講 演 要 旨

 
昭和3(1928)年大嘗祭
大祓所跡を探す
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たのしく学ぶ歴史教室
2009年12月21日(土)
コミセンみかみ
八 田 正 文


 はじめに

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 昭和3年、野洲の地で大嘗祭が行われ、悠紀斎田が営まれた。「悠紀地方風俗屏風」揮毫のため川合玉堂が取材に訪れたり、行事そのものも新聞にも大々的に報じられたりして、全国的大行事だったということである。
 今回、コミセンみかみ「たのしく学ぶ歴史教室」で話をするに当たって、事務局長のKさんから、大嘗祭の写真のコピーを見せていただいた。野洲市三上の粂川豊治さんが保存しておられたアルバムをコピーしたものだという。その中に「大祓所」という写真があった。見てみるとどうも野洲川の近くで行われたらしい。大嘗祭の話は野洲に引っ越してきてから何度か耳にした。しかし大祓所などという話は聞いたこともない。その写真を見せられるまで知らなかったことである。以下、その場所を推定するまでの経緯である。



 資料とした写真と地図

 今回取り上げたのは、そのうちの写真3枚と1枚の地図である。

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写真1 大祓所 写真2 取材に訪れた川合玉堂(左)
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写真3 大祓所から石部方面を望む 地図1 当地見取り図(赤丸が大祓所)

 地図はいわゆる見取り図であって、悠紀斎田を中心に描かれている。縮尺等は意味をなさない。そんな中で野洲川の所に「大祓所」(赤丸・八田加筆)と記載されている。おおよその見当をつけてみると、現在の国道8号・野洲川大橋あたりに相当する。



 三上山主峰(雄山)と雌山との関係

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 左は、写真1の三上山部分を拡大したところである。
 ご覧のように三上山の輪郭の中、ほぼ中央に一つ山が見え、その右上にもう一つ淡く山(雌山)が見える(拡大するとかろうじて見える)。これらの山が三上山の輪郭の中に入り込むのが、この方角から見たときの特徴である。
 これら3つの山の間隔が、赤い矢印で示すように右側ではほぼ1対1の割合である。それを足してトータル2とすれば、左側では、ほぼ2.5ぐらいの間隔が読みとれる。



 いざ、現場へ

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 現在の周辺地図である。右上が三上山、野洲川は左上(北西)に向かって流れている。右下が近江富士団地。そのそばを流れてきた大山川が、野洲川大橋の上流で野洲川に合流している。
 近江富士団地の近くの橋を起点として、堤防上を下流に向かって走る。講演では100mごとの写真を提示したが、ここでは最後の2つ、500m地点と600m地点との2つを上げる。


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■500mの地点である。三上山(雄山)と雌山との関係はほぼ写真1に近くなっているが、あとわずか左側が狭いようである。










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■600mの地点である。若干雌山が右へ寄りすぎた感なきにしもあらずだが、これでほぼ写真1の状態であるといえる。この写真の左下にコンクリートの角が見えるが、実はこの左は砂置き場になっている。
 あとにも示すように、画家川合玉堂が写っている写真2がこの位置であろうと推定できる。




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 600mの地点から砂置き場を見たところ。左に見えるのは、河川関係の塔かと思うが、これが現場の目印になっている。遠くに見えるのが野洲川大橋、この場所から橋までは、砂置き場の会社の専用らしく、部外者は何となく入りにくい雰囲気である。







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 写真左、上は写真2、下は600mの現場から見た現在の姿である。たとえば、山肌の随所に見える岩の露出なども、ほぼ完全に一致している。山頂部のへこみが多少異なるが、それを除けばまず100%一致している。
 山裾の左に見える妙光寺山も、現在の写真で、ピークの右側の盛り上がりが多少気になる以外はまず、完全といえる。




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 ということで、この時点では、現在の砂置き場が昭和3年の大祓所の現場であろうと推測していた。ここまで完全に一致して文句はないだろうとの思いであった。印のすぐ上の茶色の四角形が砂置き場である。









 

しかし、よく考えてみると

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 しかし、よく考えてみると、これを結論とするには大きな問題点をかかえていた。大山川の堤防を昭和3年当時から不変だと考えていたことである。
 たとえば、琵琶湖上の赤丸印(C点)の場所を特定したいとき、湖上に目印はない。琵琶湖の漁師さんなどは、A山とC点を結ぶ直線上に目標Aを定め、その直線上でなおかつB山とC点を結ぶ直線上に目標Bを定めて、AC,BCの2本の直線の交点を求めるのだという。
 上で私がやったことは、大山川堤防を図の直線BCとして、その上を走りながらA山(三上山主峰)と目標A(雌山)の重なり具合を見極めて、その場所をC点としたのである。その大山川の堤防が昭和3年当時のものでないとしたら、この話は成り立たないことになる。




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 念のために野洲川大橋の上から、大山川を見たところである。左側の堤防上に例の塔が見える。その場所が600mの地点である。右端に見える白い部分が、大山川と野洲川との堤防の先端。ここで大山川が野洲川に合流していることになる。あまりにも整いすぎているといえばいいのだろうか。きれいに整備されている。




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 左は、ずーと昔、私が三上山を撮りだしたころ、大山川と野洲川が合流する直前の三角地帯で撮ったものである。木の左に見えているのが大山川の堤防。撮影は1978年、このときここは工事中だった。大山川堤防が、昭和3年当時と同じだという保証はどこにもない。





 写真3

 そこで登場するのが、最初に挙げた写真3である。この写真は、大祓会場から石部方面を撮っている。会場から見る三上山へのカメラの向きと、ほぼ直角方向を向いて撮ったものである。
 今回改めて、大山川堤防上600mの地点から、この方向の写真を撮って、2枚を比べてみた。


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■それが左の写真である。いちばん手前の山は、採石場があるため、山そのものが削り取られて、大きく形を変えている。しかし、画面の左に見える阿星山とその手前の竜王の峰と呼ばれる小さなピークはそのまま残っていた。
 阿星山は石部市街地の背後にある山で、標高も高く、このあたりでは目立つ山である。竜王の峰という小山は、石部雨山文化運動公園の中に位置する山である。
 この2峰を基準として、上下の写真を比較してみる。右の方のP山とその左の鉄塔のように見える場所が、上の写真ではくぼみとして見えている。すなわち赤線で示した場所は、新旧2枚の写真において、同じ位置にあるといえる。それに対して、次の3つの問題点が浮かび上がってきた。
   ア.A山の位置がずれている。
   イ.B山の位置がずれている。
   ウ.B山の高さが昭和3年時より低くなっている。
 赤線でつないだ山は動いていないのに、なぜ黒線の山だけが動くのか。写真を拡大してみると、A山は阿星山よりさらに奥にあるように見える(新しい写真をよく見ると見えてくる)。1枚の写真になってしまうと、我々の目には、それらの山がすべて同一平面上に並んでいるように見えるが、実際の山の並びはそうではない。遠近離れて位置する山が並んで見えるのである。この場合もA山は阿星山より奥にあることが分かる。同様にB山もP山よりは奥にあるのである。
 走る電車の中から風景を見ると、遠くの山は電車を追ってくるように見える。それに対して近くのものは後へ移動していく。すなわち近くのものと遠くのものとは、電車の移動によって、その距離が離れていく。カメラが右へ動けば、遠くのものは右へ動くのである。この場合、現在の写真に比べて昭和3年の写真では、A山もB山も手前の山に対して右へずれている。ということは、昭和3年の写真は、現在私が撮った位置よりは、阿星山に向かって、右へ離れた場所から撮影されたということである。



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 左が現場の地図である。が撮影場所。カメラは阿星山の方向を向いている。上の結論はカメラがさらに右(阿星山に向いて右)へ寄ることを求めているが、右は川である。やむを得ない、何もしないわけには行かないから、大山川の堤防を200mほど遡ってみた。図で分かるように、阿星山に対しては左へ移動したことになる。
 訳が分からなくなればまず現場へ、それでもわからなければとにかく動く。そうすれば相手も動く。推理小説でよく出てくる話である。



 現場から左へ寄れば

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 左がその結果である。A山、B山ともにずれが大きくなり、僅かではあるが、P山にもずれが見られるようになった。左へ動いて、誤差が大きくなった。ということは、右へ動けばその誤差は解消されるはずだ。しかし、右は川である。
 それともう一つ大きな問題点がある。B山が明治の写真より低くなっているということである。これをいかに解釈すればいいのか。



 伊勢落の現場へ

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 かくなる上は、現場を見るにしかず。とりあえず現場の確認と、野洲川左岸、栗東市側へ回ってみた。例の山は旧東海道沿いの伊勢落集落の背後にあった。左の写真は野洲川堤防から見たもので、この山の麓を旧東海道、国道1号、JR草津線などが併走している。B山はP山の右奥に見える。推測したとおりである。しかし、B・P両山の高さの問題(両山の高さが明治と昭和で逆転している)は未解決である。



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 さいわいい明治25年(昭和3年部分修正)作制という地図が見つかった。伊勢落近くのその山を見てみると、明らかにB山がP山より高い。昭和3年の状態は、明治時代とはほとんど変わっていなかっただろうから、大祓所からの写真は、明らかに自然の状態を記録していたのである。






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 左は現在の様子である。山間を名神が通り、そのルートと山との間で岩石の採取が行われている。その跡が大きく地形を変えている。B山(明治の地図で明らかにP山より高く表されている)は、半分削り取られたように表現されている。この地図が作製された後も採取は続いたことも考えられる。この地図の状態は、P山より高かった部分が削り取られた後の状態ではなかろうか。




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 名神沿いの道を、伊勢落集落の反対側へ回ってみた。現在も採石作業続行中かと想像したが、それは終わっていた。採石された跡地かと思われる広場があって、その奥に例の山が見えた。右の「木」とあるのは、大山川堤防から見たとき、鉄塔のごとくに見えたもので、伊勢落集落から見て、大木が枯死したものと確認していたものである。それを基準にしてP山、B山が確認できた。とくにB山は頂上直下まで採石が進んだことが認められた。かつて、今の頂上より手前にもっと高い峰があったとしても不思議ではない。昭和3年の高く見える頂上はすでに削られてしまったのではないか。これが現時点での私の推測である。

 余談、事務所の近くで写真を撮っていたら、中からおじさんが出てきて、「何したはるんですか?」、昔の地形と今の地形を・・・。「うちは昭和XX年からやってるけど、それ以前のことは知らんで」。それ以上深追いはせず、すんなり解放してくれたのでほっとした。大祓所云々といっても分かってもらえるとも思えないし。




 R8野洲川大橋から

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 昭和3年大嘗祭大祓所の位置は、現在の大山川堤防よりも内側(川の流れの方)であるということがはっきりしてきた。現在の川の様子から、近似的にその位置を探るとしたら、国道8号野洲川大橋しかない。左は橋の東詰、野洲市側の取付位置での撮影したものである。A山とB山のずれは、堤防上600m地点のずれより、ずいぶん小さくなった。あとわずかである。




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 橋の上を約20mほど栗東市側へ(対岸に向かって)移動した。これでほぼ大きなずれはなくなった。A山もB山もほぼ一致している 。












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 雄山と雌山との関係から、堤防上600m地点と推定したのだが、実際は、その地点よりさらに川に向かって約20mほど川原へ出たところ、これが私が推定した大祓所の位置だった。










 

大祓所跡の碑

 ここまで発表した時点で、参加者の野洲市三上の市木修氏から、次のような話があった。
 …「私は大嘗祭の前年の生まれで大嘗祭そのもは知らないが、大祓が野洲川の川原で行われたことは長老から聞いて知っている。現在の国道の橋の上流で、いまの話の通りである。大山川の流れは、いまとは全く異なっていて、川原が広く草競馬が行われるぐらいだった。以前、その場所(野洲川の中洲)に大祓所を示す石碑が建っていたが、洪水で流された。その後探し出されて、現在は悠紀斎田記念広場に移されている。」…
 びっくりした。Kさんから写真を見せてもらうまで、大祓が行われたことすら知らなかったし、その場所については見せてもらった写真から野洲川の堤防ぐらいだろうと簡単に考えていた。しかし写真を詰めていく途中でだんだん話がややこしくなった。結論については正直半信半疑だった。話の結論も「私が考えた範囲では・・・」という枕詞をつけて終わった。まさか実際にそうだたという話をいただけるとは思っても見なかった。ありがたかった。

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 野洲川の中州に建っていたという石碑。現在は悠紀斎田記念広場に移されている。「昭和大典悠紀斎田抜穂式大祓所」とある。根元で折れたものらしく石に接がれた痕跡が見える。洪水で折れたというのはこれだろう。「抜」という字が旧字体で、「拔」である。テンの位置が上に来ているため読みにくい。





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