書籍版あとがき

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 三上山に取り組んで数年、やっとその写真集がまとまるところまできて、つくづく人生における出合いの不思議さに感じいっている。
 まず三上山そのものとの出合いだが、これは本文中にも少し触れたので重複はさけたいが、あの戦争のさ中に、琵琶湖へ遠足に来られたことが不思議だし、そこで聞いたむかで退治の話だけが記憶に残っていることも不思議である。その話をして下さった先生もどなたであったか思い出せないし、そのときどのような友達がまわりにいたのかも記憶にない。ただその話と、みずうみの向こうの三上山の姿だけがまぶたに残っている。不思議である。
 昭和45年、生まれ育った京都をはなれて、滋賀県野洲町に住いを求めた。自分の経済力と通勤時間の最大公約数からはじき出された結論であったが、そこが少年の日、対岸浜大津からながめた三上山の麓であった。よく似た条件のところが他にもあったのだが、ここへ移って来たのは、心のどこかにあの三上山の麓だという気持ちがあったからかも知れない。
 さて、最初の2、3年、新しい所へ来ためずらしさも手伝って、休みの日には自転車で付近の小道を走った。 どこへ行っても三上山が見えた。走りながら、いつの間にか風景としての三上山を追いつづけるようになっていった。そんななかで、 昭和40年代の後半、列島改造景気にのって野洲町周辺も大きく変化していった。木が伐りとられ、林が切り開かれる。道ができ電柱が立ち家が建つ。すべてが風景を破壊する方へと動いていく。しかし考えてみれば、自分もまた新しく開かれた住宅地に住む一人である。 風景破壊者の一人である。そう考えたとき、あまり大き顔をしておれない自分の立場を痛感した。私なりに「風景の中の生きた三上山の姿を記録しょう」、そう考えた。
 三上山が住宅で取り囲まれる日は遠からずやってくる。そのときに三上山は死ぬ。そうなるまでに、すくなくとも昭和50年代には、三上山は昔ながらの田園風景の中で生きていたという記録を残してやろうと思った。
 そのためには、ただ撮るだけでは意味はないので、最後には本にしなければならないだろう。その時点では、どんな形で本になるのか予測もつかなかったし、またどうすれば本にできるのか見当もつかなかったが、とにかく印刷のことを考えてポジカラーでいこうと考えた。それまでの約5年間、35mmモノクロームで何本か試験的に撮影はしていた。私はカラーよりもモノクロームの方が好きであった。いまも基本的にはその考えはかわらないが、三上山に関してはカラーだと思った。その理由は、三上山は山の形そのものは美しいが、山としての迫力があるわけでもなし、その形が見方によって大きくかわるわけでもない。だからその山だけで、 一つのものにまとめるには、周辺の風物の四季の変化をとり入れる以外にない。とくに、朝夕の空の変化が有力なポイントになろう。そのあたりでモノクロムには限界がある。これはカラーしかないと考えた。
 当時持っていた、マミヤC3型二眼レフにエクタクロームをつめて、出動の機会をねらっていた。やろうと決心はしたものの、何となく踏ん切りがつかない状態でいた私に、決定的な出動命令を下したのが、秋のにわか雨であった。昭和51(1976) 年11月21日の午後、秋としてはかなり激しいにわか雨が降って、3時すぎにそれが止んだ。そして素晴らしい虹が出た。これを撮ろう。 三上山にかかる虹を撮ろうと家をとび出した。そのときの1枚が、私の三上山シリーズの記念すべき第1号として残っているが、とうてい他人様にお見せできるような代物ではない。
 その年の暮、カメラを一眼レフのマミヤRB67にかえた。これが最終的な意志決定であった。三上山を撮るために、10何万円かのカメラを買ったわけである。もうやめることはできない。
 以後現在まで、自分の自由になる時間のほとんどを、この山を撮るためだけに使ってきた。私は、京都の高校に勤務しているから、撮影に使えるのは日曜日だけである。日本の春秋の季節の推移は速い。1、2度雨でチャンスを逃すと、もうその年は撮影できなくなる風景が少なくない。そんなくりかえしをもう6年間つづけてきたわけで、また今後もつづけていくつもりでいる。
 今こうして、一冊の写真集としてまとまることになり、ひと区切りつく段になって、振り返ってみると、随分多くの方がたとのご縁をいただいていることにあらためて気がつく。撮り始めて3年目に、個展を開いた。予想以上の多くの方に見ていただき、はげましていただいた。 それまでたった一人でやっていて、ともすればこれでいいのだろうかという迷いが生しがちだったのが、皆さんの声で、自分の方向を再確認することができた。
 その後、二回、三回の個展に毎回来て下さった方がた、いろいろ紹介記事を書いて下さった新聞社の方がた、テレビ番組を作って下さった放送局の方がた、三上山を通して、実に多くの方がたとの出合いを持たせていただいた。いちいちお名前をあげて、お礼を申し上げることはできませんが、本当にありがとうございました。
 最後に、この写真集を出版する機会を与えてくださったサンブライト出版代表取締役吉川勇三氏、またそのきっかけを作って下さった中島千恵子氏にお礼申し上げます。編集にあたっては、サンブライト社の杉本清嘉、卯田正信両氏にお世話になりました。ありがとうございました。
  1982年4月12日                         八 田 正 文

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