三上山は、田原藤太秀郷のむかで退治の伝説で有名である。
私自身、三上山との出合いは、やはりこのむかで退治の話からである。生まれてずっと京都に住んでいた私は、小学生のころ琵琶湖へ遠足に来た。そのとき浜大津の岸に立って、「むこうに見える富士山によく似た山が、むかで山といって、昔、あの山を七巻半していた大きなむかでを、強いさむらいが退治したことで有名な山です」との説明を聞いた。それまで漠然とながめていた風景の中から、その山だけが、大きなむかでのイメージとともに、クローズアップしてきた記憶がある。
『東海道名所記』 に、
(石部の)宿の町はづれより、右のかた一里ばかりに三上山みゆ。世に、これを百足山といふ。その山のかたちは、うつくしうして、ちいさき富士の山なり。
とあって、そのあとにくだんのむかで退治の話がつづく。
このむかで退治の伝説は、いろいろな書物に紹介されているが、 原本は、室町時代から江戸時代にかけて作られた「御伽草子」の中の「俵藤太物語」によっているといわれる。少し長くなるが、『新潮日本古典集成・御伽草子集』から抄訳してみよう。
むかで退治伝説
その昔、朱雀院のころに、田原藤太秀郷という名高い武士がいました。この人は藤原鎌足の子孫にあたり、河辺の左大臣魚名公より五代の孫、従五位の上村雄朝臣の嫡男でした。田原の里に住んでいたことから、田原藤太と呼ばれていました。藤太は藤原家の太郎(長男)の意味です。
藤太は十四歳で元服して、朝廷につかえていましたが、父親はある日、「人の親として、わが子をほめそやすのは物笑いになりそうだが、お前は武士として、たいそう立派になった。先祖のほまれをしっかり継いでくれよう」といって、鎌足以来伝わってきた霊剣を藤太に与えました。
このことがあってから、藤太はますます武芸を磨いて、下野の国(今の栃木県)に恩賞の土地をいただいて、都から下ることになりました。
近江の国の瀬田までやって来ますと、唐橋の上に大蛇が横たわっていて、旅人が通れなくて困っているとのことです。藤太が不思議に思って行ってみますと、なるほど、 いるわいるわ、長さ二十丈もあろうかと思われる大蛇が、橋の上に横たわっています。らんらんと輝く二つの眼は、空に太陽が二つ並んでいるようですし、十二の角の鋭さは、冬枯れの森の梢とかわりません。鉄の牙、上下に生い違った中から、真赤な舌を振り出した様子は、炎をはくかと見まちがえそうです。しかし、藤太はそれを見てもひるむことなく、大蛇の背中を踏んで通りすぎて行きました。
その夜、宿をとっているところへ、二十歳ばかりの女がたずねて来ました。。その女はたいそうな美人です。いぶかる藤太に、女は、
「私は、この世のものではありません。きょう瀬田の唐橋でお目にかかった大蛇でございます」
と話しはじめました。
「私はこの国がひらけてこのかた、ずっと近江の湖に住んでおりますが、最近、三上山に棲むむかでが、野山へはい出しては、けだものたちや湖の魚をすっかり平らげ、しかもわたくしたちの仲間までが、たびたび食べられ苦しまされています。だれかあのむかでを退治してくださるかたはいないかと、瀬田の唐橋で大蛇に姿をかえて横たわっていたのでございます。きょうのあなたのお振舞いは、まことに立派でございました。むかでを退治していただけるのは、あなたをおいてはほかにはいないと心にきめてお願いにまいったしだいでございます」
藤太、これをきいて、ここでひるむのは男子の恥と、
「時を移さず、今夜のうちに、そのむかでを退治しましょう」
と答えると、その女はたいへん喜んで、かき消すように立ち去って行きました。
藤太は、父親からもらった霊剣と、五人張りの重藤弓、三年竹の大矢三本を手にもって瀬田へとむかで退治にむかいました。
湖水のみぎわに立って、あれが三上山かとにらみつけると、しきりに稲妻がひかり、雷鳴がとどろいて、二、三千ものたいまつに火がともったかと見るまに、三上山が動くようにゆらゆらと身をゆるがして怪物があらわれました。あばれもののむかでです。
藤太は、龍宮のかたきはこれと、くだんの矢をさし加え、じゅうぶん引きしぼって、眉間のまん中へ打ちこみましたが、鉄の板を射るようにはねかえってしまいました。二本目も同じことです。残るは一本。藤太「南無八幡大菩薩」 と心にいのって、最後の矢に唾を吐きかけ、眉間をねらって打ちこみました。今度はしっかりと手応えがあって、今まであかあかともえていたたいまつがふっと消え、百千万の雷もぴったりと鳴り止みました。
さては化物は死んだぞとよくよく見れば、まごうことなき本物のむかでです。百千万の雷に聞こえたのは、大地をゆるがす音だったのです。二、三千のたいまつと見えたのは足だったのでしょう。矢は眉間のまん中を通って、のどの下までつきぬけていました。
あくる日の夜、藤汰のもとへ例の女がやって来て、
「さてさて、あなたの勇気と力で、日頃の敵をやっつけていただき、お礼の申しょうもありません」
といいつつ、巻絹二つと、口をくくった俵、赤銅の鍋一つをさし出しました。
礼をいう藤太に、女は、
「今度のよろこぴは私だけのものではありません。またあらためてご恩返しにまいります」
といって、どこへともなく帰って行きました。
不思議なことに、くだんの女からもらった巻絹は、裁っても裁ってもなくなりません。俵も口をあけると、いつまでも米が出てきます。このことから田原藤太は、俵藤太と呼ばれるようになったのです。さてまた、鍋の内には、いくらたべても思うがままの食物が湧き出てきたのですから不思議なことでした。
そのあと何日かたって、再び女が現われ、お礼のしるしに、わたしの故郷へご案内いたしましょうといいます。女は近江の湖に棲む龍女だったのです。龍女は、俵藤太をともなって、ひろぴろとした湖水へ入っていきました。龍宮の中は、いろいろな樹木に花が咲いて、極楽世界を思わせます。
やがて宴がはしまりました。そのおいしいこと、この世のものではありません。
藤太は思いました。これほどの楽しみは、常世のいかなる栄華といえども、これには及ばないだろうと。
「これほど有難い国にも、苦はあるのでしょうか」
と問えば、龍王が答えて、
「もちろんのこと、天上の五衰、人間の八苦、龍宮の三熱といって、いずれも苦のない国はありません。なかでもこのたびのむかで退治の件、本当に有難く存しています。このご恩は永久に忘れません」と、黄金札の鎧と、大刀一振りを藤太におくりました。
そしてさらに、赤銅の釣鐘一つを取り出させて、
「この鐘は、諸行無常と響きます。この鐘の音を開く時は、無明煩悩たちまち消え去り悟りの世界に達するのです。どうか宝にしてください」
藤太は龍王にいとまごいをして、龍宮を出ました。水底を歩むことほんのひとときで、瀬田の唐橋に着きました。藤太は父と相談したすえ、龍王からもらった鐘は三井寺へ奉納することにしました。
藤太が、唐崎の浜へ行って見ますと、夜のうちに龍宮からあげられたのでしょう、その釣鐘はちゃんと浜にありました。これから三井寺まで引き上げるのは大変だと案じていると、明日供養という前の晩、湖から小さな蛇がやって来て、かの釣鐘の龍頭をくわえて、大講堂の庭までやすやすと引きあげて、かき消すように去って行きました。僧正、大衆とも、なんと不思議なことだと見おくっていました。
さてこの伝説の意味は
徳永真一郎氏編『郷土史事典・滋賀県』(昌平社)では、このむかでを、平将門であるとしている。すなわち、父ののこした領地のことから叔父の国香を殺し、しだいに勢力を増してきた将門は、関八州をほとんど支配したが少し足りないので、三上山を七巻半したとし、下総から京都に攻め上ろうとして、その防衛点である勢多橋で秀郷に退治されたことになっている、という。
野洲町の郷土史家・寺井秀七郎氏は、政権への造反だとする。
むかし、この野洲の地に安国造がおかれた。為政者は三上山の山頂に登って国見をした。「御神山」は「み上山」となる。「上」とは政庁の所在を意味している。しかし、やがて「み上」の政権が弱体化してくると、そこに造反が起こる。むかで退治の物語は、この造反伝承である、という。
藤井玖美氏は、『古代近江物語』(国書刊行会)の中で、採鉄首長者どうしの対決ではないかという。すなわち、御上神社の社伝によれば、祭神・天之御影神は別名を天之古箇神といい、古来金工鍛冶の祖神であることと、瀬田川東岸の源内峠遺跡で白鳳時代の製鉄炉の遺構が発堀されていることとをあげ、製鉄作業で槌を打つときに手が交互に何度ものび、それがむかでの足に見えることから、大量の労働力を必要とした採鉄首長者どうしの対決であろうという。
伝説というのは、それが生まれたときには、何かの意味をもっていたはずだが、年月を経てくると、意味不明のものになってしまう場合が多い。このむかで退治の話もその例だが、いずれにしても、その伝説によって、人の意識をそちらへ向けさせる作用はあるようである。
私自身の小学生のときの体験のように。
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