穂高から三上山まで

---昔語り・わたしの山と写真・29---
1980年10月 木曽駒ヶ岳

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行ってもエエけど

 1980年秋、職場の後輩のOさんが「木曽駒へいきませんか」という。前回の御岳が1974年だから、6年たっている。いつの間にか山へ行くことを忘れてしまっていた。

 1976年11月に三上山の撮影を始めて、自分の自由になる時間は、ほとんどそれに投入してきた。レンズだ、三脚だと、やればやるだけ金がかかる。フイルム代が馬鹿にならない。家のローンのこともある。山どころではない。その上、写真というヤツは難儀なもので、自分で撮って、自分でニヤニヤしていても何のたしにもならない。死んだあとゴミになるのが関の山である。誰かに見てもらってこそ意味が出てくる。

 1979年、撮りだして3年たったところで個展を開いた。ギャラリー代、展示作品のプリント代、案内状などなど、これもちょっとやそっとの金額ではない。しかしやればやっただけの反響はあった。1回やって止めるならやらない方がまし。しかし、まあ3年に1回、無理しても2年に1回かと考えていた。

 そんなところへ、毎日新聞のYさんから、「知り合いの人が、支社の近くでギャラリーを開くことになった。その方(ギャラリー主)が、あんた(Yさん)の紹介なら半額にするといっているが、第2回をやらないか」と、腹の虫をつつくような話。結局2年続きで個展をやることになった。それが終わったすぐあとの誘いだった。

 一方、誘ってきたOさんというのは、6年前の御岳登山の仕掛け人。もとを正せば、その昔西穂へ登って、帰り白骨温泉で骨休めをしたことがあったが、そのときが初めての山だったとかで、それ以来やみつきになって、その後も蝶へ行くとか、行って来たとか、何度かそんな話を聞いていた。それにしても御嶽での寒冷前線の直撃はきつかった。「また、前線が来るのと違うか・・」と冗談半分で聞き流すつもりだった。

 「ところで、木曽駒て新田次郎の『聖職の碑』の舞台の山やろ。小学生が集団登山して遭難したという・・・」といったのが間違いのもとだった。
 「その当時はそうでしょうけど、今度はケーブルで登りますから、大丈夫です」という。
 「お前、ワシをなめとんのとちがうか。なんで、ワシがケーブルで登らんならんねん」と、本来なら大見得の一つも切らなきゃいけないところだが、いつのまにか私もなまってしまっていた。
 「ふーんケーブルか。それならいってもエエけど」

 高速バス

 1980年秋。このとき46歳。「ふーんケーブルか。それならいってもエエけど」、気持ちはこの言葉に集約されている。自分から積極的に計画した山ではない。新幹線で名古屋駅へ着いて、「ここからバスに乗ります」といわれて、へーここからバスか。バスは木曽福島と相場が決まっとったが、こんなのは初めてやな、といった調子。
 バスは国道を走るのかと思いきや、「高速です」・・・。何と世の中変わったねー。
 途中、多治見・中津川と過ぎて、懐かしいなー。何せ、多治見まで1時間、中津川まで、1時間、木曽福島までまた1時間の時代やったからなー。お前ら知らんやろけど、四等寝台というのがあってなー。
 長ーいトンネルにはいる。当時はまだ対面通行だったけど、何とどこまで続くねん。恵那山トンネルだという。そういえば、馬籠へいったとき、民宿のおじさんが、「あれが恵那山、いまあの下でトンネル工事が行われている。開通すると、木曽谷と伊那谷がつながる」といっていたのを思い出す。そのときは何気なくきいていたのだが、あの話は、このトンネルのことやったんか。
 それにしても、高速バスに乗って山へ行くとわなー。駒ヶ根市内で登山バスに乗り継ぎ。

 駒ヶ根

 ロープウエーに乗り継いで、千畳敷カール着。ナナカマドの実が残っていたりして、おっ、これは涸沢を思い出すぞ。

 さて、この前後、生活は2色。勤務先の仕事と三上山の撮影。そこへ降ってわいたような山である。アルバムを見ても、写真を時間系列に貼ってあるだけで、何の付記もなし。メモもほんの気休め程度に時間が記録されているだけ。
 1980(昭和55)年10月9日。午前6時13分野洲発。京都7時05分の新幹線で名古屋へ。8時30分名鉄バスセンター発11時15分駒ヶ根市着。昼食。12時30分のバスでロープウエー乗り場へ。13時40分、千畳敷カール着。ほぼ半日とちょっとで、こんな山の中に立っているのである。

 宝剣岳へ

 写真を拡大してみるとロープウエーの支柱が見える。ということは、ロープウエーの山上駅付近から、伊那谷にを見たところだろう。谷をはさんだ向こうの山は南アルプス。ここのホテルで、富士山からの日の出が見えるというので、話題になったことがある。当然富士山が写っているはずだが、よく分からない。

 稜線まで登って、同じく東を見たところ。ここまで来ると富士山ははっきり見える。南アルプス、富士山の左に農鳥岳、間の岳、北岳などが見えてるのだが、登った経験がないので、どれがどれだか特定できない。
 それにしても、目の前の訳のわからん岩は何や。人を驚かすだけが目的の現代彫刻のごとし。
 

 この2枚、どちらも右から光が来ている。ということは稜線に立って、南を向いているところらしい。右側のすぱっと切り立っている岩、かなりのインパクトがあったはずだが、いまとなっては何の記憶もなし。

 そのまま宝剣岳へ向かう。駒ヶ根市からみるとカールの稜線真ん中あたりにつんと突き出ている山である。稜線づたいに見ると、ついそこにあるように見えるのだが、ちょっとした岩場があって面白かった。

 写真左、宝剣岳の頂上なのか、ピークを巻いて南側は回ったところか、それすら記憶がない。いま、下から見ると宝剣岳のテッペンは、これほどの人間が集まれるところのように見えないので、南側かなとも思うが確かなことはいえない。幾組かのパーティーが集まっている。
 写真右、南へ縦走するパーティーもあったが、われわれは引き返し木曽駒へ。
 またあの岩場通るの?。誰やコース決めたんは。ワシはついてきただけやで。奥にうっすら見えているのは御嶽山。



写真右。この岩峰が上で見たまっすぐに切り立ったピークらしい。これを向こう側、北側から撮ったのだろう。
 この写真、タテに細い線が並んでいる。これは当時「絹目プリント」というヤツが流行っていて、どういう仕掛けか知らんが写真の表面に細かい凹凸をつけて、つや消し画面のような感じが受けていた。スキャナーがこの凹凸を拾う。しょうもないものが流行ったものである。

 木曽駒ヶ岳


 写真左、ロープウエーからカールを登り切って、稜線へ出たところへ戻ってきた。もう1回東側を。右端に富士山が見える。手前の連峰は南アルプス。中央道のフェンスにこのピークが図示されている。何回通ってもおぼえられない。
 写真右。同じ場所から西側、木曽谷のほうを見た。モヤの上に浮かぶのが御嶽山。この御嶽山、このときの1年前、1979年に噴火していたので、なにか変化が見えるかと期待したが、何もなし。


 写真左。このピークが宝剣岳。道は頂上を越えているようにも見えるが、詳細不明。
 写真右。木曽駒頂上の祠と御嶽山。

 木曽駒の頂上小屋に泊まる。空いていた。寒かった。北アルプスの夏の超満員に比べれば天国だが、がらんとした部屋は寒かった。夕食を食べれば布団にはいるしか暖はない。その布団がとてつもなく冷たかった。

 木曽駒・ご来光

1980(昭和55)年10月10日

 夜が明ける。何となく天気は怪しい。ガタガタと窓ガラスがなる。その昔、槍から穂高へ縦走したときの朝を思い出す。
 木曽駒の小屋は稜線の木曽谷側にあった。ご来光を見ようとすると、ちょっとばかり坂を上って、稜線へ出なければならない。何人かいた同宿者は、明るくなるとともに、皆そうそうに出かけていった。
 こんな風の中、早く行ったかて太陽が早く昇ってくれるわけでないし、ゆっくり行こや、とズボラをかまして、ぎりぎりまで布団の中にいる。
 5時45分に小屋を出る。稜線へ出るとものすごい風。しかし日の出の直前、寒いけれども頑張ろう。




 結局、太陽が見えたのは、雲海を離れて、上の雲にはいるまでの5分間ほどだけだった。考えてみると雲海の上から登る太陽を見るのは久しぶりだった。1957(昭和32)年だったか、餓鬼岳と燕岳。2日続けて安曇野の雲海からの日の出を見た。それが最後だったような気がする。そのあと、大滝、常念岳へもいったが、台風の直撃で雲海どころの天気ではなかった。
 穂高からの日の出は何度か見たが、常念岳連山から登るため、大した雲海にはならない。裏銀座、笠ヶ岳も条件は大同小異。そういう意味では20数年ぶりの雲海からの日の出だった。
 20数年前の雲海からの日の出、残っているのはモノクロ写真のみである。このカラーの情報量には逆立ちしても勝てっこない。


 20数年ぶりで見る雲海からの日の出。しかしすぐ風で運ばれてきたガスで視界がふさがれる。そのガスが薄い間は、というよりは太陽が見えている間はといった方が正しいのかも知れないが、太陽の光でガスが輝く。これもまたカラー写真の世界である。モノクロームではこの表情はぜったに表現できないだろう(写真左)。
 写真右、そのガスもすぐに濃くなって、辺り一面のガスとなる。ガスの向こうの太陽と、ケルンを合わせたのだが、完全な日の丸構図。悪しからず。しかし、10分でも、20分でも、雲海から昇る太陽が見えたのである。それも20数年ぶりで・・・。
 ということで、ものの20分たつかたたないかであたりはガスの中、グレー一色となる。


 下山

 7時15分、小屋を出て下りにかかる。しばらく下るとガスの下に出る。雲の最下面が一線を画してみえる。あの中にいたんやからたまらんわなー。
 一番のロープウエーで来たのだろうか。一見して観光客だと分かる人が、ぞくぞくと登ってくる。

 「稜線はスゴイ風とガスですよ。行っても無駄ですよ」といいたいのだが、いっていいものか悪いものか。たとえ言ったとしても行くんだろうなこういう人は。それよりもナナカマドを見ておいた方がよっぽど意味があるのだがなー。

 8時30分、ロープウエー乗り場へ着く。木曽駒の小屋を出たのが7時15分だったから、1時間15分。ずぼらな登山ではあった。ロープウエーは8時54分。それまでその辺で・・・。


 飯田線

 当時のメモ、10時01分伊那市発の飯田線で飯田へ11時14分着とある。ロープウエーで下ってバスに乗り継げば駒ヶ根へ下りるはずで、どうして伊那まで行ったのか。いまとなっては確かめるすべもないが、南へ帰るのに、わざわざ北へ行くのもおかしいし、時刻表を調べてみた。現在伊那・飯田間の所要時間は1時間20〜30分、駒ヶ根・飯田間が1時間10分ぐらい。これはどうも当時のメモそのものが勘違いらしい。駒ヶ根から飯田へ出たのだろう。

 駒ヶ根から乗ろうと、伊那から乗ろうと、そんなことはどうでもエエ。これで世の中が変わるわけではない。それよりも大事なことは飯田線そのもの。当時は、戦前の省線電車がわんさかいた。子供のころ省線電車といえば京都駅でちょっと見るだけ。その後、国電と名前が変わって、そして訳のわからんJRになった。その省線電車がいるのだから、懐かしい。
 出入り口が前と後の2箇所しかない独特のスタイル。まさに古強者である。こんなものいまの京都・大阪間で使ったら、能率が悪いと、悪評たらたらだろう。

 飯田のリンゴ並木。駅から少し離れているはずだが、ドタ靴を履いて歩いていったのだろう。10月だから、リンゴがなっているはず、所々に実が見えるような気もするが、下手な撮り方やね。

 というわけで、このなまくらな山が。結果的には最後の山になった。まだ生きているわけだし、何かの間違いで、ひょっとしてどこかの山へとならないとは限らないが、少なくとも現時点ではこの山が最後だった。永年履いたドタ靴はどこかでほこりをかぶっている。


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