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御代参街道を歩く・A

01.東海道土山宿から西瀬音まで

取 材 日:2016.01.01
初稿UP:2016.07.18

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1. 笹尾峠・御代参街道のこと

地図605.滋賀の街道
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 今年(2016年)の正月だったか、京都新聞に”街道の景観・指南書で一体感”なる記事が掲載されていた。県では13の旧街道を対象にして、「街道景観形成方針」を今春まで策定する方針だという。左はその記事に添えられていた地図である。
 なぜ、こんな話を持ち出したか、左の地図で11番目に挙げられている御代参街道の笹尾峠(甲賀市と蒲生郡日野町の境)が、別項でレポートしている野洲川分水嶺探訪中の「県道41号・頓宮越え」と極めて近い位置関係にあるからである。
 御代参街道は、東海道土山宿から笹尾峠を越えて中山道愛知川宿近く(東近江市五個荘小畑町)までを結ぶ脇往還(東海道・中山道とをショートカットするバイパス)である。江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社へこの道が利用されたことから「御代参街道」と呼ばれるようになったとか(現地土山町の案内板より)。
 本稿では、「御代参街道を歩く」と題して、東海道土山宿から中山道五個荘小畑町までの旧街道を前12回に分けてレポートする。


2. 東海道土山宿

写真661.御代参街道起点
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 さて御代参街道である。『近江の街道』(1994年・郷土出版社)には、”御代参街道は東海道土山宿の西端、すなわち現在の旧東海道と国道1号が交わる地点から分岐し、その出発点を示す文化4年(1807)の道標「右 北国たが街道 ひの 八まんみち」がある。”と記されている。この文章にいう道標は、左の写真で、大小2基の道標のうち右の小ぶりのほうである。1行目の「北国たが街道」が今の我々には読みにくいが、これが文化4年の道標である。これらの写真には写っていないが、「御代参街道・土山宿」との木製の道標も立っている。



写真662.追分屋跡
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 ふと道路の向こう側を見ると何か石標が見える。遠くではっきりしないけれども、なんとなく「追分屋」と読める。クルマの合間を読んで近づいてみると間違いない。ということはここが旧東海道と御代参街道との追分だったところで、そこに追分屋といういう旅館があったということだろう。




写真663.裏向きの標識
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 ということで、ここが旧東海道と御代参街道との分岐点であることは間違いはない。しかし、気持ちのどこかに釈然としないものが残っているのである。というのは、上でも引用した「道標 御代参街道起点」との案内板が石標と裏向きに立っていたことによる。その標識には、”この道標の左に進む小路が旧御代参街道で右斜めに進む道が旧東海道”である。おそらくほとんど方はこれで十分わかるじゃないか、左へ行けば御代参街道なのだろうと理解されると思う。しかし私は変人だから、”この道標”てどれなのかと考えてしまう。この案内板が1枚ならとまどいは起こらない。もし「この道標」が反対側の石標を意味するのなら左右は逆になる。もう一度反対側へ回ってみて、「右 ひの 八まんみち」とあるのを確かめて納得した次第。



地図606.旧東海道
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 石標と案内板とが互いに裏向けになっていることで、もう一つ気になることがある。こんなことを言いだすとどうでもいいことイチャモンをつけているように受け取られるかもしれないが・・・。
 というのは南土山交差点から100m西へ進むと、右斜めに入っていく道がある。また「右斜め」である。要するに国道1号と旧東海道とはX字型に交わっているから、国道1号から上手を見ても下手を見ても旧東海道は右斜めになるわけ。互いに裏向けの標識にこだわる理由の一つでもある。ことほど左様に、右左はややこしい。
 その入り口(南土山交差点から100m西へ進むだところで右斜めに入っていく道)に旧東海道を示す標識(左隅が国道1号の歩道)が立っている。これが旧東海道だとするとそれはどこへ行くのか。国道1号を草津に向かって走る場合、ここで街道は右へ出る。次に現れるのは野洲川を越えた頓宮跡あたり。そこでは左へ出てくるのである。この間旧東海道はあいまいになる。御代参街道も大事だけど、この東海道の不思議が気になりだした。



写真664.この道はどこへ
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 この道はどこへ行くのか。歩いてみるしかない。300mも歩くと広い十字路に出た。GoogleMapなどでトラバースロードと表記されている道路である。「トラバース」、山へ行っていたころよく使った言葉で懐かしかった。山ではたとえば縦走路などでちょっとしたピークがあるとき、それを避けて回り道をしながら水平な道を行く(ピークを巻くとも言っていた)ようなときに使っていたが、一般道ではどうなるのだろう。バイパスとどれだけの違いがあるのか。
 ハイ、脱線をした。そこに例の案内板があって、その下に何かついている。近寄ってみると、注意書き。この先は野洲川が渡れないから、いったん国道へ回って「歌声橋」を渡れという。横にもっと大型の案内板も添えられている。これは親切。そうかこれで分かった、右へ消えて、左から出てきたわけが。さすが忍者の里・甲賀市である。しかし、この看板を見た人は、その場で回れ右をして、左右を逆にイメージして進まなければならない。そこのところだよ、本当のサービスは。



写真665.松尾川の渡し場跡
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 そのまま進んでも松尾川の渡し場(地図左端)で行き止まりであることはわかった。でもとにかくそこまで行ってみよう。途中、大木の下に地蔵さんが祀られていたが(写真左)、そこまでだった。あとは細い道が川原へ続いているだけ。






地図607.大正9年修正地図 (日本図誌大系 近畿U・朝倉書店1973)
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 日本図誌大系という本に、当該地域の古い地図が載っていた。明治25年測量、大正5年修正だという。宿場内は旧街道のままだが、街道の前後は拡幅が進んでいることが分かる。この道が現在の旧街道ということになるはず。
 東、田村神社の方からやってきて、土山の宿場町を抜けたところで、拡幅なった東海道を西へ進む。このあたりは松尾川(現在の地図には野洲川とある)と田村川の合流点に当たる。綿谷雪著『考証東海道五十三次』(秋田書店・1974年)に、====明治13年の新国道(地図に拡幅されて表記されている道。現在の旧東海道。(国道1号ではない))が開通するまでは、このあたりは道も橋もなく林木叢生の地で、”白川”の北を通る半円形の細い道が、まさにその林木叢生の地をトラバースしていたのだという(八田意訳)====。この地図はまさにその時の状況を物語っている。
 現在、国道1号を走るとき、南側に続く旧東海道の屋根の輝き、それが前野交差点(新名神土山ICへの進入路)から南土山交差点までまで続き、そこでその風景が途切れるのはこの事情による。



写真666.歌声橋
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 さて、歌声橋。国道1号白川橋のすぐ下流に架かる橋である。1980年代の半ばごろ、野洲川渓谷の撮影によく国道1号を走った。白川橋から見る下流の風景が秀逸だった。そのころ両岸に橋の基礎が残るだけで、橋はなかった。特に左岸の木々が秋の夕日に照らされるのが美しかった。気になりながらいつもそのまま通り過ぎるのが常だった。そうこうしているうちに橋が架けられた。しまったと思った時は遅かった。そのあと、橋に覆いがついた。多分通学路に使われているのだろう。そうでなければ歌声橋なんて名前は付けないだろう。
 橋の上からはすぐ上流の国道1号・白川橋が見える。下流側、その昔白川橋から見た風景がよみがえる。



写真667.田村川合流
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 渡り切ってきょうはここまで。引き返す途中、あっと息をのんだ。これを見逃すところだった。野洲川(松尾川。左手前)と田村川(左奥)の合流点である。その水と砂の美しいこと。しかしこれも今の世にあって、当時では考えられない高みに立って見るかからこそであって、街道華やかなりしころには、まぎれもないく「林木叢生の地」であったろう。



3. 土山宿から御代参橋まで

写真671.御代参街道分岐
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 さて、御代参街道の歩き始めである。
 国道1号、旅籠・追分屋前から御代参街道分岐点を見たところ。こちらに面した石標には高埜世継観音道とある。読み方が側面にたかのよつぎかんおんみちとある。高野の世継観音への案内を意味するという。もう一面には瑞石山永源寺の文字が見える。へー、永源寺は”高野の世継ぎ観音”というのか。そして瑞石山なんて山号、知らなかった。疑うわけじゃないが、ホンマかいなと確かめてみたら、すべて間違いないらしい。知らなかったのはワシだけだったのか。



写真672.小路をぬけて
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 車1台の小路をぬけて野道へ出る。その道が見て分かる通り家と家との間の小路よりさらに狭い。右の畑が高く、左は1mほど下。軽トラがぎりぎり右によってこわごわ走っているのが目に見える。右の草つき斜面をこすっているタイヤの跡が克明に残っている。乗用車は絶対に無理だろう。



写真673.道標
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 道が少し広くなったところに「御代参街道」の道標が立つ。この道で間違いないのだろうかと心配になりだした時に、これを見ると安心できた。どこかの観光協会か何か、公的機関が立てたのだろうが、ありがたかった。ただし、ひねくれ根性かもしれないが、日野から土山へ向かって歩くように設定されているようで、何でこんな向きにと思うような場所もいくつか。しかし、贅沢を言ってはいけません。あるだけで有難いのです。



写真674左カーブ
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 田んぼの中の道がスーと左へ寄っていってクルマ道と出会う。土山マラソンの指標と御代参街道の道標とが混在して賑やかなこと。







写真675.直線道路
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 クルマ道といってもセンターラインがあるわけではない。それでも少しの間、直線です。見えている集落は「水月」。”スイゲツ”と読むのかと思っていたら、前出の地図607に「水附」とある。「ミズツキ」が正解らしい。郵便番号を調べたが、このような住所はなし。難しいな、こういう話は。




写真676.緩いカーブ
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 上の写真675で突き当りに見えている茶色の家が近づいてきた。緩いカーブが続く。右に折れるとか左に折れるとかの話ではない。トータルとしては直進するのだけれど、自転車で行くように、わずかに左右に振れながら行く。このえもいわれぬカーブが街道の特徴である。




写真677.地蔵堂
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 上の写真676に見えている白壁土蔵。そこから道を挟んだ向かい側に立派な地蔵堂がある。電柱とカーブミラーに挟まれて残念ながら影が薄い。このページを編集するにあたって、地蔵さんがあるのに気がつかなかった。確かこの辺で地蔵堂があったはずだがとやっと探し出したという次第。蔵と奥の白壁の工場が強く地蔵さんの影が薄い。
 そんなことで撮りにくい地蔵堂だけど、とりあえずアップで撮っておこう。ふと奥の山を見ると、凹んだところに目が行った。あのあたりが笹尾峠じゃないかなと思った時には地蔵さんから気持ちが離れていた。お堂がええ加減になってしまった。不運な地蔵堂である。



写真678.分岐点
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 突然道がびっくりしたように広くなる。その路面がスクリーンになって後ろの木や電柱が影を落とす。左は”水月老人憩の家”。石標があって、”右 青土、平子、音羽”と読める。青土、平子は野洲川上流の地名だが、音羽が分からない。さらにその下、「大師道」とあるらしいが、何を意味するのか。左の面は光線状態悪くかろうじて”掛”の字らしいものしか読めない。しかし100%”鎌掛”を指示していることで間違いなさそう。例の道標があって、細い道が左へ分かれていく



写真679.森の中へ
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 細い道は森の中へ入っていく。少し行くとエアポケットのようなところに茶畑がある。道は左下へ勾配を増しながら滑り降りていく。







写真680.明るみへ
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 すぐに森を抜けて明るみが見えてくる。例の道標。正しいルートをたどっていることを示してくれるからあり難い。正解を見ながら数学の問題を解いているようなもの。





写真681.小川を渡る
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 細い川を渡る。地図によれば野洲川の支流である。上流側を見たところ








写真682.野洲川へ
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 ちょっとした森のトンネルの向こうが上りになって、ガードレールが見えている。どうやら川らしい。とすれば野洲川しかない。近づくと例の道標がシルエットになっている。文字は見えなくてもそれと分かるのだから、この存在感はすごい。これだよ人生は。後ろから見てもその存在感。親父は背なかで・・・・昔の話だ。



4. 御代参橋のこと

写真683.御代参橋
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 今の世の中では当たり前だろうが、しっかりした橋である。親柱には「御代参橋」とある。レリーフ入りの派手なものだが、周囲がどないしようもない。全く絵にならず。そこへいくと橋の半ば、欄干にある”御代参行列”のレリーフはまだ見やすい。しかし車で通り過ぎる人の何人がこれを見るのか。
 ところでこの御代参橋、平成5年9月竣功”とあるから架けられたのはもう20年以上も前の話だ。この”竣功”の文字、よく使われるが本来の意味は”竣工”だろう。それはいいとして、橋などの場合、もうちょっとしっかり区別した言葉があってもいいと思うのだが。というのは、たとえば今かかっているこの橋は、たとえば明治、大正時代からここにかかっていた。その橋が古くなったから新たに架け替えた。この場合も”竣工”だし、今までまったく橋はなかったそこへ新たにこの橋を架けた。この場合も同じ”竣工”が使われる。
 今のこの「御代参橋」、名前から判断すると御代参街道華やかなりしときからかかっていたように受け取れる。でも、私が知る限り、この橋が架かる前、ここには橋は架かっていなかった。すくなくとも私が野洲川渓谷の写真を撮っていた1980年代半ばにはここに橋はなかった。



写真684.松尾川
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 川の名は野洲川とあるが、松尾川との付け加えがある。野洲川のこの部分白川橋から上流部分は、現在ではすべて野洲川と統一されているが、以前は「松尾川」と呼ばれていたらしい。たとえば上で見た地図607(大正9年修正版)には、はっきりと「松尾川」とある。ちなみに左端、右文字で”横田”とあるのは「横田川」。現在の野洲川・白川橋(田村川合流)から横田橋(杣川合流)までの古称である。
 さらに日本図誌大系 近畿U(朝倉書店1973)所載の地図を調べてみると昭和25年修正版にも松尾川とある。ただし、前述の横田川は「野洲川」に変わっている。ここらが名称変更の時期に当たっていたのかもしれない。(ちなみに「水附」は「水月」に)。
 そのあと昭和45年編集版では当該部分へ川名の記載は消える。そういうことで、昭和30年前後まで松尾川は使われていたのではないか。それが平成5年9月竣功のこの橋にカッコつけで松尾川の名を入れさせたのだろう。



写真684A.板の橋
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 左の写真は1980年代半ばの野洲川の写真である。撮影場所は、上流にある青瀬橋と国道1号に架かる白川橋の間であることは確かだが、その間のどこかといわれると返事のしようがない。現在でもそうだけど、川原への下り方は難しい。ぽっと出の素人では道が分からないのである。そのとき知っていたのは、青瀬橋から右岸を下って小さなトンネルを抜けて道が左へ曲がり始めるところ、そこが唯一の下り道だった。考えられる場所としてはそこしかあり得ないのだが、そんな不確かな写真をなぜ持ち出したのか。その当時の一つの記録として、写真の奥に見える日本昔話のような橋を見てもらいたかったからである。



地図610A.松尾川
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 野洲川渓谷の写真を撮りに通っていたころ、青瀬橋から白川橋まで橋はないと考えていた。しかし上の写真に見るような板の橋が架かっていた。そういう目でもう一度地図を見ると、橋は架かっていたのである。もちろん地図で表示された地図が写真に見るような板の橋だったかどうかはわからない。たとえば左の”明治25年測量大正5年修正版”には、なんと瀬ノ音から松尾の渡しまで直線距離で2.2Kmの間に、計6本、距離でいえば400〜500mおきに橋が架かってしたのである。要するに生活の範囲が狭かった。向こう岸へ行くのに、何Kmも遠回りは考えられなかったのだろう。その形は昭和25年修正版でも変わらない。この間戦争戦争で庶民の生活状態は変わりようがなかったのだろう。
 そのあと昭和45年になると田中・野上野間の1か所に減少する。なるほど、なるほど、さもありなん。広い野洲川の川原をつらい目をして歩かなくても、ちょっと遠回りをすれば、クルマで行ける社会になったのだ。と納得して昭和55年版を見ると、なんと、45年版の橋がまだ残っていたのである。
 とすれば、写真684Aの板の橋はこのうちの1本か、ということになるが、どう考えても記憶の場所とかなり違うのである。これに関しては迷宮入り。解決の手立てはない。

左・地図610B.御代参橋 明治25年測量・大正9年修正地図 (日本図誌大系 近畿U・朝倉書店1973)
右・地図610C.御代参橋 発行年不詳 (図説近江の街道・郷土出版社1994)

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 左の地図はすでに上で何度か見ている明治25年測量のものである。御代参街道はまだ現役だったはず。土山宿から北へ伸びる街道(赤線で示した)がそれだろう。松尾川(野洲川)には橋が架かっている。まさか上で見た板の橋ではないだろう。すくなくとも行列が通れるぐらいの橋だっはず。
 右は、郷土出版社版・図説『近江の街道』、「御代参街道」の項につけられた御代参街道全コースのうち当該の部分のみを切り取ったもの。明治25年測量のものと比較して、微妙な違いはあるものの、ほぼ同じコースをたどっている。御代参橋は明治25年測量のものに比べて若干下流へ移動しているようである。



左・地図610B.御代参橋 明治25年測量・大正9年修正地図 (日本図誌大系 近畿U・朝倉書店1973)
右・地図615.御代参橋 国土地理院web地図

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 左の地図は上と同じ。右が国土地理院web地図である。地図というのは厄介なもので、公開されたときにはすでに古くなっている。現場に変化があって、それが記録され地図が改定される。変化の時点から公表までの時間差だけ、すでに古くなっている。しかしそんな面倒なことを言わなければこれが現段階での最新のものであろう。
 さて、この項は国道1号土山宿旧追分旅館前T字路をスタートし、御代参橋まで歩いてきたところである。20数年前にはなかったこの橋が復活していた。基本的に地図のベースが異なるので、正確には比較することは無理であるが、ほぼ同じ場所であることが分かる。現在のこの橋は名前こそ「御代参橋」になっているが、そのルートとしては似ても似つかないところを通っている。国道1号土山宿、「土山支所前」交差点から青土へダムへ向かう県道9号の途中から分かれ、この橋を経て頓宮の大規模茶園へ向かう。鎌掛へ向かったかつての御代参街道とはまさに90度向きが違う。そのルートの中にあって、この橋だけがたまたま同じ場所を通過することになった。新しい橋が計画された時点で、企画者はかつての御代参街道を意識したのだろうか。



5. 御代参橋から西瀬音まで

写真685.御代参橋
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 左岸から右岸を見たところ、渡り切った道は左へ大きく曲がっていく。その先は野上野の集落を越えて大規模茶畑へ。橋の上から野洲川下流を見たところ。






写真686.渡り切って
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 渡り切って道は左上へとカーブしてゆく。その途中、右への分かれ道があって大きな看板風のものが裏向きに見える。ポケットパークのようなところで、「御代参街道」という案内板(左の写真で掲示板風に見えている裏向きのボード)がある。手際よく簡潔にまとめられているが、最後の3行があいまいで私のような素人にはわかりにくい。横に碑があるから、それの内容説明かと思ったがどうもそうではないらしい。これは2行にわたっていて、単純な俳句ではない。こういうのをすらすらと読めるようになりたいとは思うものの、なかなか私の脳では・・・。



写真687.川沿いを行く
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 あたりの田んぼはイノシシ除けのネットで完全に締め切られている。例の案内板がなければ、そこを開けて通る気になったかどうか。おごそかに網の扉を開け閉めして通り抜ける。道は川沿い。この川ももちろん野洲川の支流である。






写真688.川をまたいで
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 川をまたいで森の間へ道は続いていく。少し上ってすぐ左へ。森蔭のまさに古道という雰囲気の道をさらに上る。右上の田んぼが見上げるようである。







写真689.自動車道近く
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 自動車道が見えてくる。といっても自動車専用道路という意味ではない。自動車ミチといったほうが分かりやすいだろう。国道1号白川橋のたもとから青土ダムの方へつながるミチである。野洲川渓谷へ通っていたころよく利用した道だが、こちらから見るとまったく不案内の道に見える。県道かと思ったがそうではないらしい。  すぐに浮世への扉が見えてくる。



写真690.浮世へ戻る
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 再びトビラを開けて、閉めて、クルマが走る浮世へ生還。フェンスの中へ車は入れるようになってはいるから、軽トラぐらいは走るのだろうが、今のこの時期走っているクルマはない。何がどうなっているのか、獣が増えて…という幼稚園の子供ぐらいの知識しかないが、これが全国に及ぶのだから大変な費用だ。
 さて浮世の出口に、例の標識が見える。進んできたルートが間違いなかったことが確認できる。ありがたい。



写真691.西瀬音入り口
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 西瀬音集落への入り口である。右へ集落をまいていくのが青土ダムへの自動車ミチ。集落の入り口に飛び出し坊やがいて、その左に小さく例の標識が見える。きょうはここまで、次回はここを進めばいいわけだ。日は高いからまだ続きをやればいいわけだが、クルマを土山に置いたまま。そこへ引き返さなければならない。電車はもちろんない。バスはあるのだろうがいつ来るか。結局徒歩で往復するのが一番早い。ご丁寧なことだけれど無駄だとは思はない。往路見逃していた発見もあるし、同じものでも光線状態が変わっている。往路手におえなかった光線が、帰りにはよくなっていることもある。例えば上で見た”青土・平子・・・”の石標。往路ではどうにもならなかったものが、帰りには見違えるようになっていた




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