V 三上山周辺をめぐつて

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1.街道を行く人々

富士を見し人に見せばや

 古く、京から江戸へ下る街道は逢坂の関を越え、瀬田川をわたって、草津の宿で二つに分かれていた。
 現在の国鉄(JR)草津駅東口に近い大路商店街が旧中山道にあたるが、その商店街は草津川のトンネルで分断される。草津川は天井川で、川の下を道路がトンネルでぬけている。そのトンネルの京都側に、大きな道標が立っていて、右「東海道いせみち」、左「中山道みのじ」と刻みこまれている。すなわち、京都から草津入りした旅人は、ここで右に曲がって東海道をたどるか、草津川を越えて中山道へと直進するか、ずいぶん迷ったのだという。
 三上山は、この二街道のどちらから でも見ることができる位置にあり、上り下りの旅人に親しまれていたであろうと思われる。江戸へ下る人は、三上山を見て、まだ見ぬ駿河の富士山に想いをはせ、京へ上ってきた人は、この山を見て京が近いことを思い、またすでに見てきた富士山を想い返したことであろう。

     富士を見ぬ 人に見せばや 近江なる
       みかみの山の 春のあけぼの

 これに対してて、いや「富士を見し人に見せばや」であろうと、いったとかいわなかったとか。富士を見た人、見ない人が、一里塚で休みながらこんな問答をかわしているようすが眼にうかぶ。

いかにしてすむ八洲川の

 鎌倉時代に書かれた『海道記』には、つぎのようにある。

 田中うちすぎ民宅うちすぎて遥々とゆけば、農夫ならび立ちて荒田を打つ声、行雁の鳴きわたるが如し。卑女うちむれて前田にゑぐ摘む、思はぬしづくに袖をぬらす。そともの小川には河添柳に風たちて鷺の蓑毛うちなびき、竹の編戸の垣根には卯の花さきすさみて山ほととぎす忍びなく。かくて三上の嶽を眺めて八洲川を渡る。

    いかにして すむ八洲川の 水ならむ
世わたるばかり 苦しきやある

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 いうまでもなく、八洲川は今の野洲川のことである。野洲川は、鈴鹿山脈に源をもつ滋賀県下最大の河川だが、そのほとんどが花崗岩質の山間を流れ下るため侵食作用が大きく、出水時には激流となるが、普段は水量が少なく伏流となったりして、平野に出てからは川幅は広いが中州が多くできる。八洲川はその状態を称したものだといわれている。
 この野洲川のことを、作者は、「どうしてこの八洲川の水は、やすやすと澄んでいるのであろう、世渡りの道ほど苦しいものはないのに」と詠んでいる。当時の野洲川の水は、花崗岩質の白砂の上を、さらさらと流れていたのであろう。
 『海道記』は、貞応2年(1223)4月に、京から鎌倉への旅をもとにした紀行文であるが、作者については鴨長明とも、源光行ともいわれている。しかし、いずれも決定的なものではない。作者は、このあと鈴鹿を越えて、いわゆる伊勢路へ入っている。

こま打ち渡すやすの川霧

 『海道記』から約60年おくれて『十六夜日記』が書かれている。

 あはだぐちといふ所より、車はかへしつ。ほどなく、逢坂の開こゆるほどに、

   さだめなき いのちはしらぬ 旅なれど
     又あふ坂と たのめてぞ行く

 野路といふ所は、こしかたゆくさき人もみえず、日はくれかかりて、いと物かなしとおもふに、時雨さへうちそそぐ。

   うちしぐれ ふるさとおもふ 袖ぬれて
     行くさきとほき 野路のしの原

 こよひは、鏡といふ所につくべしとさだめつれど、くれはてて行きつかず、守山といふ所にとどまりぬ。ここにも時雨なほしたひきにけり。

  いとどなほ 袖ぬらせとや 宿りけん
     まなくしぐれの もる山にしも

 けふは、十六日の夜なりけり。いとくるしくてふしぬ。
 いまだ月のひかりは、かすかに残りたるあけぼのに、守山をいでてゆく。野洲川わたるほど、さきだちてゆくたび人の、駒のあしおとばかりさやかにして、きりいとふかし。

   たび人は みなもろ共に 朝立ちて
     こま打ちわたす やすの川霧

 作者・阿仏尼が都をたって鎌倉へおもむいたのは、建治3(1277)年10月16日であったとされている。旧暦10月26日、太陽暦になおすと12月のはじめごろであろうか。そのころになると、近江盆地には霧が発生しやすくなる。移動性高気圧におおわれた好天の朝の、きびしい冷えこみによる放射霧がそれである。雨あがりの朝方、天気が急速に回復する時などにそれが顕著に現われる。とくに野洲川ぞいの地は、川から発生する川霧と重なって、それが一段と深くなる。
 そんな朝、野洲川の岸辺に立っても、川面からわきたつ霧が見えるだけで、晴れていれば指呼の間に見える三上山もまったく見えない。『十六夜日記』の作者が通ったときも、前日夕刻からのしぐれがあって、この霧が発生したのであろう。川霧の記述はあるが、眼前にあるはずの三上山には触れていない。おそらく、この霧のために、山そのものが見えなかったのであろう。
 中山道が整備されるのは江戸時代になってからであるから、この鎌倉時代には道は近江路から美濃路を経て三河へ出ていた。鈴鹿越えをきらった人びとは、この美濃路をとるのが一般的であったといわれている。このルートをとれば必ず野洲川を越えなければならないのだが、『十六夜日記』のころには、このように馬で渡っていたようである。

2.野洲川

天の安河

 野洲川は、三重県境の御在所岳(1209m)に源を発し、鈴鹿山脈南部の南西斜面の水を集めて流れ下り、上中流部の甲賀郡(現甲賀市)に山間平野を開き、下流部では守山市、野洲郡の広大な沖積平野を形づくる滋賀県下最大の河川である。主流延長61Km、流域面積387平方Kmといわれる。三上山は、この野洲川が山間平野から沖積平野へと流れ出る地点の右岸に位置する。
 野洲川は、古くは「安河」と書かれていた。この地をおさめた安氏の名によるものであろう。こういうことから、『古事記』にたぴたび 登場する「天の安河」を、この野洲川であるとして、三上山周辺を高天原だという説がある。いわゆる「近江高天原」説である。
 天の安河は、古代の神様が集まるところとして、『古事記』に出てくる架空の河だが、天の岩戸の段でも、天照大神が岩戸にかくれてしまったとき、困った神がみは、この天の安河の河原に集まる。そして「天の堅石を取り、天の金山の鉄を取って、鍛人・天津麻羅に命して鏡を作らせた」と書かれているが、この金山が三上山だというのである。ここで神話の中の高天原が、現在のどこに当たるかを本気で論ずる気はないし、またその神話が神州不滅の軍国主義に利用されるのもご免こうむリたいが、野洲川の川原からひときわ崇高な三上山の姿をあおぎ見るとき、民族のロマンとしての高天原が、この三上山、野洲川周辺だとするのはわかるような気がする。

布をさらしけるもの多し

 『近江名所図会』には、

 野洲川、横田川の下流なり。未は湖水に入る。この河水をせき入れて布をさらしけるもの多し。至って白し。
とある。

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 野洲川川原の水をせき入れて布をさらす作業は、平安の昔から昭和の初めごろまで行われていたようである。ところでこの「至って白し」だが、この文章からは何が白いのか明確ではない。文脈からすれば、さらした布が至って白いととるのが自然のようだが、野洲川の川原が至って白しととれないこともない。鈴鹿山地の花崗岩が風化して流出してきた砂礫は、夏の真昼どきなど、まぶしいばかりに白いのである。この白砂の上をゆく清列な流れと、真白なさらし布、すべてが白かったのであろう。

新しい風景・新放水路

 野洲川の上流をなす鈴鹿山地は、大部分が花崗岩からなっており、地形は急峻で林相も貧弱、保水機能が低い。また中流の丘陵地帯も同様に風化の進んだ花崗岩、第三紀堆積岩からできているため、洪水のたびに多量の土砂を流出し、下流域に我国最大の湖成三角州をつくり出した。そして、三角州形成時の川の宿命として、かつては河口から約5Km上流の地点、野洲町竹生付近で、南北二流に別れて琵琶湖へ注いでいた。川幅は中流部で約600mであるが、河口付近では極端にせまく、南北流ともに約100mしかなく、疎通能力も中流部で、毎秒約6000立方mであるのに対し、河口部では南北両流あわせても毎秒約850立方mにしかならず、さらに典型的な天井川であるため、いったん豪雨に見舞われると、すぐに氾濫してしまうという危険性をはらんでいた。天正8年(1580)以来記録された大洪水は、9.3年に一回というあばれ川で、近江太郎の名が流域の農民によって与えられているほどであった。
 このような事情から、昭和40年に建設省の直轄河川となったのを機に、下流の南北流を一本化し、天井川を廃して、その中間に人工的な平地河川をつくる事業が計画され、同46年に着工し、同54年6月1日に通水を開始した。新放水路の部分は長さ4.4Km、平均川幅370mで、戦後わが国の放水路建設事業では最大級のものの一つだといわれている。
 これによって野洲川下流の風物は一変した。大変明るくなった。それまでは、どちらかといえばうす暗いカラスのすみかのような感じであったのが、非常に広びろとした開放的な川へと変身した。同時に 新しい風景をつくり出した。カラーページの最後の写真「凍れる風景」などがそれである。その明るい川原へは、冬場には琵琶湖からユリカモメがやって来る。私たちは何だかんだといいながら、結局は、人間がつくった風景の中に住んでいる。そしてそれを、「美しいもの」と「美しくないもの」とに分けているのだが、私はその「美しい風景」を、さらに次の二つに分けなければならないと考える。一つは、人間だけにしか美しく感しられない風景であり、他の一つは、人間がそれを美しいと感しると同時に、鳥や獣たちから見ても好ましく受け容れられる風景である。さざなみの琵琶湖をもつ近江の国の風景が、後者でなければならないことはいうまでもない。

白拍子・祇王

 三上山山麓、野洲川右岸の新しく造成された住宅地の中に、「祇王井川水源地跡」という記念碑が建っていて、その裏面には、つぎのように刻まれている。

 田用水ノ不足ニナヤム江部庄二生マレタ祇王ハ コレヲ救ウコトヲ悲願二 平清盛二仕エタ ソレハ経国ノ政策二織込マレ急速二完成ヲ 見夕 時二承安三年三月十五日 ソノ水路ヲ祇王井川卜名付ケ ココヲ源トシテ延々卜十ケ村ヲ潤シタ 祇園精舎ノ鐘ノ声ハ絶エテモ流レハ 絶ユズ 江部庄ノ命ノ水トシテ今二至ル
     昭和五十二年五月吉日 記ス

 祇王井川は、三上山山麓野洲川畔から、野洲町の中心部を流れて、家棟川と合流して琵琶湖へ注ぐ川で、場所によっては川幅1mそこそこの小さい川だが、絶えずきれいな水が流れている。この川には、記念碑に記されているように、『平家物語』に出てくる白拍子の祇王、祇女が、水不足になやむ故郷の人びとのために、当時の最高権力者平清盛にたのんでつくらせたという伝説がある。
 祇王、祇女の姉妹は、この地江部庄、現在の野洲町中北で生まれた。父は橘次郎時長といったが、保元の乱で命を絶っている。そのあと二人は都へ出て、母の手ひとつで育てられ、その美貌と歌舞が認められ、平清盛の愛妾となってさきほどの願いとなる。
 工事は、瀬尾太郎兼康を奉行として行われた。その工事が難行したとき、不思議な童子が現われ、その引縄に従って掘ることにより、工事は一昼夜で完成したという。今も祇王井川の下流で家棟川に通ずる川を「童子川」と呼んでいる。
 この川が完成したあと、祇王は京都嵯峨の往生院にかくれる。清盛の寵愛が同じ白拍子の仏御前に移ったからである。その仏御前もやがて往生院で尼となる。清盛も死に、平家の一門も滅びた建久元年(1190)7月、祇王は嵯峨野の地で息をひきとった。
 故郷の人びとはその恩を思い、古くは江部といった地名を祇王と改め、その水路を祇王井川と呼んだ。後世さらにその遺徳をしのんで一草庵を営み、その菩提をとむらった。妓王寺である。この寺はいまも野洲町中北の地にひっそりと在る。
 祇王井の「井」は、湧つぼとか湧元とかを意味し、かつては野洲川伏流の湧き水を水源としていたことによるといわれる。さきの水源地碑は、この湧き水とり入れ口跡に建っている。野洲川堤防のすぐ横で、三上山が指呼の間だが、まわりに住宅が進出してきて、それをとり囲んでしまった。記念碑の前に立っても三上山は頂上しか見えない。

北村季吟ゆかりの地

 妓王寺のある野洲町中北のすこし北、野洲町北に、江戸時代の国文学者・北村季吟(1624〜1705)が生まれている。30歳のとき、『大和物語抄』を処女作として出版し、続いて『徒然草』、『土佐日記』、『伊勢物語』等の注釈書を出版。有名な歌人であり、俳人としても多くの歌を残している。
 現在、北地区の中心に、

 祇王井に とけてや民も やすごほり

 の句碑が建っている。俳譜の門人の一人に、松尾芭蕉も名をつらねている。

3.芭蕉の風景

三上山は士峯の俤に通ひて

 湖南の風物を愛した松尾芭蕉の句や文にも、三上山が何度かあらわれる。元禄3年に書かれた『幻住庵記』のなかで、

 日枝の山、比良の高根より、辛崎の松は霞こめて、城有り、橋有り、釣垂るる舟有り。笠取に通う木樵の声、麓の小田に早苗とる歌、 蛍飛びかふ夕闇の空に、水鶏のたたく音、実景物として足らずと云ぶ事なし。中にも三上山は士峯の俤に通ひて、武蔵野の古き楢も思ひ出で られ、田上山に古人を数ふ。…

 と幻住庵からの琵琶湖の風物をめで、三上山の姿に駿河の富士山を重ねている。

 また 『洒落堂の記』 にも、

 そもそも、膳所の浦は勢多、唐崎を左右の袖のごとくし、海を抱きて三上山に向かふ。海は琵琶の形に似たれば、松の響き波を調ぶ。日枝の山、比良の高根を斜に見て、音羽、石山を肩のあたりになむ置けり。……

 ともある。

三上・水茎の岡南北に別れ

 大津市堅田の地は、対岸の守山市まで約1.3Kmと、琵琶湖では最も狭隘な部分に位置する。現在その間に琵琶湖大橋がかけられ、湖東と湖西を結んでいる。その琵琶湖大橋のすぐ南に浮御堂がある。元禄4年、芭蕉はこの地で、十六夜の月が湖面に映えるのを見ている。

『堅田十六夜の弁』

 望月の残輿なほ止まず、二三子いさめて舟を堅田の浦に馳す。……月は待つほどもなくさし出で、湖上花やかに照らす。かねて聞く、仲の穐の望の日、月浮御堂にさし向ふを鏡山といふとかや。今宵しも猶そのあたり遠からじと、彼の堂上の欄干に寄って、三上、水茎の岡南北に別れ、……

 前夜十五夜の月を賞した興趣がなお尽きず、十六夜の今宵も、二、三の門人が自分をせきたてて、舟を堅田の浦へ走らせた。……月は待つほどもなくさし出でて、湖上を花やかに照らす。仲秋の満月の夜、月が浮御堂の差し向かいに出るあたりを鏡山と、かねてきいていたのだが、今夜はまだ一日ちがいの、十六夜のことだから、その位置は、そうはかわらないだろうと、浮御堂の欄干にもたれてながめると、三上山と水茎の岡は南北にわかれて、その間に小さな嶺がかさなっている。……

 浮御堂、海門山満月寺といい、堅田崎から湖中に突き出ているため、この名がある。中秋八月十五夜には、月は対岸の鏡山の上に昇って、まっすぐに堂内にさしこむという。

 

 実際にそこに立って、湖の風景をながめれば、まず目を引くのは三上山である。それから左手へ鏡山・水茎の岡と小高い丘陵がつづいている。
 鏡山は、三上山の東北にあって、滋賀県野洲町と竜王町の境をなしている。標高385m、湖西から見るときはあまり目立った存在ではない。しかし、この山は滋賀県蒲生郡の歌枕として、数多くの歌にうたわれており、秋には月を粧いとする。このため芭蕉も、ひときわ目を引く三上山をすてて鏡山にこだわったのであろう。水茎の岡も歌の名所で、現在その周囲は、水茎内潮干拓地として田園化してしまい陸つづきとなっているが、もとは湖中にうかぶ島であったという。
 琵琶湖の東につらなるこの歌の名所が、十六夜の月に照らされるのを、西岸、堅田の浮御堂の欄干にもたれて見る。なんというぜいたくな風景であろうか。
そして芭蕉は、

  鎖明けて 月さし入れよ 浮御堂

 とうたう。

 私はこの句を読むたびに、直接句には表われていない湖上の光景、青白く光るさざなみの上に、シルエットとして横たわる三上山から水茎の岡へつづく山なみを想起する。

 芭蕉の句をもう一句。

  比良みかみ 雪指しわたせ 鷺の橋

 比良山は、標高1214mの武奈岳を主峰として、湖西に連なる山脈。古来、 近江八景「比良の暮雪」として、その雄大な風景がたたえられてきた。この句は、比良山のある湖西から、対岸の三上山へむかって、雪の中を渡っていく白鷺を見て、比良と三上の両山に白い雪の橋をかけよと興じたものだという。昭和39年の琵琶湖大橋開通を記念して、浮御堂境内に「比良みかみ」の句碑が建てられている。

4.天保の一揆

 三上山周辺は、ロマンばかりで色どられていたわけではけっしてない。話を湖西からもう一度山麓にもどし、やむにやまれぬ農民たちの、いのちをかけた闘いの歴史を見てみよう。

蜂起する農民四万

 あいつぐ凶作に苦しめられていた近江の村むらへ、幕府の検地役人・市野茂三郎が、総勢四十数名を引きつれてやって来たのは、天保12(1841)年 12月のことであった。
 彼等の検地は、一丈一尺六寸の竿に、一丈二尺二分の目盛をしたものを公然と使用する悪らつな手段で、年貢の増収をくわだてる一方、賄賂を出した庄屋の村むらには検地を手加減し、さらには、尾張、彦根、仙台の有力三藩の領地には足を入れないという不公平ぶりであった。このため農民の不安と苦痛は大きく、ついに甲賀、野洲、栗太三郡の農民が蜂起することとなる。天保の一揆である。
 野洲郡三上村庄屋・土川平兵衛や甲賀郡杣中村庄屋・黄瀬文吉らを中心に話はすすめられ、市野らが、仁保川(現在の日野川)筋を検分中の 13年9月26日に、庄屋を集めて会議を開き、この検分の中止を京都の奉行所に願い出ることとし、市野が三上村に到着したときに、その願書を提出することを申し合わせた。そしてもしもそれが聞き入れられないときには、三郡の総勢をあげて、市野の宿に押し寄せる手はずをととのえた。
 10月11日、市野の一行は三上村に到着した。甲賀郡の黄瀬文吉、田島治兵衛等はそれを聞き、密使をつかわせて、平兵衛に野洲、栗太両郡の状況を問いあわせたところ、平兵衛からの回答は、かねて契約の如く15日を期して野洲川原に会する用意がすでに成っているのに、何故に躊躇していたずらに他の動静をうかがうか、というはげしい檄文であったという。ここにおいて文吉、治兵衛も断固として意を決し、甲賀郡一円に呼びかけ、一揆の準備はなった。
 14日夜は、月光凄いまでに明るかったという。甲賀郡森尻村(甲南町)の矢川神社の森に集まった群衆一万2000余人、15日夕、横田川原(野洲川の上流)に集結したときの甲賀勢力は二万人を越えていた。それから石部宿を経て、途中野洲、栗太両郡の農民二万余人と合流し、市野ら一行の宿する三上村を包囲して気勢をあげ、一行の荷物書類を破棄しつくしたという。
 市野は抵抗及ばず、三上山山中をさまよったあげく、ほうほうの体で大津代官所に逃げ込み、一揆勢は、ついに野洲川筋村むらの検地十万日日延べの証文をとりつけることに成功した。事実上の無期延期である。

別れて急ぐ死出の旅だち

 こうして一揆の目的は一応達しはしたが、今度は京都奉行所による追及がはしまり、百余人が二条城の獄舎に投ぜられ、翌14年には召喚尋問されるものが2000名にも達した。
 14年3月、三上村庄屋・土川平兵衛や市原村庄屋・田島治兵衛らをはじめ、主謀者とみられた11名が江戸に送られた。連日の拷問によって心身ともに衰弱していた彼等は、途中3名が絶命し、江戸へ着いたものは残る8名であった。江戸での取り調べに対し、土川平兵衛らは臆することなく市野の不当な検地や収賄に対する農民の苦しみをうったえた。その結果、検地は沙汰やみとなったが、8名は獄死して不帰の客となった。
 土川平兵衛は、江戸に送られるため大津の獄をたったとき、既にこの一揆の発頭人と決せられていた。土川家は、代々御上神社の社家士であった。彼は青年時代京都へ出て、中江藤樹の陽明学に傾倒したといわれ、一揆の指導者としての彼の心を支えたものは、この躬行実践の思想であったといわれている。三郡の一揆勢が押し寄せたとき、それらの人びとに炊き出しを強いられ、飯米まで放出した三上村の村民は、一揆が退かなければ三上村全村が炊き出しのために滅亡するであろうから、公役方に一刻も早く出立するよう取り計られたしと嘆願し、ついには家を棄て幼児をかかえて逃げ去るという状況でもあっ た。一揆勢が散ったあと、平兵衛の家に石を投げてののしったという。覚悟の上とはいえ、彼は他の庄屋とはちがった苦しみを耐えなければならなかった。
 しかし、江戸へ送られる籠を見送る沿道の老若男女は、平兵衛大明神と呼び、 近江路を通過する二日間は号泣の声が絶えなかったという。石部の宿で、親戚知己との別れのとき、彼は、

  人のため 身は罪とがに 近江路を
    別れて急ぐ 死出の旅だち

 という一首をよんで別れを惜しむとともに、決死の覚悟を示している。平兵衛が江戸小伝馬町の百姓牢で獄死したのは、天保14年5月、時に42歳であった
 一揆50年祭の明治26年(1893)には、三上山の麓に、殉難の人たちを合祀した保民祠が建てられ、同31年には、一揆勢が集結した横田川原を眼下に見おろす伝芳山に天保義民之碑が建てられた。また、毎年10月15日、野洲町では「天保義民祭」が行われている。


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