"
 

写真集『四季近江富士』

あ き

初稿UP:2012.02.14
 

 

1033.秋・爽朝

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:19xx.xx.xx
場所:守山市立入町

2004年ごろの様子・1

 撮影場所は野洲川左岸(下流・琵琶湖へ向いて左岸)堤防上の道路、新幹線と在来線との間である。「44..樹間日の出」と略同一の場所だが、こちらのほうが新幹線に近い。 現在は河川敷がグランドゴルフ場として整備され、陣取りが起こるぐらい繁盛していると聞くが、当時は立ち入ることすら二の足を踏むようなうっそうとした草地だった。そんな中に立つ枯れた松の木が、格好の写材だった。
 20年以上も前の写真である。 当然それらの枯れ木は今はない。となると、ポイントとなるのは新幹線の鉄橋だけである。およその見当はついているのだから、それだけで十分と安心して出かけていった。探偵ものに限らず、写真の世界でも 現場は大切である。実際に行ってみるともっと大きなポイントが待っていた。そこには写真集のページでは気づかなかった 高圧線の鉄塔が堂々と立って いたのである。それは、昔の写真を拡大すればわずかに見えてくる。真ん中の松ノ木に隠れてその先端がわずかに見えるのがそれである。おそらく撮るときには隠したのであろう。それがわずかに尻尾を出した。それが20数年を経て、新旧同定のポイントとなった。
 原版ポジが見つからず写真集のページからデータを作成した。

 

1034.彼岸花

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:1980.09.21
場所:野洲町(現野洲市)南桜

2004年ごろの様子・1

 土の中にいて、どうして人間ざまの暦が分かるのだろうか。そんな余計なことを考えたくなるほど、正確に花を咲かす。不思議な花である。この花が南桜農地の西側、野洲川に近いほうによく咲いていた。
 田んぼと山だけという単純な構図だから、 場所を特定するものは何もない。野洲川堤防に近いところだったという記憶と、山の形だけが 頼りである。ということで、野洲川から最も 近い農道を走ってみた。私の記憶では、高圧線の下で県道27号と垂直に交わる中央の農道を、野洲川の近くまで突っ込んで右へ曲がったあたりがポイントだったのだが、それは見事に否定され、逆に左へ曲がったところだった。というのは、団地に近づくと、雄山と雌山が 一体となって見えてくるのである。このように両者が分かれて見えるのは、団地から離れたところであった。
 結果は ご覧のとおりだから、三上山から見た方角はまず間違いない。距離を読めるものは何もないのだが、感覚的にまずこのあたりかと思う。多分この農道と、外周を走る道との間あたりかと思う。

 

1035.秋の午後

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:19xx.xx.xx
場所:野洲町(現野洲市)三上

2004年ごろの様子・1

 撮影年月日が不祥だが、1970年代の後半であることは間違いない。ポジ原版もなくなっており、書籍版からスキャナーでデータを起こした。
 「1.石仏春色」「37.石仏秋色」と同じ石仏である。国道沿いの建物群が目障りであることは、今に始まったことではなく、 当時すでに気になる存在だった。どうしたらそれらがカバーできるのか、いろいろとやっては見たが、そう簡単に解決がつく話ではなかった。 これはその中の一枚、赤とんぼにかこつけて石仏をアップしてみたものである。一応目的は達したものの、アンバランスであることは間違いない。
 「現状写真」は、建物群の現状を見てもらうために、あともう少しカメラを下げればそれらが隠せる一歩手前で、あえてそれを残したのだが、 真正面のクリーム色の長方形の倉庫を除けば、雰囲気的には 「37.石仏秋色」とそう変わらない。そういう意味では、20年前も現在と大きな違いはなかったのかとも思う。それにしてもこの倉庫による風景へのダメージは大きい。
 ポジ原版を紛失しました。これは写真集の印刷画像からデータを起こしています。ご了承ください。     

 

1036.柿実るころ

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:19xx.xx.xx
場所:守山市伊勢町

2004年ごろの様子・1

 残念ながら、この写真の撮影年月日が明確でない。しかし、1980年前後であることは確かである。このあと約10年たって 琵琶湖線栗東駅が開業(1991年)し、さらに10余年がたって現在(2004年)に至っている。当然のことながら、この近辺、 昔日の面影はどこにもない。三上山を取り巻く風景で、この10年間にこれほど大きな変化を遂げたところは他にはない。
 そういう意味で、この写真は完全にお手上げである。どこにも何の手がかりも見つからない。撮影場所も、守山市伊勢町としているが、 当時国土地理院の地形図を頼りに、適当に地名を探していたから、これすら怪しいものである。
  現状写真 も、山頂の形などから、昔と大差ない場所だとは思うが、これもその付近でかろうじて山が見るポイントを見つけただけのもので、そこが昔の場所だというわけではない。 街中からはほとんどJRの線路は見えないが、ここだけ不思議にそれが見える。その距離感覚が昔を思い起こさせる。現在、 栗東駅のすぐ守山側にJRをくぐる道がある。当時は、県道2号旧中山道からこのガードをくぐって現場へ入っていた。 そこから田んぼの中の畦道を北東へ寄ったところが撮影場所だった。
 ポジ原版を紛失しました。これは写真集の印刷画像からデータを起こしています。

 

1037.石仏秋色

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:19xx.xx.xx
場所:野洲町(現野洲市)三上

2004年ごろの様子・1

 「1.石仏春色」「35.秋の午後」と同じ石仏であるが、前二者はややもってまわった撮り方をしている。これが一般的なアングルで ある。とはいうものの、柿ノ木の上部が中途半端で、もう少しカメラ位置を下げてレンズを上に向けたい気もする。何度か試みたのだが上方の高圧線が邪魔をする。この写真にも左上に一本斜めに走っているのがそれである。そういう意味でこれが最終ぎりぎりのアングルである。「現状写真1」と「現状写真2」を見比べると分かるが、石仏との距離のとり方で写真が大きく変わる。 現場で、1mや2m前後しても 三上山の大きさは変わらない。しかし石仏の大きさはずいぶん変わるためである。
 ペリカン便 のほうから進んできて、石仏の前を通り過ぎ20mほど行くと、右がわに細い竹の疎林がある。例の国道近くの倉庫の問題さえ解決できれば 絵になるところである。  柿の木のそばを流れる水路の下流、野洲高校グランドのネット付近は、毎夏ホタルが飛び交うが、 国道の明かりが強いのが悩みのタネである。

 

1038.落葉のころ

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:19xx.xx.xx
場所:野洲町(現野洲市)富波

2004年ごろの様子・1

 希望が丘から下って来た県道324号 が、国道8号をくぐり、新幹線をくぐて在来線をくぐる。その在来線との立体交差の辻町側の一角にあった木である。以前はあたり一面田んぼだったが、総合福祉保健センター、 野洲図書館などが建ち様子が変わってきた。
 もっともこの写真の木は、これらの変化とは無関係に、はるか以前に姿を消していた。この写真の撮影は、1870年代末であることは確かだが、そのあと数年を経ずして切り取られたのではなかったか。
 そんな事情で、この現場は、一つの記憶として残っていただけで、ここ10数年、ほとんど関心を持たずに通り過ぎていた。今回、改めて見直してみると、倉庫風の建物があり、工事用のトラック置き場がありで、雑然とした雰囲気に変わっていたが、かろうじて三上山が見える余地だけは残っていた。 しかしそれは、物理的に見えるというだけで、かつての絵ではなくなっていた。山とちょうど重なる位置に、いつの間に立ったのか、大きな 高圧線鉄塔が 立っていたのである。

 

1039.野焼き

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:1980.10.05
場所:野洲町(現野洲市)三上

2004年ごろの様子・1

 場所は、県道504号、河川公園口バス停のすぐ近く。ケヤキ並木の手前から農道へ入ったところである。その入り口が、かつて石仏があった場所で、そこから50mも離れていない。なお、車で走っていると、この農道の入り口は分かりにくい。バス停「河川公園口」に続く電柱の立っている農道から入るほうが分かりやすい。写真を撮る立場からすると、電柱は困りものだが、車で走る立場からすると道の存在を教えてくれる利口者である。人間とは勝手なものである。
 さてその電柱、立場を変えてみるとかくの如し。田んぼの中に、威風堂々天をつくといったところ。昔の写真では、煙と重なって分かりにくいが、画面左手に天体観測用ドームが見える。 それと、中央やや右寄りのお寺の屋根、この二つが新旧同定のポイントである。前述のように、ここは 「9.霧の野辺」 の近くだが、 「9」の位置ではこのお寺が、頂上のほぼ真下に見える。それが 「39」から見ると これだけ右に寄るということは、こちらの場所が「9」より左だということである。つまらんことを書いてしまった。普通に写真をご覧いただくにはこんな理屈は不要である。 

 

1040.三上秋景

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:19xx.xx.xx
場所:野洲町(現野洲市)三上

2004年ごろの様子・1

 撮影年月日は不詳だが、初期のものであることは間違いない。多分1977年から78年ぐらいのものであろう。 もちろん、まだ 県道504号は三上の集落の中を走る旧道しかなく、このあたりは道といえば砂利道の細い農道だけだった。
 そこに新道ができて風景が一変した。 当然、位置感覚が従来の農道基準から県道基準に切り変わることになる。風景の座標軸が変わるのである。それが一夜で変わるのなら、 記憶が新しいうちに対処する手もあるが、道路工事のように何年もかかってなし崩しに変化していくと、前の記憶が薄れたところへ新しい風景が入り込んでくるわけで、結果として以前の位置感覚は完全に消滅してしまうことになる。
 ということで、この写真についても撮影位置が「このあたり」だといえても「ここだ」ということはできない。県道504号のバス停「河川公園口」の近く、株式会社「ダイアナ」の社屋の前で県道と農道が 斜めにクロスしている。そのあたりを中心とした 半径50mぐらいが撮影位置だと考えられる。 現状写真はその斜めのクロスより川沿いに20mほど三上山のほうへ進んだ位置から撮ったものである。

 

1041.秋の日に

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:9xx.xx.xx
場所:野洲町(現野洲市)入町

2004年ごろの様子・1

 野洲町入町の農業用水池。 国道8号からわずかしか離れていないのに静かなたたずまいで、撮り出したころはよく通ったところである。ところがいつのころからか、 対岸の竹が伸びて三上山が見えにくくなった。そんなことがあっていつの間にか足が遠のいていた。
 昨年(2002年)夏、『近江富士百景』CD制作のために、久しぶりにいってみて驚いた。元の池の形が分からないくらいの 大工事中である。これは何ごとぞと出合ったおばあちゃんに聞くと、元の池で水が漏れ出したので、抜本的に修復しているのだという。それならと胸をなでおろし、ついでに対岸の竹も何とかならないかと勝手な期待をしていたのだった。  そして今回、池の修復は終わっていたが、期待の対岸の竹はそのまま。 三上山は 頂上の一部を覗かすだけだった。 ということで、対岸の状況が変わらない限り、ここからの三上山撮影は無理である。もっとも、池は無理として、 国道477号あたりまでバックをすれば、上半身ぐらいは見え出すのだが。

 

1042.湖上三上

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:1978.11.03
場所:大津市雄琴

2004年ごろの様子・1

 琵琶湖に向かう道の左側にホテルがあって、突き当りの湖岸を左に曲がったところ。これが25年前の記憶だった。今その場所がそのままの状態で残っているのかどうか。最初、勘違いして大正寺川の河口を左へ折れたところとへいってみた。何度か朝日を撮った記憶は残っているが、少なくとも昔のこの写真の場所ではなかった。
 こうなってはしかたがない。とにかくきっかけをつかまなければならない。湖岸から三上山が見えそうなところと考えて雄琴港へ行ってみた。国道161号に「雄琴港口」という信号があるから、そこへ行くには分けはない。港の岸に立つと目の前にホテルがあって、その横に三上山が見える。しかも山の並びは昔の写真とそっくりである。そうか、このホテルの裏側だったんだ。港を回ってそこへ行ってみると、まさに昔の記憶どおりの場所だった。風景の大きな違いは、対岸草津市烏丸半島に風力発電の風車が立ったことだろうか。  なお、写真が小さいので 判別不可能かとも思うが、写真の右端1cmほどの範囲で山の形が現在と異なっている。石部の採石場で山が一つ削られたためである。
 

 

1043.朝のみずうみ

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:1977.10.10
場所:大津市木の岡町

2004年ごろの様子・1

 厄介な1枚だった。三上山がぼこんとあって、何の特徴もない稜線がそれに続いている。いって見ればそれだけの写真である。 撮影は1977年10月10日。 「32.孤舟」 と同じ日、すなわち右も左も分からずに生まれて始めて湖西へ乗り込んだその日である。「孤舟」には日吉大社の鳥居というきっちりした記憶の対象があるが、こちらには何の記憶もない。写真集では、「大津市下阪本」と簡単にやっつけているが、本当にそうなのだろうか。
 そんなことを意識しながら、2枚の写真を比べてみると、稜線の形が違う。そしてさらに、三上山そのものの姿も微妙に違う。「孤舟」は 稜線が直線的だが、こちらは丸みがある。これは明らかに別の場所だ。
 あれこれ思い悩みながら写真を見ていて、ふと気がついた。 太陽があるじゃないか。当日は初めての湖西である。国道以外に手の込んだところは入りこめるはずはない。とすれば R161上で、10月10日の日の出の方向をつかめばいいわけである。地図の上で出てきたその位置は木の岡町、かつてあった幽霊ビルの南端あたりだった。ビルがなくなり大宮川の流路が変わった。風景が一変し、昔の記憶がなくなるはずである。

 

1044.樹間日の出

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:1980.12.14
場所:守山市立入町

2004年ごろの様子・1 山頂の展望台

 野洲川左岸、在来線の鉄橋下。現在はグランドゴルフ場になっていて連日結構にぎわっている。私が三上山の写真を撮りだしたころは、桃の木畑になっていて、春にはかわいい花を咲かせていた。それを前景にして絵を作ったことがあったが、その後間なしに切り取られてしまった。そのあとは、いまのグランドゴルフ場になるまで、子供がソフトボールできるぐらいの空き地が放置されたままになっていた。これはそのころの撮影である。
 画面を拡大するとわかるが、空き地の上流側は一線が画されていて、その向こうは一段高くなっていた。その上に松林があって、その木々を通して太陽が昇った。なお、画面下中央に、水平に細く光る線は、空き地の水溜りの反射である。
 以上、この写真については、 私の記憶はまず間違いはないはずだが、他の例にもあるように、そう思いこむのが間違いの元。念には念をいれて、新旧同定のポイントは、 山頂の形と松林に重なって見える雌山の二段カーブである。

 

1045.霧に浮かぶ峰

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:1981.12.19
場所:野洲町(現野洲市)南桜

2004年ごろの様子・1

 いま考えると恥ずかしい限りだが、『四季近江富士』の四季をベースにする編集方針がもともと無理だった。 いまもそうだが、私の写真には秋冬が圧倒的に多い。春がもっとあってもいいはずだが、この季節は勤めの関係上無理がきかなかった。それを四季に等分しようというのだから無理な話である。仕方がないから秋口の作品で目をつぶれば辛抱できそうなのを「夏」に回した。 そのしわよせがこれである。この写真の撮影は、12月19日、これはもう立派な冬だし風景そのものも冬である。そういう目で見てもらうと編集のウラが見えてくる。
 それはさておき、この日は、一日中気温が上がらず、霧も晴れなかった。そんな中で工事中の大山川堤防を通してみる霧の三上山は、いつもより高く見えた。場所は県道27号と大山川、この両者と高圧線電線とが作る三角形の範囲内、その中でもどちらかといえば大山川に近いほうである。
 なお、大山川の工事との関係は 「7.春の午後」「57.雪野夕照」を参照いただきたい。

 

1046.三上望遠

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:1980.10.26
場所:志賀町(現大津市)栗原

2004年ごろの様子・1

 R8志賀町和邇から県道311号を山手へ向かい、湖西道路和邇ICの手前で右へとるのだが、そこへ入り込むには勇気がいる。その分岐点の道路標識には、栗原の「く」 もないので、そのままゆくと値段が高いことで有名な湖西道路(現在は無料)へ入ってしまいそうな気がするからである。それよりも「妙道会聖地」という 宗教団体の案内板が完備しているから、それによって進めば間違いはない。
 栗原の集落を抜けて喜撰川沿いに出る。振り返れば琵琶湖の向こうに三上山が見える。昔の写真は、ここから喜撰川を右岸(琵琶湖に向いて右側)へ渡って小高い棚田の上からの撮影である。 現在の写真と見比べるとよく分かるが、棚田そのものはあまり変化していない。しかしその向こうで、工事が始まっているのが気になる。もし次にここから撮るとすれば、隠すのに苦労しなければならないだろう。
 新旧対照に当たってポイントとなったのは、棚田の形もさることながら、三上山の左斜面の延長上琵琶湖湖岸にある白く光る建物(琵琶湖リゾートクラブ)だった。 

 

1047.冬野夕景

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:1978.01.03
場所:野洲町(現野洲市)北桜

2004年ごろの様子・1

 私としては懐かしい写真である。場所は希望が丘取り付け道路県道325号と公園墓地に挟まれた田んぼの一角。大山川の改修工事が始まる以前の風景である。そのころまだ、このように田んぼのふちに雑木林があって、三上山とえもいわれぬ調和をなしていた。雨上がりの夕方、夕日に照らし出されて斜面を駆け上がる白雲が美しかった。画面の中央に高圧線の鉄塔があるのだが、そんなこと問題ではなかった。その姿すら絵になった。
 そうしてできた一枚だが、その後、大山川の改修、公園墓地の造成、圃場整備等が行われ、この雑木林は今はない。このような変化の中にあって、くだんの鉄塔だけはそのまま残され、いまも田んぼの中にある。ということで、 結果的にはこの 鉄塔だけが 場所同定の唯一の手がかりとなる。農道を走ると、鉄塔と山との関係が徐々に変化していく。理屈の上からは、両者の左右の位置関係と大小関係が一致するところを探せばいいのだが、実際にはおいそれとはいかない。昔のポイントは多分いまの田んぼの中なのだろう。

 

1048.三上黎明

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:1978.01.07
場所:守山市小島町

2004年ごろの様子・1

 旧中山道野洲川橋南詰から、野洲川左岸堤防上の道路を下流に向かう。近江富士大橋を過ぎて少し行くと、 河川敷沿いに新しい道がつけられているところがある。2000年ごろまでは、このあたりは河川敷に樹木が密生しており、ほとんど川の流れも見えない状態だった。昔の写真は、その樹木がわずかにまばらになるところから見た三上山である。この辺りから見ると、ちょうど冬至前後に、妙光寺山との鞍部から朝日が昇る。このときだけ風景が輝いた。これは日の出の直前、太陽が上の雲を照らし始めたところである。
 現在は、その樹木がすべて切り取られ、新しい苗木が植えつけられている。これらが成長したとき、どのような風景になるのか。なお、新道の河川敷側は公園状にきれいに整備され、自由に出入りができる。公園と川との間に、数本木が生えており、葉を落としたときには、それを前景とした絵が作れるはずである。
 この写真も編集上は「秋」の部に入っているが、実際の撮影日は1月7日、立派な冬の写真である。その間の事情は、「45.霧に浮かぶ峰」で述べたとおりである。

 

1049.峠 道

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:19xx.xx.xx
場所:甲西町(現湖南市)十二坊

2004年ごろの様子・1

 私が三上山の写真を撮り出したころ、名神沿いの県道22号「八重谷越え」から取り付く十二峰林道は、まだ十二坊山頂まで開通しておらず、車が通ることもまれだった。工事直後とあって、路側の樹木も伸びておらずどこからでも視界が利いたし、 何本か伐り残された樹木は格好の前景になってくれた。まさに三上山展望道路だった。夏の夕暮れなど、きょうの十二坊はどうだろうかと自然に足が向いた。 1980年前後、今から20年ほど前の話である。
 その林道が全通し、十二坊山頂が整備されて遊歩道や展望台まで作られたが、それに比例するように山腹の樹木が茂りだした。 年を追うごとに道路からの視界は悪くなり、いまでは完全に視界ゼロ。現在、この林道はすべての入り口が閉鎖され無用の長物になり下がっている。岩根側の山麓からは温泉が湧き出し、十二坊温泉「ゆららの湯」として道路も整備されけっこう繁盛していると聞く。それだけに、この林道の切捨てはもったいないし、悔しい。 。

 

1050.冬朝樹梢

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:1978.12.03
場所:守山市石田町

2004年ごろの様子・1

 守山運動公園の駐車場に立てば、この2本の木は自然に眼に入ってくる。しかし残念ながら、現在の写真に見るように、このイメージはどこにも残っていない。もちろん昔の写真と今の写真とでは、レンズの長さが違うのだが、そんなレベルの問題ではなしに、基本的に風景が変わってしまっている。
 30年たてば木も成長する。当然形も変わる。それは仕方がないとして、この木に関してはその変化の大部分が人為的なものだから、まさにご難としかいいようがない。かつては中学校の校庭の片隅で、何の障害物もなく素直に伸びていたものが、防球ネットが建ち、道路ができ、電柱が立った。 そのたびにずたずたに枝を切られて、見るも無残なこの姿。まさに満身創痍である。
 もちろん昔の写真もすんなり撮れたのではない。カメラをこれより下へ向ければ夾雑物が入ってきた。それを少しでも避けるために 駐車場から道を隔てた工事現場の数mの土盛りの上に三脚を立てた。いま、そこにはこじんまりとしたビルが建っているが、仮にその2階や3階に上らせてもらったとしても、 昔の風景を見ることは不可能である。

 

1051.かもめ乱舞

一覧表へ戻る
写真拡大 クリックすると写真が変わります

 撮影日:1980.12.14
場所:守山市小島町

2004年ごろの様子・1

 通水が始まって間なしの野洲川である。川床は水平でその上を一面に水が流れていた。それから20年以上がたち、 川の形が変わってしまったいま、この写真も厄介な1枚である。少なくとも川の流れから場所を特定することは不可能である。後はわずかに見える山の稜線だけ。それも特別形に特徴がある場所でもない。
  「58.凍る川面」も同じことがいえるのだが、2枚を比較していえることは、「58」がどちらかといえば流れに沿った写角であり、 こちら「51」は、カメラの向きが、川の流れに垂直に向いているということである。そんなことを思い巡らせながら、記憶をたどってみると、ふだんは野洲川というと、まず川田大橋付近がメインになるのだが、この日はそこからからかなり上流へ さかのぼった記憶がある。 幸いこの写真の場合は、わずかながら右側の稜線が見える。それを参考にしながら堤防を走ってみる。いまでいえば川田大橋と近江富士大橋とのちょうど中間点あたり、対岸が市三宅の集落にあたるあたりで、山の形がそれに似てくる。

       

一覧表へ戻る