穂高から三上山まで
|
目 次 へ |
行ってもエエけど1980年秋、職場の後輩のOさんが「木曽駒へいきませんか」という。前回の御岳が1974年だから、6年たっている。いつの間にか山へ行くことを忘れてしまっていた。 1976年11月に三上山の撮影を始めて、自分の自由になる時間は、ほとんどそれに投入してきた。レンズだ、三脚だと、やればやるだけ金がかかる。フイルム代が馬鹿にならない。家のローンのこともある。山どころではない。その上、写真というヤツは難儀なもので、自分で撮って、自分でニヤニヤしていても何のたしにもならない。死んだあとゴミになるのが関の山である。誰かに見てもらってこそ意味が出てくる。 1979年、撮りだして3年たったところで個展を開いた。ギャラリー代、展示作品のプリント代、案内状などなど、これもちょっとやそっとの金額ではない。しかしやればやっただけの反響はあった。1回やって止めるならやらない方がまし。しかし、まあ3年に1回、無理しても2年に1回かと考えていた。 そんなところへ、毎日新聞のYさんから、「知り合いの人が、支社の近くでギャラリーを開くことになった。その方(ギャラリー主)が、あんた(Yさん)の紹介なら半額にするといっているが、第2回をやらないか」と、腹の虫をつつくような話。結局2年続きで個展をやることになった。それが終わったすぐあとの誘いだった。 一方、誘ってきたOさんというのは、6年前の御岳登山の仕掛け人。もとを正せば、その昔西穂へ登って、帰り白骨温泉で骨休めをしたことがあったが、そのときが初めての山だったとかで、それ以来やみつきになって、その後も蝶へ行くとか、行って来たとか、何度かそんな話を聞いていた。それにしても御嶽での寒冷前線の直撃はきつかった。「また、前線が来るのと違うか・・」と冗談半分で聞き流すつもりだった。 「ところで、木曽駒て新田次郎の『聖職の碑』の舞台の山やろ。小学生が集団登山して遭難したという・・・」といったのが間違いのもとだった。 高速バス 1980年秋。このとき46歳。「ふーんケーブルか。それならいってもエエけど」、気持ちはこの言葉に集約されている。自分から積極的に計画した山ではない。新幹線で名古屋駅へ着いて、「ここからバスに乗ります」といわれて、へーここからバスか。バスは木曽福島と相場が決まっとったが、こんなのは初めてやな、といった調子。 駒ヶ根ロープウエーに乗り継いで、千畳敷カール着。ナナカマドの実が残っていたりして、おっ、これは涸沢を思い出すぞ。 さて、この前後、生活は2色。勤務先の仕事と三上山の撮影。そこへ降ってわいたような山である。アルバムを見ても、写真を時間系列に貼ってあるだけで、何の付記もなし。メモもほんの気休め程度に時間が記録されているだけ。 宝剣岳へ写真を拡大してみるとロープウエーの支柱が見える。ということは、ロープウエーの山上駅付近から、伊那谷にを見たところだろう。谷をはさんだ向こうの山は南アルプス。ここのホテルで、富士山からの日の出が見えるというので、話題になったことがある。当然富士山が写っているはずだが、よく分からない。 稜線まで登って、同じく東を見たところ。ここまで来ると富士山ははっきり見える。南アルプス、富士山の左に農鳥岳、間の岳、北岳などが見えてるのだが、登った経験がないので、どれがどれだか特定できない。 この2枚、どちらも右から光が来ている。ということは稜線に立って、南を向いているところらしい。右側のすぱっと切り立っている岩、かなりのインパクトがあったはずだが、いまとなっては何の記憶もなし。 そのまま宝剣岳へ向かう。駒ヶ根市からみるとカールの稜線真ん中あたりにつんと突き出ている山である。稜線づたいに見ると、ついそこにあるように見えるのだが、ちょっとした岩場があって面白かった。 写真左、宝剣岳の頂上なのか、ピークを巻いて南側は回ったところか、それすら記憶がない。いま、下から見ると宝剣岳のテッペンは、これほどの人間が集まれるところのように見えないので、南側かなとも思うが確かなことはいえない。幾組かのパーティーが集まっている。 写真右。この岩峰が上で見たまっすぐに切り立ったピークらしい。これを向こう側、北側から撮ったのだろう。 木曽駒ヶ岳 写真左、ロープウエーからカールを登り切って、稜線へ出たところへ戻ってきた。もう1回東側を。右端に富士山が見える。手前の連峰は南アルプス。中央道のフェンスにこのピークが図示されている。何回通ってもおぼえられない。 写真左。このピークが宝剣岳。道は頂上を越えているようにも見えるが、詳細不明。 木曽駒の頂上小屋に泊まる。空いていた。寒かった。北アルプスの夏の超満員に比べれば天国だが、がらんとした部屋は寒かった。夕食を食べれば布団にはいるしか暖はない。その布団がとてつもなく冷たかった。 木曽駒・ご来光1980(昭和55)年10月10日 夜が明ける。何となく天気は怪しい。ガタガタと窓ガラスがなる。その昔、槍から穂高へ縦走したときの朝を思い出す。 結局、太陽が見えたのは、雲海を離れて、上の雲にはいるまでの5分間ほどだけだった。考えてみると雲海の上から登る太陽を見るのは久しぶりだった。1957(昭和32)年だったか、餓鬼岳と燕岳。2日続けて安曇野の雲海からの日の出を見た。それが最後だったような気がする。そのあと、大滝、常念岳へもいったが、台風の直撃で雲海どころの天気ではなかった。 20数年ぶりで見る雲海からの日の出。しかしすぐ風で運ばれてきたガスで視界がふさがれる。そのガスが薄い間は、というよりは太陽が見えている間はといった方が正しいのかも知れないが、太陽の光でガスが輝く。これもまたカラー写真の世界である。モノクロームではこの表情はぜったに表現できないだろう(写真左)。 下山 7時15分、小屋を出て下りにかかる。しばらく下るとガスの下に出る。雲の最下面が一線を画してみえる。あの中にいたんやからたまらんわなー。 「稜線はスゴイ風とガスですよ。行っても無駄ですよ」といいたいのだが、いっていいものか悪いものか。たとえ言ったとしても行くんだろうなこういう人は。それよりもナナカマドを見ておいた方がよっぽど意味があるのだがなー。 8時30分、ロープウエー乗り場へ着く。木曽駒の小屋を出たのが7時15分だったから、1時間15分。ずぼらな登山ではあった。ロープウエーは8時54分。それまでその辺で・・・。 飯田線当時のメモ、10時01分伊那市発の飯田線で飯田へ11時14分着とある。ロープウエーで下ってバスに乗り継げば駒ヶ根へ下りるはずで、どうして伊那まで行ったのか。いまとなっては確かめるすべもないが、南へ帰るのに、わざわざ北へ行くのもおかしいし、時刻表を調べてみた。現在伊那・飯田間の所要時間は1時間20〜30分、駒ヶ根・飯田間が1時間10分ぐらい。これはどうも当時のメモそのものが勘違いらしい。駒ヶ根から飯田へ出たのだろう。 駒ヶ根から乗ろうと、伊那から乗ろうと、そんなことはどうでもエエ。これで世の中が変わるわけではない。それよりも大事なことは飯田線そのもの。当時は、戦前の省線電車がわんさかいた。子供のころ省線電車といえば京都駅でちょっと見るだけ。その後、国電と名前が変わって、そして訳のわからんJRになった。その省線電車がいるのだから、懐かしい。 飯田のリンゴ並木。駅から少し離れているはずだが、ドタ靴を履いて歩いていったのだろう。10月だから、リンゴがなっているはず、所々に実が見えるような気もするが、下手な撮り方やね。
|