山頂の形が少し異なっている。結局は県道野洲甲西線と大山川、および高圧送電線で囲まれた三角形の中であるという漠然としたことしか分からない。
 ところで、この大山川の堤防、何となく荒れた感じがする。右端には横になって倒れかかったような木も見える。20年以上も前のことで 記憶も定かでないが、元々はもっとこんもりしていたような気がする。この時点ですでに大山川の改修工事が始まっていたのであろう。 この写真集に収録した作品だけ見た場合、先ほどの三角形の中から撮ったものが、1981年に集中しているのも、それを意味しているのではないか。 改修にかかる前の樹木は背が高く、この場所からでは三上山が見えにくく、絵にならなかったのであろう。背の高い樹木が切り払われて、視界が開けそれを機に撮り集めたものであろう。
 「45. 霧に浮かぶ峰」「57. 雪野夕照」も同じ場所からの撮影である。 

 

1008.麦 秋

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 撮影日:1981.06.07
場所:野洲町(現野洲市)南桜

2004年ごろの様子・1

 麦畑の中で、竹竿につるされたカカシが風に揺れていた。県道野洲甲西線と野洲川との間に広がる田園地帯、当時としては遠景の近江富士団地の家並みが多少気にはなったが、今となっては広々としたのどかな風景である。
 「26.夏の夕暮れ」に見るように、南桜の集落付近から見る三上山の山頂はちっきりと尖って見えるのに、ここまでくると、その尖りがなく頂上部が波打って見える。 山頂を中心として、角度で10度あまりしか違わないにもかかわらずである。
 昔の写真を撮ってから、圃場整備が行われたから田圃そのものに昔の面影はない。いまその場所を確かめるには、山頂の形と20年以上昔の淡い記憶を頼りに、現物合わせをするしかない。そういう意味で、地図の上の位置は、 およその目安でしかないのだが、 右裾の山の重なりなどから見て、おそらく誤差は半径50m以下であろうと思われる。なお、写真集「四季近江富士」の書籍版では、この写真が編集者の意図で、左右がカットされ縦位置として収録されている。

 

1009.霧の野辺

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 撮影日:1980.06.08
場所:野洲町(現野洲市)三上

2004年ごろの様子・1

 国道8号御上神社前から県道504号を野洲市大畑の方へ向うかと、野洲川河川公園への道を左へ分ける十字路に出会う。右へ行けば三上集落に通ずる農道である。現場写真を見るとコンクリートの電柱が2本立っているが、これがこの農道沿いに立っている。 ということで、現在、何とか写真になるのは御上神社の森からこの農道までである。これより外側では電柱が邪魔をして絵にならない。
 話が横道にそれたが、この十字路を越して20mほど行くと、右手の田圃の中から車が一台通れるぐらいの細い地道が合流してくる。この 合流地点あたりに、六体の石仏が並んでいた。写真では五体しか見えないが、左の草の陰にもう一体隠れている。
 この写真には、「霧の野辺」という題をつけてはいるが、実は霧の日ではなく、 小さな穴をあけたトレーシングペーパーをレンズの前へ当てて撮影したものである。穴の大きさ、穴の位置、紙とレンズとの距離などにより微妙に効果が変わる。

 

1010.三上倒影

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 撮影日:19xx.xx.xx
場所:野洲町(現野洲市)三上

2004年ごろの様子・1

 4月下旬、田圃に水が張られると水面が空の光を返して天地が急に明るくなる。田植えが終わって水面に藻が発生するまでの一週間か10日ほどの間、三上山がきれいな影を映す。
 場所は、「01.石仏春色」のすぐ近くである。 行畑から野洲高校のそばを通ってバス道をR8三上に向かい、ペリカン便の倉庫がある十字路を左に折れる。 150mほど進むと十字路がある。三上山のほうを見るとこの民家が見える。新たな農道でこの風情はなくなっている。もっとも2軒の民家にこだわらなければ、 写真3の右端に見えるように、三上山の投影を見ることはできる。また、石仏の前に立って三上山の方へ向き、右前方を見るとこの民家が見えてくる。 「37.石仏秋色」で画面右端に民家そのものが写っているので、それを見ていただくと位置関係は一目瞭然である。
 

 

1011.小屋一つ

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 撮影日:1978.05.26
場所:野洲町(現野洲市)北桜

2004年ごろの様子・1

 国道8号、御上神社前から 県道27号を、旧甲西町のほうへ向かう。希望が丘口信号の少し手前に瀟洒な交番があって、その裏手に立つと、いまもこの小屋は見える。しかし、その存在感たるや昔日の比ではない。左右をできるだけ絞ってもこのとおりである。ましてや視界を広げるとかくの如し。
 山の形も今ひとつ、完全な上下対称、その上にど真ん中の小屋は日の丸構図の見本のようなものだから、大きな顔が できる写真ではない。しかしその小屋に向かって収斂していくイネの線は、それらのすべてに目をつぶらせる魅力があった。
 実は、 この場所に始めて出会ったときには、小屋の右側に柿の木が一本生えていた。それに農機具が立てかけてあったりして、 何ともいえない風情であったが、しっかりした写真を撮る前に切り取られてしまった。悔やんでみても後の祭りだった。そんな 思いがあったため、少々のことには目をつぶってでも、この写真だけは残しておきたかった。  この場所は、詳しくいえば野洲町三上に位置するが、写真を撮る感覚では北桜に近いので、この写真集では「北桜」とした。

 

1012.三上の入り日

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 撮影日:1978.06.09
場所:甲西町(現湖南市)十二坊

2004年ごろの様子・1 山頂の展望台

 三上山を撮りだしたのが1976年秋、最初の1年間はほとんど写真らしきものは撮れなかった。 右も左もわからずに、ただやみくもに動き回っていたにすぎなかった。それが1年を過ぎるころからぽつりぽつりと、作品らしきものが撮れるようになってきた。地図の上で場所を確かめ、太陽の動きを読み、それを待って撮ることができるようになってきたのである。十二坊からの落日は、そうした中の一つだった。
 その日、十二峰林道を登りつめ、イメージ通りの位置に太陽を見たとき、やっと写真が撮れるようになったことを実感した。山と松の木は不動だから、カメラの位置と向きは自ずから決ってしまう。あとは360mmに2倍のテレコンバータをつけた狭い写角の中に太陽が入ってくるのを待つだけである。こうして撮ったのがこれ、思い出の一枚である。シャッターを切ってから、太陽が厚い空気のよどみに姿を消すまで、ものの1分もかからなかった。
 この十二峰林道も、最近は樹木が伸びてきて視界を妨げ、林道そのものからは三上山が全く見えなくなってしまった。見えるのは山頂の展望台からだけである。

 

1013.きしょうぶ

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 撮影日:1978.05.26
場所:野洲町(現野洲市)南桜

書籍版には、撮影位置が「北桜」とあるが、再確認の結果「南桜」であることが判明。
2004年ごろの様子・1

 今回CD版編集に当たるまで、この写真の撮影位置は北桜として、何の疑いも持ってはいなかった。三上山の写真を撮りだしたのが1976年秋、「四季近江富士」の出版が1982年夏、その間5年あまり、まさかその年月で撮影場所の誤認があるとは思っても見なかった。今回その間違いに気づいたきっかけは、画面左端の山裾に見える黒い林状の像だった。これは大山川の堤防ではないのか。だとするとここは南桜だということになる。次のページの 「14.のあざみ」は北桜からだが、山の高度感も距離感も、この「きしょうぶ」とは全く違う。 そしてそれよりも何よりも山の形が基本的に異なる。今の写真を見れば一目瞭然だが、頂上部がこのように尖って見えるのは、南桜集落周辺から見た場合に限られる。
 実は、この写真集で同じミスをもう一つ犯している。「26.夏の夕暮れ」も、やはり北桜だと思っていたものが、正しくは南桜からだったのである。これについてはそのページで詳しく述べるが、NO.26の北桜が間違いであることは明白である。この2つの写真を左右に並べてもらえば、山の形が酷似しているのが分かってもらえるはずである。

 

1014.のあざみ

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 撮影日:1980.06.08
場所:野洲町(現野洲市)北桜

2004年ごろの様子・1

 御上神社前から 県道27号 を甲西の方へ向かい、「希望が丘口」の三叉路を左折すると、50mほどで 小山川 という小さな川を渡る。車で通れば気がつかないぐらいの川である。その川に沿って、ちょうど若宮神社への参道という感じで細い道がついている。その道のそばに咲いていたアザミの花。梅雨も間近な6月の午後の雨上がり。向こう側から斜面を駆け上って来た雲が、稜線を越えた ところですーっと消えていく。「11.小屋一つ」の撮影場所からほんの少し移動しただけだが、ここは 現在でも ほとんど昔とかわらない。しかし風景が単純すぎて絵にならない。
 書籍版とCD版と、写真の絵そのものはまったく変わらないが、書籍版のほうでは 「9.霧の野辺」で使ったのと同じ孔のあいたトレーシングペーパーをレンズの前に当てる手法を採っている。CD版ではそれをはずした ストレートの写真である。CD版も同じ原版でと探してみたが見あたらなかった。書籍版『四季近江富士』を出版した直後、日本IBMからニューヨーク本社の日本人社員のために写真を飾りたいからと申し出があり、原版を10枚ほど提供したことがある。そのときの一枚に入ってアメリカへ渡ってしまったのかもしれない。

 

1015.初夏・柿の木

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 撮影日:1980.05.18
場所:守山市川田町

2004年ごろの様子・1

 川田橋の守山側たもと、堤防の外側に小さな畑があって、柿の木が1本生えている。野洲川の風景が大きすぎて余り目立たないが、この木は現在も健在である。と、ここまで書いてふと気になった。ここ20年ほどこの木を意識して見たことはなかったはずだ。本当にこの木はあるのだろうか。
 行ってみて驚いた。確かに柿の木はあった。しかし、「この木は現在も健在である」とは、お世辞にもいえない状況だった。 というのは、この木はすっかり存在感がなくなり、当時存在すらなかった新たな樹木が堤防沿いに大きくなっていたのである。そしてそれよりも何よりも驚いたのは、この昔の柿の木を基準としてかつての位置に立ってみても、そこからは三上山が見えなくなってしまっていたことである。畑を囲む竹や木が伸びたためである。 風景を変えるのは人間だけではない。生々流転、命あるものすべて、風景を変えつつその中に生きているのである。
 この木のところからは直接見ることはできなくなたが、ほんの10mも移動して堤防上 へ出れば、野洲川の向こうに文句なしの三上山が見える。

 

1016.遠い三上

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 撮影日:1978.04.25
場所:近江八幡市水茎町

2004年ごろの様子・1

 現在、水茎町の県道26号沿いに見事なポプラが並んでおり、周辺の目印の一つになっている。そのポプラ並木から 農道を南に折れたところに段差があって、何本かのポプラが生えていた。県道沿いの並木には電線が並行していて写真にはならなったが、こちらの方はそれもなく、段差で遠景の雑物を隠せば見事な風景となった。
 北海道を思わす高い空、その風景の中で遠く小さい三上山が存在を主張していた。「近江平野の求心体」、「地場的風景」そんな言葉が次々に浮かんできた。いくつかある私の三上山原風景のうちの一つだった。
 そのポプラが、 ある日忽然と姿を消した。 それがいつだったのか記録もないし、どんな事情で切り取られたのかも分からない。 そのときの残念な気持ちもいつの間にか風化してしまった。「昔、この辺りにポプラが何本か生えていたらしいのですが」、近くにある 廃棄物処理場の若い職員さんの言葉である。  いまもところどころに忘れられたようにぽつんと ポプラが立っている。 しかし、電柱その他の雑物に邪魔をされて、ほとんど絵にならない。

 

1017.竹の秋

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 撮影日:1978.05.26
場所:野洲町(現野洲市)南桜

2004年ごろの様子・1

 R8御上神社前から 県道27号を旧甲西町の方へ向かい、南桜の信号を左折する。緩い勾配を上りきったところが、北桜からやってくる道路との三叉路になっている。この三叉路を直進すると、すぐ左側に竹藪が見えてくる。この竹藪こそが、すべて変わってしまったこの周辺一帯の生き証人である。現在、竹藪と三叉路との間には、フェンスに囲まれた工事現場風の建物があるが、その中庭あたりがかつての撮影位置である。
 写真の竹藪の向こうに黒く横たわる林が改修される前の大山川の堤防である。 現在は明るい感じの公園墓地になっている。写真の左側に松の木が見えるが、その左手を回って向こう側の斜面を下ったところが、「4.春の宵」の梅林があった場所だった。ということで、この竹藪がなくなれば、1980年前後にこの周辺で撮った写真の位置関係を 示すものは完全になくなってしまうことになる。
 写真では、カメラ位置から大山川まで、かなりの距離があるが、改修以前の大山川が三上山側(現在のさくら墓苑の三上山側境界)へ蛇行していたためである。直線化された現在は、ほとんどその距離はない。

 

1018.煙霧孤峰

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 撮影日:1978.06.04
場所:野洲町(現野洲市)南桜

2004年ごろの様子・1

 前ページの竹藪とほぼ同じ場所である。三上山を前にして、竹藪の左側から撮ったのが 「17.竹の秋」、右側から撮ったのがこの「18.煙霧孤峰」である。現在、南桜から菩提寺に向かうバス道は、 この竹藪の横を抜けて、さらに300mほど直進してから名神をくぐるが、当時はその道はなく、竹藪を過ぎて少し行ったところで右に曲がり、名神をくぐってびわこ学園(その後びわこ学園は希望が丘道路沿いの現在の場所に移転した)の前に出ていた。この道は今も残っているが、車での通り抜けはできない。
 当時、その曲がり角辺りから三上山のほうを見ると、大山川との間の一段低くなった場所に墓地があり、その向こうに松の巨木が並びこの風景を作っていた。 すなわち、昔の写真では、カメラをそのまま下ヘ向ければ松の木の手前に墓が並んで見えたことになる。しかし、 いまこの場所 に立って見ると、道路と川との間に墓地をとるほどの距離はない。蛇行していた大山川が、新しく道路沿いに付け替えられたためである。 これらの松の木は旧流路の手前、すなわちいまの公園墓地の外側に立っていたわけである。

 

1019.月下石仏

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 撮影日:1978.05.12
場所:野洲町(現野洲市)三上

2004年ごろの様子・1

 「9. 霧の野辺」と同じ場所であるが、石仏の並びは異なっている。この石仏は、 県道504号の工事で何度か位置を変え並びを変えられた。撮影時期は、「霧の野辺」よりこちらの方が2年ほど古い。にもかかわらずこちらの方が新しい感じがするのは、工事が行われて間なしで石仏が周囲になじんでいないためである。
 そんなことがあって、明るい昼間の写真は撮りにくかったのだろう。水田に山の影がかろうじて映る薄暮時に、弱いストロボを当てて第1露光。そのあと日がとっぷり暮れるまで待って民家の明かりを第2露光。そのあと三日月を第3露光。手は込んでいるのだが、やはり月の姿が作意ぷんぷんで今となっては恥ずかしい気持ちが強い。新月、残月は薄明にあってこそである。その姿は多重露出で撮れるものではない。
 場所は、R8御上神社前と大畑を結ぶ新道の中ほど 河川公園口 バス停の近くである。「9. 霧の野辺」を見ると分かりやすいが、この場所と現在の位置との同定の決め手は、山麓の集落にあるお寺の屋根である。 現在の写真にも、同じ位置にお寺の屋根が見える。

       

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