講 演 録

 
30年目にして見えたもの
谷文晁が見た三上山
も ど る
 

第1回 全国ふるさと富士サミット
2007年11月17日(土)
野洲市野洲文化ホール
八 田 正 文

 ご紹介いただきました八田正文でございます。記念すべき第1回ふるさと富士サミットで、お話をさせていただけますこと、大変ありがたく感謝いたしております。きょうは「谷文晁が見た三上山」というテーマでお話しさせていただきます。
 私は、ここ30年あまり、ずーっと三上山の写真を撮り続けてきましたが、撮りだして間なしのころでした。ふと立ち寄った書店で、『新編日本名山圖絵』谷文晁画という本を見つけました。今もその本は手元にありますが、奥付によりますと、「昭和52(1977)年5月 青渓社刊」とあります。今から30年ほど前で、私が三上山を撮り始めたころと一致します。
 ご存じの方もいらっしゃると思いますが、谷文晁は江戸時代後期の画家でして、1763年に生まれて、1840年になくなっています。80歳近くまで生きたのですから、当時としては長生きしたほうですね。その文晁が北海道から九州まで、全国の山々88座を訪ね歩いて見取筆録(今でいうスケッチですね)したものをまとめて、『日本名山絵図』として出版しました。文化9年(1812年)のことだったといいます。九州は霧島・桜島あたりまで、北海道は羊蹄山などが入っていますが、文晁自身北海道へは足を踏み入れたことはなく、弟の谷元旦が描いたものを模写したともいわれています。しかしそのことは本日の話とは直接関係はございません。
 私が出会った『新編日本名山圖絵』というのは、その『日本名山絵図』を原本として、小林玻璃三という人が改めて編集し直したものです。文晁が残した山名が現在使われていないものもあり、88座すべてを国土地理院の地形図と照らし合わして再確認したものでした。
 さて、私のきょうの話は、文晁の88座の中に我が三上山・近江富士が入っていたことから始まります。左の絵が文晁の三上山です。みなさんどうでしょうか。これが三上山に見えますでしょうか。三上山だといわれればそうかなとも思いますが、黙って見せられたらちょっと首を傾げるところでしょう。私も30年前にこれを見たときには、いくら何でもこれは三上山とは違うぜと思いました。それっきりこの本の存在を忘れてしまっていました。




Fig.1 谷文晁が描いた三上山


  これで終われば、きょうここでお話しさせていただくことはなかったのですが、縁というのは不思議なもので、つい最近、といっても4年ほど前ですが、『現代日本名山圖絵』三宅修著(2003実業之日本社刊)という本に出会いました。書店の棚で、この本と見たとき、……?と驚きました。『現代日本名山圖絵』?、例の文晁の図絵じゃないのか。手に取ってみると確かにその通りでした。写真家・三宅修さんが、昭和30年代から、40年近くの年月をかけて、谷文晁88座のスケッチポイントを探し求めて撮影したものだといいます。実はこの三宅修さんという人は、私としましては、個人的に大変懐かしい名前なのです。昭和30年代の半ばごろだったと思いますが、東京の創文社から『アルプ』という山の文芸誌が創刊されました。それはそのあと25年間つづいて、300号で終刊になりましたが、私はその雑誌をずーっと続けて読んでいました。その編集者(後に編集責任者)が三宅さんだったのです。そんなことで、その本を見たときには「三宅さん、やったな!」、そんな感慨を持ちました。日本全国に散らばっている88座、それも200年も前に描かれたスケッチのポイントを探し歩いたというのですから、気が遠くなるような話です。

 話は変わりますが、昨年10月、私は「さんさん会」という写真同人のみなさんと『近江富士まんだら』という写真集を出版しました。さんさん会というのは、10年近く以前になりますが、私が中央公民館で写真講座の講師を担当していたときに出会った方たちが中心となってできた写真のグループです。「三上山の写真を撮ろう」というのが目的で、後はいっさい束縛なし。会長なし、会則なし、会費なし。会員名簿なし。会費も名簿もないのだからメンバーの枠もなし。枠があれば、出たり入ったりということがあるのですが、枠がないのだから出入り自由というつかみ所のないグループでした。要するに写真を撮って集まろうということですが、集まる日だけは決めなければ集まれない。第3日曜日を例会日と定めました。第3サンデーで「さんさん会」です。2000年のスタートでした。
 「5年後には写真集を作ろう」、これが発足当初の目的だったのですが、それは1年遅れて、昨年2006年に実現しました。1年遅れた理由は、私自身の中でどうしても編集方針がまとまらなかったからです。いろんなことで悩みました。最大の悩みは撮影場所をどのように表すかでした。私は写真というのは「記録」だと考えていますから、撮った場所が明確でなければ意味がありません。たとえば××市××町では、およその見当はつきますが、「ここだ」というポイントにはなりません。ましてや今回のように市町村合併があるとお手上げです。地図にポイントを打つ、これも悪くはないのですが、道ができ川が付け替えられる。その最たるものが野洲川の付け替えです。地図が変わるのです。場所を表すということは50年100年の単位で見ると、簡単な話ではないのですね。結局、今回は撮影場所を三上山から見た方位と距離で表すことにしました。三上山から真北の方向を0度として、東回りに〇〇度、距離〇〇Kmというように……です。
 場所をそのように表したのですから、それらの写真を方位順に並べてみました。といえば格好がいいのですが、実は苦し紛れでした。ふつう風景をテーマとした写真集は、季節ごととか地区別だとかが定番ですが、前3作でそのどちらも終わっており、手の打ちようがなかったわけです。同じ手を使うわけにもいかないしということで、方位順が出てきたわけです。
 やってみてわかったことですが、結構おもしろいことでした。何がおもしろいのかといえば、方位順に並べると、自分が三上山を中心として同心円の道路を走っているような感覚になるのです。実際そんな道路があるはずありませんから、右へ行ったり左へ行ったりしながら場所を求めていくわけですが、それらを順に並べると同心円上を走っている気分になるのです。そして、三上山は必ず中心にありますから、方位が進むに従って周囲の山々が規則的に動いて行くのが見えるのです。電車が走ると遠くの山が動くのと同じ理屈です。別項「ぐるっと一周・5度刻み」参照。
 ここまでなら当たり前の話ですが、問題はここからです。何かといいますと、三上山と他の山との重なり方を読むことで、逆に方位が読めることがわかってきたのです。この理屈を使えば、撮影場所のわからない写真でもそのポイントを探し出せるのではないかということです。たまたま中国へ赴任している人が撮った写真で、撮影場所不明の作品が手元にありました。それを使って実際にやってみました。……できました。
 『近江富士まんだら』の編集をここまで進めてきて、最後のつめをどうしようかと思い悩んでいたときでした。ふと文晁の絵を思い出したのです。いまお話した方法を使えば文晁のスケッチポイントが見つかるのではないか。三宅さんはどういう方法でやったのかわからないが、三上山だけなら自分にもやれるのではないか。もしそれができれば、写真集の締めくくりとして格好の材料になると思いました。前置きが長くなりました。いよいよ分析です。




Fig.2 3峰を推定する


 まず、描かれた山が実際のどの山に該当するかを決めます。図2をご覧ください。いちばん左の大きく高い峰、これが三上山の主峰です。これについては誰しも異論はないでしょう。問題はその右の小さい峰と、いちばん右の峰です。これが何に当たるのか、議論が分かれるところですが、『現代日本名山圖絵』の三宅修さんは、それらを雌山と菩提寺山だとしています。私も、その通りだろうと思います。実際に360度回ってみても、3つのピークがこのように並ぶところは他にはありません。もっとも雄山と雌山とが、これだけ離れて表現されているところに、多少の違和感がなきにしもあらずですが、……まあ、これはこれで間違いなかろうと思います。




Fig.3 三上山と菩提寺山(滋賀県野洲市から)

 第3図は野洲市三上から見た三上山です。近くの方はご存じのことですが、きょうは遠方からお越しの方もいらっしゃいますので、念のためにご覧ください。いちばん高いのが三上山の主峰(雄山)です。それから右へ流れ下って雌山です。右端に小さく見えているのが菩提寺山です。こうして見ると、何となく山の並びが文晁の絵と似ていますでしょう。




Fig.4 三上山と菩提寺山の位置関係

 図4は、きょうの話のフィールドです。三上山と菩提寺山がポイントになるわけですが、両者の距離は約2.4Kmです。図3の写真は三上山の北西側から撮ったものです。




Fig.5 「文晁比」=2:1

  さて、第5図。これがきょうの話のキーポイントです。文晁の絵の各ピーク間の距離の割合です。雌山と菩提寺山の間隔を1とすると、雌山と雄山の間隔はほぼ2といえます。この2:1がきょうの話の最大にポイントになるわけで、この後何度も出てきますので、「文晁比」と名付けておきます。[文晁比]=[2:1]とご理解ください。




Fig.6A 菩提寺山が離れすぎている

 図6Aです。これは先ほどお話ししました『近江富士まんだら』に載せました展望図です。三上山の真北を0度として、東回りに5度、10度というように場所を探して写真を撮り、それをベースにして、知人の道本裕忠さんにトレースしてもらいました。ご覧いただいていますのは、そのうちの300度です。真北が0度ですから、真南が180度。真西が270度になります。ですから真西からさらに北へ30度という方角です。この角度からですと、三上山に対して菩提寺山はかなり離れており、いわゆる文晁比の外側にあります。三上山からの距離はだいたい8Km前後です。これぐらい離れますと、雄山と雌山とは1つの山と見なされますから、5度や10度動いても、両者の見え方が大きく変化するわけではありません。しかし菩提寺山は三上山(雄山・雌山)より遠くにありますから、角度が大きくなるに従って、左へ左へと動いていきます。方位角が大きくなるということは、自分が三上山に対して左へ動くということですが、それによって、三上山より遠方の山は三上山に対して左へ動くのです。わかりにくいかもしれません。要するに角度が大きくなれば、菩提寺山が左へ動くと考えて、以下の図をご覧ください。




Fig.6B かなり近づいたがまだ外側


 

Fig.6C ごくわずかだが近づき過ぎ


 

Fig.6D 雌山の背後に回ってしまう


  図6Bは305度です。菩提寺山はまだ文晁比の外側にいます。 図6Cは310度です。だいぶ近づいてきました。ほぼ2:1です。「文晁比」に近いですね。これでOKとしたいところですが、厳密にいうと若干中に入ってしまったかなともいえます。このように山の動きというのは、本当にシビアなのです。図6Dは315度ですが、ここまでいきますと、菩提寺山と雌山の後ろへ回ってしまいます。これは完全に優勝圏外です。と、このようなことで、3つの峰が「文晁比」で並ぶのは、310度弱の方位から見たときだということがわかってきました。図7が305度と310度の原本写真の撮影場所です。左に青く見えているのが琵琶湖です。




Fig.7 305度と310度の現場



Fig.8 堤防が描かれている


 さて、もう一度文晁の絵をご覧ください。図8のように、右下に堤防らしいものが描かれています。人が馬を引いて歩いています。私はこれを野洲川だと考えました。学者だと、これが本当に野洲川かどうか考証しなければならないのでしょうが、私は素人ですから、その点は気が楽です。それこそ独断と偏見で、野洲川だと決めてかかりました。




Fig.9 推定した方位と野洲川南流の関係


  図9の地図をご覧ください。三上山・菩提寺山の南側を通って、琵琶湖へ注ぐ川があります。これが野洲川です。今は太い放水路が1本、ほぼ直線状に琵琶湖へ向かっていますが、つい30年ほど前までは、途中で、南北2つの流れに分かれていました。いわゆる天井川で住民は長年洪水に悩まされてきたわけです。その2つの流れの跡が、衛星写真にくっきりと写っています。それを読んでみますと、305度から310度の間で野洲川と交わっているところは、2カ所あります。この丸印のところです。文晁の見取筆録(スケッチ)ポイントはこのうちのどちらかだということに絞られてきました。




Fig.10 菩提寺山が高い


 図10、もう一度文晁の絵です。文晁は雌山より菩提寺山を高く描いています。三上山・菩提寺山の高さは、周辺の平地を基準として、それぞれおよそ160m、250mです。菩提寺山のほうが90mほど高いのです。ところが見る場所によってその見え方が変わります。それを確かめるために、2つの山が同じ高さに見える距離を計算してみました。中学1年ぐらいの比例計算ですね。その結果、三上山から約4.4Kmと求まりました。4.4Kmを境として、それより近ければ雌山が高く見え、遠ければ菩提寺山が高く見えるという計算です。




Fig.11 2峰が同じ高さになる地点



Fig.12 菩提寺山が低い


 図12は、4.4Kmより近い場所から見た例です。左下が野洲市三上からです。先程見ていただいたものですが、距離は1.1Kmほどです。三上山に近いため、雌山が高く菩提寺山が小さく見えています。右上が近江富士大橋からです。距離は約4Kmです。菩提寺山が三上に比べて大きくなってきたのがわかります。しかしまだ雌山よりは低いですね。




Fig.13 菩提寺山が低い


 図13は、守山市矢島町からです。遠方から来られた方は町名を申し上げてもおわかりにならないだろうと思いますが、この場合、町名は関係なしです。要するに距離だけの問題ですから。ここで約7.4Kmですから4.4Kmを越えています。菩提寺山が雌山より高くなりました。

ここでもう一度いままでの話を整理してみます。
1、三上山から見て310度弱の方位。
2、旧野洲川の堤防。
3、4.4Kmより遠い。

 以上の3つです。310度弱の線上で野洲川が絡んでいるところは2カ所でしたが、4.4Kmより遠いとなると自ずから限定されてきます。図14がその場所です。もうここしかありません。その場所を指定して、カシミール3Dで作画してみました。カシミールというのは、地図の上で場所を指定すると、その場所から見た地形を描写してくれる非常に便利なソフトです。




Fig.14  推定した文晁ポイント



Fig.15  カシミールで描画(文晁P)


  図15がその結果です。ピーク間の距離の比は2:1、いわゆる文晁比ですね。計算どおりです。あとは現場へ行って確認するだけです。もうできたのと同じだと思われるかもしれませんが、現実はそんな甘いものではありません。カシミールは、地図のデータを風景にしただけです。しかし実際には木も生えていますし建物も建っています。ちょっとでも視界を遮るものがあれば、今までの話は全部ご破算になってしまいます。今までの経験からしてその確率のほうが圧倒的に高いのです。祈るような気持ちで現場へ向かいました。




Fig.16  文晁Pから見た三上山


  行ってみると、一発で見えたのです。図16です。まさに奇跡でしたね、本当に。文晁さんが呼んでくれたのではないか、そんな気さえしました。場所は現在の守山市水保町、旧野洲川南流跡です。GPSで測ってみましたら、三上山からの方位が308.5°(310度弱ですね)、距離が8.3Kmでした。
 ところで、図16は、ピーク間の距離の比も2:1、間違いなしです。カシミールはすごいですね。しかしこれで喜んでいてはいけません。カシミールと現場の風景が一致するのは当たり前です。現場からの地図を風景にしているのですから。問題は、その現場に立って文晁の絵が見えるかどうかですが、凡人の私には、文晁の絵は見えてきませんでした。文晁さんの絵はびっくりするぐらい高いですね。現場の写真のようにべたっとはしていません。文晁さんに許してもらって縦方向を3分の1ぐらいに圧縮してみました。やってみて驚きました。俄然似て来ました。図17です。鯨が泳いでいるように見えますが、現場からの写真に似て来たでしょう。私たちが日常見ている風景をシビアに再現すればこういう状態なんですね。しかし文晁は、それを縦3倍ぐらいにデフォルメして描いていたのです。




Fig.17  文晁の絵を縦に圧縮


 人間の目というものは、意識して見たものは大きく見えます。意識せずにおれば、見逃してしまうようなものでも、意識してみると非常に大きく見えます。たとえば、北アルプスに登ると富士山が見えることがあります。あっ、富士山だ!見えた見えた!。非常に大きく見えます。写真に撮ります。プリントしてみると見えません。確かここから富士山が見えたはずなんだけど……。よーく探して見ると確かに写っています。しかし、こんなに小さかったのかと疑うばかりです。これはほんの一例ですけれども、みなさん何らかの形で経験なさっていることだと思います。昇ったばかりの満月なども驚くばかりに大きいのですが、写真に撮ると、本当にこれがあのときの月?と疑いたくなるくらい小さいはずです。
 そういう意味で、私たち人間は二つの目を持っていると思います。一つは「見えた見えた」の目です。私は、これを「感動眼」と呼んでいます。意識したものだけが大きく見える目です。もう一つは、その反対で「冷静眼」とでも呼びましょうか。文晁はこの「感動眼」で見た三上山を描いたのでしょうね。「見えた見えた。あれが近江富士だ!」という感動を絵にしたのでしょう。冷静な目で客観的に見ることもっと低いのですが、それではおもしろくない。それをやれば、三上山はこんな低くはないという反応があることを知っていたのでしょう。それが芸術なのでしょうね。
 くどいようですが、今の写真を縦に3倍ほど伸ばしてみました(図18)。やっぱり似てきます。




Fig.18  現在の写真を縦3倍に描画


 きょうの初めのほうで三宅修さんの『現代日本名山圖絵』の話をさせていただきました。この本に出会わなかったら私の文晁へのこだわりはなかっただろうという本です。最後にもう一度、三宅さんのことをちょっとだけ。
 三宅さんは、この本の中で文晁のポイントを国道8号に近い野洲川河川敷公園(野洲市三上)としています(図19)。ここから見たのでは、菩提寺山が離れすぎており、かつ雌山よりも低く見えます。どうしても無理だと思います。こういうことをいうと、私が三宅さんの仕事にけちをつけているようになりますが、決してそうではありません。むしろ逆なのです。その話を一つご紹介します。『現代日本名山圖絵』三上山の項のなかで、最後に三宅さんは、比良山の撮影で琵琶湖大橋を歩いたときのことを、次のように述べています。
 「比良山の撮影で琵琶湖大橋を歩いているときだった。大橋の頂点にでて、ふと東を見たとき、あっと声が出てしまった。遠いビルの向こうにシルエットの三上山が、まるで文晁描く、といった姿だった。近江富士は大小三つの黒い影になって遠い空を区切っていた。」
 というのです。三宅さんは東京から来られるわけですから、おいそれと何度も来るわけにはいきません。私は近くですから簡単です。図20がそれです。そっくりでしょう。角度にしてみると1°も違いません。ほんとに山の動きは正直なんです。




Fig.19  三宅修さんのポイント



Fig.20  三宅Pと八田P


  じつは最初は、この話を締めくくりにして終わろうと思っていたのですが、どうも締めくくりとしては弱いので、何かネタはないかとつい2・3日前、もう一度現場へ行ってみました。最後に行ったのは去年の夏の初めでしたから、1年以上経っています。ひょっとして、現場からの見通しがなくなっているおそれなきにしもあらずです。そんなことで、ここで話をさせていただくための、最終確認の意味もかねて行ってみたのですが、心配無用でした。現場の近くに、かつての野洲川南流跡を移用して「びわこ地球市民の森」という不思議な名前の公園が建設中で、その敷地内に小高い盛り土ができていました。1年前にはなかったものでした。そこへ上ってみましたら、なんと文句なしに文晁の三上山が見えました(図21)。GPSで確認しましたら、三上山からの方位が308.4°、距離が7.8Kmでした。私が最初に求めたポイント(図16)と角度にして0.1度、距離が500m弱しか離れていない場所でした。




Fig.21 「びわこ地球市民の森」



Fig.22 文晁が描いた尾根


 きょうはこうして、谷文晁の三上山見取筆録のポイントを求めて話をしてまいりました。私自身は、まずこれで間違いはないと考えていますが、一つだけどうしても引っかかることがありました。というのは、この場所が三上山を見るのに、いかにも遠いということです。わざわざこんな遠くから見なくても、もっと近くにいい場所はいくらでもあるはずです。これだけは未だに疑問として残っています。図22はカシミールでの描画を縦3倍にのばしたものですが、手前に尾根筋がきっちりと見えます。文晁の絵にもそれがはっきりと描かれています。問題は、約8Km離れたこの場所から、この尾根が本当に見えるのかということです。これが気がかりでした。もし見えなかったら、この推理は無理だといわれても反論のしようがありません。しかし最後の現場検証で、その疑問も解けました。……見えました。間違いなく見えました。その日は条件がよかったのでしょうね。上の写真がそれです。持っていったデジカメのレンズがあまり長くなく、これが限界でしたが、肉眼でははっきりその尾根が見えました。遠いには違いありませんが、やはり文晁はこのあたりで腰を下ろしていたのだろうと思います。そして「見えた見えた。あれが近江富士!」の感動を絵にしていたのでしょう。さいわい「びわこ地球市民の森」は現在建設中です。小高い築山も土が盛られたままで手づかずの状態です。『第1回全国ふるさと富士サミット記念』として、この丘に「文晁ここに描く」という記念碑を建てられないものでしょうか。とお願いして終わりとさせていただきます。ありがとうございました。




Fig.23 文晁が描いた尾根が見える


追 記


 上の文章は、『日本名山絵図』に付けられた谷文晁の自序です。最初に『日本名山絵図』を知るきっかけになった青渓社版に載っているものですが、自慢じゃありませんが、私にはこれをすいすいと読み解く能力はありませんから、大して意味もなかろうと敬遠しておりました。
 ところが最近になって、『名山へのまなざし』斎藤潮著(2006年7月・講談社現代新書)という本の中で、この文の訳に出会いました。一読して驚きました。これこそ、私の最大の疑問、「文晁のポイントはあまりにも遠きに過ぎるのではないか」を解決するものでした。同書よりその部分を転載させていただきます。本文の3行目前半までです。

   余、幼キヨリ山水ヲ好ミ、四方ヲ漫遊シテ、名山大川ニ遇フゴトニ必ズ図シテスナハチコレヲ収ム、ケダシ思フニ、山岳ノ奇勝コレヲ得ルハ、ソノ遠キニオイテナリ。ソノ風象オノヅト無尽ノ意味ヲ有スナリ。……以下略。

 文晁の文章に、まさにその解答があったのです。「山岳の奇勝これを得るは、その遠きにおいてなり」、といっています。もちろん文晁の時代と現代とでは、自ずから距離感に差があるはずですから、軽々しく論ずることは慎まなければなりませんが、山を見る距離感に何となく納得するものがあったことも事実です。というのは、『近江富士まんだら』で山の重なり図を作る際、三上山からの距離を原則8Kmとしました。もちろん周囲360度、すべての方位でそれを満足させることは無理な話でしたが、可能な限りその距離を保つよう努力しました。上の図6A〜Dはまさにその距離感にたってのポイントでした。 なぜ8Kmなのか。結論からいえば直感でした。山の形、他の山との重なり、自分が動くことに対する山の相互移動、周囲をとりまくフィールドの状況、すべてを判断して8Kmが最適と判断したのでした。
 文晁は、すべてが客観的に見える8Kmのこの場所から山の稜線をスケッチし、野洲川をさかのぼりながら、手前に伸びてくる尾根道などを加筆していったのではないか、そんなことを想像しています。

追記の追記


 その後さらに公園の整備が続けられ、北側の速野小学校に近い方に遊歩道の橋が架けられたりしています。その橋から真正面に三上山が見えます。公園化された川で川幅も狭いものですが、位置的にはこれが旧野洲川の南流に当たります。橋の真正面に小さく道路標識が見えますが、そのあたりが私が最初に文晁Pとして取り上げた場所です。現場地図


も ど る